千秋先生
2009年 甲 陽 だ よ り 第 79 号
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(一)
昭和20年代の西宮市香櫨園海岸は今は幻となった白砂青松の浜辺に潮の香が溢れていた。浜辺から低い防潮堤を越すと今も懐かしい木造平屋造の甲陽学院中学校の学舎があった。15年戦争と呼ぶ日中戦争、太平洋戦争は1945年(昭和2 0年)8月15日、日本のポツダム宣言受諾により終結した。連日の空襲、灯火管制から解き放された日本国民は価値観の急激な変貌により虚無感に覆われ、日毎にインフレが進行した。空襲により破壊された瓦礫の街の食糧難は凄まじく街には闇市が乱立していた。間もなくアメリカ軍を主力とする占領軍が進駐してきた。空襲により家と家族を失った子供達は浮浪児となり野宿して靴磨や屑拾などで自活した。小さな子供達は「ギブミーチョコレート、チュウインガム」とアメリカ兵に駆け寄っては甘味を乞うた。やがて対日占領政策の根幹となる「民主主義」が宣伝、実施されたが、この言葉は「民主主義」には手垢のつかない新鮮な言葉として、その未来には眩むばかりの豊かな楽園像が描かれていた。小学校(昭和十六年にナチスドイツの教育制度にならい国民学校と改称された)の上級学年で終戦を迎えた私たちは数年先には軍隊に入り「お国のために戦い死ぬ」道が定められていた軍国少年であった。対日民主化政策が進み、その一環として教育制度改革が指示され、新たに6・3・3教育制度の新制中学が開設されることになった。辰馬家と辰馬育英会理事会は「新生日本」を担う若者を育てるには新しい教育の革袋が必要であると決意して廃校が決まった香櫨園の甲陽工専の校舎に新制中学の開校を決めた。全国に優秀な教員人材をもとめ、新設中学校の北側に職員住宅を用意した。呼びかけに応じ「新生日本」の若者の教育に燃えた丸谷喜市校長(神戸経済大学学長)、芥川潤(関西学院大学教授)先生らは大学学長、大学教授の職を擲って参じた。その他、専門学校教授、新卒の先生は旧制帝大卒が多かった。後に校長に就任された芥川潤先生の夫人は「あの頃、主人は中学生に英会話をどのように教えるか毎夜遅くまで準備していました」と回顧されている。無理もない。小学生時代英語は敵国語として全く排除された時代に育っていた。ある先生は自作の経済のテキストで授業を進め「私が大学で講義しても言葉は違ってもこれ以上の内容は話せません」と語った。小河清麿先生の数学のテキストは英語で書かれていた。数学嫌いには二重地獄であった。歴史の高井悌三郎、国語の吉田謙一、体育の山鼻先生、美術の須田剋太先生は手作りの教科書や強烈な個性を発揮した新鮮な授業を展開された。高度な内容をいかに解り易く教えるか、それが先生方の大きな命題であった。大学受験のノウハウと知識を教えるのではなく生きてゆくための知識や学問を学んだ。まだ教科書が整わないため先生手作りの教科書が多く、少数の師弟による熱気あふれる授業は明治維新前の松下村塾、適塾の個性溢れる教育を思わせるものがあった。
(二)
昭和26年中学校を卒業した35回生は甲子園球場に近い甲陽学院高等学校に進学した。同時に村上千秋先生は高校担任として転任された。この機に35回生の有志が先生を指導者として甲陽学院「あかね俳句会」を結成した。この俳句会は校史、記念誌に記載されていない、規則もない自由な同好会であった。俳句会発足の経緯は村上先生も記憶が定かではないが、新制中学のころ、国漢の村上、真川伊佐雄先生中心に生徒、教職員と家族、父兄が参加するなごやかな俳句会が開かれていた。その後、生徒の句会が断続的に続いたが、これが「あかね俳句会」の底流ではないか。
村上千秋先生は京都大学文学部国文科卒、京大時代には「京大ホトトギス会」に参加され、鈴鹿野風呂(京鹿子主宰)田中王城(ホトトギス同人)の指導を受け、丸山海道、波多野爽波(のち「京鹿子」、「青」の主宰者)という後の俳壇史に残る華麗な句友と作句を競った。先生の実家は京都の安養寺であ
