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2013-10-08更新

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  弾正台大巡察


    一

 大戦争とか大革命とかが終ると、たいていの国に数年間、「空白の時代」が訪れるようだ。
 むろん、おびただしい流血のあとだから、勝利者の驕《おご》りと懲罰、敗北者の卑屈と怨恨の葛藤《かつとう》は平和時にまさって強烈に渦巻いているのだが、それにもかかわらず、あとでふり返ると、なぜか空白の時期の印象がある。太平洋戦争が終ってからの数年がそのいい例だ。
 そして、明治初年がまたその通りであった。
 太平洋戦争の敗北時ほど全国民的な虚脱感はなかったが、同時に、平和にひたる心からの安堵《あんど》感もなかった。敗者はもとより勝者も、しばらくは何から手をつけたらいいのか、何をすればいいのか、まったく昏迷におちいっていた点では、それ以上であったように思われる。
 いや、その時代に生きていた人々は、空白どころか、死物狂いのキリキリ舞いをしていたつもりであったかも知れない。げんに、新しい役所は筍《たけのこ》のごとく生まれ、新しい布達は雨のごとく下され、新しい思想や風俗は、こじあけられた港から洪水のごとく流れ込んだ。しかし同時に、旧時代よりなお古怪な役所、法令、思想、風俗もまた亡霊のように復活し、プラス・マイナス・ゼロといわないまでも、七彩をかきまぜて灰色の混沌と化した観があった。
 私見によると、この空白ないし混沌の時代は、だいたい例の岩倉使節団が欧米を回覧して帰朝した明治六年あたりまでつづいたようだ。この岩倉、大久保、木戸、伊藤ら最高指導者群の視察から、そっくり欧米の物真似《ものまね》をして同じコースで追いつけ、追いこせという、明治はおろか、以後太平洋戦争に至るまで、あるいはそれ以後にもおよぶ日本の設計図が描き出されるのである。
「福翁自伝」に、
「凡《およ》そ維新前文久二、三年から維新後明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒《ぶつそう》な世の中で、此間《このあいだ》私は東京に居て夜分は決して外出せず」云々
 と、ある。いかにこの空白の時代が治安の面でも空白であったかがわかる。
 しかし、むろん東京に全然警察機関がなかったわけではない。明治元年官軍の江戸進駐と同時に、江戸町奉行所は市政裁判所と改められ、ついで進駐諸藩の藩兵が市中取締りにあたり、二年六月、版籍奉還以後は、お傭《やと》いの府兵なるものがその任につき、四年十一月に至って邏卒《らそつ》という制度が出来上ったのだ。
 公式の官名として邏卒が登場したのは右の通りだが、その前の府兵時代からも、一般には邏卒と呼ばれていた。横浜などではすでにポリスとも呼ばれていた。――何にしても、その名称、制度ともに、警察面からは「国|稚《わか》く浮きし脂《あぶら》の如くして、くらげなす漂えるとき」の物語である。
 明治二年秋。――東京にある五人の邏卒がいた。

    二

 いわゆる築地居留地のある明石町《あかしちよう》一帯は、東は大川河口に面しているが、あと三方は掘割《ほりわり》で囲まれ、いくつかの橋には、みな番所があって、そこには邏卒が詰めている。
 外人保護のために作られた居留地であり、番所なのだが、作ってみると実はあまり外人が利用しなかったので、最初のころこそ複数の番卒がいることになっていたのだが、この当時はたった一人だ。
 その番所の一つで、邏卒|猿木次郎正《さるきじろまさ》は、ある午後、ひとりの酔っぱらいをもてあそんでいた。
 いや、正確にいえば酔いざめの男だ。――この居留地には、遊廓がある。新島原遊廓という。これも外人用として吉原から業者を呼んで開かせたのだが、右に述べた通りそのほうの利用者は稀で、もっぱら日本人を客にしている。――その遊客らしいが、どういうわけか朝からへべれけになって、まるで夢遊病みたいにフラフラと出て来た。それを「保護」してやったのだ。
