zz Tamトーク~としまさんとおしゃべり~
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第一回 「父の思い出(1)」 第二回 「父の思い出(2)」 第三回 「音楽とわたし」 第四回 「マイ・フェヴァリット・シングス」 第五回 「兄弟の思い出(1)」

第一回 「父の思い出(1)」
■子供のころ、起きたらすぐに お父様のお部屋へ走っていって
包みに入った「おめざ」をもらうのが習慣だったというのは本当ですか?
ええ、本当です。ただ、走っていったわけではないけれど・・・
――お屋敷があまりに広いので走っていったと
いえいえ、子供ってのは歩いてても走ってるようなものですから。
でもまあ確かに広い家でしたね。
親父のいるところは十何畳の部屋が二つある座敷で
寝るのも普段食事するのもそこでしたね。
どうして親父がお菓子なんか持ってたかっていうと
例えば祇園なんかで打ち上げをしますね、
そうすると、おみやげで貰うんですよ。
あるいは撮影所に阪東妻三郎個人の楽屋があったんですが
そこにはお茶菓子がおいてあり、また、しょっちゅう差し入れを
貰ってたんで、それを子供用に少しだけ持ってかえって
親父の枕元に置いといてくれるんです。それを取りに行ってたんですよ。
息子たちが来るのを親父も楽しみにしてたんでしょうね。
■やっぱりスター俳優だから生活は不規則だったのですか?
撮影が入ると不規則ですね。
といっても明け方帰った記憶はないなあ。
朝帰って来られてもわたしが起きてないから知らないだけかも
しれないけれど(笑)
テレビと違いますからね。映画撮影ってのは
決してそんなに遅くまではやってませんでしたよ。
第二回 「父の思い出(2)」
■楽しかった田村家の夏休み
親父はその日の撮影が終わっても気を抜く人ではなかったので
毎日帰っては来るけれども庭に面した広い座敷にいつもいた。
一家団欒なんてことはありませんでしたし、
台詞の練習でもはじめると、もう子供は近づけなかった。
ところが毎年夏になると、親父はひと月ぐらい休みを取って
若狭湾西端の天橋立で有名な宮津にあるお気に入りの旅館に
家族を連れて行ってくれるんです。
そこに二週間ぐらい泊まって、その間ずっと親父中心にみんなでわいわいと
泳いだり魚釣ったりふざけたり、とっても楽しかった。
――二週間もですか。
いつもは親父も仕事で大忙しで、ホッと団欒なんてない。
だからその分の家族サービスなのかもしれませんね。
もちろん兄弟はみんなこの夏の旅行がうれしかったけど
親父もとても楽しみにしてたと思います。
ガキ大将の頃に戻って、一緒になって海に飛び込んだり
潜ったりしてふざけあってましたからね。
懐かしく楽しい思い出です。
■阪妻式教育法?
わたしが言うのもなんだけど、いま振り返ると子煩悩な人でした。
きつく叱られたこともありません。
あっ、でも近所の子とケンカして負けてとぼとぼ帰ってくると
もう一回やってこいと外へ出されたなあ。
しょうがないからまた行くんだけど
相手も帰っちゃって誰もいないの(笑)
■ピアノ・エピソード
箱根に親父の行きつけの旅館があって
ロビーにピアノを置いていたんだけれども、
ある時そこで、どこかの上品なお嬢さんが
「お父さま、ピアノを弾きますわ」なんていって弾いてるのを
親父が見たのがまずかった。
「いいなあ。うちもそうしよう!」だよ(笑)
すぐにピアノを買ってこさせて運び込み、
先生として映画音楽の作曲家まで連れてきちゃった(笑)
わたしも困ちゃってね。なにしろ興味がないんだもの。
それでも仕方ないから、わたしと正和はいやいやながらも習い始めた。
でもそんな心構えだったから、そのうち先生が来る直前だけ練習するようになって。
さらに正和なんて先生が来る日はいつの間にかいない(笑)
結局わたしだけが責任感じてやったけど
バイエルを一通りやりはしたけど、続かなかった。
ピアノだけが残ったよ(笑)
第三回 「音楽とわたし」
終戦迎えたのが小学校一年生の時。
太秦にいたんです(太秦=うずまさ
昭和初期に映画産業の中心の一つとなり、現在は映画村がある)。
薬指を折られた弥勒菩薩で有名な広隆寺の裏と今の東映の映画村の
境目あたりに住んでいました。大映も近かった。
小学校四年生以降から家に進駐軍の兵隊が蓄音機やレコードを
こづかい稼ぎに売りに来るようになりました。
今でも覚えているのはジェームスさんていう兵隊さん。
「阪妻さんところなら買ってくれる」と聞いてやってきたそうです。
レコードだけではなくてテニスのラケットなども持ってきましたね。
テニスなんて当時普通の人は知らなかったけど
阪妻なら知ってるだろうってことで。
――輸入レコード屋もない時代に
京都という最も古い街に暮らしながら
最新のアメリカの流行曲を聴いていたわけですか。
親父は昼間はいないし兄貴は東京。
弟たちは幼かったので、レコードはわたしが独占して聴いていました。
多くは流行歌でした。特にパティ・ペイジなんか好きでしたね。
小学校では唱歌なんかをやるんだけどね、
好んで聴いたのはアメリカの歌だから
その影響でいまでも向こうの曲は好きですね。
――昭和28年に阪東妻三郎さんが亡くなって、一家で東京に引っ越されました。
父の死はちょうどわたしが中学を卒業する年でした。
翌年みんなで成城に引っ越したんですが
この成城学園というところはカントリーウェスタン好きの連中が多かった。
カントリーなら、わたしもよく聴いて知っているからすぐ意気投合してね。
彼らはハンク・ウィリアムスなんか弾いて歌ったりしてたっけ。
わたしはもっぱら聴くだけだったけど、この時期はカントリーばっかりでしたね。
で、その後プレスリーが出てくるわけですよ!