り、令兄が俳句を嗜まれた。この寺を訪れた高濱虚子が
山門のぺんぺん草や安養寺 虚子
と詠んだ、先生、曰く「虚子先生の句は有難いが、山門のぺんぺん草とはねぇ!」と苦笑されていた。
先生のあだ名は「シミキン」。戦前、戦後の浅草の喜劇俳優清水金一に由来するが、「シミキン」の舞台実像をほとんど知らない私たち知らないから写真を見ての類想であろう。後輩は「ムーミンパパ」と呼んたが、これは暖かい雰囲気が漂う先生ぴったりのあだ名と思った。高校を卒業後、お宅を訪ねると「君ねぇ、この間、梅田の地下街を歩いていると卒業生が駆け寄ってきて『清水先生、お久しぶりです。お元気ですか。…』と一気に喋るんだよ」「それでどうされました」「口を挟む間もなく、10分以上喋りまくるから、今更私は村上千秋だと名乗る訳にもいかず、清水千秋で通したよ」「その卒業生の名前は?」「知らないね。顔に覚えはあるけど…」
そのころ先生は美幸夫人、一粒種の春樹さん(今をときめく「ノルウェイの森」の作家)とともに中学校の職員住宅に住んでおられた。春樹さんは悪戯盛りのガキ大将、住宅の女の子達は「春樹ちゃんが来た」と逃げまどった。
句会の先生の指導は「ほめ上手」であり、無責任ながら私も乗せられて俳句の深みに嵌っていった。しかし俳句指導のレベルは高く、感性豊かな高校生達はすぐに句作力をつけて秀れた句を作っていった。「茜俳句会」の名は万葉集の額田王の「茜さす紫野ゆき…」による。俳句と和歌の違いはあるが若い生徒達の万葉ロマンであった。当時は全校の生徒数が少なく、生徒は複数のクラブに参加しているため放課後に句会を開会する余地はなかった。苦肉の策として毎週月曜日の昼休に空き教室に弁当を食べながらの昼飯句会となった。午後の始業の予鈴が句会終了であった。月一回の俳論研究会は先生の指導により近代俳論を学んだ。平素の慌ただしい句会を補うために日曜祭日、春夏冬休みには校外の吟行句会を行った。会員の家、遊園地、キャンプ場と様々であったが神保孝之君の実家のお寺の新年句会は静かな閑寂の庭とご本尊に対して身も引締まる初句会であった。ある時「闇汁句会」が計画された。闇汁会とは真っ暗な部屋の鍋に各自持ち込むネタを入れて煮込み闇の中で食べるのである。この時は珍しく先生より全員集合がかけられた「諸君を信用します。食べられるものを持ってきなさい」と厳命が下った。どうやら先生自身、旧制中学時代の凄まじい闇汁会を経験されていたのだろう。前日、息子のネタ作りを手伝ったある母親は「貴男はね、他人の持ってきたものは食べても貴男のものは絶対に食べてはいけないよ」と諭した。当日、真っ暗な部屋の鍋には工夫を凝らしたネタが持ち込まれ、無限大に繋がる糸コンニャク、七味詰の竹輪、ビタミン剤入の肉団子等の珍味が鎮座していた。村上先生は観念されたのか、黙って箸を運ばれていた。
武庫川の上流、生瀬付近の河原にキャンプ句会を行った。河原を整地してテントを張り、川の澱みに水遊びを楽しみ、やがて河原句会も終わった。夕日が傾く頃、夕食となったが、先生は秘かにリュックに「白鹿」を忍ばせてこられた。「もう三、四年すると君たちと一献することになるな!」とチビリ、チビリと独酌を楽しまれた。間もなく「先生、一杯やるとよく眠れるんですよね」と白々しく誘いをかけ、先生の杯を横取りした。たちまち次々と手が伸びてくる、杯慣れのした手つきがある。酒瓶は間もなく空となり、歌まで飛び出す宴となった。夜中に高まる川音と隣の鼾にも邪魔されず熟睡して爽やかな川辺の朝を迎えた。
一年経つ頃、会誌発行が決まり、手分けして謄写版を切り「あかね」第一号が発行された。表紙は会員外の早く亡くなった北村直矢君が絵を引き受けてくれた。手元に第一号はなく、第二号から引くと巻頭に
年末より年始 村上千秋
山茶花の一輪赤き冬の花圃
枇杷の花すがれて年も果てんとす
喧噪の街を掩ひて雲凍つる
