眠り展|东京国立近代美术馆|2020年12月20日
一篇美术馆随笔
周日约女朋友出去玩,吃午饭的时候她说,最近很想看油画。查了查附近的美术馆,被东京国立近代馆的「眠り展」广告上沉睡着的两张红彤彤的小脸吸引,两人从新宿跑到九段下。

第一次来这家美术馆是五年前的秋天,当时交换留学课程的艺术史老师让我们来看藤田嗣治展为中心的日本近代美术。近几年也看了许多的藤田嗣治回顾展,奶油色肌肤的裸妇,调皮的猫,圆圆眼镜的自画像。但那次以战后日本为主题的无数巨型油画却特别稀有而震撼。

也是那天第一次看到了东山魁夷,蓝绿色的山坡上延伸至远方的小路,和湖水彼岸纯白的马。

周日阳光很好,美术馆内一如往常有沉甸甸的空气和静谧的光线。我们带着看油画的心情来,却发现实际油画只有寥寥几幅,在第一展厅烘托出闭上眼睛安静沉睡的氛围。再往下走,是梦境与现实之间黑洞般的超现实空间。台湾艺术家Jao Chai-en(饒加恩)讲述梦境对现实的隐喻和暗示,外籍劳工在异乡的挣扎和信仰。日本摄影师楢橋朝子在日本各地的湖水和海水里拍摄梦境与现实、生与死一线的景象。


然后又一次看到了关于三岛由纪夫的影像,《烈火の季節/なにものかへのレクエイム》。
森村泰昌模仿最后演说中的三岛,身着战时军服,站在砖墙建筑的露台上,对日本当代艺术的气象发出最后的呐喊。
他也提到三岛:你们知道,1970年11月25日发生了什么吗?1970那年,不是万博。有一个人,以生命为代价,向你发出过呼吁。
静聴せよ。
静聴せよ。
静聴せよと言っているんだ。
静聴せよと言っているのがわからんのか。
私は、あなたがたに、このような状況下で話すのはむなしい。
しかしながら私はこの日本の文化というものを、
この日本の文化を頼もしく思っているんだ。
しかし日本の政治は政権争いの謀略、私利私欲に走り、
芸術もまたマスコミに踊らされ、流行現象の片棒をかつぎ、
世界戦略とやらにうつつをぬかし、コマ―シャリズムと売名行為、
経済効果が価値とばかり、精神的にからっぽに陥っている。
静聴せよ。
静聴せよ。
静聴せよと言っているんだ。
日本の根本がゆがんでいるんだ。誰もそれを笑っているだけだ。
それでだ。昭和45年11月25日、なにが起こったかだ。
1970年だ、万博ではないぞ。
東京新宿、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室、そうだよ、
ここは戦後の戦犯に判決が下された、
あの東京裁判の場でもあったのだが、
そこにひとりの男が自らの死と引き換えに乱入し、
ヤジと罵声のなかで演説した。
おまえら聞けえ。聞けえ、
静かにせえ、話を聞け、
男一匹が、命をかけて諸君らに訴えかけているんだぞ。
いいか、いいか。
それがだ、いま日本がだ、
ここでもって立ち上がらなければ、諸君てものはだね、
永久に外国の文化の奴隷である。外国の軍隊の犬である。
だから、だからだよ。諸君の、諸君の決起を待っているんだよ。
諸君は表現者だろう。
それならば、自分を否定する表現に、どうしてそんなに憧れるんだ。
自分を否定する流行りすたりに、どうしてそんなにペコペコするんだ。
そうしている限り、諸君てものは永久に救われんぞ。
多くの間違った文化現象がこの世に跋扈している。
芸術がめざすものとはなんなんだ、日本的なるものとはなんなんだ。
みんな、みんな間違っている。
あいつもこいつもみんな間違っているんだ。
この間違いに気がついたものはいないのか。
わかった、わかったよ。
諸君は芸術のために立ち上がらないと見極めがついたよ。
これで俺の芸術に対する夢はなくなったんだ。
それでは俺はここで万歳三唱を叫ぶ。
万歳! 万歳! 万歳!
万歳! 万歳! 永遠の芸術万歳
万歳! 万歳! 万歳!
听得心中凄凉。

临近日落,带女朋友去A room with a view (眺めのよい部屋)看风景,坐下来聊天。
她说,最近在读一本神经学的书,里面从科学的角度讲睡眠与生命的关系。而今天的展览正巧是从完全不同的角度去展现睡眠和生死。学习sustainability science的一个收获,大概就是这样从不同的角度去了解事物吧。
她说,不知道是不是研究自然灾害的原因,自己的梦中也总是出现洪水中被淹没,命悬一线的场景。看到展览中的摄影作品仿佛看到了自己的梦境。
能在展览室脱离现实,走进创作者的时空,寻找到与他人的共鸣而更清楚地看到自己的内心,是件永远也不腻不倦的事。