 それが午前十一時ごろだが、番所の土間にひっくり返って、怖ろしいいびきをかいて眠っていたその男が眼をさましたのが、ほんのさっき――午後四時前のことであった。
 キョロキョロとまわりを見まわし、椅子に腰かけてにらんでいる、髭をはねあげた猿みたいな顔をした邏卒に気がついて、商人風のその男は驚いて起き直った。「ここは居留地の軽子《かるこ》橋の府兵番所じゃ。きさま泥酔その極に達し、そこの橋を渡るにもいまにも欄干から落っこちそうじゃから連れて来てやった」
「あっ……そりゃどうも。……」
「朝っぱらから、何を酔っぱらっておるか」
「へえ、実は女郎と喧嘩して、そいつが夜中に逃げちまいまして、どうにも腹がおさまらないから、若い衆に酒を持って来させて、そのうち夜が明けて来た……そのあたりまではおぼえておりますが、へへえ、そんなに酔っておりましたか」
 男はぺこぺこお辞儀しながら、懐《ふところ》や袂《たもと》をしきりに探《さぐ》っていた。
「こっちを向けい。きさま、どこの何者か。住所と姓名年齢、職業を名乗れ」
 一喝されて、男はまたびっくりしたような顔をあげて、
「浅草」寿《ことぶき》町の……ランプ屋新兵衛、高屋新兵衛、三十八歳。……」
 と、答えたが、まだ両手で身体をなでさすっている。
「何を探しておる?」
「へえ、財布で……いくら飲んだとはいえ、まだ相当に残ってるはずなんで。……」
「そいつは、ここにある」
 猿木次郎正は、机の上の財布をポンと投げた。「あぶないから、保管しておいてやったんじゃ」
「あっ……ありがとうございます。ありがとうございます」
 男は拾いあげ、おしいただき、それからその中を改め出した。
「一両、二両……二分……一朱」
 と勘定して、眼を宙にすえ、おそらく合点出来たのだろう、うなずいて、土間にひれ伏した。
「まちがいございません。おかげさまで助かりました。……では、これで」
 と、立ちかけるのを、
「こら待て」
 と、猿木邏卒は制した。
「きさま、あのまま大道に寝っころがっておったら、財布ぐるみ、通行のだれかに持ってゆかれたところじゃぞ。それを、本官がふせいでやった。ありがたいとは思わんか」
「いえ、それはもう……で、ございますから、ありがとうございますと。……」
「口さきだけの礼ですむ事柄と思うか。あん?」
 ランプ屋はまばたきして、机の上にあごをつき出している邏卒の顔を見ていたが、急に変な笑顔になって、
「これは何とも気づきませんで……むろん、お礼はさしあげます」
 と、財布をまさぐって、中から二分金を一つつまみ出し、さし出した。
「旦那、どうぞ、これで……」
「ランプ屋」
 と、猿木はさらにあごを低くつき出し、机の上を這うような声でいった。
「きさま、ようく考えて見い。本官が保護してやらなんだら、てきめんに橋から落ちたところだぞ。それを助けてもらって、二分金ですむ話と思うか」
 男は狼狽した。
「へっ、そ、それじゃ、いかほどのお礼を。……」
「いのちにくらべりゃ、そんな財布の三つや四つ、まだ安いとは思わんか。あん?」
 ランプ屋は息をひいて相手を眺めていたが、ニコリともしない邏卒の怖ろしい眼に、急に動揺の色を浮かべ、数十秒後、またひたいが土間にぶつかるようなお辞儀をした。
「怖れいりましてございます。まったく旦那のおっしゃる通りで……どうぞ、これ、財布ぐるみ受け取って下さいまし」
 と、やけになったようにさし出した。猿木はひったくった。
 そして、また酔いがぶり返したようにもつれた足どりで番所を出てゆくランプ屋の背に、
「何はともあれ、まちがいがなくて結構じゃった。気をつけてゆけ」
 と、猫なで声を投げた。
 それから、財布から銭を出して、机の上にならべ出した。
 二分金やら一分銀やら一朱銀やら、ゴチャゴチャある。なるほど二両二分一朱ある。
