毛利家・家臣団
查人名方便,馬克!
毛利豊元の子供
毛利弘元 (?~1506年)
毛利豊元の子。毛利家九代当主。治部少輔。明応九年、長男幸千代丸に家督を譲り、猿掛城に隠居。永正三年没。弟は元鎮。子は興元、元就、元綱、就勝。
兼重元鎮 (?~?)
毛利豊元の子。弘元の弟。興元、元就の叔父。子は元宣。
毛利弘元の子供
毛利興元 (1493~1516年 24歳没)
毛利弘元の長男。元就の兄。幸千代丸、少輔太郎。明応九年、家督を相続。永正四年十一月、元服。大内義興から一字を賜り、興元を名乗る。同年、大内義興の命により足利義稙を奉じて共に上洛。山城国船岡山合戦で戦功があった。永正八年、帰郷。永正十三年八月二十五日、二十四歳没。
相合元綱 (?~1524年)
毛利弘元の三男。元就の異母弟。大永三年八月、毛利元就は毛利家の家督を相続。尼子経久は武勇に優れた元就が家督を相続したことを不快に思い、家臣亀井秀綱に命じて元就の弟相合元綱を報略。元就を討てば家督を相続させると伝えた。宿老渡辺勝、坂広秀も元綱の家督相続に賛同。毛利元就はこれを察知し、大永四年四月八日、船山城を攻めて相合元綱らを討った。一説に夜討ちに遭ったため堀を飛び越えようとしたが、足を踏み外して転落死したと云う。この事件によって毛利元就は尼子経久と決別し、大内義興に再び臣従した。子は元範。
北就勝 (?~1557年)
毛利弘元の四男。元就の異母弟。母は有田氏。仏門に入るが還俗し、兄元就に仕えた。
毛利元就の子供
二宮就辰 (?~?)
毛利元就の落胤。穂井田元清よりも早く生まれたため、元就にとって四男にあたる。生母矢田氏は就辰を身籠もったまま二宮春久に嫁ぐ。そのため、就辰は春久の子として育てられた。これは妙玖婦人の没後とされ、就辰の生まれは天文十四年末から天文十五年と思われる。元就の側室中の丸殿は子に恵まれることはなかったが、元就やその子供達から深い信頼を得ていた。元就の死後、輝元は中の丸殿から就辰の出生を告げられる。輝元は中の丸殿に就辰を重用するという手紙を送った。天正十七年、広島城築城に際して穂井田元清と共に普請奉行。土地が三角州であったため、水を抜いて堤を築き、地面を固めてから工事を行う「島普請」となった。この手法は一般的ではなく、普請に参加する者は笑い者になったと言う。天正十九年、毛利領内総検地では中心となって活躍。
富田元秋 (1552~1585年 34歳没)
毛利元就の五男(六男)。刑部大輔。母は三吉氏。周防蓮華山城主椙杜隆康の養子となる。後に毛利家に戻る。永禄十一年、富田月山城に移り、元亀元年から城主となる。天野隆重が補佐役となった。三千五百貫を領し、富田姓を称す。天正十三年五月三日、三十四歳没。法名「三光陟殿瑛岩宗照禅定門」。
出羽元倶 (1555~1571年 17歳没)
毛利元就の六男(七男)。富田元秋同腹弟。孫四郎。石見出羽城主出羽元祐の養子となる。元亀二年八月十日、十七歳没。法名「天真常照禅定門」。家督は元祐の実子、元勝が継いだ。
天野元政 (1559~1609年 51歳没)
毛利元就の七男(八男)。穂田元清同腹弟。天野毛利氏の祖。少輔六郎、六郎左衛門尉、掃部守、讃岐守。孝心に厚く、父元就の抜け落ちた歯を貰い受け、肌身離さず大切にした。永禄十二年、安芸志芸米山城主天野元定の婿養子として家督を継ぐ。慶長五年、防長移封により一万五千石から四千二百石に減封された。周防熊毛郡三丘を領し、宗休を号した。元就の三十三回忌に当たる慶長八年、元就の歯を埋葬した「歯廟」を建立した。慶長十二年、天野元信の養子元重を自領に招く。慶長十四年四月二十九日、五十一歳没。法名「天徳性真大居士」。子は元倶。
毛利元康 (1560~1601年 42歳没)
毛利元就の八男(九男)。富田元秋、出羽元倶同腹弟。厚狭毛利氏の祖。少輔七郎、七郎兵衛尉、大蔵大輔。出雲末次城主。末次氏を称す。天正十三年五月三日、実兄富田元秋が没したため家督を継ぎ、同年十二月、富田月山城主となる。吉川広家が富田月山城主となると、備後神辺城主となる。朝鮮出兵に参加。関ヶ原合戦では大津城攻撃に参加。戦後、長門厚狭一万五百石。慶長六年一月十三日、四十二歳没。法名「洞玄寺殿石心玄也禅定門」。
毛利隆元の子供
毛利徳鶴 (?~?)
毛利隆元の次男。輝元の弟。早世。
毛利輝元の子供
毛利秀就 (?~?)
毛利輝元の嫡子。
性恵童子 (?~?)
毛利輝元の子。母は宍戸隆家の娘。早世。
知芳童子 (?~?)
毛利輝元の子。母は宍戸隆家の娘。早世。
毛利一門
兼重元宣 (?~?)
兼重元鎮の子。毛利元就の従兄弟。毛利家譜代の重臣となる。元亀三年十月十二日付内藤隆春請文を送られる。それによると、内藤隆世の死に際して内藤家は断絶の危機にあったが、姉である大方様(毛利隆元夫人)の御厚恩で存続が許された。なにかと大方様の指導を受けてきたが、大方様が逝去してしまい言葉も出ない。自分に対して讒言する者もいるだろうが、毛利家に対する恩義は忘れたことはないし、今後も忠誠を誓う、と記されていた。
毛利幸松丸 (1515~1523年 9歳没)
毛利興元の子。元就の甥。永正十三年八月二十五日、父弘元の死により二歳で家督を継ぐ。外祖父高橋久光が後見役となる。大永三年六月、尼子家の鏡山攻めに際し、毛利軍の大将として従う。この合戦で毛利元就は敵将蔵田直信を諜略し、鏡山城内に入って大将蔵田房信を討った。しかし、尼子経久は寝返った蔵田直信の首を刎ねた。大永三年七月十五日、九歳没。
相合元範 (?~?)
相合元綱の子。元就の甥。天文二年、毛利元就は大笹山城主敷名民部大輔を討つ。元就は大笹山城を元範に与えた。
天野元倶 (?~?)
天野元政の子。大坂の陣に参戦。寛永二年、宍戸家の領した周防右田に移り一万六千石。これにより家系は右田毛利家と呼ばれる。宍戸家は一門筆頭であり、天野毛利家は一門次席となった。同年、父の遺命として天野元重を殺害。
渋川義満 (?~?)
父は小童山城主渋川義正。母は毛利元就の妹。元就の甥。渋川氏は九州探題の名族であり、義満は「今探題」と呼ばれる。しかし、すでに勢力は衰えており、義満の代に没落した。
上原豊将 (?~?)
和智一族。円寿山城、今高野山城主。右衛門大夫。大永年間、山伝城主高橋某と争う。弘治三年付の起請文が残る。子は元将。
上原元将 (?~?)
上原豊将の子。元祐。毛利元就の娘を娶る。毛利家は清水宗治の守る備中高松城を支援するため、周辺の城を強化した。これらの城を「境目七城」と言う。上原元将はその一つ、日幡山城に入った。天正十年、羽柴秀吉に内通した。「陰徳太平記」は日幡季則を討ち、京に逃れたと記す。しかし、内通に激怒した正室に討たれたとも伝わる。
有名武将の一門
福原広俊 (?~1557年)
毛利家筆頭宿老。執権。福原氏八代当主。福原城主。式部大輔。元就の外祖父。元就の家督相続に同意し、連署状に署名。弘治三年没。子は貞俊。娘は毛利弘元に嫁ぎ、興元、元就を生んだ。他に口羽通良、桂元澄らに嫁いだ娘がいる。
福原広俊 (?~?)
福原氏十代当主。福原貞俊の子。祖父広俊の名を継ぐ。毛利家宿老。元就の従兄弟。弥五郎。天文九年、尼子氏の郡山城攻撃に備え鈴尾城を守る。慶長四年、家康から毛利秀元の所領問題を安国寺恵瓊と共に解決するよう求められた。
児玉就忠 (?~1562年)
阿良井城主児玉元実の次男。就方の兄。児玉家行の養子となり、家を継ぐ。三郎右衛門。天文十三年、尼子国久、誠久と共に比叡尾山城主三吉氏を攻撃。毛利元就は三吉氏を支援し、福原貞俊、児玉就忠らを援軍に派遣。七月二十八日、攻撃を仕掛けるも伏兵牛尾幸清の軍により敗れた。しかし、毛利軍の着陣により尼子軍は撤退した。天文十九年、五奉行衆。元就と隆元との連絡役となる。永禄五年没。子の元良が奉行職を継いだ。
児玉就英 (?~?)
児玉就方の子。
杉重輔 (?~1556年)
大内家臣杉重矩の子。重矩は大寧寺の変で父を殺害されたため、毛利家に属した。弘治元年十月七日、陶長房を自刃に追い込む。弘治二年、討死。子は重良。
杉元良 (?~?)
杉重良の子。母は福原貞俊の娘。天正七年、父は大友家に属したが、外祖父が宿老福原貞俊であったため家督相続を許された。
天野元明 (?~?)
天野隆重の子。慶長五年、防長移封に従う。
天野元信 (?~1605年)
天野元明の弟。兄の養子となる。切支丹。萩城造築工事に際して益見元祥と争う。慶長十年八月、改宗に応じなかったため、岳父熊谷元信らと共に処刑された。養子は元重。
天野興定 (1476~1541年 66歳没)
志和米山城主。天野隆重とは同族別系。大永五年四月、陶興房に攻められる。毛利元就は両者に和議を促し、興定は形勢が不利であったため米山城を大内氏に明け渡すこととした。以降、大内氏に属し戦功があったため、享禄元年に米山城を返還された。天文九年、尼子郡の毛利領攻撃では、元就への援軍として弟の興与と共に出陣。天文十年、銀山城攻撃に参加。同年、六十六歳没。
天野隆綱 (?~1555年)
天野興定の子。天野元貞の養子。毛利隆元と兄弟の契りを交わした。天文十六年、家督を継ぐ。天文二十二年、毛利元就から赤城山城を賜る。弘治元年十一月二十七日没。
天野元定 (?~1569年)
天野隆綱の弟。弘治二年十月十日、天野氏を相続。毛利元就への臣従の意思として、緑井、舟木、中山の地を返還。弘治三年、元就は代わりに内村を与えた。永禄十二年没。元就七男元政は元定の婿養子となり、家督を継いだ。
平賀広相 (?~1567年)
平賀隆宗の弟。新九郎。毛利元就の助力を得て、祖父弘保と共に平賀隆保を追い払う。平賀氏の家督を相続し、天文二十年、毛利家臣となる。隆元、元春、隆景と兄弟の契りを交わした。天文二十一年十二月末、毛利家中は陶晴賢の吉見正頼征伐に参じるかを論議した。これは所領問題から晴賢との関係が悪化したためで、元就は出陣を促されても応じようとしなかった。この席で、元就は晴賢に加勢するとした。しかし、隆元は晴賢との断交を主張。晴賢はこの機会に元就を押し込め、毛利家を滅ぼそうとする危険があるとした。家臣は隆元の意見に賛同し、天文二十三年五月十二日、毛利家は陶晴賢と断交した。晴賢は広相を味方にしようと使者を送るが、広相はこれを捕らえ毛利家への忠誠を示した。厳島合戦で先鋒。永禄十年没。子は元相。
杉原元盛 (?~?)
神辺城主杉原盛重の子。永禄六年、父が伯耆泉山城主を兼ねると、弟の景盛と共に神辺城を守る。天正十年、兄弟は不和となり争ったため改易された。
細川通董 (?~?)
細川晴国の子。叔父通政が父晴国の養子となっており、通董は通政の養子になるという形で家督を継いだ。初め伊予川之江城主。毛利家の支援を受け、備中に移る。青佐山城を築き、城主となる。永禄九年、龍王山城主。天正三年、備中鴨山城主。このように備中細川家の所領回復に成功するが、それは毛利家の後ろ盾によるものであり、通董は毛利家の属将という立場にあった。同年、毛利家に属し国吉城攻めに参加。
細川元通 (?~?)
細川通董の子。浅口少輔九郎。防長移封に従う。
毛利家 家臣団
志道広良 (1467~1557年 91歳没)
毛利家執権。志道元良の長男。口羽通良の兄。一説に口羽通良は次弟ではなく、広良の次男とも言う。永正十年三月十九日、毛利元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう伝え、起請文を書かせた。永正十四年六月、安芸武田信繁が多治比を攻めると、毛利元就は志道広良の了承を得て応戦しようと考えたが、広良はこれに反対。近隣に敵対する宍戸元源がいる以上、郡山城を出ることは出来ないと述べた。同年六月二十一日、元就は自身の手勢百五十名のみで出陣。武田軍の先鋒を打ち破った。志道広良はこれに驚き、郡山城の軍勢七百余名を率いて合流した。同年十月、吉川家の有田城が武田元繁に攻められると、吉川元経と共に救援に向かった。この合戦で毛利元就は武田元繁を討ち取った。この武勇に広良は驚愕しただろう。大永三年七月十五日、毛利幸松丸が九歳で没した。家臣は毛利元就、相合元綱のどちらかを後継にしようとしたが、中には尼子経久の子を貰おうという意見もあった。志道広良は武勇名高い元就を当主にすべきと考え、七月十九日に国司有相、井上有景を猿掛城に派遣。家督相続を願い出た。さらに福原広俊や桂元澄らにも根回し路して、宿老十五名の連署状を作成。同年七月二十五日に再度、元就に家督相続を求めた。尼子経久が反対した場合を考え、粟屋元秀を上洛させて幕府に元就の家督相続の許可を得た。こうして同年八月十日、毛利元就は家督を相続した。先の興元への忠誠を誓った起請文も毛利家をまとめるためのものであり、広良は執権として十分な働きと忠誠心を持っていた。大永五年、米山城主天野興定が尼子家に属したため、大内家臣陶興房は米山城を攻める。広良は調停役となり、興房に降伏の条件として所領安堵を約束させた。これにより、興定は大内家に降伏した。天文十五年、隆元が家督を継ぐと補佐役を命じられる。隆元に対し【君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も水なく候へば、相叶はず候か】と説き、主君という船は家臣という水によって浮いていると諭した。弘治三年、九十一歳没。
志道元保 (?~?)
永禄八年四月、富田城攻撃に参加。
志道元章 (?~?)
慶長五年九月五日、毛利輝元から伊予に渡海するよう命じられた。
桂元澄 (1500~1569年 70歳没)
毛利家宿老。桂中山城主。後に桜尾城主。桂広澄の子。宿老。大永三年、元就の家督相続に同意し、連署状に署名。大永四年、叔父坂広秀が相合元綱を奉じた謀反に参加したため自刃。広澄も責任を取り腹を切った。桂中山城に籠もって毛利元就と戦おうとした。元就は単身、桂中山城に入って元澄を説得をした。元澄は説得に応じ、元就に再び仕えた。天文九年十月、児玉十郎左衛門とともに兵二百余名を率いて出陣。青山土取場合戦で伏兵となり活躍。天文十九年七月十三日、福原貞俊と共に井上元兼を攻め、自刃に追い込む。天文二十二年十二月二十四日、二十九日と隆元から書状を送られるが、その書状から今後も陶晴賢に味方すべきかを毛利家中が論議していたとわかる。永禄八年四月、富田城攻撃に参加。永禄十二年、七十歳没。
桂元忠 (?~?)
桂元澄の弟。左衛門大夫。元就の近習。天文十九年、五奉行衆。隆元は元就に対し、隠居を思いとどまるよう書状を送る。その際、元忠に宛てているが、これは彼が連絡役を兼ねていたことを示している。元亀元年、職を辞す。子の就宣が奉行職を継いだ。
桂元重 (?~?)
永禄十二年閏五月三日、立花城は開城。これにより坂元祐と共に立花城将となる。山中幸盛らが尼子再興のため蜂起すると、毛利軍は九州から撤退。これは同年十月十五日から二十一日にかけてのことである。立花城も開城した。
桂広繁 (?~?)
天正十年、備中高松城救援に向かう。同年六月、毛利家と羽柴秀吉の講和の際、小早川秀包は人質として秀吉の元に送られた。桂広繁は秀包に随伴し、羽柴軍の陣中に同行した。
桂元武 (?~?)
