东京大学校长讲话
“Impact of Science & Technology on Human Conditions & Development”
東京大学副学長 羽田 正
本日ここに東アジア4大学(BESETOHA)フォーラムが開催され、北京大学、ソウル国立大学校、ハノイ国家大学の学長はじめ関係者の皆様方と親しくお目にかかる機会をえたことを大変うれしく思います。会議の開催のためにご尽力下さった北京大学の ZHOU
Qifeng 学長及び関係者の皆さまに厚く御礼を申し上げます。また、今回のフォーラムには、健康上の理由で本学の濱田純一総長が参加できず、申し訳ありません。本人は大変残念がっておりまして、皆様によくお詫びしておいてほしいとの言伝を預かっております。すでにほとんど日常業務に支障がないほどに回復しておりますので、来年以降のフォーラムに
はまた参加することと思います。今回については、失礼をどうぞお許しください。
この伝統あるフォーラムでお話しする機会を頂き、大変光栄に思っております。今回のフォーラムの題目は、英語で頂きました。はじめて参加し、しかも代理で話をせねばならない私には、なかなか難しい題目です。この題目を決めるソウルでの会議に、私は参加していたのですが、まさか自分がそのことについて語る羽目に陥るとは想像せず、「これで行きましょう」と安易に賛成してしまいました。軽率だったと反省しています。しかし、私もかかわって決めた題目ですので、言い訳はできません。以下、このテーマについて私が考えるところをお話しさせていただきます。
私は歴史学者であり、人文学の研究者ですので、言葉の意味にこだわりを持ちます。そこで、この題目そのものにかかわる問題をお話ししたいと思います。先ほどこの題目で話すのは難しいと申し上げました。その理由は二つあります。一つは、英語の題目を日本語に翻訳した上でその内容について語ることの難しさです。人間とその文化に関わる人文学と社会科学の一部では、これまで主に国ごとにその国の言葉を使って研究が行われてきました。いうまでもなく、言語が異なれば、人間とその社会を理解するための表現と知識の体系は微妙に異なります。問いの立て方や議論の進め方も異なります。この後の私の話をお聞き下されば、その難しさの一端がお分かりいただけるはずです。今日はこの問題にはこれ以上触れませんが、文系の研究分野における英語共通語化は、この
フォーラムで一度真剣に議論してみる価値のあるテーマではないでしょうか。
この題目が難しいと感じるもう一つの理由は、”development”という語の意味と置かれた位置にあります。もし、題目が、Impact of the Development of Science and
Technology on Human Conditions、あるいは、今回のフォーラムの第2セッションで使用されている”advancement”という語を用いて、Impact of the Advancement of Science and Technology on Human Conditionsとなっていれば、比較的容易に話の筋を作ることができたのではないかと思います。
science & technologyという語には、日本語では少なくとも二つの意味があります。一つは、生命科学、宇宙物理学、それに工学などいわゆる「理系」の研究に限定してこの語を使う場合で、通常「科学技術」と訳します。一方、scienceには、人文学・社会科学という文系の研究を含むこともしばしばあり、その場合は、science & technology を「学術」と訳します。このどちらを使うかは文脈によって考えるしかないのですが、もし私が上で挙げたような二つの題目であれば、science & technologyを「科学技術」と理解し、翻訳すればよいと思います。
さて、”development”という単語は、一般に、ものごとがある状態から次の状態に展開することを意味します。そして、この語がscience and technologyという表現と結びつくと、advancement、あるいはprogressという語を用いる場合と同様、全体が、科学技術の「発展」という正のニュアンスを持った表現として理解されることになります。
つまり、この場合、developmentは「発展」と日本語に翻訳されるのです。
現代世界において、科学技術が発展していることは、誰もが認めるところです。理学の研究者は、これまで分からなかった自然界の法則の解明に、工学の専門家はこれまで不可能だった技術の開発に、それぞれ従事しています。彼らの研究が一つ先へ進むことは、間違いなく「発展」です。dark matterやdark energyについての探求は、宇宙の成り
立ち、さらには物理法則一般についての私たちの従来の理解を大きく変えつつあります。
従来人間が行ってきた作業を代行するロボットが次々と開発され、実用に供されています。これらはたしかに科学技術の「発展」といえるでしょう。
だとすれば、私が先に挙げた二つの題目は、「科学技術の発展が人間の生活諸条件に及
ぼす影響」と訳されます。これはこれで議論のしやすいテーマだったと思います。
しかし、与えられた題目では、developmentは、science and technologyではなく、human、すなわち「人間」と結び付けられています。この場合も、「科学技術」の場合と同様に、 developmentを「発展」と翻訳してよいのでしょうか。ことはそう簡単ではありません。
実は、”human development”という言葉は、近代ヨーロッパ思想の根幹に位置する概念と深く関わります。”development”を”progress”に置き換えると、そのことがよく理解できるはずです。地球上に生きる人間はすべて同じ道を進歩(progress)しながら歩いており、その最先端に位置し、最も進歩しているのが自分たち「ヨーロッパ」人である、と19世紀の西ヨーロッパの知識人は考えました。彼らは、普遍的な「進歩」という概念を前提に、人間の社会を体系づけて理解しようとしたのです。ところが、ご承知のように、今日では、一般に、異なる人間集団の間に優劣はなく、進歩という概念で人間集団を区別すべきではないという主張が力を持つようになりました、19世紀西ヨーロッパの知識人に端を発し「近代」特有のバイアスがかかった「人間の進歩」とい