 ――あらゆるものが混沌としていた時代だといったが、中でもこの明治初年のお金ほどメチャクチャであったものはない。去年新政府は早速|太政官札《だじようかんさつ》なる紙幣を出したが、これがほとんど通用せず、依然として旧幕時代の貨幣がまかり通っているが、これがその質、単位とも実にいいかげんなもので、おまけにおびただしい贋金《にせがね》が混っている。後代から見ると、よくこれであのころ社会が社会としての形態を維持してゆけたものだと奇怪にたえないほどである。
 彼はその銭を一枚ずつとりあげて、机の上に落し出した。贋金ではないかとたしかめるためだ。
 メチャクチャとはいいながら、とにかく五両あれば米が一俵買えておつりが来た時代の二両二分一朱である。紙っきれにひとしい太政官札が一枚もないのもありがたい。
 そして、贋金もないようだ。銭の落ちる音に耳をすませながら、邏卒猿木次郎正はウットリした顔をしていたが、ふいに番所の前に立った影に気がついて、あわててちらばった銭を抑えた。

    三

「一丁あがりかね」
 番所にはいって来たのは、居留地詰めではないが、同じ邏卒の芋川《いもかわ》平九郎という男であった。ふるくからの仲間だ。
 大福餅をふみつぶしたような顔を、いっそうニタニタ崩して、
「いま、フラフラ男とそこでゆき逢ったが――いくらせしめたかい」
 と、いいながら、指の短い両掌をこすり合わせた。
「けっ、まるで鴉《からす》みたいなやつだ」
 と、猿木邏卒は舌打ちして、机の上の一朱銀を投げた。芋川邏卒は、ふとっちょに似ず怖ろしく巧みにそれを手に受けて、
「いや、こりゃまったく偶然で……実は一ノ畑《はた》な、あいつこのごろ妙に懐具合がいいようだから、少々いたぶって、今夜あたり吉原か新島原へでもゆこうじゃないかと誘いに来たんだが、そんな必要はないか」
「なんだ、これっぽち」
 と猿木は吐き出すようにいって、机の上の銭を手で覆いながら財布に流しこみ、ポケットにいれた。
「うん、よし、それじゃ、一ノ畑のところへいって見るか」
「交替のやつが来てないようだが、出かけていいのかい」
「かまわん。だいたい時間になってもまともに来るやつなんかおらん」
 猿木は朱鞘《しゆざや》の刀をとり、芋川をうながして番所を出た。
 芋川平九郎は、掘割を通して碧《あお》い河口に浮かぶ幾隻かの蒸気船を眺め、また改めて居留地のほうをふり返って、煉瓦作りの建物の向うに、屋根の上にエキゾチックな塔を重ねた築地ホテル館を仰ぎ、
「日本はみんなこうなるのかなあ」
 と、つぶやいた。
「けっ」
 猿木はまた猿みたいな声を出してあざ笑った。
「日本がどうなろうと、こちとらの知ったことかい」
「そりゃ、まあそうだ。あはは」
 二人は歩き出した。猿木次郎正は小柄な痩《や》せ男で、芋川平九郎はずんぐりむっくりだ。二人はそれでも邏卒の制服を着ていた。
 制服とはいうものの、上衣はいまの背広とフロックの合《あい》の子みたいなもので、ボタンはなくて着物みたいに前で合わせたものだ。ズボンは水気《すいき》の来た象の足のような、いわゆるダンブクロ、いずれも黒色で、これに晒木綿《さらしもめん》の兵児《へこ》帯をしめ、朱鞘の刀をさして、頭には韮山笠《にらやまがさ》をかぶっているといういでたちであった。何もかも、薄汚ない。
 邏卒にしろまだわらじばきが普通であったが、猿木は珍しく靴をはいていた。それが途方もなく大きな――九|文《もん》三|分《ぶ》の足に十三文はありそうな靴で、居留地の中の唐物屋《とうぶつや》からもらったものだ。彼はそれを紐で足首にくくりつけ、得意そうに音をたてて歩いていた。少なくともこれでわらじ代は助かる。
 ところで猿木は、ごらんのごとく、人民をおどして金を巻きあげるのを愉しみにしている邏卒だが、芋川平九郎のほうは、猿木やそれと大同小異のふらちな邏卒にたかるのを習性としている邏卒だ。仲間にあぶく銭がはいると、ふしぎに忽然と現われる。さっき猿木が、「鴉みたいなやつだ」と、こぼしたゆえんだ。それが決して脅喝する調子でなく、大福餅みたいな顔を崩して、手をこすりながらヌケヌケしたおべっかをいうから、だれもが怒るに怒れない。それにこの男にはもひとつ妙な嗅覚があって、金になりそうな市井の小犯罪をよく嗅ぎあてる。しかし自分では手を出さず、同僚を連れていって、金にして、それからいくばくかの口銭をもらう、という行状を繰返しているのであった。だから、いよいよ彼を敬遠出来ない。