慶長五年九月五日、毛利輝元から伊予に渡海するよう命じられた。
国司有相 (?~1542年)
毛利元就の後見役国司有純の子。奉行職。妻は元就の祖父毛利豊元の娘。
国司元相 (1493~1591年 99歳没)
国司有相の子。助六、右京亮。隆元の傅役。隆元から一字を賜り、元相を名乗る。天文九年十月、渡辺通とともに兵五百余名を率いて出陣。青山土取場合戦で伏兵となり活躍。十一月、武田信実軍を般若谷で撃退。天文十二年、尼子家との合戦で功があった。天文十九年、五奉行衆。弘治元年九月三十日夜、陶晴賢を討つため厳島に上陸するが、風雨の海に船を出すことに反対。出陣延期を求めている。永禄三年、正親町天皇への即位料寄進のため、隆元の名代として上洛。足利義輝から槍の鈴を許される。永禄四年、松山城攻めで一番鑓。永禄八年頃、子の元武に奉行職を譲る。天正十九年、九十九歳没。
国司元武 (?~?)
国司元相の子。弘治元年十一月、元就側室中の丸殿は周防在陣中の隆元に、嫡子幸鶴丸の髪置きの祝儀が近く、また、傅役がまだ決まっていないことを手紙で知らせた。隆元は元就と相談し、国司元武を幸鶴丸、後の輝元の傅役とした。永禄六年七月、隆元は出雲在陣中の元就と合流するため佐々部で宿を取る。尾崎局は輝元に手紙を持たせ、佐々部に向かわせた。その手紙には母親の言うこと、傅役の元武の言うことも聞くよう輝元に注意をして欲しいと書かれていた。隆元は同年八月四日に没しており、これが尾崎局から隆元に宛てた最後の手紙となった。永禄八年四月、元就本隊に加わり富田城攻撃に参加。同年頃、父から奉行職を譲られた。
国司元蔵 (?~?)
国司元武の子。
渡辺次郎左衛門 (?~1524年)
渡辺勝の父。大永四年、子の勝が毛利元就に誅殺されると、それに連座して討たれた。
渡辺勝 (?~1524年)
毛利家宿老。長門守。大永三年、尼子経久の諜略によって相合元綱の謀反に荷担。大永四年、毛利元就は相合元綱や渡辺勝を討った。一説に郡山城で尋問を受けた後、難波谷に突き落とされたと云う。
渡辺通 (?~1543年)
虎市、太郎左衛門。父渡辺勝は相合元綱の謀反計画に参加したとして大永四年、誅殺された。乳母の実家、備後山内家に匿われる。山内直通に推挙され、元就に仕える。天文十二年五月、大内軍は味方の寝返りにより尼子領攻撃を断念。大内義隆は元就を殿軍として退却。星上山峠から大庭、簸川郡を通るも待ちかまえていた尼子軍の攻撃を受ける。毛利軍はこれを退け石見に入り、安濃郡の豪族波根泰連の下で数日間休むことが出来た。邇摩郡から邑智郡に入るため石見銀山麓を通ると、銀山城城兵に攻撃される。この時、渡辺通は部下と共に奮戦。毛利軍は矢滝道を通過しようとしていたため、敵兵をそれとは逆の西田道へ誘い出す。温泉津まで引きつけたものの、渡辺隊七名は討死した。一説に身代わりとなるため元就の甲冑を着ていたと言う。また、この活躍から同地には七騎坂という地名が付けられた。安芸に戻った元就は深く感じ入り、通の子、渡辺長を重臣とした。渡辺家は正月の甲冑開きを任された。
渡辺兼 (?~?)
一乗山城主。越中守。文明年間、一乗山城を築城か。天文三年、亀寿山城攻めに参加。
渡辺房 (?~?)
渡辺兼の子。一乗山城主。出雲守。天文二十一年、志川滝山城攻めに参加。
渡辺高 (?~?)
渡辺房の子。一乗山城主。源三。永禄十二年、神辺城合戦に参加。
渡辺元 (?~?)
渡辺高の子。一乗山城主。民部少輔。子の景の代に防長移封が決まり、渡辺氏は浪人となった。
坂広明 (?~?)
弟は坂広時。子は広澄。
坂広澄 (?~1524年)
坂広明の子。大永四年、従兄弟の坂広秀が謀反の罪で自刃した。広澄はその責任を取るため自刃した。子は桂元澄。
坂広時 (?~1522年)
坂広明の弟。毛利家執権。兵部大輔。高田郡日下津城主。大永二年、毛利元就は尼子経久の外圧に屈し、大内家から尼子家に寝返った。坂広時は大内家への従属を元就に進言したが、元就はこれを受け入れず、遂に日下津城を攻めて広時を討った。自刃したとも云う。子は広秀。
坂広秀 (?~1524年)
坂広時の子。毛利家宿老。能登守、長門守。大永三年、尼子経久の諜略によって相合元綱の謀反に荷担。父広時が元就に自決させられたため、遺恨に思っていたのだろう。大永四年、毛利元就は相合元綱を討ち、坂広秀を自刃させた。
坂光永 (?~?)
坂一族。大永二年、尼子家への臣従の証として人質に送られる。
中村元明 (?~?)
毛利家宿老。宮内少輔。大永三年七月、毛利元就の家督相続を求める連署状に署名。
中村元誠 (?~?)
中村元信の子。田屋城主。慶長五年、防長移封に従う。祖父元明は明応年間、毛利弘元の助力を得て兄繁勝を討っている。
粟屋元親 (?~1561年)
赤法師、弥次郎。天文九年、平賀氏との合戦で功があった。弘治二年、大内氏との合戦で粟屋隊は五十余名を討ち取る功があった。天文十九年、五奉行衆。永禄四年没。奉行職は子の元信が継いだ。
粟屋元秀 (?~?)
粟屋元親の一族。塩屋城主。縫殿充。粟屋元国の名代となる。大永三年、元就の家督相続に同意し、連署状に署名。元就の毛利家相続を足利将軍に願い出て、家督相続を認める御内書を拝受する。大永五年三月二十一日、陶興房は書状を粟屋元秀、井上元貞に送り、元就の大内家内通は両名の尽力によるものと賞賛している。天文九年九月、郡山城留守居役。
粟屋元真 (?~?)
永禄八年四月、富田城攻撃に参加。
赤川就秀 (?~?)
大永二年、尼子家への臣従の証として人質に送られる。
赤川元保 (?~1567年)
赤川房信の子。長兄元光が討死したため、次兄就秀が家督を相続。就秀は井上元兼の娘を娶り、尼子家との合戦で功があった。元保は次兄と共に元就の家督相続依頼の連署状に署名。隆元の付家老となる。天文十九年、五奉行衆筆頭。永禄六年、和智誠春の饗応を受けた隆元が急死。元就はこの事件を嘆き悲しみ、元保が誠春と結んで暗殺したと考えた。永禄十年三月、誅殺された。しかし、後に元保は誠春の饗応に応じないよう進言していたことがわかり、元就は元保の次男元之に赤川氏を継がせた。
玉木吉保 (1552~1633年 82歳没)
玉木忠吉の子。初次丸、又三郎、太郎左衛門尉、土佐守、偽真。天文二十一年七月八日生。永禄七年、真言宗勝楽寺に入山。医学を学び、後に医名として偽真を称す。十四歳の頃には「論語」、「三略」、「六韜」などを学んでいた。永禄十年、下山。永禄十二年十月、大内輝弘との合戦に参加。天正三年五月、尼子家との合戦のため備中に出陣。天正八年六月、上方に赴く。曲直瀬道三流の医術を修得。天正十三年、四国征伐参加。安芸、出雲、周防、長門、石見、備後、伊予などの検地に参加。文禄の役では攻め取った朝鮮の地で代官職「郡外邦」となる。文禄三年八月、伏見城普請に参加。老齢にいたり、自らの養生を兼ねて医術の道に専念。生薬とその効能を歌にまとめた「歌薬性」、診脈の方法を歌にまとめた「歌脈書」、さらには病を敵兵に、薬を将兵に見立て、発病から治療、投薬などの流れを軍記物風にまとめた「医文車輪書」を記す。これは病や薬を擬人化し、治療を合戦とすることで医術をわかりやすくまとめようと言うものだった。これらは現代医学でも有効性の認められるものが多く、吉保は非常に効果的な医術を修めていたとわかる。この様に、吉保の名は武将としてではなく医師として伝わる傾向にある。また、四十八歳の時には儒者から易学を学び、やがて是空という易名を名乗るまでになった。寛永十年、八十二歳没。自身の生涯を記した「身自鏡」を記す。
内藤元盛 (?~1615年)
毛利一門。一万石。元和元年、大坂残党として佐野道可という者が捕縛された。やがて道可は内藤元盛と同一人物であると判明。毛利家が豊臣家に通じていたのではないかという疑惑が生じた。元盛は自らの意志で大坂方に属したと主張。二人の男子も父が自ら大坂方に属したと語った。幕府もこれ以上、詮議が進むことはないとして元盛に自刃を命じた。元盛は山城国鷲寺で腹を切っている。男子も毛利家から自刃を命じられた。
岩室坊勢祐 (?~?)
天正十三年、根来が羽柴軍に滅ぼされた時、八歳であった。高野山に逃れ、二十八歳の時に毛利家から仕官の話を持ちかけられた。この時、三万石を与えられるとされた。勢祐は根来衆千三百三十五名で森口の張番となった。鉄炮は五百挺を保有した。
和智誠春 (?~1569年)
南天山城主。又九郎、元実。妻は内藤興盛の娘。永禄六年八月十三日、毛利隆元を饗応。隆元は帰途、突然に苦しみだし、翌十四日に没した。死因は食中毒とも、毒による暗殺とも言う。元就は隆元は暗殺されたと考えたのだろう、永禄十二年正月、誠春を弟の湯谷新三郎とともに誅殺した。しかし、暗殺とする根拠はない。そのため、無実の罪で切られた誠春が怨霊として祟ることのないよう祠を建てている。
和智元郷 (?~?)
和智誠春の子。永禄十一年、元就に起請文を提出し許される。鳶巣山城に居住した。元就は永禄六年八月五日、隆元の死を知る。将兵には尼子家討伐こそ隆元の追善と命じた。元就は白鹿城攻めで討死しようとしていたと小早川隆景は語っている。
柚谷元家 (?~1569年)
和智誠春の弟。新三郎。湯谷又八郎久豊。弘治三年、兄和智宗誠、上原豊将、安田元賢らと共に起請文に名が記される。永禄十二年、兄と共に厳島で殺害された。
湯谷実義 (?~1569年)
湯谷久豊の子。和智誠春の甥。又左衛門。福山城を守る。永禄十二年、毛利軍に攻められ重臣と共に自刃。
阿曽沼広秀 (?~1597年)
安芸の国人。少輔十郎。厳島合戦で先鋒。慶長二年没。
荘駿河守 (?~?)
備中猿掛山城主。天正十年正月、織田家に寝返る。
中島元行 (?~?)
毛利家は清水宗治の守る備中高松城を支援するため、周辺の城を強化した。中島元行はその一つ、経山城を守った。後に清水宗治支援のため高松城に入っている。
牛尾元貞 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。吉川元春と結び、毛利家臣を派遣してもらうことで羽柴秀吉と対立することとした。これにより牛尾元貞は鳥取城に派遣された。後に市川雅楽充、朝枝春元と交代している。
市川雅楽充 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。両名は吉川元春と結び、牛尾元貞を鳥取城に派遣してもらい、羽柴秀吉への抵抗を続けた。市川雅楽充は朝枝春元と共に、牛尾元貞と交代する形で鳥取城に派遣されている。
朝枝春元 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。両名は吉川元春と結び、牛尾元貞を鳥取城に派遣してもらい、羽柴秀吉への抵抗を続けた。朝枝春元は市川雅楽充と共に、牛尾元貞と交代する形で鳥取城に派遣されている。
和泉信行 (?~?)
和泉信正の子。黒岩城主。三郎五郎。尼子氏への人質となる。信正は舅に当たる三吉宗隆から毛利家に属すよう説得される。信正は尼子氏に属し続けるとしたが、和泉家臣は宗隆に賛同。大永六年六月十三日、原勘兵衛、原但馬、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らは主君信正を謀殺。月山富田城から戻った信行を当主とし、和泉氏は毛利家に属した。その際、防衛策として石田尾張守の子、孫三郎が新たに尼子氏への人質となった。天文二十二年、毛利勢は尼子家に属した江田氏と交戦。吉川元春は救援に駆けつけた尼子軍を、黒岩城を拠点として退けた。この合戦は「和泉合戦」と呼ばれる。信行はこの合戦の功により、笠野山城を賜った。
和泉久正 (?~?)
和泉信行の子。三郎。黒岩城、茶臼山城主。三吉氏に属す。福谷山城を築城。
有地清元 (?~?)
宮元信の弟。国竹城を築き、居城とする。兄と不和になり、有地の地を領し有地氏を興す。兄が尼子家に属していたため、清元は尼子家と敵対する毛利元就に属した。天文三年、宮氏宗家亀寿山城攻めに参加。宗家が滅んだため、清元がその地位を継いだ。
有地隆信 (?~?)
有地清元の子。弘治元年、三百五十名を率いて利鎌山城を攻撃。城主福田久重は二百名で応戦。久重の妻も奮戦したと伝わるが、利鎌山城は落城し、久重も討死した。
有地元盛 (?~?)
有地隆信の子。永禄、天正年間にかけて相方城を築く。
東政幸 (?~?)
毛利家家老。蟻腰城主。左衛門尉。大永三年三月二十九日、元就の命で宮高盛の娘を娶り、久代宮氏に付けられる。知勇に優れ、二千五百石を知行した。天文年間、極楽寺を創立。讒言を受け宮景盛に討たれたとも、無実を証明して見せたとも伝わる。
大庭賢兼 (?~?)
大内家臣。奉行職。大内家滅亡後、毛利家に仕えて奉行となった。
林就長 (?~?)
肥後菊池氏。浪人として安芸に渡り、毛利家に仕官した。石見銀山で採掘の統括役となる。羽柴秀吉との交渉役になり、毛利家所領の境界作成に参加。惣国検地を担当した。
小倉元悦 (?~?)
近江出身。家が没落し、安芸に移る。厳島神社にて養育された。毛利元就に仕えた。
鵜飼元辰
猿楽師。毛利元就に取り立てられ、近仕することを許された。
植木秀長 (?~?)
植木藤資の子。佐井田城主。永正十四年、父の名代として畿内に出陣。三好長基に属し、淀堤合戦で一番鑓。この時、十八歳。長基から感状と水田庄を賜る。毛利家に属す。永禄十一年八月、宇喜多忠家勢九千七百余名に攻められ降伏。永禄十二年、毛利家に攻められ食料が残りわずかとなるも、直家からの援軍が間に合ったため撃退に成功。この合戦は「佐井田城兵糧攻め」と呼ばれる。子は美作守。
日幡六郎兵衛 (?~1582年)
備中日幡城主。清水宗治の甥中嶋大炊介の妹婿。永禄七年、龍ノ口合戦で功があった。天正十年四月、羽柴勢に攻められ、援軍上原元祐と共に居城に籠もる。元祐が敵に内通するのと知り、殺害を決意。しかし、実弟八郎左衛門らは元祐の内通に同意しており、逆に元祐を討ち取っている。
楢崎豊景 (?~?)
備中鳶ヶ巣城主。彦左衛門尉。毛利家に属す。永禄年間、備後久左に移る。
長谷部元政 (?~?)
翁山城主。飛騨守。天文年間、翁山城を築城。
長谷部元信 (?~?)
長谷部元政の子。翁山城主。天文二十三年、折敷畑合戦で功があった。弘治三年、連署起請文案に一族長谷部里資と共に名がある。
有福義国 (?~1600年)
有福義秀の子。有福城主。又九郎。関ヶ原合戦で討死。
楢崎豊景 (?~?)
楢崎城主。毛利元就に攻められ、降伏して家臣となる。出雲馬潟合戦などに出陣。神辺城主山名氏の内乱では鎮圧に尽力。関ヶ原合戦後、防長移封に従う。
栗原信教 (?~?)
左衛門尉。天文二十一年、元就は正戸山城主宮正味を滅ぼすと、信教を正戸山城主とした。居城の大改修を行ったと伝わる。
飯田元親 (?~1535年)
四郎次郎。永正十三年、武田家との合戦で功があった。天文四年没。
中原善右衛門 (?~?)
天文九年九月、尼子軍が本陣を風越山から青山に移すと、井上長門守と共に風越山を攻撃。本陣に移動される予定だった食料などを焼き払った。尼子久幸を射抜いたと言う。
三吉致高 (?~?)