プレスリーは衝撃でした。
賑やかに歌ったかと思うと、一転して優しい声でじっくり聴かせる。
プレスリーの影響でまたポピュラーソングに戻るとともに
国内でもラテン音楽を含めあらゆるジャンルのレコードが手に入るようになった。
とても好きなポルトガルのファドを知ったのもその頃です。
ジャズはとりわけモダンジャズを聴きましたね。
ただ、好き嫌いはありますよ。
その後巷ではフォークソングが流行ったけど興味を惹かれなかった。
――いまでも趣味は変わりませんか?
変わりませんね。
最近はLee Wileyを聴いてます。
なぜかいままでじっくり聴いたことがなかったんですよ。
あるときふと思い出して買ったらとてもよかった。
いまはLee Wileyの歌に恋してます(笑)
第四回 「マイ・フェヴァリット・シングス」
■Happy Life
休日の朝はトーストを自分好みに焼いてね、
目玉焼きと大好きなベーコン、
それにお気に入りの紅茶で
楽しい音楽を聴きながらゆっくり食べるんです。
しみじみ思いますね、本当に幸せだなあって(笑)
■好きな作家
最近のものでは
A・J・クィネル。覆面作家だった人ですね。
それからクリスチャン・ジャックも好きです。
紀元前のエジプトに思いを馳せて
わくわくしながら読んでますよ。
現代が舞台ならジャック・ヒギンズも面白い。
主に冒険小説が好きですね。
同じ本を何度も読みかえしますね。
■好きな画家
――俊磨さんは美術にとても造詣が深く、その知識も
広範囲にわたりますが、あえて一人挙げるなら誰が好きですか。
ジョルジオ・モランディが好きです。
■最近10年で好きな映画
割とよく見てますよ。
少し前になるけど『Buena Vista Social Club』がいい映画でしたね。
あと『フラメンコ』ですね。地味だけどよかった。
第五回 「兄弟の思い出(1)」
■仲よし兄弟
うちの場合、兄弟の年が離れているんです。
わたし(俊磨)は兄貴(高廣)とは10離れていて
正和とは5つ違い。亮はそこからさらに3つ。
一番上と下は18離れているんです。
ですから兄弟ゲンカなんて
まったくありませんでした。
――そんなに離れてたらはじめから成立しませんね。
そう、上も下もこれだけ遠いとお互いに確執もない。
子供の頃なんか兄貴(高廣)は教練や軍需工場の手伝いなんかで
殆ど家にいなかったから、正和が生まれるまでわたしは一人っ子
みたいなものでしたしね。
■少年時代
子供の頃のわたしは山に登って、
虫を捕って、鳥を追いかけるのが大好きでした。それも一日中。
ぜんぜん覚えてなかったんだけど幼い弟を連れまわしてね。
――覚えてなかった???
最近、正和に言われて思い出したんです。
久しぶりに兄弟4人で食事をしてたときに
正和が首をかしげながら
「なんであんなに朝早くから野山に連れ出されてたのか、
いまだに分からないよ」って。
それまでわたし一人で駆け回ってたつもりだったんです。
我ながら忘れるなんてひどいよね。
正和にしてみれば面白くもないのに兄貴が来いっていうから
仕方なく付いてきてたのに(笑)
それでみんなで大笑いでしたよ。
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