 日本橋の方角へ向って歩いてゆく二人の前を、妙な車が三、四台横切っていった。
 妙な――というのは、実は人力俥なのだが、それが発生したのがこの夏ごろからのことで、まだ人の眼に珍しく、かつ大八車に輿《こし》をのせたような奇態なものであったからだ。いまそれに、書生風の若い連中が打ち乗って、愉快、愉快、わはは、わはは、と大声で笑いながら、西本願寺のほうへ駈けていった。
「なんだ、あの連中は」
 と、芋川が訊《き》く。
「西本願寺の隣りにある大隈重信ってえ政府のおえら方の居候どもさ」
 と、猿木は顔をしかめていった。
「瓦解前は戸川ってえ三千石の旗本のお屋敷に、いまじゃ薩長土肥の若僧《わかぞう》どもがごろごろして、天下を動かす梁山泊《りようざんぱく》とかぬかして、盃片手に勝手な熱を吹き、五千坪もあるってえのに、まわりがやかましくて眠られないほどじゃという」
 掘割に沿ってゆく道々に、元大名、元旗本の空屋敷が多い。住人が国元へ引揚げたり、どこへとも知れず逐電《ちくてん》したりしたあと、めぼしいところは手当り次第没収して、新政府の官舎にしたり、役人に払い下げたりしたが、なにしろ旧幕のころ江戸の六〇%は武家地だったのだから、至るところ手つかずに放りっぱなしという屋敷が残っているのだ。
「――こらっ、だれかおらんか!」
 八丁堀のある屋敷の玄関前で、一人の大男の邏卒がわめいているのを見て、二人は立ちどまった。もとは大旗本の屋敷だったらしいが、門も崩れ、中が草|蓬々《ぼうぼう》といったありさまが往来からよく見えるのだ。
「太政官《だじようかん》から草検分に参ったぞ。ここは不合格じゃ! よし、何の挨拶もなければ、即刻御用地として召しあげるが、いいかっ」
 向うむきだが仁王立ちになって、片腕に立札をふりまわしていた。
「やっとる、やっとる」
 と、芋川平九郎がいった。
「鬼丸多聞太《おにまるたもんた》だな」
 と、猿木がつぶやいた。
 屋根瓦の落ちた玄関から、一人の老人がヨタヨタと駈け出して来て、その大兵《たいひよう》の邏卒の前で米つきばったのようにお辞儀をはじめた。邏卒は立札をたたいて叱咤している。
 聞かなくてもわかっている。
 この夏、新政府は、庭つきの屋敷の所有者に、即刻桑か茶を植えよ、という布達を出した。――このころ日本からの輸出品といえばまず生糸か茶で、新政府とてただ頭を空白にしていたわけではなく、とにかく何かやらなければならない、と自分では猛奮闘しているつもりでやっていた一例証である。――そして、ただいたずらに草をはやしている空地空庭があれば、ただちに御用地として没収することもある、という脅しもつけ加えた。
 立札には、御用地の文字が書いてあるのだ。――ただし、それは鬼丸邏卒が勝手に書いたものであることも、その屋敷にはだれか留守番がいることを承知の上であることも猿木たちにはわかっている。
 やがて老人から、お目こぼしを願う何がしかの金子を受けとり、鬼丸邏卒は立札を持ったまま門を出て来て、二人に気がついて、むっと難しい顔をした。見るのもこわいような鬚面である。
 二人は手を出した。
 鬼丸邏卒はいよいよ難しい顔で、包み紙をひらいて、一両ずつ渡した。
「これで何軒目じゃね」
 と、芋川が訊《き》く。鬼丸は答えず、
「二人そろって、どこへゆくんじゃ」
 と、逆に問い返した。
「伝馬町の一ノ畑曾八のところへゆく途中なんじゃが」
 と、猿木が答え、曾八がこのごろ何かいい金蔓《かねづる》を見つけたらしいことをいうと、
「久しぶりに曾八の顔を見てやるか」
 と鬼丸はうなずき、手製の立札をびしっと足で踏み折って、塀の下の溝へ投げこみ、いっしょに歩き出した。邏卒は三人組となった。
 江戸橋を渡ろうとして、ふと芋川がふり返り、