茶臼山城は三吉領であったが、毛利興元に属した。そのため永正十三年、宍戸元源と共に茶臼山城を攻める。こうした合戦により、茶臼山城は再び三吉領となった。弘治二年、致高は合戦により焼失した知波夜比古神社を再建した。
三吉広隆 (?~1634年)
三吉隆亮の子。比叡尾山城、比熊山城主。天文十三年七月二十九日、前日の勝利で油断をした尼子軍を攻撃。毛利軍は大勝し、尼子軍は出雲へ撤退した。天文二十二年四月、毛利元就に属した。元亀四年、父と共に輝元へこれまでと同様の臣従を誓う。天正六年、天野元定と兄弟の契りを結ぶ。天正十八年、吉川広家と兄弟の契りを結ぶ。天正十九年、日隈山に比熊山城を築城。城名は日隈山城とせず、比叡尾山城から「比」の文字を選び、比熊山城とした。関ヶ原合戦後、防長移封により浪人。後に浅野長晟に仕官。寛永十一年没。かなりの長寿である。
児玉十郎左衛門 (?~?)
天文九年十月、桂元澄と共に二百余名を率い、青山麓で伏兵となる。青山土取場合戦では十郎左衛門ら伏兵の活躍が毛利軍を勝利に導いた。
高木信安 (?~?)
須弥城主高木信光の子。尼子家との合戦の功により池田城主。長男信清と共に防長移封に従う。
高木信行 (?~1615年)
高木信安の次男。防長移封に従わず、池田城に残る。元和元年八月、帰農せよとの命に従わないとして、福島家に攻められ自刃。
石井就世 (?~1603年)
石井城主。尼子家との合戦に参加。輝元の勘気により府中に戻る。慶長八年没。
宇多田藤右衛門尉 (?~?)
飛落小次郎。毛利元就の中間。弓や鉄炮に優れ、飛ぶ鳥を落とすほどの名人であったため飛落を称した。後に戦功によって武士に取り立てられ、宇多田藤右衛門尉を名乗り、鉄炮組頭になった。永禄六年十一月、鉄炮衆二百名を率いて尼子家の補給船を警戒。
古志豊長 (?~?)
古志吉信の子。本郷城主。清左衛門。父吉信は天文十七年、神辺城攻撃で功があった。豊長と杉原氏との関係は悪く、元亀三年には合戦にまで至っている。小早川隆景の仲介で両者は和解。後に隆景に呼ばれ三原城に向かうが、そのまま殺害される。尼子氏に通じたためと伝わる。
佐波隆秀 (?~?)
尼子家臣佐波興連の子。弘治二年、父と共に毛利家に降る。永禄元年、銀山城への兵糧搬入のため宍戸隆家らと共に出陣。七月、忍原で尼子軍と戦うが、死傷者が多いため撤退。これを「忍原崩れ」と言う。
佐波広忠 (?~?)
越後守。石見唐樋城主。天正十九年、安芸五品嶽城主。
刺賀長信 (?~1558年)
大森銀山山吹城将。弘治二年、毛利家に降る。永禄元年三月、銀山城は尼子軍により補給を絶たれる。尼子家臣である義弟湯泉津城主湯惟宗を仲介し、銀山城兵の助命と引き替えに自刃を申し出る。同年九月三日、自刃。同じ銀山城将高畠遠言も腹を切った。
三刀屋久扶 (?~?)
尼子家臣であったが、永禄八年四月、小早川隆景に属し富田城攻撃に参加。米原綱寛も同様に寝返り、富田城攻撃に参加している。
児玉与三郎 (?~?)
天正十九年、多賀山通続が改易されると蔀山城代となる。
馬屋原正成 (?~?)
九鬼城主。左衛門大夫。毛利家に属すが、天文三年、新市亀寿山城攻めでは遠戚宮高盛に味方する。戦後、元就に許しを請い再び家臣となった。天文六年、尼子家に攻められるも亀寿山城代古志景勝の援軍により撃退。子は元正、孫は春時。
河本大八 (?~?)
天正八年三月、「雲陽軍実記」を記す。
祖式部友兼 (?~?)
永禄五年二月、尼子氏との合戦中、毛利元就に鉄炮打ちを派遣して欲しいと伝えた。元就は返書に今朝方、三名の鉄炮打ちを派遣したと記した。
市川孫五郎 (?~?)
毛利家の鉄炮中間。永禄十二年、大友家との合戦で敵二名を撃ち、先駆けを果たした。四月二十九日、毛利輝元は他の十名の鉄炮中間と共に孫五郎の戦功を賞賛。今後も鉄炮の技量向上に努めるよう命じられた。
堀立壱岐守 (?~?)
毛利元就から鉄炮名人の高屋小三郎を附けられた。
高屋小三郎 (?~?)
砲術家。毛利元就の命で堀立壱岐守に属す。元就は小三郎の鉄炮の腕を信用しており、堀立壱岐守に対し、小三郎に大鉄炮を撃たせることが肝要だと伝えた。
児玉将元 (?~1569年)
湯谷久豊の妻の叔父。光清城主。永禄十二年、毛利軍に攻められ自刃。
世良多孫七郎 (?~?)
穂井田元清に仕える。子は正純。
加板原佐渡守 (?~1569年)
和智誠春の家老。南天山城代。永禄十二年、毛利軍に攻められると重臣二十八名と共に自刃。
多賀山通続 (?~?)
山内一門。蔀山城主。尼子氏に属すも、大永六年、大内氏に寝返ったため尼子勢に攻められる。享禄元年九月、尼子勢に再び攻め込まれる。城を落とされるも撃退に成功。大内義興没後は尼子家に属す。天文四年、毛利元就に攻められる。天文二十二年、毛利元就に属す。天正十九年、色欲に耽り政道を蔑ろにしたとして改易される。妻は山内直通の娘。
栗原元胤 (?~?)
浦壁城主。河内。永禄五年、毛利元就に仕え新地八貫を知行。慶長五年、長門に移る。
香川光景 (?~?)
天文二十三年、真宗寺東林坊と共に仁保城城番。
長大蔵左衛門 (?~?)
堀ノ岡城主。永禄十一年、大友家との合戦で功があり、輝元から感状を賜る。
上山兵庫介 (?~?)
植民部大輔と共に備前撫川城代。
原田豊後守 (?~?)
文禄年間、門田山城に居城。
己斐直之 (?~?)
己斐城主。豊後守。厳島合戦で毛利軍に属す。
吉原元親 (?~?)
豊後。天文年間、杉城を築城し居城とした。長男元種は防長移封に従う。次男親俊は世羅郡に残る。三男元忠は一説に吉原親芳の子と伝わる。元忠は龍王山城に居住した。
三浦元忠 (?~?)
兵庫頭。厳島合戦後、毛利元就から仁保城を与えられる。
林就長 (?~?)
松岡城主。肥前守。豊前香春嶽合戦の功により豊臣秀吉から感状を賜る。他に渡辺石見守、二保右衛門太夫、井上伯耆守も感状を賜った。
曽根景房 (?~1600年)
伊予曽根城主曽根宣高の子。孫左衛門。慶長五年八月下旬、伊予に派遣される。伊予の地侍に毛利家に味方するよう求めた。九月、伊予三津浜合戦で村上海賊衆と戦い討死。
兵頭正言 (?~?)
伊予の出身。慶長五年九月十一日、佐世元嘉から警護船建造の仕上げを命じられた。
木梨平左衛門 (?~?)
慶長五年八月下旬、村上武吉に従い、伊予に出陣するよう命じられた。
平佐就之 (?~?)
年次は不明ながら桂就宣が毛利隆元夫人を介して取り次ぎを依頼すると、夫人は平佐就之か女房衆の小侍従がよいと伝えた。
小笠原長住 (?~?)
天正九年、養子縁組をめぐって騒動を起こす。小笠原長治との連署書状を市川春俊、朝枝高明に送る。
椋梨就次 (?~?)
年次は不明ながら毛利家帰参に際し、小早川隆景夫人の支援を受けた。元和五年六月二十日付椋梨就次宛益田元和書状によると、小早川隆景夫人の追善に焼香するべきところだが、病気のために向かうことが出来ず、毛利就隆の祝言に合わせて香典千疋を贈ったと云う。
三輪元祐 (?~1605年)
慶長十年七月、熊谷元信、天野元信、中原善兵衛と共に毛利輝元に誅殺された。改宗に応じなかったためとされるが、実際には毛利輝元や秀元の許しも無しに、細川忠興と輝元の娘の婚姻を徳川家に報告したり、家中の婚姻を勝手に決めていたことが原因である。この事件の後、同年十二月十四日に輝元は家臣八百二十名に起請文を提出させている。家中の動揺を鎮めるためだろう。
野上長門守 (?~?)
青木城主と伝わるが、城主は土屋長門ともされ定かではない。天正十五年に焼失した久井稲荷神社を再建。文禄二年に完成させた。
門田元賀 (?~?)
江木滑城主。甚左衛門。天正十年、堀越城に移る。
平田惣右衛門 (?~?)
天正十九年、毛利輝元は広島城城下町の町割のため、有力町人である平田惣右衛門を工事に参加させた。
永井一虎 (?~?)
越前守。天正二年、国吉城攻めで功があり、備中市場古城主となる。子は重虎。
永井重虎 (?~1600年?)
永井一虎の子。四郎兵衛。慶長五年、関ヶ原合戦に参加するも行方不明となる。
佐世石見守 (?~?)
慶長三年五月、毛利輝元から銀二万二千枚を石見銀山から採掘するよう命じられた。慶長四年二月、今井越中守らに書状を送り、銀三万枚を採掘するよう命じた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えた。
今井越中守 (?~?)
代官。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。
吉岡隼人助 (?~?)
代官。吉岡出雲。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。慶長九年、大久保長安の命で佐渡に派遣される。慶長十四年、帰国。子は右近。
吉岡右近 (?~?)
吉岡隼人助の子。
宗岡弥右衛門尉 (?~?)
代官。吉岡佐渡。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。慶長九年、大久保長安の命で佐渡に派遣される。
石田喜右衛門 (?~?)
慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。
栗屋元秀 (?~?)
大永四年、陶興房は安芸武田家攻めの途中、毛利元就の軍勢に敗れた。そのため、興房は元就を味方にする必要があると考え、毛利重臣栗屋元秀、井上元貞らに働きかけ、元就を大内家に寝返らせた。大永五年三月二十一日、井上元貞、栗屋元秀に元就が大内家に属した事は両名の働きの賜物だと賞賛する書状を送った。
中村頼宗 (?~?)
天正年間、美作葛下城主。大炊介。天正九年、宇喜多家の岩屋城を落とす。その功により、岩屋城主となる。家臣浅山図書、桜井越中守が葛山城守将となった。同年、宇喜多家の西屋城を攻める。この時の城攻めは失敗に終わるが、翌十年に再度攻め込み、落城させた。同年、宇喜多家への開城を拒む。天正十二年、宇喜多家との合戦の末、足利義昭の調停を受け豊臣家に開城。
草刈景継 (?~1575年)
尼子家臣草刈衡継の子。永禄二年、家督を相続。天正二年、羽柴秀吉に内通。天正三年、内通が発覚し、小早川隆景の命で自刃。家督は弟重継が継いだ。
草刈重継 (?~?)
尼子家臣草刈衡継の子。景継の弟。美作矢筈城主。天正三年、兄が自刃したため家督を継ぐ。天正六年頃から羽柴秀吉の誘いを受けるが、これを全て断る。天正七年四月、宇喜多勢に攻められるも城を守りきる。天正九年、羽柴秀吉の攻撃を退ける。天正十一年八月、宇喜多領佐良山城攻めの功により、毛利輝元から感状を賜る。天正十年、毛利家が羽柴秀吉と結んだため、美作は宇喜多領となる。重継はこれに反発。開城を拒んだ。後に豊臣家に開城している。
桜井直豊 (?~?)
天正九年、葛下城主となる。天正十年、宇喜多家への開城を拒む。
楢崎元兼 (?~?)
月田城主。天正四年、高田城主。天正十年、美作は宇喜多領になるが、元兼はこれに反発。他に桝形城主福田勝昌も開城を拒んだ。
香川春継 (?~?)
永禄十二年、尼子勝久の蜂起に応じた三浦貞広を攻め、高田城を落とした。
黒岩吉弘 (?~?)
天正七年、美作矢筈城が宇喜多家に攻められると、山口太郎右衛門と共に救援に向かった。
桜井藤兵衛 (?~?)
天正九年、美作西屋城攻めに参加。他に武本又三郎も城攻めに参加した。
神田宗四郎 (?~?)
天正十四年、岩屋城主高橋紹運に密使を送る。しかし、密使は島津家に捕らえられ、近く援軍が到着するという密書も奪われてしまった。
竹内久盛 (?~?)
美作一之瀬城主。毛利家に属す。
平川盛吉 (?~?)
備中紫城主平川久親の子。親倫の弟。慶長五年、防長移封に従う。
福田盛雅(?~?)
天正年間、美作医王山城主。天正八年、宇喜多勢の攻撃から城を守りきる。
大蔵尚清 (?~?)
甚兵衛尉。天正年間、千葉三郎左衛門と共に美作神楽尾城守将。天正七年、宇喜多家の荒神山城を攻めようとするが、花房職秀の放った忍びに気づかれ、逆に夜襲を受け撤退。居城を攻められ落城した。職秀の放った忍びは商人に変装していたと言う。
千葉三郎左衛門
天正年間、大蔵尚清と共に美作神楽尾城守将。天正六年、大蔵尚清と対立し出奔。しかし、土井四郎次郎に討たれた。
福屋隆兼 (?~?)
毛利家に仕えたが、小笠原長雄の知行地が隆兼の領内に設けられたことを不服とし、毛利家が銀山城攻めに失敗した永禄四年、尼子家に属した。十一月六日、福光城を攻撃。しかし、吉川元春の攻撃を受け撤退。永禄五年二月七日、長男彦太郎とともに尼子義久を頼り落ち延び、後に畿内に逃れた。蜂須賀正勝に仕えたという。
刺賀治部少輔 (?~?)
大内家臣刺賀長信の子。弘治二年、大内家の山吹城が落城すると父は自刃。治部少輔は後に毛利家に仕えた。
勝間田二兵衛 (?~?)
内藤隆春の家臣。隆春とその姉である毛利隆元夫人は、勝間田家の家督を二兵衛が相続するよう伝えた。
横山盛資 (?~?)
杉浦盛重の重臣。備前守。天文十七年、神辺城主山名氏と毛利元就との和議のため奔走。子は盛政。
伊賀与三郎 (?~?)
宇喜多家臣伊賀久隆の子。父の死後、毛利家に仕える。天正七年、金川城攻めに参加。
林重真 (?~1582年)
清水長左衛門の家臣。三郎左衛門。天正十年四月、冠山城に籠もり織田勢と争う。籠城側は備前衆の攻撃をよく防いだが、柴垣に立てかけていた鉄炮から火が燃え移り、城内は混乱。南大手櫓で自刃。四月二十五日のことと伝わる。百三十九名が討死し、重真の首は京に送られ信長が首実検を行った。他に籠城側には鳥越左兵衛、松田左衛門尉がいた。
福屋二郎 (?~1562年)
福屋隆兼の次男。永禄四年七月、元就は吉川元春を介し、隆兼に次男二郎を人質に出すよう命じた。しかし、隆兼は二郎を尼子家への人質とした。永禄五年、松山城に籠もるが、二月六日、毛利軍に討たれた。
中村康之 (?~?)
福屋家臣。永禄四年、隆兼は福光城攻めに失敗し、康之の守る中ノ村城は吉川元春の攻撃を受けた。康之は防ぎきれず敗走した。
平井藤九郎 (?~?)
安国寺恵瓊に属す。関ヶ原合戦敗北後、本願寺端坊から逃れようとする恵瓊を守り奮戦。
長坂長七郎 (?~?)
安国寺恵瓊に属す。関ヶ原合戦敗北後、本願寺端坊から逃れようとする恵瓊を守り奮戦。
僧侶
竺雲恵心 (?~?)
毛利家の菩提寺安芸吉田興禅寺住職。立雪斎。毛利隆元、安国寺恵瓊の師。恵心は毛利家の外交を任されており、弟子の安国寺恵瓊がその役目を引き継いだ。天文十四年、妙玖婦人が没すると、隆元は竺雲恵心に書状を送り、阿弥陀画像を書いて欲しいと依頼。これは妙玖のため日々、阿弥陀像を拝みながら念仏を唱えるためであり、隆元の亡き母に対する想いを物語っている。弘治三年、隆元は元就が隠居を考えていると知り、恵心に【名将の子には必不運之者が生れ申候事、存知当候、不劣連徳之儀、更希有儀候、一度は栄、一度衰世習、是亦存知当候】と書き送っている。隆元は元就の跡を継ぐことに不安を感じ、自分の代で没落するのではないかと常に心配していた。そのため酒で気を紛らわすことがあり、それが死を早めたとも言う。元就は恵心を通じて畿内の情報を積極的に集めていた。正親町天皇の即位費用として二千貫を献上。永禄三年正月二十一日には御服費用の残高五十九貫四百文を献上。これにより毛利父子の受領、官途は昇進。元就は陸奥守、隆元は大膳大夫、元春は駿河守、隆景は中務大輔となった。二月二十一日には隆元が安芸守護職に任ぜられた。八月八日、元就は錦の直垂を許される。十二月八日には元就、隆元は相伴衆に列せられた。こうした中央への積極的な献金、それによる昇進は恵心のもたらす情報が活用されたのではないか。
白鴎玄修 (?~?)
