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小説の形式にまつわる話は、かなり難しいところなので、私は結構苦手です。
一人称の語りという形式自体は確かに非常に古く、古代からあります。近代小説が(特に古いものになればなるほど)多く一人称形式で書かれているのは、もともとフィクションとしての小説というジャンルが認められていなかったころ、実在の手紙や手記という形をとって発表されていた名残りであるわけで。(それに対して、フィクションであることを自明の前提とする三人称形式は、かなり新しい。)
バフチンの「対話」は、その定義からして、一人の独白についてこそ言われるものなのですね。普通の意味での対話――二人の人間が言葉を交わすケース――ならずとも、一人の人間の独白がいかに「他者」との関わりにおいて行われうるか…という問題。
初期の段階では、バフチンはドスト文学における独白の「対話」的な構造の特殊性をむしろ強調する立場にいますが、だんだん「あらゆる発話が対話的なものである」という立場へと推移していった、と言えるでしょうか。
小説というジャンルがポピュラーになって市民権を獲得したのには、ミエハリさんが言うとおり、もちろんルソーの多大な影響があったことでしょう。
ドストエフスキーの小説の「対話」性を考えるに際しては、一度ルソーあたりにまで立ち戻って、その『告白』の語りがどのくらい「対話」的に構築されているか見てみるのも一興かと。(というか、バフチン自身がすでに何か言ってるかも)
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このお題はkaさんがお詳しいと思うので、適宜フォロー及び突っ込みを期待したいのですが、近代に於ける「一人称の独白小説」の鼻祖は、おそらくジャン=ジャック・ルソーの『告白』でしょう。
ルソーの『告白』なくして、ゲーテの『ウェルテル』も、コンスタン・ド・ルベックの『アドルフ』も、ミュッセの『世紀児の告白』も、レルモントフの『現代の英雄』も、トルストイの『幼年時代』も、そしてドストエフスキーの諸作品も、いま在るような形で書かれることはなかったと思います。つまり、ルソーの『告白』こそ、近代文学の偉大な震源なのです。亀山郁夫氏は、話題になった『「悪霊」――神になりたかった男』で「スタヴローギンの告白」とルソーの『告白』を比較するというなかなかスリリングな論を展開していました。そして、西洋文学に於ける告白文学のルーツを辿ると、おそらくアウグスティヌスの『告白』などに行き着くのではないでしょうか。
このように、「一人称による独白」という文体自体は、実は大昔からあるものなのですが、近代以前/以後に於ける「告白」の決定的な相違点として、告白の対象が「神」であるか/不特定多数の他者によって形成されている「世間」であるか……に求めることが出来るのではないかと思います。神無き時代の「告白(懺悔)」の仕方の手本を示してみせたことこそ、ルソーの偉大な画期性だったのでしょう。
ところで、一人称の独白小説が何故面白いのかを考えていくと、人は何故「告白」をし、又、何故「告白」を聞きたがるのか――という「関係性」や「対話」の問題に行き着くと思いますが、バフチンはまさに、告白せずには生きていけない人間一般の存在形式を解明するために「対話」という概念で文学作品の精緻な分析を試みたのだと思います。バフチンにあっては、一人称の内的独白すらも対話性を潜勢させたものとして捉えられていたことは、たとえば『ドストエフスキーの詩学』中で『地下室の手記』を分析した章などからも明らかです。バフチンにあっては、あらゆる発語が「対話」の賜なのです。
一人称の内的独白すらも「対話」の一種だとするバフチンの主張は一見奇異にも思えますが、言葉というものが須く他者との間で共有されて始めて意味をなすことを考えれば、一人称の内的独白をも「対話」の一種だとするバフチンの論にも一理あります。そして、あらゆる発話が「人と人との間」でなされるが故に対話的なものであるというバフチンの言語論は、江戸時代の国学者富士谷御杖の言霊論とも通じ合うものがあるのですが、両者の比較考察は、又後日場を改めて書けたら書いてみようかと思います。