「はてな」
 と、首をひねった。
 鬼丸が訊く。
「なんじゃね?」
「あそこを歩いて来る深編笠の侍があるじゃろ? あ、立ちどまりやがった」
 なるほど数間《すうけん》うしろで、深編笠をうつむけて、煙管《きせる》にマッチで火をつけようとしている黒紋付、羽織|袴《はかま》の男がある。
「あいつ、まさか、おれたちをつけておるのじゃあるまいな」
「なぜじゃ?」
「あいつ、この夏の終りごろから、よくわしのうしろを歩いてるんだ。その前は知らんが、気がついてからでも、もう四、五回見たような気がする――といって、わしはおぬしらみたいに悪いことはせんから、つけられるおぼえも恨みを買うおぼえもないが」
「何をぬかす」
「おぬしらは知らんか」
「知らん。――ふうむ、いやしくも政府の邏卒をつけるとはけしからんやつだ。よし、おれがとっつかまえて、調べてやろう」
 と、鬼丸が踵《きびす》を返そうとするのを、
「待て待て、あいつ強そうで、藪蛇になりそうな気がするぞ。それに、わしのかんちがいかも知れん」
 と、あわてて芋川平九郎はとめた。――実は、逆に彼の嗅覚が何やら危険を予告したのだ。
「あ、いっちまった」
 風の中でマッチを三、四本無駄にした深編笠は、やっと青い煙をたなびかせながら、横町へぶらぶらと消えていった。べつにこちらを意識したようでもない。悠々閑々たる足どりであった。
 三人は江戸橋を渡った。
 このあたり町屋なので、人々の雑踏は御一新前と変らない。実際、生きるために働く民衆に空白の日はない。
 ただ、以前とはちがう風景はあった。それは、大通りの路傍に毛氈《もうせん》や莚《むしろ》を敷き、家財道具や刀剣や人形や衣服などをならべている人々であった。たいてい編笠をかぶったり、お高祖頭巾《こそずきん》をつけたりして、道ゆく人々に声もかけず、じっとうつむいたり、あるいは両手をついたりしていて動かない。秋の日のそそぐ白昼なのに、まるで影のむれのように見える。――瓦解《がかい》で禄《ろく》を失い、しかも新しい世に生きる方便を知らない人々の姿であった。
「やあ……やっとる、やっとる」
 と、また芋川平九郎が奇声を発した。
「横枕《よこまくら》平助か」
 と、猿木が、辻の小屋に眼をやっていった。
間口《まぐち》二|間《けん》、半分ひらいた腰高障子《こしだかしようじ》に、「大伝馬町邏卒屯所」と書いてある。以前は「自身番」とあったはずだ。――その奥に、ちょうどぐいとそり返った一人の邏卒の顔が見えた。
 いかにも彼らと知り合いの横枕平助の長い顔であったが、その前に、向うむきになって、一人の男が頭を下げ、そばで、十六、七の娘が両手を顔にあてて泣いているようだ。
 三人が近づいてゆくのに気がつくと、横枕邏卒は、
「よし、それではかんべんしてやる。早くゆけえ!」
 と、大声を張りあげた。
 こちらを向いた男の手に半びらきの扇子があったので、いまその男が扇子に金をのせて横枕にさし出したことを三人は看破した。半白の侍髷《さむらいまげ》の、品のいい、しかし病身そうな男で、少女はその娘らしく、よろめくように屯所を出て来た。
 それといれちがいにはいって、
「どうしたんじゃ」
 と、猿木邏卒が訊くと、横枕平助はいま大声をはりあげたのが嘘みたいに、長い顔をかったるげになでて、
「なに、そこの大道に店を出しておる父娘《おやこ》だが、たまたま通りすがりにあの娘が、新政府の悪口をいってたのを聞いたのでしょっぴいて来たところ、父親があやまりに来たので、大目に見てやったところさ」
 と、説明した。芋川平九郎がいう。
「いくらでな」
「二|分《ぶ》」
 と、横枕はポケットからそれを出して見せた。
「それしか持っておらんそうで、大声を出して腹のへった分にも足りんな」
「しかし、おぬし、これを一日に何度かやるんじゃろ?」
「きょうはこれがはじめてだよ。――そんな余得でもなけりゃ、だれが邏卒なんかやるものかい」
 と、横枕は臆面もなくニヤニヤした。
「もっとも、わしなど、邏卒さまさまじゃが」