足利学校で学んだ僧侶。小早川隆景に招かれる。慶長元年、隆景は筑前名島城内に名島学校を創設。玄修らに足利学校同様の教育を施すよう求めた。
鰐淵寺栄芸 (?~?)
鰐淵寺住職。永禄四年、毛利元就から本城常光の怨霊鎮魂と尼子氏調伏の祈祷を依頼された。芸栄は三日三晩の五大尊の法、さらに三日三晩の六観音の法、最後に三日三晩の七仏薬師の法を行った。流石の元就も恐ろしくなるほどの呪法だったと云う。
彭叔守山 (?~?)
東福寺住職。永正八年、毛利元就を養育していた御杉の方は在京中の毛利興元に書状を送り、元就を元服させることを伝えた。興元はこれを喜び、自身が少輔太郎であることから元就に少輔次郎の名を与えた。また、毛利家の通字である「元」の字を与え、もう一文字は東福寺住職彭叔守山に選んでもらうよう伝えた。彭叔守山は「就」の字を選び、これにより元就の名が決まった。
勝一 (?~?)
毛利元就に仕えた座頭。毛利元就が重代の刀が三つに折れる夢を見ると、それは刕(国)を得るという瑞兆と喜んだ。
毛利海賊衆
堀立直正 (?~?)
安芸の海賊衆。商売や運輸などで利益を上げていた。天文二十三年、毛利元就から安芸武田家の金山城を接収するよう命じられた。大内義長との合戦に際し、海賊衆を率いて長門海峡一帯を封鎖。大内義長が九州に逃れることを防いだ。長門国赤間関の代官となる。
沓屋勝範 (?~?)
屋代島衆。源太郎。大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に沓屋通種、小野山十郎を乗せて出陣。大永四年七月二十五日、東山攻めの最中、右脛を矢で射られた。大永五年三月三十日、弘中武長に先の合戦での軍忠状を提出。天文二十四年閏十月五日、他の屋代島衆と共に毛利元就に対し計千八百七十七石を要求。これは屋代島衆の旧領であり、元就もこれを了承した。厳島合戦以降も存命していた。
沓屋通種 (?~?)
屋代島衆。源四郎。大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に乗る。後に毛利元就に仕える。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
沓屋興種 (?~?)
屋代島衆。紀伊守。子は隆貞。
沓屋隆貞 (?~?)
屋代島衆。沓屋興種の子。厳島合戦で毛利家に属す。
沓屋右衛門尉 (?~?)
屋代島衆。弘治二年三月頃、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
斎藤高利 (?~?)
大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため弘中武長と同じ船で出陣。合戦中に負傷した。同年十一月一日、五日市にて放火中、中間の一人が左足を矢で射られた。大永四年七月三日、東山にて合戦中、右肩を矢で射られた。
長崎隼人佐 (?~?)
弘治二年三月頃、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
飯田義武 (?~1592年)
毛利海賊衆の将。七郎右衛門、越前守。飯田元親とは別系。厳島合戦で海上兵站役。永禄六年十一月、児玉就方とともに伯耆弓浜に上陸しようとする尼子軍補給船を警戒。十五日、尼子軍を破り、補給物資を奪っている。永禄十一年、筑前立花城攻めで海上兵站役。天正四年、本願寺への使者となる。文禄元年没。
有田弥七郎 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
下見太郎左衛門 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
吉田善衛門 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
鹿足元忠 (?~?)
毛利海賊衆。天正九年九月十六日、兵糧攻めに苦しむ鳥取城に兵糧を搬入しようとしたが、羽柴勢に阻まれ搬入することは出来なかった。
桑原雅楽助 (?~?)
屋代島衆。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
桑原惣左衛門尉 (?~?)
屋代島衆。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
小野山十郎 (?~?)
大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に乗る。
【付記】
毛利輝元は従弟毛利秀元を養子としていたが、秀吉の命により別家を興すこととなる。しかし、その途中で秀吉が没したため、秀元の所領は決まっていなかった。慶長四年、家康は秀元の所領問題解決を求めている。
関ヶ原合戦前、徳川家康は輝元に対して「兄弟の如く」関係を深めようとした書状を送っている。毛利家は徳川家との合戦に備え兵二万、鉄炮五千挺を用意していたと伝わるが、当主が徳川家と結んだためこの兵力は遊兵(様々な事情により合戦に参加せず、戦力となり得ない兵士)になった。関ヶ原合戦で毛利家が消極的だったのも、こうした裏工作によるものである。
【毛利二十一将】
毛利元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、毛利輝元、宍戸隆家、児玉就忠、福原貞俊、志道広良、口羽通良、桂元澄、渡辺長、赤川元保、粟屋元秀、熊谷信直、飯田元親、国司元相、栗屋元親、井上元兼、天野隆重、吉見正頼
【清水宗治七将】
清水月清、末近左衛門、林重真、難波伝兵衛、白井与三衛門、高市之允、小者七郎兵衛
【毛利家の先祖】
毛利家は平城天皇第一皇子阿保親王の子孫を称した。大江音人の父は本主だが、母は阿保親王の侍女であり、親王の子を宿したまま本主に嫁いだと言う。家紋「一文字三つ星」は第一皇子を意味する一品親王の「一品」の字に由来するとされる。
【毛利元就 日輪受胎説】
毛利元就は十一歳から死没するまで毎日、朝日に向かって念仏を十回唱えていた。元就は毛利家の勢力拡大は朝日を拝んだためと考えていた。弘治三年十一月二十五日付の書状で隆元、元春、隆景に訓戒状を与えたが、その中で子供たちにも朝日を拝むよう伝えている。後に敵対する山中鹿介は三日月に願をかけていたのだから面白い。太陽信仰からか、毛利元就にも豊臣秀吉同様に日輪受胎伝説がある。号「日頼洞春大居士」は日輪受胎伝説に由来する。毛利弘元次男松寿丸、後の元就は十五歳で元服。次男であるため、「元」の一字を当主とは逆に上に使用。兄毛利興元の命により、東福院住職彭叔守仙が占いで「就」の一字を選ぶ。興元は少輔太郎を称しており、元就は少輔次郎を称した。所領多治比を姓として、当初は「多治比少輔次郎元就」を称した。
【毛利元就と厳島神社】
厳島神社は推古天皇元年に創建された神社で、主祭神は市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命である。毛利元就は厳島神社を崇拝したが、次男吉川元春も信仰心を受け継いだ。厳島合戦中、弘中三河守は撤退のため民家に火を放った。元春は火が厳島神社に燃え移ることを恐れ、撤退を中止してまで消火した。
【毛利家の女性の内助の功】
毛利家に関係する女性は様々な形で夫や当主を支えていた。幼少期の毛利元就は高橋久光の養女で、父弘元の継室である椙の大方に養育された。当時の元就は井上氏に所領を横領されており、兄は在京していたため孤立していた。それを不憫に思った椙の大方は、元就を我が子のように可愛がった。元就の元服に際して支度を整えるなど、その様子は実母同然であったと云う。天文十四年六月八日、椙の大方は没した。法名「順徳妙孝大姉」。郡山城麓の清神社には、かつて椙若社という社があった。祭神は椙の大方であり、毛利家にとって彼女の存在がどれほど大きかったかを示している。毛利元就の妻は吉川元経の妹である。元就の異母妹は元経に嫁いでおり、毛利家と吉川家は二重の婚姻を結んでいた。天文十四年十一月三十日、元就夫人は四十七歳で没した。法名「妙玖寺殿成室玖公大姉」。彼女の実名は伝わっていないため、現在では法名から「妙玖」と呼ばれている。元就は妙玖を愛しており、晩年には隆元に最近、妙玖の事ばかり思い出していると書いた手紙を送っている。毛利元就の子供達は「三本の矢」の逸話のように仲が良かったという印象があるが、これは誤りである。実際の毛利兄弟は仲が悪く、元就は兄弟の協力こそ亡き母妙玖への親孝行と伝え、兄弟の関係を修復させようとした。家族思いであるため、子供たちの関係に苦悩する様子が伺える。その一方、隆元に宛てた手紙の中に出来の悪い子供の処分を一任すると記したものがある。このような非情な現実家としての面があったからこそ、元就は中国地方最大の大名に躍進することが出来たのだ。元就の側室中の丸殿は子供がいなかったが、元就の子供たちを我が子同然に愛した。また、才知に優れた中の丸殿は毛利元就から絶大な信頼を得ていた。毛利元就が戦場に向かうと、中の丸殿は郡山城の様子を手紙に書いて送っていた。元就は中の丸殿からの手紙を大変に喜んでいた。永禄四年十二月、在陣中の元就は手紙で老化を嘆く中の丸殿を励ました。その際、仮名文字の練習が出来ずにいたため、字がうまく書けているかを中の丸殿に尋ねている。また、中の丸殿から届く小袖などの贈り物も元就を喜ばせた。弘治三年、中の丸殿は周防に在陣中の毛利隆元に手紙を送り、輝元の髪置きの祝儀が行われていないことを注意した。隆元は慌てて髪置きの祝儀を行い、輝元の傅役に国司元武を任じた。永禄八年二月、毛利輝元の元服に際し、中の丸殿は祝儀の準備を取り仕切り、毛利元就にその様子を伝えた。元就は孫の元服を喜び、輝元が立派な人物になるよう中の丸殿に意見するよう求めた。天正七年十月、穂井田元清は織田家との合戦に向かうため、後事を手紙に記して毛利輝元に送った。その中で幼少の頃、中の丸殿に大変に可愛がってもらった恩義があるため、決して見捨てないで欲しいと伝えた。毛利輝元に元就の落胤二宮就辰の存在を伝えたのも中の丸殿である。毛利元就は長女五龍局を溺愛しており、彼女の身の上を心配した手紙が数多く伝わっている。元就は手紙の中で、五龍局の呼び名を「五もし」と記している。彼女を娶った宍戸隆家は隆元ら兄弟と同格の扱いを受けた。五龍局と元春夫妻は関係が悪化することがあったが、後に和解している。小早川隆景が宍戸家を訪ねた時など、「五もし」はさぞ喜んだろうと素直に父親の心情を書き残している。内藤興盛の娘は大内義隆の養女となり、毛利隆元に嫁いだ。隆元夫妻は郡山城内尾崎丸に居住したため、夫人は尾崎局と呼ばれた。尾崎局は大内氏との外交の要であり、義隆の承諾が必要な場合は尾崎局を通じ、内藤氏から義隆の承諾を得た。宍戸隆家夫人と吉川元春、小早川隆景が不和であるため、尾崎局はその仲介役になった。毛利輝元は驕児であり、母である尾崎局や傅役国司元武の話を聞かなかった。そこで永禄六年七月、輝元を佐々部に在陣している毛利隆元に使わした。その際、輝元は隆元だけは恐れて言うことを聞くので、母や傅役の話を聞くよう注意して欲しいと手紙で伝えた。隆元は手紙通り輝元を叱ったと思われる。同年八月四日に隆元は死没したため、これが父子、夫婦の最後の交流になった。毛利元就は孫の輝元が心配で内藤隆春を尾崎局に附け、連絡をより深めようとした。すると尾崎局は母である自分が輝元の教育は行うと元就に伝えた。仕方なく、元就は輝元の酒好きにだけ注意をした。永禄十一年、毛利軍が九州に向かうと、吉川元春と小早川隆景に幼少の輝元の代わりを務めてもらっていることへの謝意を伝えた。また、老齢の元就が出陣する事を心配し、今後は元就の出陣を止めて欲しいとも伝えた。
【毛利元就と曲直瀬道三】
元就は治療に訪れた道三に政道を問い、富田城兵糧攻めに反対されたことがある。道三は直ちに餓えに苦しむ者を救うよう元就を諫めた。儒学に造詣の深い元就は、これを受けて尼子義久を助命した。元就は曲直瀬道三に深く傾倒していたようだ。それは領内の医師の教育を道三に依頼したことからもわかる。道三の記した九ヶ条意見状は毛利家の家訓に取り入れられるほどだった。
【毛利輝元の飲酒】
毛利輝元が飲酒を始めたと知った元就は汁碗一、二杯ならば良いとした。「父弘元も兄興元も酒害のため短命だったが、自分は下戸のため長命である」と記している。しかし、輝元は当時まだ十一歳である。当時は結婚だけでなく、飲酒も早くから許されていたようだ。
【吉川広家が毛利家を減封させた】
天正十五年、吉川広家の吉川家家督相続が認められたが、これは黒田孝高の後押しがあったためとされる。一方、石田三成と増田長盛は吉川家が毛利家に組み込まれることを望んでいた。慶長四年、吉川広家の領地を毛利秀元が領するよう毛利家に指南している。これは石田三成の蟄居によって中止されたが、広家に遺恨が残ったことは間違いない。石田三成と安国寺恵瓊は徳川家康に対抗するため、毛利輝元を担ぎ出した。
吉川広家は徳川家との合戦に勝利し、毛利家の権力がさらに高まったとしても、自身の身がどうなるかは分からないと考えた。そこで、かつて家督相続に協力してくれた黒田孝高、長政父子を通じて徳川家康に内通。関ヶ原合戦では最前線に配置されたにもかかわらず、その場を動くことはなかった。東軍勝利後、吉川広家は安国寺恵瓊に西軍参戦の全責任を負わせたが、それでも毛利家は減封を免れることは出来なかった。広家が積極的に闘っていれば、関ヶ原合戦は西軍が勝利したと思われる。結局、吉川広家は自ら毛利家の首を絞めたことになるのだ。
【安国寺恵瓊は大名ではなかった】
安国寺恵瓊(瑶甫恵瓊)は伊予六万石を有する大名になったとされてきた。しかし、実際には安芸安国寺が伊予に六万石の寺領を賜ったのであり、恵瓊が大名になったわけではない。恵瓊には益田元祥、熊谷元直ら安国寺与力がいたが、あくまでも毛利家が恵瓊に附けたものである。直属の家臣団が実在したのではない。
【玉木吉保の医術】
毛利家臣玉木吉保は幼少から医術を学び、長じて用薬の術などを和歌にまとめるようになった。これらは現代医学でも有効性が認められたものが多く、非常に効果的な医術であったとわかる。
『歌薬性』:効果的な生薬を八十五種選び、その効能を和歌にまとめたもの。下はその一部。
人参は 五臓を養い 魂魄を 静めて知恵を 益すというなり
山精は 脾胃の湿りを よく除き 飲食進め 懐妊に吉
麦門冬 腎を補い 精をまし 心肺熱す 渇きをぞ治す
周麻は 頭痛寒熱 よく納め 汗を出して 血をぞ静める
菟糸子とは 気力を益して 筋骨を 堅めて肌肉 育むと聞く
乾姜は 中を温め 汗いだし 冷えて腹痛 嘔吐をも治す
利女には 咽の痛みや 毒を消し 肺癰散じ 嘔吐をぞ治す
『歌脈書』:七表、八裏、九道という脈をひとつひとつ和歌にまとめたもの。下はその一部。
《七表》
滑脈は 数珠のすべらか 力あり 少し早くて 数にこそあれ
実脈は 強く押すにも 弱くにも 押すに力の あると言うなり
弦脈は 弓を張りたる 心地して こわく引っぱる 弦のごときぞ
《八裏》
沈脈は やわら押すとき 弱くして 強きは細く 堅く沈むぞ
伏脈は 押さば覚えず 骨に付き 幽に跳ねり 隠れ居にけり
【井上党粛正に対する見解】
井上党は初期の元就政権の中核といえる存在だったが、それ故に権限が極めて強く、元就の命令に従わないことが多かった。元就も井上党の横暴に忍耐の日々を送っていた。特に元兼の弟元盛は元就の後見人でありながら、猿掛城と多治比三百貫を横領している。このように井上党との関係は早い時期から破綻しており、元就は大内義隆の許しを得て井上党粛正を決行。粛正は天文十九年七月十二日、十三日の二日間とした。十三日、元兼は次男就澄と共に屋敷を包囲され、自刃した。この時代、当主が危惧するほどの権力を持った家臣は粛正される運命になった。粛正しなければ下克上の危険があったからだ。当時の時代背景からすれば、井上党粛正を元就の非情とすることは出来ない。
source:
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/mouri.html
毛利豊元の子供
毛利弘元 (?~1506年)
毛利豊元の子。毛利家九代当主。治部少輔。明応九年、長男幸千代丸に家督を譲り、猿掛城に隠居。永正三年没。弟は元鎮。子は興元、元就、元綱、就勝。
兼重元鎮 (?~?)
