装束种类
原文地址:http://www.kariginu.jp/kikata/1-1.htm
公家装束(男子)
現代の衣生活にたとえてみますと、次のようになると思います。「参内」を「銀行など堅めの会社」に出勤することとします。(这个有意思的紧)。
このたとえで判ることは、「冠」はネクタイ着用、「烏帽子」はノーネクタイの雰囲気です。一般的にはネクタイで出勤が原則でしょう。そのように、冠無しでの参内はあり得ません。天皇は常時参内状態ですから、天皇の烏帽子姿はあり得ないのです。
本来は男子の通常服であったモーニングは今や完全に礼服。通常は背広です。これが束帯と衣冠の関係。直衣はちょっと見は背広に見えて実は違うブレザー、つまり「雑袍」で、一部の先進的エグゼクティブはこれで出勤することもあるでしょう。つまり勅許があれば参内できた「冠直衣」に匹敵します。
烏帽子直衣は一般的には普段着で、出勤姿ではないブレザーノーネクタイ姿。日常の遊び着でブレザーを着こなすのはかなりのお洒落者。つまり公卿階級です。狩衣はその名の通り元々はハンティングウエア、つまりスポーツウエアです。通常の出勤には使えませんが、社長がこれを着ているカジュアルな雰囲気の会社なら、社員の着用が許される場合も。これは宮中には着ていけない姿でも、上皇の元へは行ける、院参姿とも言えましょう。直垂はトレーナー。むかしの銀行員は日曜日でもこういう衣服は着ませんでしたが、今では気軽に皆さん着ていますね。直垂もいつの間にか公家が日常着に用いるようになったのです(室町時代以降)。今では、かつて下着であった小袖が色物となって「和服」の代表格です。
「前代の平服が次代の礼服」というのは古今東西の衣生活の流れ。時代と共に装束の決めごとは変化していったのです。
考証
装束の考証は1000年間の変容を考えますと難しいものです。
平安時代でも400年間に大きな変容がありましたし、公家文化も応仁の乱で壊滅的な打撃を受け、その後100年間ほどの空白期間の中で、さまざまな知識と技術が失われました。
江戸時代以降、平安時代に復古させる研究と運動があり、一部が古式に帰りました。また江戸時代末期天保の「御再興」でかなり平安形式にに戻ったのですが、どうしても江戸時代の事情に合わせた変容がなされて完全には復活しませんでした。
今日、宮中や神社界、そして演劇やイラストで目にする装束の殆どは江戸時代以降の形式です。
「有職故実」の本では、さまざまな決めごとを記載していますが、時代による変化を詳述しきれずに混在させているケースを多く目にします。ですから私たちが古い装束や時代衣装を見るとき、江戸期を基本とした有職故実だけでなく歴史的研究を背景にしなければいけません。鎌倉以前の装束の決めごとは不明なことも多いのです。
また、私的なことでは公家の家々で違う定めをしています。「重ね色目」の呼び名も家によりさまざまで、統一した約束があるわけではありません。一説のみに固執すべきではないでしょう。
公家装束(男子)
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現代の衣生活にたとえてみますと、次のようになると思います。「参内」を「銀行など堅めの会社」に出勤することとします。(这个有意思的紧)。
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このたとえで判ることは、「冠」はネクタイ着用、「烏帽子」はノーネクタイの雰囲気です。一般的にはネクタイで出勤が原則でしょう。そのように、冠無しでの参内はあり得ません。天皇は常時参内状態ですから、天皇の烏帽子姿はあり得ないのです。
本来は男子の通常服であったモーニングは今や完全に礼服。通常は背広です。これが束帯と衣冠の関係。直衣はちょっと見は背広に見えて実は違うブレザー、つまり「雑袍」で、一部の先進的エグゼクティブはこれで出勤することもあるでしょう。つまり勅許があれば参内できた「冠直衣」に匹敵します。
烏帽子直衣は一般的には普段着で、出勤姿ではないブレザーノーネクタイ姿。日常の遊び着でブレザーを着こなすのはかなりのお洒落者。つまり公卿階級です。狩衣はその名の通り元々はハンティングウエア、つまりスポーツウエアです。通常の出勤には使えませんが、社長がこれを着ているカジュアルな雰囲気の会社なら、社員の着用が許される場合も。これは宮中には着ていけない姿でも、上皇の元へは行ける、院参姿とも言えましょう。直垂はトレーナー。むかしの銀行員は日曜日でもこういう衣服は着ませんでしたが、今では気軽に皆さん着ていますね。直垂もいつの間にか公家が日常着に用いるようになったのです(室町時代以降)。今では、かつて下着であった小袖が色物となって「和服」の代表格です。
「前代の平服が次代の礼服」というのは古今東西の衣生活の流れ。時代と共に装束の決めごとは変化していったのです。
考証
装束の考証は1000年間の変容を考えますと難しいものです。
平安時代でも400年間に大きな変容がありましたし、公家文化も応仁の乱で壊滅的な打撃を受け、その後100年間ほどの空白期間の中で、さまざまな知識と技術が失われました。
江戸時代以降、平安時代に復古させる研究と運動があり、一部が古式に帰りました。また江戸時代末期天保の「御再興」でかなり平安形式にに戻ったのですが、どうしても江戸時代の事情に合わせた変容がなされて完全には復活しませんでした。
今日、宮中や神社界、そして演劇やイラストで目にする装束の殆どは江戸時代以降の形式です。
「有職故実」の本では、さまざまな決めごとを記載していますが、時代による変化を詳述しきれずに混在させているケースを多く目にします。ですから私たちが古い装束や時代衣装を見るとき、江戸期を基本とした有職故実だけでなく歴史的研究を背景にしなければいけません。鎌倉以前の装束の決めごとは不明なことも多いのです。
また、私的なことでは公家の家々で違う定めをしています。「重ね色目」の呼び名も家によりさまざまで、統一した約束があるわけではありません。一説のみに固執すべきではないでしょう。