 彼はもともとが途方もない怠け者であった。
 二分では分前《わけまえ》を要求する気も起らなかったと見えて、三人は苦笑しながら屯所を出かかる。それを横枕は呼びとめて、一ノ畑曾八のことを聞き、これも同行することになった。あと屯所はからっぽになったわけだが、全然気にする風もない。邏卒は四人組となった。
 彼らは、傍若無人な大声で冗談をいいながら、小伝馬町へ歩いていった。

    四

 ここに、町のまんなかに、高さ二メートル半、忍び返しをつけた、長い、黒ずんだ練塀《ねりべい》をめぐらした一|劃《かく》がある。その門の横に「東京囚獄」というまだ新しい看板が打ちつけられている。――すなわち、いわゆる小伝馬町の牢屋敷だ。
「やあ、一ノ畑邏卒はおるかね」
 と、芋川平九郎が二人の門番に声をかけた。
 世は一変したものの、牢屋敷の設備と仕組みだけはしばらく新政府も手をつけかねたと見えて、牢役人たちも当分はその職にとどまることを許されたのだが、やはり腰がすわらず逃げ出す者が少なくなく、それを邏卒でおぎなっている現状であった。
 その門番とも顔見知りだ。
「おる」
「はいれ」
 と、二人にいわれて、一同はぞろぞろとはいった。
 とはいうものの、さすがの彼らも決して愉しい訪問先ではない。この中に一歩はいっただけでも、皮膚がしゅんと寒くなって来るような気がする。ここに勤務している一ノ畑曾八が、いちど内部を案内してやろうか、といってくれたこともあったが、彼らのだれもが「いや、結構だ」といって内役人長屋と称する場所――いまはそこが外来者と牢役人との面会所になっている――で、彼と話しただけで退散するのを常としていた。
 で、そこへ近づいた。――
 すると、その建物の中から大声が聞えた。
「返しなさい、お金を返しなさい!」
 けげんな顔で、四人はそこにはいった。
 隅っこに、一ノ畑曾八が首うなだれて悄然と立ち、前で一人の男が腕をさしのばし、曾八の鼻を突かんばかりにして叱咤していた。
「いかに牢屋の木《こ》ッ端《ぱ》役人とはいえ。――」
 彼は、はいって来た四人の邏卒をふりむいたが、全然怖れた風もない。
「ともかくお上の役人が、人民から金をだましとるということがありますか!」
 四人は、いっせいに間《ま》の悪い表情を見かわした。――それにしても、この男は何者だろう。外から来た人間に違いないが、大柄で体格のいい、三十半ばの男だが、町人|髷《まげ》にゆって、縞《しま》の着物を尻っからげにして、足には紫色の股引《ももひき》をはいている。大きな口と顎を持ち、実にひきしまった容貌だが、とうてい侍とは見えない。だいいち刀もさしていない。それなのに、一ノ畑曾八は、元来が気の小さい男だが、とにかく邏卒というのに、隅っこでワナワナとふるえてさえいる。
 鬼丸多聞太が声をかけた。
「こんなところで、そんな大声を出しおって――うぬはいったい何者じゃい?」
「私? 私は福沢諭吉ってえ町人ですがね」
 四人はいよいよ鼻白んだ。――町人ではない。彼らも、それが芝新銭座に慶応義塾という大きな塾をひらいている有名な洋学者の名だということは知っていた。
「そ、それが、金を返せ、とは?」
「ええ、私ゃここにいるある囚人にちょいと用があってね、この夏のころから何度もここに来て、本とか衣類とかお金とかを差入れした。――いや、そのつもりだったんだ。その囚人はここにいるものとばかり思いこんでたんだ。最初にここへ来て聞き合わせたとき、そういう囚人がいるといったのはこの人だし、以来、それらの金品の仲介をしてくれたのもこの人だったんだからね」
 と、福沢諭吉はまだ怒りに顔を染めていった。
「それが嘘だったんだ。その囚人はこの伝馬町の牢獄にはいないってことが、きのうわかった。この人は、私をだましていたんです。よくもまあ、そんな真っ赤な嘘がつけたもんだ。それで詰問にやって来ました。いままで渡した金品を返してくれといいにやって来ました。私の腹立ちと要求が不都合ですか?」
 もう大声ではなかったが、内容もさることながら、名状しがたい迫力のある声であった。一ノ畑曾八がすくみあがってしまったのも無理はないと思われた。