毛利豊元の子。弘元の弟。興元、元就の叔父。子は元宣。
毛利弘元の子供
毛利興元 (1493~1516年 24歳没)
毛利弘元の長男。元就の兄。幸千代丸、少輔太郎。明応九年、家督を相続。永正四年十一月、元服。大内義興から一字を賜り、興元を名乗る。同年、大内義興の命により足利義稙を奉じて共に上洛。山城国船岡山合戦で戦功があった。永正八年、帰郷。永正十三年八月二十五日、二十四歳没。
相合元綱 (?~1524年)
毛利弘元の三男。元就の異母弟。大永三年八月、毛利元就は毛利家の家督を相続。尼子経久は武勇に優れた元就が家督を相続したことを不快に思い、家臣亀井秀綱に命じて元就の弟相合元綱を報略。元就を討てば家督を相続させると伝えた。宿老渡辺勝、坂広秀も元綱の家督相続に賛同。毛利元就はこれを察知し、大永四年四月八日、船山城を攻めて相合元綱らを討った。一説に夜討ちに遭ったため堀を飛び越えようとしたが、足を踏み外して転落死したと云う。この事件によって毛利元就は尼子経久と決別し、大内義興に再び臣従した。子は元範。
北就勝 (?~1557年)
毛利弘元の四男。元就の異母弟。母は有田氏。仏門に入るが還俗し、兄元就に仕えた。
毛利元就の子供
二宮就辰 (?~?)
毛利元就の落胤。穂井田元清よりも早く生まれたため、元就にとって四男にあたる。生母矢田氏は就辰を身籠もったまま二宮春久に嫁ぐ。そのため、就辰は春久の子として育てられた。これは妙玖婦人の没後とされ、就辰の生まれは天文十四年末から天文十五年と思われる。元就の側室中の丸殿は子に恵まれることはなかったが、元就やその子供達から深い信頼を得ていた。元就の死後、輝元は中の丸殿から就辰の出生を告げられる。輝元は中の丸殿に就辰を重用するという手紙を送った。天正十七年、広島城築城に際して穂井田元清と共に普請奉行。土地が三角州であったため、水を抜いて堤を築き、地面を固めてから工事を行う「島普請」となった。この手法は一般的ではなく、普請に参加する者は笑い者になったと言う。天正十九年、毛利領内総検地では中心となって活躍。
富田元秋 (1552~1585年 34歳没)
毛利元就の五男(六男)。刑部大輔。母は三吉氏。周防蓮華山城主椙杜隆康の養子となる。後に毛利家に戻る。永禄十一年、富田月山城に移り、元亀元年から城主となる。天野隆重が補佐役となった。三千五百貫を領し、富田姓を称す。天正十三年五月三日、三十四歳没。法名「三光陟殿瑛岩宗照禅定門」。
出羽元倶 (1555~1571年 17歳没)
毛利元就の六男(七男)。富田元秋同腹弟。孫四郎。石見出羽城主出羽元祐の養子となる。元亀二年八月十日、十七歳没。法名「天真常照禅定門」。家督は元祐の実子、元勝が継いだ。
天野元政 (1559~1609年 51歳没)
毛利元就の七男(八男)。穂田元清同腹弟。天野毛利氏の祖。少輔六郎、六郎左衛門尉、掃部守、讃岐守。孝心に厚く、父元就の抜け落ちた歯を貰い受け、肌身離さず大切にした。永禄十二年、安芸志芸米山城主天野元定の婿養子として家督を継ぐ。慶長五年、防長移封により一万五千石から四千二百石に減封された。周防熊毛郡三丘を領し、宗休を号した。元就の三十三回忌に当たる慶長八年、元就の歯を埋葬した「歯廟」を建立した。慶長十二年、天野元信の養子元重を自領に招く。慶長十四年四月二十九日、五十一歳没。法名「天徳性真大居士」。子は元倶。
毛利元康 (1560~1601年 42歳没)
毛利元就の八男(九男)。富田元秋、出羽元倶同腹弟。厚狭毛利氏の祖。少輔七郎、七郎兵衛尉、大蔵大輔。出雲末次城主。末次氏を称す。天正十三年五月三日、実兄富田元秋が没したため家督を継ぎ、同年十二月、富田月山城主となる。吉川広家が富田月山城主となると、備後神辺城主となる。朝鮮出兵に参加。関ヶ原合戦では大津城攻撃に参加。戦後、長門厚狭一万五百石。慶長六年一月十三日、四十二歳没。法名「洞玄寺殿石心玄也禅定門」。
毛利隆元の子供
毛利徳鶴 (?~?)
毛利隆元の次男。輝元の弟。早世。
毛利輝元の子供
毛利秀就 (?~?)
毛利輝元の嫡子。
性恵童子 (?~?)
毛利輝元の子。母は宍戸隆家の娘。早世。
知芳童子 (?~?)
毛利輝元の子。母は宍戸隆家の娘。早世。
毛利一門
兼重元宣 (?~?)
兼重元鎮の子。毛利元就の従兄弟。毛利家譜代の重臣となる。元亀三年十月十二日付内藤隆春請文を送られる。それによると、内藤隆世の死に際して内藤家は断絶の危機にあったが、姉である大方様(毛利隆元夫人)の御厚恩で存続が許された。なにかと大方様の指導を受けてきたが、大方様が逝去してしまい言葉も出ない。自分に対して讒言する者もいるだろうが、毛利家に対する恩義は忘れたことはないし、今後も忠誠を誓う、と記されていた。
毛利幸松丸 (1515~1523年 9歳没)
毛利興元の子。元就の甥。永正十三年八月二十五日、父弘元の死により二歳で家督を継ぐ。外祖父高橋久光が後見役となる。大永三年六月、尼子家の鏡山攻めに際し、毛利軍の大将として従う。この合戦で毛利元就は敵将蔵田直信を諜略し、鏡山城内に入って大将蔵田房信を討った。しかし、尼子経久は寝返った蔵田直信の首を刎ねた。大永三年七月十五日、九歳没。
相合元範 (?~?)
相合元綱の子。元就の甥。天文二年、毛利元就は大笹山城主敷名民部大輔を討つ。元就は大笹山城を元範に与えた。
天野元倶 (?~?)
天野元政の子。大坂の陣に参戦。寛永二年、宍戸家の領した周防右田に移り一万六千石。これにより家系は右田毛利家と呼ばれる。宍戸家は一門筆頭であり、天野毛利家は一門次席となった。同年、父の遺命として天野元重を殺害。
渋川義満 (?~?)
父は小童山城主渋川義正。母は毛利元就の妹。元就の甥。渋川氏は九州探題の名族であり、義満は「今探題」と呼ばれる。しかし、すでに勢力は衰えており、義満の代に没落した。
上原豊将 (?~?)
和智一族。円寿山城、今高野山城主。右衛門大夫。大永年間、山伝城主高橋某と争う。弘治三年付の起請文が残る。子は元将。
上原元将 (?~?)
上原豊将の子。元祐。毛利元就の娘を娶る。毛利家は清水宗治の守る備中高松城を支援するため、周辺の城を強化した。これらの城を「境目七城」と言う。上原元将はその一つ、日幡山城に入った。天正十年、羽柴秀吉に内通した。「陰徳太平記」は日幡季則を討ち、京に逃れたと記す。しかし、内通に激怒した正室に討たれたとも伝わる。
有名武将の一門
福原広俊 (?~1557年)
毛利家筆頭宿老。執権。福原氏八代当主。福原城主。式部大輔。元就の外祖父。元就の家督相続に同意し、連署状に署名。弘治三年没。子は貞俊。娘は毛利弘元に嫁ぎ、興元、元就を生んだ。他に口羽通良、桂元澄らに嫁いだ娘がいる。
福原広俊 (?~?)
福原氏十代当主。福原貞俊の子。祖父広俊の名を継ぐ。毛利家宿老。元就の従兄弟。弥五郎。天文九年、尼子氏の郡山城攻撃に備え鈴尾城を守る。慶長四年、家康から毛利秀元の所領問題を安国寺恵瓊と共に解決するよう求められた。
児玉就忠 (?~1562年)
阿良井城主児玉元実の次男。就方の兄。児玉家行の養子となり、家を継ぐ。三郎右衛門。天文十三年、尼子国久、誠久と共に比叡尾山城主三吉氏を攻撃。毛利元就は三吉氏を支援し、福原貞俊、児玉就忠らを援軍に派遣。七月二十八日、攻撃を仕掛けるも伏兵牛尾幸清の軍により敗れた。しかし、毛利軍の着陣により尼子軍は撤退した。天文十九年、五奉行衆。元就と隆元との連絡役となる。永禄五年没。子の元良が奉行職を継いだ。
児玉就英 (?~?)
児玉就方の子。
杉重輔 (?~1556年)
大内家臣杉重矩の子。重矩は大寧寺の変で父を殺害されたため、毛利家に属した。弘治元年十月七日、陶長房を自刃に追い込む。弘治二年、討死。子は重良。
杉元良 (?~?)
杉重良の子。母は福原貞俊の娘。天正七年、父は大友家に属したが、外祖父が宿老福原貞俊であったため家督相続を許された。
天野元明 (?~?)
天野隆重の子。慶長五年、防長移封に従う。
天野元信 (?~1605年)
天野元明の弟。兄の養子となる。切支丹。萩城造築工事に際して益見元祥と争う。慶長十年八月、改宗に応じなかったため、岳父熊谷元信らと共に処刑された。養子は元重。
天野興定 (1476~1541年 66歳没)
志和米山城主。天野隆重とは同族別系。大永五年四月、陶興房に攻められる。毛利元就は両者に和議を促し、興定は形勢が不利であったため米山城を大内氏に明け渡すこととした。以降、大内氏に属し戦功があったため、享禄元年に米山城を返還された。天文九年、尼子郡の毛利領攻撃では、元就への援軍として弟の興与と共に出陣。天文十年、銀山城攻撃に参加。同年、六十六歳没。
天野隆綱 (?~1555年)
天野興定の子。天野元貞の養子。毛利隆元と兄弟の契りを交わした。天文十六年、家督を継ぐ。天文二十二年、毛利元就から赤城山城を賜る。弘治元年十一月二十七日没。
天野元定 (?~1569年)
天野隆綱の弟。弘治二年十月十日、天野氏を相続。毛利元就への臣従の意思として、緑井、舟木、中山の地を返還。弘治三年、元就は代わりに内村を与えた。永禄十二年没。元就七男元政は元定の婿養子となり、家督を継いだ。
平賀広相 (?~1567年)
平賀隆宗の弟。新九郎。毛利元就の助力を得て、祖父弘保と共に平賀隆保を追い払う。平賀氏の家督を相続し、天文二十年、毛利家臣となる。隆元、元春、隆景と兄弟の契りを交わした。天文二十一年十二月末、毛利家中は陶晴賢の吉見正頼征伐に参じるかを論議した。これは所領問題から晴賢との関係が悪化したためで、元就は出陣を促されても応じようとしなかった。この席で、元就は晴賢に加勢するとした。しかし、隆元は晴賢との断交を主張。晴賢はこの機会に元就を押し込め、毛利家を滅ぼそうとする危険があるとした。家臣は隆元の意見に賛同し、天文二十三年五月十二日、毛利家は陶晴賢と断交した。晴賢は広相を味方にしようと使者を送るが、広相はこれを捕らえ毛利家への忠誠を示した。厳島合戦で先鋒。永禄十年没。子は元相。
杉原元盛 (?~?)
神辺城主杉原盛重の子。永禄六年、父が伯耆泉山城主を兼ねると、弟の景盛と共に神辺城を守る。天正十年、兄弟は不和となり争ったため改易された。
細川通董 (?~?)
細川晴国の子。叔父通政が父晴国の養子となっており、通董は通政の養子になるという形で家督を継いだ。初め伊予川之江城主。毛利家の支援を受け、備中に移る。青佐山城を築き、城主となる。永禄九年、龍王山城主。天正三年、備中鴨山城主。このように備中細川家の所領回復に成功するが、それは毛利家の後ろ盾によるものであり、通董は毛利家の属将という立場にあった。同年、毛利家に属し国吉城攻めに参加。
細川元通 (?~?)
細川通董の子。浅口少輔九郎。防長移封に従う。
毛利家 家臣団
志道広良 (1467~1557年 91歳没)
毛利家執権。志道元良の長男。口羽通良の兄。一説に口羽通良は次弟ではなく、広良の次男とも言う。永正十年三月十九日、毛利元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう伝え、起請文を書かせた。永正十四年六月、安芸武田信繁が多治比を攻めると、毛利元就は志道広良の了承を得て応戦しようと考えたが、広良はこれに反対。近隣に敵対する宍戸元源がいる以上、郡山城を出ることは出来ないと述べた。同年六月二十一日、元就は自身の手勢百五十名のみで出陣。武田軍の先鋒を打ち破った。志道広良はこれに驚き、郡山城の軍勢七百余名を率いて合流した。同年十月、吉川家の有田城が武田元繁に攻められると、吉川元経と共に救援に向かった。この合戦で毛利元就は武田元繁を討ち取った。この武勇に広良は驚愕しただろう。大永三年七月十五日、毛利幸松丸が九歳で没した。家臣は毛利元就、相合元綱のどちらかを後継にしようとしたが、中には尼子経久の子を貰おうという意見もあった。志道広良は武勇名高い元就を当主にすべきと考え、七月十九日に国司有相、井上有景を猿掛城に派遣。家督相続を願い出た。さらに福原広俊や桂元澄らにも根回し路して、宿老十五名の連署状を作成。同年七月二十五日に再度、元就に家督相続を求めた。尼子経久が反対した場合を考え、粟屋元秀を上洛させて幕府に元就の家督相続の許可を得た。こうして同年八月十日、毛利元就は家督を相続した。先の興元への忠誠を誓った起請文も毛利家をまとめるためのものであり、広良は執権として十分な働きと忠誠心を持っていた。大永五年、米山城主天野興定が尼子家に属したため、大内家臣陶興房は米山城を攻める。広良は調停役となり、興房に降伏の条件として所領安堵を約束させた。これにより、興定は大内家に降伏した。天文十五年、隆元が家督を継ぐと補佐役を命じられる。隆元に対し【君は船、臣は水にて候。水よく船を浮かべ候ことにて候。船候も水なく候へば、相叶はず候か】と説き、主君という船は家臣という水によって浮いていると諭した。弘治三年、九十一歳没。
志道元保 (?~?)
永禄八年四月、富田城攻撃に参加。
志道元章 (?~?)
慶長五年九月五日、毛利輝元から伊予に渡海するよう命じられた。
桂元澄 (1500~1569年 70歳没)
毛利家宿老。桂中山城主。後に桜尾城主。桂広澄の子。宿老。大永三年、元就の家督相続に同意し、連署状に署名。大永四年、叔父坂広秀が相合元綱を奉じた謀反に参加したため自刃。広澄も責任を取り腹を切った。桂中山城に籠もって毛利元就と戦おうとした。元就は単身、桂中山城に入って元澄を説得をした。元澄は説得に応じ、元就に再び仕えた。天文九年十月、児玉十郎左衛門とともに兵二百余名を率いて出陣。青山土取場合戦で伏兵となり活躍。天文十九年七月十三日、福原貞俊と共に井上元兼を攻め、自刃に追い込む。天文二十二年十二月二十四日、二十九日と隆元から書状を送られるが、その書状から今後も陶晴賢に味方すべきかを毛利家中が論議していたとわかる。永禄八年四月、富田城攻撃に参加。永禄十二年、七十歳没。
桂元忠 (?~?)
桂元澄の弟。左衛門大夫。元就の近習。天文十九年、五奉行衆。隆元は元就に対し、隠居を思いとどまるよう書状を送る。その際、元忠に宛てているが、これは彼が連絡役を兼ねていたことを示している。元亀元年、職を辞す。子の就宣が奉行職を継いだ。
桂元重 (?~?)
永禄十二年閏五月三日、立花城は開城。これにより坂元祐と共に立花城将となる。山中幸盛らが尼子再興のため蜂起すると、毛利軍は九州から撤退。これは同年十月十五日から二十一日にかけてのことである。立花城も開城した。
桂広繁 (?~?)
天正十年、備中高松城救援に向かう。同年六月、毛利家と羽柴秀吉の講和の際、小早川秀包は人質として秀吉の元に送られた。桂広繁は秀包に随伴し、羽柴軍の陣中に同行した。
桂元武 (?~?)
慶長五年九月五日、毛利輝元から伊予に渡海するよう命じられた。
国司有相 (?~1542年)
毛利元就の後見役国司有純の子。奉行職。妻は元就の祖父毛利豊元の娘。
国司元相 (1493~1591年 99歳没)
国司有相の子。助六、右京亮。隆元の傅役。隆元から一字を賜り、元相を名乗る。天文九年十月、渡辺通とともに兵五百余名を率いて出陣。青山土取場合戦で伏兵となり活躍。十一月、武田信実軍を般若谷で撃退。天文十二年、尼子家との合戦で功があった。天文十九年、五奉行衆。弘治元年九月三十日夜、陶晴賢を討つため厳島に上陸するが、風雨の海に船を出すことに反対。出陣延期を求めている。永禄三年、正親町天皇への即位料寄進のため、隆元の名代として上洛。足利義輝から槍の鈴を許される。永禄四年、松山城攻めで一番鑓。永禄八年頃、子の元武に奉行職を譲る。天正十九年、九十九歳没。
国司元武 (?~?)