など十句がおかれ、会員作品集、句会報、先生の連載評論「俳句の遊戯性」が掲載された。先生の評論は二回で終わったが、主題は現在にも通用する高度な俳論であった。当時の私は内容を理解することは出来なかったが、近代俳句史研究の地下水脈であろうか。特別寄稿の鈴木博君の「芭蕉について思うこと」、詩、短歌、随筆と充実していた。放課後、図書閲覧室に暗くなるまで謄写版を切った思い出が懐かしい。
会員作品
梅満開実朝忌となりにけり 嘉部隆月(嘉隆)
藤棚は緑あふれて暮のこる
一冊の本読み終へて寒さかな
曼珠沙華腋
に手ばさみ髪なほす 神保孝之(全孝)
美しき年の暮なり歩みけり
何もかも美しうする雪が降る
見下ろせば底の早瀬の落葉かな 宮原蟹子(滋)
せせらぎの音軽くして柿をむく 塩谷陽成(洋一)
せせらぎの近き気配や紅葉狩る 中浜楚芳(恒雄)
腹一杯食べて雲湧く西瓜畑 松本唯一
秋の川羊の群の雲映し 津田船長(栄一)
鳥追ひて露の湖畔を猟夫ゆく 西田北童(元次)
死に近き祖母の病や柿熟るる
菊咲いて女神のごとく花圃の秋
(昭和二十七年二月二十七日第二号)
高校から甲陽学院に入学し、句会の中核として活躍した中浜恒雄君、松本唯一君が卒業後、早世したのが悔やまれる。中浜君は自分が企画した「あかねOB句会」の当日急逝した。
句会が軌道に乗り始め俳句を全校生徒にと校内懸賞俳句大会が開かれた。題材を校内生活に限ったが、三百人足らずの全校生から二百七十句が集まる盛況であった。天賞は流石に「あかね俳句」会員の
コーラスの練習厳し寒に入る 神保孝之 が選ばれた。
第三号発行の頃、句会を詩、短歌、俳句、小説などの総合文芸誌に発展させようとする動きが起ってきた。その後「あかね」は嘉部君の努力により文芸誌「あかね」から「高潮」へと発展した。俳句会は下級生の加入が少なく後継者が続かず、大学受験を控えた会員には句会活動が次第に重荷となってきた。三十五回生の卒業後、甲陽学院茜俳句会は短い歴史を閉じた。
卒業後、十年経た頃、昔の友達が懐かしい年令となり、「茜俳句会」の再開が呼びかけられた。村上先生をお招きして小料理屋、レストラン、時には先生宅に押し掛けた。顔ぶれは原始会員とは異動があり、村上先生を招いての句会となると酒は欠かせず、俳句を肴にするOB親睦会であった。当時、故阿部常彦君が社長を勤めた奈良ホテル句会は豪華版であった。社長臨席の食事会とあって会食者に一人づつボーイが控え、一寸緊張する食事句会となった。句会は不定期に続くが1 9 9 5年阪神淡路大震災により村上先生、西田宅、会場の小料理屋は全壊、その他、被害を受けた会員が多く、交通途絶とあって中止となった。先生は京都に避難されて会は再び開くことはなかった。(震災前に、一時消滅した句会を復活とする会報があるが間隔の長短はあるが震災前の途絶はなく震災により終止符を打った。
私は大学卒業後、俳句活動を再開すると二、三の結社を渡り歩くなかで、有志と超結社の「芦の会」を芦屋の社宅で開いた。同じ芦屋市内の先生をお誘いすると快く参加された。句の文法上の疑義に及ぶとたちまち先生の明快な解釈がなされて国文学の深い造詣を示された。並み居る俳句の熟達者も舌を巻いた。
(三)
私達の卒業アルバムの担任照影の脇に村上先生は「教えることはあまりに貧しく、教えられることのみ多かった五年の歳月よ」と記された。それを読んだ時には感傷的で「エエ格好シー」と気に留めなかった。だが、自分が永年、教職に就き、教えることに四苦八苦するなかでこの言葉が胸に蘇ってきた。昭和40年代末の頃か、先生が中学校の教頭に就任されたと聞くと、お祝い言葉を述べた。「私は管理職は好きではない。教師は教壇に立つときにもっとも喜びと生き甲斐を感じるのだよ」と呟かれた。後で聞くと先生の教頭就任は、大学に起こった紛争が高校にまで波及して甲陽高校にも波乱が及んだとき、これを見事に収拾された小河清麿校長の強い要請であったという。私は2000年に40年間勤続した芦屋大学附属高等学校を定年退職した。この間一教師として教員生活を過ごすことができた。人は「管理職の能力がなかった」「弱腰、弱虫」という人もいる。この歳月の曲折は決して平穏ではなかった。いくつかの岐路に立ったとき、心に浮かんだのはひたむきに教えられる村上先生をはじめ甲陽学院の先生方の姿であった。その姿が当然の教師像として焼き付けられ、不器用なスタイルながら、ひたむきに授業、クラブ活動に打ち込んできた。ようやく「生涯一教師」と心寧く云うことができる。ライフワークの評伝「石橋秀野の世界」(和泉書院)をお贈りすると衰える視力を駆使して読んでいただき「いい本だ、君は良い余生を送るよ」という言葉を頂いた。