う考え方はもはや無条件で受入れることが難しくなっているのです。
”progress”と比べると、”development”はより中立的な言葉です。従って、英語で語っている限り、この二つの単語を混同して理解することはないのかもしれません。しかし、human developmentを「人間の発展」と日本語に翻訳すると、それは「人間の進歩」とほぼ同じ意味だととらえられかねません。先に説明したこの概念に付随するバイアスを考慮するなら、少なくとも日本語で議論するときには、developmentを「発展」ではない別の用語に翻訳する必要があるのです。では、どう訳せばよいのでしょう。
”development”という単語一つをめぐる人文学者の戸惑いをご説明しているうちに、時間がどんどん過ぎてゆきます。結論を申し上げると、私は、今回のフォーラムの題目に含まれるdevelopmentは、「将来」と訳すのが一番しっくり来て、議論を進めやすくなるのではないかと考えています。将来という語は、中立的です。「発展」とは異なった意味と価値を持つ言葉です。人間の将来は、発展するのか衰退するのか、あるいはそもそも将来があるのかどうかなど、正の方向にも負の方向にも自由に議論を進めることができそうです。
題目の後半に「人間の将来」という言葉が置かれるなら、前半のscience and technology は「科学技術」ではなく「学術」と翻訳されるべきだと思います。以下でその理由をご説明します。人間が科学技術と密接なかかわりを持っており、その社会や生活が科学技術によって大きく変化してきたことはここであらためて強調するまでもありません。そして、科学技術が、人間の将来にとって、非常に重要な意味を持っていることも確かです。
例えば、生命科学の領域では、近年、人間の生命にかかわる不思議が次々に解き明かされています。遺伝の仕組みが明らかとなり、専門家がその気になれば、一人の人について、本人の知らない個人情報までも得ることができるようになりました。また、原子力を使えば、現代の生活に欠かせない多量のエネルギーを生み出すことができ、さらには強力な大量殺戮兵器さえ製造できることを私たちはすでによく知っています。
これまで分からなかったことが明らかになり、できなかったことができるようになるのですから、これらは確かに科学技術の「発展」です。しかし、それだけで済ませるわけには行きません。そのような「発展」が、人間とその社会の将来にどのような影響を及ぼすのかということが、慎重かつ十分に検討されるべきです。現代社会は、科学技術の
「発展」の結果として生じた環境汚染や地球温暖化といった問題をすでに抱えています。
また、とりわけ日本人は、科学技術の「発展」が人間の存在そのものを脅かしうるということを、広島・長崎への原爆投下、福島の原子力発電所事故によって、身を持って体験しています。私たちは、科学技術の「発展」に、十分敏感でなければならないのです。この点において、思想や倫理、歴史などの人文学と、法学、政治学、社会学などの社会科学が果たすべき役割はきわめて大きいはずです。いや、これらの研究分野からの貢献がなければ、私たちは科学技術を正当に評価し、その適切な運用と「発展」を図ることはできないと言っても過言ではないでしょう。科学技術の「発展」が著しい現代においては、科学技術を扱う理系研究の諸分野と、人文学・社会科学の密接な協力、別の表現を使えば、科学技術と人文学・社会科学を総合した「学術」の力が、これまで以上に求められているのです。私が、今回のフォーラムでは、狭義の「科学技術」ではなく、広義の「学術」が、人間の生活諸条件と将来に及ぼす影響を論じるのがもっともふさわしいと考える理由はそこにあります。
ようやくフォーラムの題目とその意義がはっきりしたところで時間がなくなってしまいました。ここまでの議論は、主として、日本語の意味や価値の体系の中での話です。はたして、中国語、韓国語、ベトナム語でも、同じような問題が生じるのかどうか、私にはよく分かりません。しかし、このいささか長すぎたかもしれない説明によって、文系研究における英語共通語化が持つ問題の一端をご理解いただけたなら、うれしく思います。
大学は、人間とその社会や、その活動の舞台である地球と宇宙を体系的に理解するための知(根本知)を生み出す場であり、その根本知をベースとして、人間・社会・地球・宇宙などに関連して生じる様々な問題を解決するための方策(応用知)を考える場です。また、これらの発見された知を教育する場でもあります。すでにこれまでのこの4大学フォーラムで議論されていることの繰り返しになりますが、私たち4つの大学は、このような根本知と応用知をともに生み出し、教育している総合大学であるということを今一度自覚し、その特徴を大いに活用する方策を考えねばなりません。学術は、人間の将来にとって決定的に重要な意味を持っているからです。
今日の午後のセッションでは、「発展」した理系の知識を教養教育にどう組み込んでゆくか、また、古典という根本知を教養教育にどう活かしてゆくかといった問題が話し合われると聞いています。これらは、まさに現代の総合大学とそこで営まれている学術活動に要請されている重要な課題を話し合う試みであり、注目に値します。また、学術経営に関する基本的な情報を、比較可能な形で交換し合うための基盤づくりを話し合う部
会も準備されています。有益で実り多い討論と情報交換を期待したいと思います。
最後に、今回の私の講演原稿は、先週ヨーロッパに滞在している間に、用務の合間を縫って作成し、締め切りを過ぎた原稿ファイルをemailで東京大学の事務担当者に送り、彼女がそれを北京大学に提出しました。一瞬にして、原稿がフランスから日本を経て中国へと送られたことになります。原稿提出が遅れ、関係者にご迷惑をおかけしたことをここでお詫びします。この離れ業自体が科学技術の発展によって可能となったのであり、私は確かに科学技術に多くを負うています。しかし、この私の例に典型的にみられるように、通信と交通手段の飛躍的な発展によって、研究者は猛烈に忙しくなっています。
30年前、私がフランスに留学していた頃の研究に取り組む姿勢や研究の方法は、今日では過去のものとなりました。この現象を単純に「発展」と呼んでよいのかどうか、私はまだ確信が持てません。19世紀的なバイアスを離れても、human developmentを「人間の発展」と単純に翻訳したくない私の気分をご理解頂ければ幸いです。