国司元相の子。弘治元年十一月、元就側室中の丸殿は周防在陣中の隆元に、嫡子幸鶴丸の髪置きの祝儀が近く、また、傅役がまだ決まっていないことを手紙で知らせた。隆元は元就と相談し、国司元武を幸鶴丸、後の輝元の傅役とした。永禄六年七月、隆元は出雲在陣中の元就と合流するため佐々部で宿を取る。尾崎局は輝元に手紙を持たせ、佐々部に向かわせた。その手紙には母親の言うこと、傅役の元武の言うことも聞くよう輝元に注意をして欲しいと書かれていた。隆元は同年八月四日に没しており、これが尾崎局から隆元に宛てた最後の手紙となった。永禄八年四月、元就本隊に加わり富田城攻撃に参加。同年頃、父から奉行職を譲られた。
国司元蔵 (?~?)
国司元武の子。
渡辺次郎左衛門 (?~1524年)
渡辺勝の父。大永四年、子の勝が毛利元就に誅殺されると、それに連座して討たれた。
渡辺勝 (?~1524年)
毛利家宿老。長門守。大永三年、尼子経久の諜略によって相合元綱の謀反に荷担。大永四年、毛利元就は相合元綱や渡辺勝を討った。一説に郡山城で尋問を受けた後、難波谷に突き落とされたと云う。
渡辺通 (?~1543年)
虎市、太郎左衛門。父渡辺勝は相合元綱の謀反計画に参加したとして大永四年、誅殺された。乳母の実家、備後山内家に匿われる。山内直通に推挙され、元就に仕える。天文十二年五月、大内軍は味方の寝返りにより尼子領攻撃を断念。大内義隆は元就を殿軍として退却。星上山峠から大庭、簸川郡を通るも待ちかまえていた尼子軍の攻撃を受ける。毛利軍はこれを退け石見に入り、安濃郡の豪族波根泰連の下で数日間休むことが出来た。邇摩郡から邑智郡に入るため石見銀山麓を通ると、銀山城城兵に攻撃される。この時、渡辺通は部下と共に奮戦。毛利軍は矢滝道を通過しようとしていたため、敵兵をそれとは逆の西田道へ誘い出す。温泉津まで引きつけたものの、渡辺隊七名は討死した。一説に身代わりとなるため元就の甲冑を着ていたと言う。また、この活躍から同地には七騎坂という地名が付けられた。安芸に戻った元就は深く感じ入り、通の子、渡辺長を重臣とした。渡辺家は正月の甲冑開きを任された。
渡辺兼 (?~?)
一乗山城主。越中守。文明年間、一乗山城を築城か。天文三年、亀寿山城攻めに参加。
渡辺房 (?~?)
渡辺兼の子。一乗山城主。出雲守。天文二十一年、志川滝山城攻めに参加。
渡辺高 (?~?)
渡辺房の子。一乗山城主。源三。永禄十二年、神辺城合戦に参加。
渡辺元 (?~?)
渡辺高の子。一乗山城主。民部少輔。子の景の代に防長移封が決まり、渡辺氏は浪人となった。
坂広明 (?~?)
弟は坂広時。子は広澄。
坂広澄 (?~1524年)
坂広明の子。大永四年、従兄弟の坂広秀が謀反の罪で自刃した。広澄はその責任を取るため自刃した。子は桂元澄。
坂広時 (?~1522年)
坂広明の弟。毛利家執権。兵部大輔。高田郡日下津城主。大永二年、毛利元就は尼子経久の外圧に屈し、大内家から尼子家に寝返った。坂広時は大内家への従属を元就に進言したが、元就はこれを受け入れず、遂に日下津城を攻めて広時を討った。自刃したとも云う。子は広秀。
坂広秀 (?~1524年)
坂広時の子。毛利家宿老。能登守、長門守。大永三年、尼子経久の諜略によって相合元綱の謀反に荷担。父広時が元就に自決させられたため、遺恨に思っていたのだろう。大永四年、毛利元就は相合元綱を討ち、坂広秀を自刃させた。
坂光永 (?~?)
坂一族。大永二年、尼子家への臣従の証として人質に送られる。
中村元明 (?~?)
毛利家宿老。宮内少輔。大永三年七月、毛利元就の家督相続を求める連署状に署名。
中村元誠 (?~?)
中村元信の子。田屋城主。慶長五年、防長移封に従う。祖父元明は明応年間、毛利弘元の助力を得て兄繁勝を討っている。
粟屋元親 (?~1561年)
赤法師、弥次郎。天文九年、平賀氏との合戦で功があった。弘治二年、大内氏との合戦で粟屋隊は五十余名を討ち取る功があった。天文十九年、五奉行衆。永禄四年没。奉行職は子の元信が継いだ。
粟屋元秀 (?~?)
粟屋元親の一族。塩屋城主。縫殿充。粟屋元国の名代となる。大永三年、元就の家督相続に同意し、連署状に署名。元就の毛利家相続を足利将軍に願い出て、家督相続を認める御内書を拝受する。大永五年三月二十一日、陶興房は書状を粟屋元秀、井上元貞に送り、元就の大内家内通は両名の尽力によるものと賞賛している。天文九年九月、郡山城留守居役。
粟屋元真 (?~?)
永禄八年四月、富田城攻撃に参加。
赤川就秀 (?~?)
大永二年、尼子家への臣従の証として人質に送られる。
赤川元保 (?~1567年)
赤川房信の子。長兄元光が討死したため、次兄就秀が家督を相続。就秀は井上元兼の娘を娶り、尼子家との合戦で功があった。元保は次兄と共に元就の家督相続依頼の連署状に署名。隆元の付家老となる。天文十九年、五奉行衆筆頭。永禄六年、和智誠春の饗応を受けた隆元が急死。元就はこの事件を嘆き悲しみ、元保が誠春と結んで暗殺したと考えた。永禄十年三月、誅殺された。しかし、後に元保は誠春の饗応に応じないよう進言していたことがわかり、元就は元保の次男元之に赤川氏を継がせた。
玉木吉保 (1552~1633年 82歳没)
玉木忠吉の子。初次丸、又三郎、太郎左衛門尉、土佐守、偽真。天文二十一年七月八日生。永禄七年、真言宗勝楽寺に入山。医学を学び、後に医名として偽真を称す。十四歳の頃には「論語」、「三略」、「六韜」などを学んでいた。永禄十年、下山。永禄十二年十月、大内輝弘との合戦に参加。天正三年五月、尼子家との合戦のため備中に出陣。天正八年六月、上方に赴く。曲直瀬道三流の医術を修得。天正十三年、四国征伐参加。安芸、出雲、周防、長門、石見、備後、伊予などの検地に参加。文禄の役では攻め取った朝鮮の地で代官職「郡外邦」となる。文禄三年八月、伏見城普請に参加。老齢にいたり、自らの養生を兼ねて医術の道に専念。生薬とその効能を歌にまとめた「歌薬性」、診脈の方法を歌にまとめた「歌脈書」、さらには病を敵兵に、薬を将兵に見立て、発病から治療、投薬などの流れを軍記物風にまとめた「医文車輪書」を記す。これは病や薬を擬人化し、治療を合戦とすることで医術をわかりやすくまとめようと言うものだった。これらは現代医学でも有効性の認められるものが多く、吉保は非常に効果的な医術を修めていたとわかる。この様に、吉保の名は武将としてではなく医師として伝わる傾向にある。また、四十八歳の時には儒者から易学を学び、やがて是空という易名を名乗るまでになった。寛永十年、八十二歳没。自身の生涯を記した「身自鏡」を記す。
内藤元盛 (?~1615年)
毛利一門。一万石。元和元年、大坂残党として佐野道可という者が捕縛された。やがて道可は内藤元盛と同一人物であると判明。毛利家が豊臣家に通じていたのではないかという疑惑が生じた。元盛は自らの意志で大坂方に属したと主張。二人の男子も父が自ら大坂方に属したと語った。幕府もこれ以上、詮議が進むことはないとして元盛に自刃を命じた。元盛は山城国鷲寺で腹を切っている。男子も毛利家から自刃を命じられた。
岩室坊勢祐 (?~?)
天正十三年、根来が羽柴軍に滅ぼされた時、八歳であった。高野山に逃れ、二十八歳の時に毛利家から仕官の話を持ちかけられた。この時、三万石を与えられるとされた。勢祐は根来衆千三百三十五名で森口の張番となった。鉄炮は五百挺を保有した。
和智誠春 (?~1569年)
南天山城主。又九郎、元実。妻は内藤興盛の娘。永禄六年八月十三日、毛利隆元を饗応。隆元は帰途、突然に苦しみだし、翌十四日に没した。死因は食中毒とも、毒による暗殺とも言う。元就は隆元は暗殺されたと考えたのだろう、永禄十二年正月、誠春を弟の湯谷新三郎とともに誅殺した。しかし、暗殺とする根拠はない。そのため、無実の罪で切られた誠春が怨霊として祟ることのないよう祠を建てている。
和智元郷 (?~?)
和智誠春の子。永禄十一年、元就に起請文を提出し許される。鳶巣山城に居住した。元就は永禄六年八月五日、隆元の死を知る。将兵には尼子家討伐こそ隆元の追善と命じた。元就は白鹿城攻めで討死しようとしていたと小早川隆景は語っている。
柚谷元家 (?~1569年)
和智誠春の弟。新三郎。湯谷又八郎久豊。弘治三年、兄和智宗誠、上原豊将、安田元賢らと共に起請文に名が記される。永禄十二年、兄と共に厳島で殺害された。
湯谷実義 (?~1569年)
湯谷久豊の子。和智誠春の甥。又左衛門。福山城を守る。永禄十二年、毛利軍に攻められ重臣と共に自刃。
阿曽沼広秀 (?~1597年)
安芸の国人。少輔十郎。厳島合戦で先鋒。慶長二年没。
荘駿河守 (?~?)
備中猿掛山城主。天正十年正月、織田家に寝返る。
中島元行 (?~?)
毛利家は清水宗治の守る備中高松城を支援するため、周辺の城を強化した。中島元行はその一つ、経山城を守った。後に清水宗治支援のため高松城に入っている。
牛尾元貞 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。吉川元春と結び、毛利家臣を派遣してもらうことで羽柴秀吉と対立することとした。これにより牛尾元貞は鳥取城に派遣された。後に市川雅楽充、朝枝春元と交代している。
市川雅楽充 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。両名は吉川元春と結び、牛尾元貞を鳥取城に派遣してもらい、羽柴秀吉への抵抗を続けた。市川雅楽充は朝枝春元と共に、牛尾元貞と交代する形で鳥取城に派遣されている。
朝枝春元 (?~?)
天正八年九月二十一日、山名豊国は鳥取城を開城。羽柴秀吉に降伏した。しかし、重臣中村春続と森下道誉と共に開城に反対。両名は吉川元春と結び、牛尾元貞を鳥取城に派遣してもらい、羽柴秀吉への抵抗を続けた。朝枝春元は市川雅楽充と共に、牛尾元貞と交代する形で鳥取城に派遣されている。
和泉信行 (?~?)
和泉信正の子。黒岩城主。三郎五郎。尼子氏への人質となる。信正は舅に当たる三吉宗隆から毛利家に属すよう説得される。信正は尼子氏に属し続けるとしたが、和泉家臣は宗隆に賛同。大永六年六月十三日、原勘兵衛、原但馬、間鍋五郎左衛門、秋山伊勢守らは主君信正を謀殺。月山富田城から戻った信行を当主とし、和泉氏は毛利家に属した。その際、防衛策として石田尾張守の子、孫三郎が新たに尼子氏への人質となった。天文二十二年、毛利勢は尼子家に属した江田氏と交戦。吉川元春は救援に駆けつけた尼子軍を、黒岩城を拠点として退けた。この合戦は「和泉合戦」と呼ばれる。信行はこの合戦の功により、笠野山城を賜った。
和泉久正 (?~?)
和泉信行の子。三郎。黒岩城、茶臼山城主。三吉氏に属す。福谷山城を築城。
有地清元 (?~?)
宮元信の弟。国竹城を築き、居城とする。兄と不和になり、有地の地を領し有地氏を興す。兄が尼子家に属していたため、清元は尼子家と敵対する毛利元就に属した。天文三年、宮氏宗家亀寿山城攻めに参加。宗家が滅んだため、清元がその地位を継いだ。
有地隆信 (?~?)
有地清元の子。弘治元年、三百五十名を率いて利鎌山城を攻撃。城主福田久重は二百名で応戦。久重の妻も奮戦したと伝わるが、利鎌山城は落城し、久重も討死した。
有地元盛 (?~?)
有地隆信の子。永禄、天正年間にかけて相方城を築く。
東政幸 (?~?)
毛利家家老。蟻腰城主。左衛門尉。大永三年三月二十九日、元就の命で宮高盛の娘を娶り、久代宮氏に付けられる。知勇に優れ、二千五百石を知行した。天文年間、極楽寺を創立。讒言を受け宮景盛に討たれたとも、無実を証明して見せたとも伝わる。
大庭賢兼 (?~?)
大内家臣。奉行職。大内家滅亡後、毛利家に仕えて奉行となった。
林就長 (?~?)
肥後菊池氏。浪人として安芸に渡り、毛利家に仕官した。石見銀山で採掘の統括役となる。羽柴秀吉との交渉役になり、毛利家所領の境界作成に参加。惣国検地を担当した。
小倉元悦 (?~?)
近江出身。家が没落し、安芸に移る。厳島神社にて養育された。毛利元就に仕えた。
鵜飼元辰
猿楽師。毛利元就に取り立てられ、近仕することを許された。
植木秀長 (?~?)
植木藤資の子。佐井田城主。永正十四年、父の名代として畿内に出陣。三好長基に属し、淀堤合戦で一番鑓。この時、十八歳。長基から感状と水田庄を賜る。毛利家に属す。永禄十一年八月、宇喜多忠家勢九千七百余名に攻められ降伏。永禄十二年、毛利家に攻められ食料が残りわずかとなるも、直家からの援軍が間に合ったため撃退に成功。この合戦は「佐井田城兵糧攻め」と呼ばれる。子は美作守。
日幡六郎兵衛 (?~1582年)
備中日幡城主。清水宗治の甥中嶋大炊介の妹婿。永禄七年、龍ノ口合戦で功があった。天正十年四月、羽柴勢に攻められ、援軍上原元祐と共に居城に籠もる。元祐が敵に内通するのと知り、殺害を決意。しかし、実弟八郎左衛門らは元祐の内通に同意しており、逆に元祐を討ち取っている。
楢崎豊景 (?~?)
備中鳶ヶ巣城主。彦左衛門尉。毛利家に属す。永禄年間、備後久左に移る。
長谷部元政 (?~?)
翁山城主。飛騨守。天文年間、翁山城を築城。
長谷部元信 (?~?)
長谷部元政の子。翁山城主。天文二十三年、折敷畑合戦で功があった。弘治三年、連署起請文案に一族長谷部里資と共に名がある。
有福義国 (?~1600年)
有福義秀の子。有福城主。又九郎。関ヶ原合戦で討死。
楢崎豊景 (?~?)
楢崎城主。毛利元就に攻められ、降伏して家臣となる。出雲馬潟合戦などに出陣。神辺城主山名氏の内乱では鎮圧に尽力。関ヶ原合戦後、防長移封に従う。
栗原信教 (?~?)
左衛門尉。天文二十一年、元就は正戸山城主宮正味を滅ぼすと、信教を正戸山城主とした。居城の大改修を行ったと伝わる。
飯田元親 (?~1535年)
四郎次郎。永正十三年、武田家との合戦で功があった。天文四年没。
中原善右衛門 (?~?)
天文九年九月、尼子軍が本陣を風越山から青山に移すと、井上長門守と共に風越山を攻撃。本陣に移動される予定だった食料などを焼き払った。尼子久幸を射抜いたと言う。
三吉致高 (?~?)
茶臼山城は三吉領であったが、毛利興元に属した。そのため永正十三年、宍戸元源と共に茶臼山城を攻める。こうした合戦により、茶臼山城は再び三吉領となった。弘治二年、致高は合戦により焼失した知波夜比古神社を再建した。
三吉広隆 (?~1634年)
三吉隆亮の子。比叡尾山城、比熊山城主。天文十三年七月二十九日、前日の勝利で油断をした尼子軍を攻撃。毛利軍は大勝し、尼子軍は出雲へ撤退した。天文二十二年四月、毛利元就に属した。元亀四年、父と共に輝元へこれまでと同様の臣従を誓う。天正六年、天野元定と兄弟の契りを結ぶ。天正十八年、吉川広家と兄弟の契りを結ぶ。天正十九年、日隈山に比熊山城を築城。城名は日隈山城とせず、比叡尾山城から「比」の文字を選び、比熊山城とした。関ヶ原合戦後、防長移封により浪人。後に浅野長晟に仕官。寛永十一年没。かなりの長寿である。
児玉十郎左衛門 (?~?)