先生が京都に去られOB句会も途絶し、訪問客の応接が苦痛と聞くとお訪ねする機会が遠のいた。私は昨年、若い人々と「京大俳句を読む会」を発足させ資料発掘を始めた。「京大俳句会」は昭和7年に京都大学OBにより結成され、その自由主義的な傾向から治安当局の弾圧をうけて昭和15年、主要同人の検挙、雑誌は廃刊となった。「京大俳句」は先生の先輩達の結社であり、この取り組みを是非、報告したいと思う矢先の訃報であった。
偲ぶ会の席上の先生の温顔の遺影を拝すると先生が既に亡き中浜、松本、阿部君達と歓談する座に私も割り込みたいと思ったが、遺影の光影が少しずれると「西シャン、京大俳句研究をするのなら、せめて私の年まではやれよ」という先生の声が聞こえてきた。
「そうですね、やりますか」
タンポポを飾り生涯一教師
西田もとつぐ
(プロフィール)西田元次 35回卒、早稲田大学卒業、
芦屋大学附属高校に四十年勤務後、定年退職。
俳人、近代俳句史研究
評伝「石橋秀野の世界」(和泉書院・図書館協会選定図書)他、
近代俳句史関係論文多数。
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OB諸兄には先刻ご高承のとおり、昭和58年教頭として退職されるまでの34年間、学級や国語の担任としてご指導いただいた村上千秋先生には、平成20年8月8日肝臓癌にてご逝去。享年90歳の天寿を全うされた大往生に、隣国北京でも盛大に花火を打ち上げて表敬!?
振り返ってみれば昭和24年4月、中庭に面した窓から差し込む朝陽を正面に受けて出席簿を小脇に、廊下扉からスイッといった感じで初お目見え。
我々甲陽学院新制中学校2期生B組35名は、前年香櫨園の学び舎へ入学以来、担任教師持ち上がりのA、C両クラスと異なり、3人目のしかも新赴任の担任にヤングの好奇心は並々ならぬものが…開口一番「僕は所謂達筆家ではないので丁寧に、を心掛けている。」と云われてソフトタッチな楷書体で氏名を黒板に書かれた。
下がり気味の目尻と、稍受け口の風貌から早速ついたニックネームが“シミキン”。当時喜劇映画界をリードしていたエノケン、ロッパに伍して上昇気流中の新進コメディアン清水金一に由来している。
以来5年間、我がB組担任及び国語教師としてそのニックネームに相応しく、ジョークを交えた柔和な教室ムードを醸して頂き、同一顔ぶれのクラスメイト一同、昭和29年の卒業式を迎えることが出来た。
平成20年9月7日午後京都河原町のホテル京都オークラにて、教え子や学院関係者150名余りが参集してのお別れ会、美幸夫人と今は世界的作家としてご活躍の一粒種春樹氏が臨席して、各人粛々とカーネーション献花の列。弔辞は美幸夫人たってのご指名により、教え子代表の東京から馳せ参じた上村浩郎君が先生の詠まれた俳句の幾つかを紹介した後、春樹氏のご挨拶では、ご家庭での先生曽つてのご様子などを披露されたのが興味深かった。引き続いての歓談タイムではグラス片手に三々五々2時間余、一向に湿っぽい空気が無かったのは先生当時のお人柄と、にこやかに見下ろされていた遺影の故か、全員ある意味満たされた気分で夕暮れ残暑の洛陽をあとにした。
最後に、数多く遺された中より一句:
ぼだいじゅの いのちしづけく 花散らす 千秋
謹んで「万空千秋居士」様のご冥福を祈ります。合掌
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村上先生は、優しく穏やかな人柄、よく通る声、黒板に書かれる伸びやかな字と、古典から現代に至る豊かな素養を持った、国語の教師そして教育者の理想像ともいうべき方でありました。最初は僧侶になる勉強をされたそうですので、そこで培われた学識や人間性が背景にあったのだと思います。
先生が京都に隠棲されてから、「返事を出すのも大変なので、年賀状は辞退したい」とのお便りがありました。多くの方はこの時点で連絡が途絶えたのではないかと思います。私は「返事はいりません。私が元気に生活している事を知っておいていただければ幸いです。」といってそのまま年賀状を出し続け、連絡を保っていました。電話や簡単な葉書のみですので十分な情報とはいえませんが、晩年の先生の生活について、同窓会などで報告することを前提にお聞きしたことを、紹介したいと思います。
「もう年とってヨタヨタです」という言葉が何度も出て来ますように、肝臓、腎臓、心臓発作など多くの病気
を抱えておられました。
お住まいの近くの京都府立医大病院を中心に、その関連病院等で透析を含む治療を受けておられました。幸い「府立医大にも整形外科や救急の責任者をはじめ甲陽卒業者が沢山いて、いろいろ心配りしながら診てくれている。往診に来てくれる医師もおり、大変助かっている。」と喜んでおられました。
また、「多くの方から、年賀や見舞いその他のお便りをいただいているが、バネ指で字が書けず、返事ができない。」「家に来てもらうと、懐かしさのあまりつい話し込んで、体調を崩してしまう。それでお断りしている。」などと、卒業生とわずかばかりの交流も困難なことを、残念にそして心苦しく思っておられる様子でした。
卒業アルバムにも「小鳥来て 小鳥また去り 年めぐる」と詠んでおられたように、先生の俳句には、生徒たちと重ねあわせて、小鳥がよく出てきます。葉書にも「御所の鳥の声を聞きながらひっそりとくらしています」とも書いておられました。
最後の句は、「老いぬれば 老いの愉しみ 小鳥来る」
でした。
先生のご冥福をお祈り申し上げます。
(合掌)
http://www.douban.com/photos/album/64140271/
1983年 甲 陽 だ よ り 第 38 号
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60年代初 左右 的畢業合照
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甲 陽 だ よ り 第 66 号
2002年5 月26 日村上千秋先生京都學生會,照片中央應該是村上春樹的母親美幸女士
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35 回 29-B会 古都に集う
FIFAワールドサッカーのオープンを週日後に控えた5 月26 日夕刻、ホテルグランヴィア京都“栄華の間”に参集した六十代後半の24 名、その中にL.A.,USAより馳せ参じた半世紀振りの若林忠雄君(往時の阪神タイガース監督兼エース忠志氏Jr.)の顔があった。
昭和23 年新制中学2 期生として入学、29 年卒業のB組延べ50 名を吉田 謙一、真川 伊佐雄 両先生の後をうけて5 年間ご担任頂いた村上 千秋先生と美幸夫人をお迎えしての21C.初の「29 -B会」がスタート。塩谷幹事の挨拶後JR.OBの内田君にホテルより寄贈されたシャンパンを委員長OB野原君の音頭で乾杯、その後3 テーブル入り乱れての歓談と献酬が3 時間余…
先 生 の リ ク エ ス ト で 全 員 の 近 況 報 告 が 始 ま っ た が、「声が小さい、もう一歩前で」とか「よっしゃ解った、もうその辺でストップ!」等 “雀百まで”?のご健在ぶりに一同感動一入の思いで仕切られていた。
翌月曜日には中村君の肝煎で10 名ほどの有志がゴルフ場で酔い抜きプレイ、更に翌晩には東京経由の若林君を囲んでA組、B組各4 名の在京OBが旧交を暖め、彼をクタクタにしてロサンジェルスへお送りした由、山崎君より一報有り。
物故者2 名、体調不良者4 名、消息不明者4 名 以上が甲陽卒後48 年の29 -B会現状なり。 (泉 盛男 記)