天文九年十月、桂元澄と共に二百余名を率い、青山麓で伏兵となる。青山土取場合戦では十郎左衛門ら伏兵の活躍が毛利軍を勝利に導いた。
高木信安 (?~?)
須弥城主高木信光の子。尼子家との合戦の功により池田城主。長男信清と共に防長移封に従う。
高木信行 (?~1615年)
高木信安の次男。防長移封に従わず、池田城に残る。元和元年八月、帰農せよとの命に従わないとして、福島家に攻められ自刃。
石井就世 (?~1603年)
石井城主。尼子家との合戦に参加。輝元の勘気により府中に戻る。慶長八年没。
宇多田藤右衛門尉 (?~?)
飛落小次郎。毛利元就の中間。弓や鉄炮に優れ、飛ぶ鳥を落とすほどの名人であったため飛落を称した。後に戦功によって武士に取り立てられ、宇多田藤右衛門尉を名乗り、鉄炮組頭になった。永禄六年十一月、鉄炮衆二百名を率いて尼子家の補給船を警戒。
古志豊長 (?~?)
古志吉信の子。本郷城主。清左衛門。父吉信は天文十七年、神辺城攻撃で功があった。豊長と杉原氏との関係は悪く、元亀三年には合戦にまで至っている。小早川隆景の仲介で両者は和解。後に隆景に呼ばれ三原城に向かうが、そのまま殺害される。尼子氏に通じたためと伝わる。
佐波隆秀 (?~?)
尼子家臣佐波興連の子。弘治二年、父と共に毛利家に降る。永禄元年、銀山城への兵糧搬入のため宍戸隆家らと共に出陣。七月、忍原で尼子軍と戦うが、死傷者が多いため撤退。これを「忍原崩れ」と言う。
佐波広忠 (?~?)
越後守。石見唐樋城主。天正十九年、安芸五品嶽城主。
刺賀長信 (?~1558年)
大森銀山山吹城将。弘治二年、毛利家に降る。永禄元年三月、銀山城は尼子軍により補給を絶たれる。尼子家臣である義弟湯泉津城主湯惟宗を仲介し、銀山城兵の助命と引き替えに自刃を申し出る。同年九月三日、自刃。同じ銀山城将高畠遠言も腹を切った。
三刀屋久扶 (?~?)
尼子家臣であったが、永禄八年四月、小早川隆景に属し富田城攻撃に参加。米原綱寛も同様に寝返り、富田城攻撃に参加している。
児玉与三郎 (?~?)
天正十九年、多賀山通続が改易されると蔀山城代となる。
馬屋原正成 (?~?)
九鬼城主。左衛門大夫。毛利家に属すが、天文三年、新市亀寿山城攻めでは遠戚宮高盛に味方する。戦後、元就に許しを請い再び家臣となった。天文六年、尼子家に攻められるも亀寿山城代古志景勝の援軍により撃退。子は元正、孫は春時。
河本大八 (?~?)
天正八年三月、「雲陽軍実記」を記す。
祖式部友兼 (?~?)
永禄五年二月、尼子氏との合戦中、毛利元就に鉄炮打ちを派遣して欲しいと伝えた。元就は返書に今朝方、三名の鉄炮打ちを派遣したと記した。
市川孫五郎 (?~?)
毛利家の鉄炮中間。永禄十二年、大友家との合戦で敵二名を撃ち、先駆けを果たした。四月二十九日、毛利輝元は他の十名の鉄炮中間と共に孫五郎の戦功を賞賛。今後も鉄炮の技量向上に努めるよう命じられた。
堀立壱岐守 (?~?)
毛利元就から鉄炮名人の高屋小三郎を附けられた。
高屋小三郎 (?~?)
砲術家。毛利元就の命で堀立壱岐守に属す。元就は小三郎の鉄炮の腕を信用しており、堀立壱岐守に対し、小三郎に大鉄炮を撃たせることが肝要だと伝えた。
児玉将元 (?~1569年)
湯谷久豊の妻の叔父。光清城主。永禄十二年、毛利軍に攻められ自刃。
世良多孫七郎 (?~?)
穂井田元清に仕える。子は正純。
加板原佐渡守 (?~1569年)
和智誠春の家老。南天山城代。永禄十二年、毛利軍に攻められると重臣二十八名と共に自刃。
多賀山通続 (?~?)
山内一門。蔀山城主。尼子氏に属すも、大永六年、大内氏に寝返ったため尼子勢に攻められる。享禄元年九月、尼子勢に再び攻め込まれる。城を落とされるも撃退に成功。大内義興没後は尼子家に属す。天文四年、毛利元就に攻められる。天文二十二年、毛利元就に属す。天正十九年、色欲に耽り政道を蔑ろにしたとして改易される。妻は山内直通の娘。
栗原元胤 (?~?)
浦壁城主。河内。永禄五年、毛利元就に仕え新地八貫を知行。慶長五年、長門に移る。
香川光景 (?~?)
天文二十三年、真宗寺東林坊と共に仁保城城番。
長大蔵左衛門 (?~?)
堀ノ岡城主。永禄十一年、大友家との合戦で功があり、輝元から感状を賜る。
上山兵庫介 (?~?)
植民部大輔と共に備前撫川城代。
原田豊後守 (?~?)
文禄年間、門田山城に居城。
己斐直之 (?~?)
己斐城主。豊後守。厳島合戦で毛利軍に属す。
吉原元親 (?~?)
豊後。天文年間、杉城を築城し居城とした。長男元種は防長移封に従う。次男親俊は世羅郡に残る。三男元忠は一説に吉原親芳の子と伝わる。元忠は龍王山城に居住した。
三浦元忠 (?~?)
兵庫頭。厳島合戦後、毛利元就から仁保城を与えられる。
林就長 (?~?)
松岡城主。肥前守。豊前香春嶽合戦の功により豊臣秀吉から感状を賜る。他に渡辺石見守、二保右衛門太夫、井上伯耆守も感状を賜った。
曽根景房 (?~1600年)
伊予曽根城主曽根宣高の子。孫左衛門。慶長五年八月下旬、伊予に派遣される。伊予の地侍に毛利家に味方するよう求めた。九月、伊予三津浜合戦で村上海賊衆と戦い討死。
兵頭正言 (?~?)
伊予の出身。慶長五年九月十一日、佐世元嘉から警護船建造の仕上げを命じられた。
木梨平左衛門 (?~?)
慶長五年八月下旬、村上武吉に従い、伊予に出陣するよう命じられた。
平佐就之 (?~?)
年次は不明ながら桂就宣が毛利隆元夫人を介して取り次ぎを依頼すると、夫人は平佐就之か女房衆の小侍従がよいと伝えた。
小笠原長住 (?~?)
天正九年、養子縁組をめぐって騒動を起こす。小笠原長治との連署書状を市川春俊、朝枝高明に送る。
椋梨就次 (?~?)
年次は不明ながら毛利家帰参に際し、小早川隆景夫人の支援を受けた。元和五年六月二十日付椋梨就次宛益田元和書状によると、小早川隆景夫人の追善に焼香するべきところだが、病気のために向かうことが出来ず、毛利就隆の祝言に合わせて香典千疋を贈ったと云う。
三輪元祐 (?~1605年)
慶長十年七月、熊谷元信、天野元信、中原善兵衛と共に毛利輝元に誅殺された。改宗に応じなかったためとされるが、実際には毛利輝元や秀元の許しも無しに、細川忠興と輝元の娘の婚姻を徳川家に報告したり、家中の婚姻を勝手に決めていたことが原因である。この事件の後、同年十二月十四日に輝元は家臣八百二十名に起請文を提出させている。家中の動揺を鎮めるためだろう。
野上長門守 (?~?)
青木城主と伝わるが、城主は土屋長門ともされ定かではない。天正十五年に焼失した久井稲荷神社を再建。文禄二年に完成させた。
門田元賀 (?~?)
江木滑城主。甚左衛門。天正十年、堀越城に移る。
平田惣右衛門 (?~?)
天正十九年、毛利輝元は広島城城下町の町割のため、有力町人である平田惣右衛門を工事に参加させた。
永井一虎 (?~?)
越前守。天正二年、国吉城攻めで功があり、備中市場古城主となる。子は重虎。
永井重虎 (?~1600年?)
永井一虎の子。四郎兵衛。慶長五年、関ヶ原合戦に参加するも行方不明となる。
佐世石見守 (?~?)
慶長三年五月、毛利輝元から銀二万二千枚を石見銀山から採掘するよう命じられた。慶長四年二月、今井越中守らに書状を送り、銀三万枚を採掘するよう命じた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えた。
今井越中守 (?~?)
代官。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。
吉岡隼人助 (?~?)
代官。吉岡出雲。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。慶長九年、大久保長安の命で佐渡に派遣される。慶長十四年、帰国。子は右近。
吉岡右近 (?~?)
吉岡隼人助の子。
宗岡弥右衛門尉 (?~?)
代官。吉岡佐渡。慶長四年二月、佐世石見守から書状で銀三万枚を採掘するよう命じられた。このうち二万八千枚は代官六名が立て替えてでも完納するよう伝えられた。慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。慶長九年、大久保長安の命で佐渡に派遣される。
石田喜右衛門 (?~?)
慶長五年十一月十八日、大久保長安に石見銀山の状況について報告書を出している。
栗屋元秀 (?~?)
大永四年、陶興房は安芸武田家攻めの途中、毛利元就の軍勢に敗れた。そのため、興房は元就を味方にする必要があると考え、毛利重臣栗屋元秀、井上元貞らに働きかけ、元就を大内家に寝返らせた。大永五年三月二十一日、井上元貞、栗屋元秀に元就が大内家に属した事は両名の働きの賜物だと賞賛する書状を送った。
中村頼宗 (?~?)
天正年間、美作葛下城主。大炊介。天正九年、宇喜多家の岩屋城を落とす。その功により、岩屋城主となる。家臣浅山図書、桜井越中守が葛山城守将となった。同年、宇喜多家の西屋城を攻める。この時の城攻めは失敗に終わるが、翌十年に再度攻め込み、落城させた。同年、宇喜多家への開城を拒む。天正十二年、宇喜多家との合戦の末、足利義昭の調停を受け豊臣家に開城。
草刈景継 (?~1575年)
尼子家臣草刈衡継の子。永禄二年、家督を相続。天正二年、羽柴秀吉に内通。天正三年、内通が発覚し、小早川隆景の命で自刃。家督は弟重継が継いだ。
草刈重継 (?~?)
尼子家臣草刈衡継の子。景継の弟。美作矢筈城主。天正三年、兄が自刃したため家督を継ぐ。天正六年頃から羽柴秀吉の誘いを受けるが、これを全て断る。天正七年四月、宇喜多勢に攻められるも城を守りきる。天正九年、羽柴秀吉の攻撃を退ける。天正十一年八月、宇喜多領佐良山城攻めの功により、毛利輝元から感状を賜る。天正十年、毛利家が羽柴秀吉と結んだため、美作は宇喜多領となる。重継はこれに反発。開城を拒んだ。後に豊臣家に開城している。
桜井直豊 (?~?)
天正九年、葛下城主となる。天正十年、宇喜多家への開城を拒む。
楢崎元兼 (?~?)
月田城主。天正四年、高田城主。天正十年、美作は宇喜多領になるが、元兼はこれに反発。他に桝形城主福田勝昌も開城を拒んだ。
香川春継 (?~?)
永禄十二年、尼子勝久の蜂起に応じた三浦貞広を攻め、高田城を落とした。
黒岩吉弘 (?~?)
天正七年、美作矢筈城が宇喜多家に攻められると、山口太郎右衛門と共に救援に向かった。
桜井藤兵衛 (?~?)
天正九年、美作西屋城攻めに参加。他に武本又三郎も城攻めに参加した。
神田宗四郎 (?~?)
天正十四年、岩屋城主高橋紹運に密使を送る。しかし、密使は島津家に捕らえられ、近く援軍が到着するという密書も奪われてしまった。
竹内久盛 (?~?)
美作一之瀬城主。毛利家に属す。
平川盛吉 (?~?)
備中紫城主平川久親の子。親倫の弟。慶長五年、防長移封に従う。
福田盛雅(?~?)
天正年間、美作医王山城主。天正八年、宇喜多勢の攻撃から城を守りきる。
大蔵尚清 (?~?)
甚兵衛尉。天正年間、千葉三郎左衛門と共に美作神楽尾城守将。天正七年、宇喜多家の荒神山城を攻めようとするが、花房職秀の放った忍びに気づかれ、逆に夜襲を受け撤退。居城を攻められ落城した。職秀の放った忍びは商人に変装していたと言う。
千葉三郎左衛門
天正年間、大蔵尚清と共に美作神楽尾城守将。天正六年、大蔵尚清と対立し出奔。しかし、土井四郎次郎に討たれた。
福屋隆兼 (?~?)
毛利家に仕えたが、小笠原長雄の知行地が隆兼の領内に設けられたことを不服とし、毛利家が銀山城攻めに失敗した永禄四年、尼子家に属した。十一月六日、福光城を攻撃。しかし、吉川元春の攻撃を受け撤退。永禄五年二月七日、長男彦太郎とともに尼子義久を頼り落ち延び、後に畿内に逃れた。蜂須賀正勝に仕えたという。
刺賀治部少輔 (?~?)
大内家臣刺賀長信の子。弘治二年、大内家の山吹城が落城すると父は自刃。治部少輔は後に毛利家に仕えた。
勝間田二兵衛 (?~?)
内藤隆春の家臣。隆春とその姉である毛利隆元夫人は、勝間田家の家督を二兵衛が相続するよう伝えた。
横山盛資 (?~?)
杉浦盛重の重臣。備前守。天文十七年、神辺城主山名氏と毛利元就との和議のため奔走。子は盛政。
伊賀与三郎 (?~?)
宇喜多家臣伊賀久隆の子。父の死後、毛利家に仕える。天正七年、金川城攻めに参加。
林重真 (?~1582年)
清水長左衛門の家臣。三郎左衛門。天正十年四月、冠山城に籠もり織田勢と争う。籠城側は備前衆の攻撃をよく防いだが、柴垣に立てかけていた鉄炮から火が燃え移り、城内は混乱。南大手櫓で自刃。四月二十五日のことと伝わる。百三十九名が討死し、重真の首は京に送られ信長が首実検を行った。他に籠城側には鳥越左兵衛、松田左衛門尉がいた。
福屋二郎 (?~1562年)
福屋隆兼の次男。永禄四年七月、元就は吉川元春を介し、隆兼に次男二郎を人質に出すよう命じた。しかし、隆兼は二郎を尼子家への人質とした。永禄五年、松山城に籠もるが、二月六日、毛利軍に討たれた。
中村康之 (?~?)
福屋家臣。永禄四年、隆兼は福光城攻めに失敗し、康之の守る中ノ村城は吉川元春の攻撃を受けた。康之は防ぎきれず敗走した。
平井藤九郎 (?~?)
安国寺恵瓊に属す。関ヶ原合戦敗北後、本願寺端坊から逃れようとする恵瓊を守り奮戦。
長坂長七郎 (?~?)
安国寺恵瓊に属す。関ヶ原合戦敗北後、本願寺端坊から逃れようとする恵瓊を守り奮戦。
僧侶
竺雲恵心 (?~?)
毛利家の菩提寺安芸吉田興禅寺住職。立雪斎。毛利隆元、安国寺恵瓊の師。恵心は毛利家の外交を任されており、弟子の安国寺恵瓊がその役目を引き継いだ。天文十四年、妙玖婦人が没すると、隆元は竺雲恵心に書状を送り、阿弥陀画像を書いて欲しいと依頼。これは妙玖のため日々、阿弥陀像を拝みながら念仏を唱えるためであり、隆元の亡き母に対する想いを物語っている。弘治三年、隆元は元就が隠居を考えていると知り、恵心に【名将の子には必不運之者が生れ申候事、存知当候、不劣連徳之儀、更希有儀候、一度は栄、一度衰世習、是亦存知当候】と書き送っている。隆元は元就の跡を継ぐことに不安を感じ、自分の代で没落するのではないかと常に心配していた。そのため酒で気を紛らわすことがあり、それが死を早めたとも言う。元就は恵心を通じて畿内の情報を積極的に集めていた。正親町天皇の即位費用として二千貫を献上。永禄三年正月二十一日には御服費用の残高五十九貫四百文を献上。これにより毛利父子の受領、官途は昇進。元就は陸奥守、隆元は大膳大夫、元春は駿河守、隆景は中務大輔となった。二月二十一日には隆元が安芸守護職に任ぜられた。八月八日、元就は錦の直垂を許される。十二月八日には元就、隆元は相伴衆に列せられた。こうした中央への積極的な献金、それによる昇進は恵心のもたらす情報が活用されたのではないか。
白鴎玄修 (?~?)
足利学校で学んだ僧侶。小早川隆景に招かれる。慶長元年、隆景は筑前名島城内に名島学校を創設。玄修らに足利学校同様の教育を施すよう求めた。
鰐淵寺栄芸 (?~?)
鰐淵寺住職。永禄四年、毛利元就から本城常光の怨霊鎮魂と尼子氏調伏の祈祷を依頼された。芸栄は三日三晩の五大尊の法、さらに三日三晩の六観音の法、最後に三日三晩の七仏薬師の法を行った。流石の元就も恐ろしくなるほどの呪法だったと云う。
彭叔守山 (?~?)
東福寺住職。永正八年、毛利元就を養育していた御杉の方は在京中の毛利興元に書状を送り、元就を元服させることを伝えた。興元はこれを喜び、自身が少輔太郎であることから元就に少輔次郎の名を与えた。また、毛利家の通字である「元」の字を与え、もう一文字は東福寺住職彭叔守山に選んでもらうよう伝えた。彭叔守山は「就」の字を選び、これにより元就の名が決まった。
勝一 (?~?)
毛利元就に仕えた座頭。毛利元就が重代の刀が三つに折れる夢を見ると、それは刕(国)を得るという瑞兆と喜んだ。
毛利海賊衆
堀立直正 (?~?)
安芸の海賊衆。商売や運輸などで利益を上げていた。天文二十三年、毛利元就から安芸武田家の金山城を接収するよう命じられた。大内義長との合戦に際し、海賊衆を率いて長門海峡一帯を封鎖。大内義長が九州に逃れることを防いだ。長門国赤間関の代官となる。
沓屋勝範 (?~?)
屋代島衆。源太郎。大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に沓屋通種、小野山十郎を乗せて出陣。大永四年七月二十五日、東山攻めの最中、右脛を矢で射られた。大永五年三月三十日、弘中武長に先の合戦での軍忠状を提出。天文二十四年閏十月五日、他の屋代島衆と共に毛利元就に対し計千八百七十七石を要求。これは屋代島衆の旧領であり、元就もこれを了承した。厳島合戦以降も存命していた。
沓屋通種 (?~?)
屋代島衆。源四郎。大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に乗る。後に毛利元就に仕える。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
沓屋興種 (?~?)
屋代島衆。紀伊守。子は隆貞。
沓屋隆貞 (?~?)
屋代島衆。沓屋興種の子。厳島合戦で毛利家に属す。
沓屋右衛門尉 (?~?)
屋代島衆。弘治二年三月頃、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
斎藤高利 (?~?)
大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため弘中武長と同じ船で出陣。合戦中に負傷した。同年十一月一日、五日市にて放火中、中間の一人が左足を矢で射られた。大永四年七月三日、東山にて合戦中、右肩を矢で射られた。
長崎隼人佐 (?~?)
弘治二年三月頃、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
飯田義武 (?~1592年)
毛利海賊衆の将。七郎右衛門、越前守。飯田元親とは別系。厳島合戦で海上兵站役。永禄六年十一月、児玉就方とともに伯耆弓浜に上陸しようとする尼子軍補給船を警戒。十五日、尼子軍を破り、補給物資を奪っている。永禄十一年、筑前立花城攻めで海上兵站役。天正四年、本願寺への使者となる。文禄元年没。
有田弥七郎 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
下見太郎左衛門 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
吉田善衛門 (?~?)
海賊衆。慶長五年九月、九鬼嘉隆攻めに参加。
鹿足元忠 (?~?)
毛利海賊衆。天正九年九月十六日、兵糧攻めに苦しむ鳥取城に兵糧を搬入しようとしたが、羽柴勢に阻まれ搬入することは出来なかった。
桑原雅楽助 (?~?)
屋代島衆。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
桑原惣左衛門尉 (?~?)
屋代島衆。永禄四年十月二十六日、大友家との門司八幡表海戦に参戦。永禄四年十一月六日、毛利元就から海戦での戦功を賞される。
小野山十郎 (?~?)
大永三年八月一日、安芸武田家との合戦のため五枚帆の軍船に乗る。
【付記】
毛利輝元は従弟毛利秀元を養子としていたが、秀吉の命により別家を興すこととなる。しかし、その途中で秀吉が没したため、秀元の所領は決まっていなかった。慶長四年、家康は秀元の所領問題解決を求めている。
関ヶ原合戦前、徳川家康は輝元に対して「兄弟の如く」関係を深めようとした書状を送っている。毛利家は徳川家との合戦に備え兵二万、鉄炮五千挺を用意していたと伝わるが、当主が徳川家と結んだためこの兵力は遊兵(様々な事情により合戦に参加せず、戦力となり得ない兵士)になった。関ヶ原合戦で毛利家が消極的だったのも、こうした裏工作によるものである。
【毛利二十一将】
毛利元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、毛利輝元、宍戸隆家、児玉就忠、福原貞俊、志道広良、口羽通良、桂元澄、渡辺長、赤川元保、粟屋元秀、熊谷信直、飯田元親、国司元相、栗屋元親、井上元兼、天野隆重、吉見正頼
【清水宗治七将】
清水月清、末近左衛門、林重真、難波伝兵衛、白井与三衛門、高市之允、小者七郎兵衛
【毛利家の先祖】
毛利家は平城天皇第一皇子阿保親王の子孫を称した。大江音人の父は本主だが、母は阿保親王の侍女であり、親王の子を宿したまま本主に嫁いだと言う。家紋「一文字三つ星」は第一皇子を意味する一品親王の「一品」の字に由来するとされる。
【毛利元就 日輪受胎説】
毛利元就は十一歳から死没するまで毎日、朝日に向かって念仏を十回唱えていた。元就は毛利家の勢力拡大は朝日を拝んだためと考えていた。弘治三年十一月二十五日付の書状で隆元、元春、隆景に訓戒状を与えたが、その中で子供たちにも朝日を拝むよう伝えている。後に敵対する山中鹿介は三日月に願をかけていたのだから面白い。太陽信仰からか、毛利元就にも豊臣秀吉同様に日輪受胎伝説がある。号「日頼洞春大居士」は日輪受胎伝説に由来する。毛利弘元次男松寿丸、後の元就は十五歳で元服。次男であるため、「元」の一字を当主とは逆に上に使用。兄毛利興元の命により、東福院住職彭叔守仙が占いで「就」の一字を選ぶ。興元は少輔太郎を称しており、元就は少輔次郎を称した。所領多治比を姓として、当初は「多治比少輔次郎元就」を称した。
【毛利元就と厳島神社】
厳島神社は推古天皇元年に創建された神社で、主祭神は市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命である。毛利元就は厳島神社を崇拝したが、次男吉川元春も信仰心を受け継いだ。厳島合戦中、弘中三河守は撤退のため民家に火を放った。元春は火が厳島神社に燃え移ることを恐れ、撤退を中止してまで消火した。
【毛利家の女性の内助の功】
毛利家に関係する女性は様々な形で夫や当主を支えていた。幼少期の毛利元就は高橋久光の養女で、父弘元の継室である椙の大方に養育された。当時の元就は井上氏に所領を横領されており、兄は在京していたため孤立していた。それを不憫に思った椙の大方は、元就を我が子のように可愛がった。元就の元服に際して支度を整えるなど、その様子は実母同然であったと云う。天文十四年六月八日、椙の大方は没した。法名「順徳妙孝大姉」。郡山城麓の清神社には、かつて椙若社という社があった。祭神は椙の大方であり、毛利家にとって彼女の存在がどれほど大きかったかを示している。毛利元就の妻は吉川元経の妹である。元就の異母妹は元経に嫁いでおり、毛利家と吉川家は二重の婚姻を結んでいた。天文十四年十一月三十日、元就夫人は四十七歳で没した。法名「妙玖寺殿成室玖公大姉」。彼女の実名は伝わっていないため、現在では法名から「妙玖」と呼ばれている。元就は妙玖を愛しており、晩年には隆元に最近、妙玖の事ばかり思い出していると書いた手紙を送っている。毛利元就の子供達は「三本の矢」の逸話のように仲が良かったという印象があるが、これは誤りである。実際の毛利兄弟は仲が悪く、元就は兄弟の協力こそ亡き母妙玖への親孝行と伝え、兄弟の関係を修復させようとした。家族思いであるため、子供たちの関係に苦悩する様子が伺える。その一方、隆元に宛てた手紙の中に出来の悪い子供の処分を一任すると記したものがある。このような非情な現実家としての面があったからこそ、元就は中国地方最大の大名に躍進することが出来たのだ。元就の側室中の丸殿は子供がいなかったが、元就の子供たちを我が子同然に愛した。また、才知に優れた中の丸殿は毛利元就から絶大な信頼を得ていた。毛利元就が戦場に向かうと、中の丸殿は郡山城の様子を手紙に書いて送っていた。元就は中の丸殿からの手紙を大変に喜んでいた。永禄四年十二月、在陣中の元就は手紙で老化を嘆く中の丸殿を励ました。その際、仮名文字の練習が出来ずにいたため、字がうまく書けているかを中の丸殿に尋ねている。また、中の丸殿から届く小袖などの贈り物も元就を喜ばせた。弘治三年、中の丸殿は周防に在陣中の毛利隆元に手紙を送り、輝元の髪置きの祝儀が行われていないことを注意した。隆元は慌てて髪置きの祝儀を行い、輝元の傅役に国司元武を任じた。永禄八年二月、毛利輝元の元服に際し、中の丸殿は祝儀の準備を取り仕切り、毛利元就にその様子を伝えた。元就は孫の元服を喜び、輝元が立派な人物になるよう中の丸殿に意見するよう求めた。天正七年十月、穂井田元清は織田家との合戦に向かうため、後事を手紙に記して毛利輝元に送った。その中で幼少の頃、中の丸殿に大変に可愛がってもらった恩義があるため、決して見捨てないで欲しいと伝えた。毛利輝元に元就の落胤二宮就辰の存在を伝えたのも中の丸殿である。毛利元就は長女五龍局を溺愛しており、彼女の身の上を心配した手紙が数多く伝わっている。元就は手紙の中で、五龍局の呼び名を「五もし」と記している。彼女を娶った宍戸隆家は隆元ら兄弟と同格の扱いを受けた。五龍局と元春夫妻は関係が悪化することがあったが、後に和解している。小早川隆景が宍戸家を訪ねた時など、「五もし」はさぞ喜んだろうと素直に父親の心情を書き残している。内藤興盛の娘は大内義隆の養女となり、毛利隆元に嫁いだ。隆元夫妻は郡山城内尾崎丸に居住したため、夫人は尾崎局と呼ばれた。尾崎局は大内氏との外交の要であり、義隆の承諾が必要な場合は尾崎局を通じ、内藤氏から義隆の承諾を得た。宍戸隆家夫人と吉川元春、小早川隆景が不和であるため、尾崎局はその仲介役になった。毛利輝元は驕児であり、母である尾崎局や傅役国司元武の話を聞かなかった。そこで永禄六年七月、輝元を佐々部に在陣している毛利隆元に使わした。その際、輝元は隆元だけは恐れて言うことを聞くので、母や傅役の話を聞くよう注意して欲しいと手紙で伝えた。隆元は手紙通り輝元を叱ったと思われる。同年八月四日に隆元は死没したため、これが父子、夫婦の最後の交流になった。毛利元就は孫の輝元が心配で内藤隆春を尾崎局に附け、連絡をより深めようとした。すると尾崎局は母である自分が輝元の教育は行うと元就に伝えた。仕方なく、元就は輝元の酒好きにだけ注意をした。永禄十一年、毛利軍が九州に向かうと、吉川元春と小早川隆景に幼少の輝元の代わりを務めてもらっていることへの謝意を伝えた。また、老齢の元就が出陣する事を心配し、今後は元就の出陣を止めて欲しいとも伝えた。
【毛利元就と曲直瀬道三】
元就は治療に訪れた道三に政道を問い、富田城兵糧攻めに反対されたことがある。道三は直ちに餓えに苦しむ者を救うよう元就を諫めた。儒学に造詣の深い元就は、これを受けて尼子義久を助命した。元就は曲直瀬道三に深く傾倒していたようだ。それは領内の医師の教育を道三に依頼したことからもわかる。道三の記した九ヶ条意見状は毛利家の家訓に取り入れられるほどだった。
【毛利輝元の飲酒】
毛利輝元が飲酒を始めたと知った元就は汁碗一、二杯ならば良いとした。「父弘元も兄興元も酒害のため短命だったが、自分は下戸のため長命である」と記している。しかし、輝元は当時まだ十一歳である。当時は結婚だけでなく、飲酒も早くから許されていたようだ。
【吉川広家が毛利家を減封させた】
天正十五年、吉川広家の吉川家家督相続が認められたが、これは黒田孝高の後押しがあったためとされる。一方、石田三成と増田長盛は吉川家が毛利家に組み込まれることを望んでいた。慶長四年、吉川広家の領地を毛利秀元が領するよう毛利家に指南している。これは石田三成の蟄居によって中止されたが、広家に遺恨が残ったことは間違いない。石田三成と安国寺恵瓊は徳川家康に対抗するため、毛利輝元を担ぎ出した。
吉川広家は徳川家との合戦に勝利し、毛利家の権力がさらに高まったとしても、自身の身がどうなるかは分からないと考えた。そこで、かつて家督相続に協力してくれた黒田孝高、長政父子を通じて徳川家康に内通。関ヶ原合戦では最前線に配置されたにもかかわらず、その場を動くことはなかった。東軍勝利後、吉川広家は安国寺恵瓊に西軍参戦の全責任を負わせたが、それでも毛利家は減封を免れることは出来なかった。広家が積極的に闘っていれば、関ヶ原合戦は西軍が勝利したと思われる。結局、吉川広家は自ら毛利家の首を絞めたことになるのだ。
【安国寺恵瓊は大名ではなかった】
安国寺恵瓊(瑶甫恵瓊)は伊予六万石を有する大名になったとされてきた。しかし、実際には安芸安国寺が伊予に六万石の寺領を賜ったのであり、恵瓊が大名になったわけではない。恵瓊には益田元祥、熊谷元直ら安国寺与力がいたが、あくまでも毛利家が恵瓊に附けたものである。直属の家臣団が実在したのではない。
【玉木吉保の医術】
毛利家臣玉木吉保は幼少から医術を学び、長じて用薬の術などを和歌にまとめるようになった。これらは現代医学でも有効性が認められたものが多く、非常に効果的な医術であったとわかる。
『歌薬性』:効果的な生薬を八十五種選び、その効能を和歌にまとめたもの。下はその一部。
人参は 五臓を養い 魂魄を 静めて知恵を 益すというなり
山精は 脾胃の湿りを よく除き 飲食進め 懐妊に吉
麦門冬 腎を補い 精をまし 心肺熱す 渇きをぞ治す
周麻は 頭痛寒熱 よく納め 汗を出して 血をぞ静める
菟糸子とは 気力を益して 筋骨を 堅めて肌肉 育むと聞く
乾姜は 中を温め 汗いだし 冷えて腹痛 嘔吐をも治す
利女には 咽の痛みや 毒を消し 肺癰散じ 嘔吐をぞ治す
『歌脈書』:七表、八裏、九道という脈をひとつひとつ和歌にまとめたもの。下はその一部。
《七表》
滑脈は 数珠のすべらか 力あり 少し早くて 数にこそあれ
実脈は 強く押すにも 弱くにも 押すに力の あると言うなり
弦脈は 弓を張りたる 心地して こわく引っぱる 弦のごときぞ
《八裏》
沈脈は やわら押すとき 弱くして 強きは細く 堅く沈むぞ
伏脈は 押さば覚えず 骨に付き 幽に跳ねり 隠れ居にけり
【井上党粛正に対する見解】
井上党は初期の元就政権の中核といえる存在だったが、それ故に権限が極めて強く、元就の命令に従わないことが多かった。元就も井上党の横暴に忍耐の日々を送っていた。特に元兼の弟元盛は元就の後見人でありながら、猿掛城と多治比三百貫を横領している。このように井上党との関係は早い時期から破綻しており、元就は大内義隆の許しを得て井上党粛正を決行。粛正は天文十九年七月十二日、十三日の二日間とした。十三日、元兼は次男就澄と共に屋敷を包囲され、自刃した。この時代、当主が危惧するほどの権力を持った家臣は粛正される運命になった。粛正しなければ下克上の危険があったからだ。当時の時代背景からすれば、井上党粛正を元就の非情とすることは出来ない。
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http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/mouri.html