「ふ、不都合だ!」
 と、猿木がかん高い声をはりあげた。
「何が不都合です」
「だいたい、牢屋の囚人に金品を差し入れようというのが不都合じゃ。そりゃ没収になって当然じゃ!」
「差入れが不都合なら、なぜはじめにそう断わらん。ははあ、してみると、そういう不正行為をしているのはこの人ひとりじゃない。みなさん、おぼえのあることですな」
「無礼者、斬り捨ててくれる!」
 と、鬼丸が朱鞘の柄《つか》をどんとたたいた。
「斬る? 面白い」
 ――邏卒たちは知らなかったが、去年五月、上野のいくさの砲声が遠雷のごとくひびいて来るというのに、塾でウエーランド氏経済書を講義していたというこの人物は、毛ほどもひるんだようすがなく、吐き出すように、
「威張りくさっていた幕府の役人というものが消滅してしまってせいせいしていたが、役人というものは世の中がどう変っても同じだと見える。もっともこのごろの邏卒なんてえものが、役人の中にはいるかどうか知らんが」
 と、いった。
「邏卒といえば――ことわっておきますがね。名は邏卒だが、日本のいまの邏卒はやくざ者の巡回だ、こいつはいけないと、先日岩倉卿に、ほんとうの西洋の邏卒制度というものを教えにいってあげたが、間に合わず、ここでこの福沢が、邏卒のバカメートルで斬られたら、さぞ改革が早まるでしょう」
「なんじゃと? 岩倉卿?」
「バカメートル?」
 邏卒たちはぎょっとなり、狐につままれたような顔をした。
「ああ、私ゃ刀の長さなんて馬鹿の度合《どあい》を示すものだと考えてるから、バカメートルと呼んでいるのさ」
 哄笑した福沢は、ふと入口に顔をむけ、この人物が「ひゃ」というような頓狂な声をもらした。
 あいたままになっていた戸の外に、斜陽を背にだれか立っていた。それが、実に異様な影だ。邏卒たちも――一ノ畑曾八を除いて――眼をまろくした。
 福沢をふくめて彼らのだれ一人として、その影が着ている装束《しようぞく》の名称をいうことの出来る者はなかったが、それは水色の水干《すいかん》に足くびを紐でくくった指貫《さしぬき》の袴、それに毛の生えたままの皮の沓《くつ》をはいた男であった。
「何か」
 と、向うから不審そうに声をかけて来た。
「あなた、どなたですか」
 やっと、福沢が訊いた。
「太政官弾正台《だじようかんだんじようだい》の大巡察、香月経四郎《かづきけいしろう》」
 という返事であった。
 はいって来たのを改めて眺めると、漆黒の髪を総髪にし、ひたいには黛《まゆずみ》さえつけている。腰に佩《は》いているのは、刀というより太刀《たち》といった感じの剣で、手にはたたんだ檜扇《ひおうぎ》さえ持っていた。
 これが、まだ若い、二十代半ばの、ほんとうに平安朝の大宮人《おおみやびと》が出て来たように、何とも優雅な美男だ。
「弾正台の――?」
 唖然たる顔をしていた福沢諭吉は、
「なるほど」
 何を思ったか、そんなつぶやきをもらしてうなずき、
「弾正台、聞いたことがある。新政府も日本の蔵の中からエライ古いものを持ち出したものだと呆れたが……精神は同感だ。要するに役人の悪事をとっちめる役所でしょう。それなら、あなた、まあ聞いて下さい。私ゃ慶応義塾の塾長福沢諭吉ってえ者ですがね」
 と、改めて名乗り、またしゃべり出した。
「ことしの五月、箱館の戦争で降参して東京に送られて来た榎本釜次郎ってえ幕府の軍人があったでしょう。いや何、私ゃ九州中津の育ちで榎本とは何の関係もないが、この夏ごろふとしたことで、その家族が榎本がその後どうなったのかさっぱりわからず、大変心配してるってえ話を聞きました。いまいった通り私ゃ榎本と一面識もないが、とにかく徳川の武士として最後まで戦ったところはエライ。負けたのは力が足りなかっただけのことで、降参したって男子は男子だ、と思ってたもんだから、それじゃ一肌ぬいでやろう、とお節介《せつかい》にも乗り出したというわけです」
「………」
「で、まあ、とにかく罪人にゃちがいないのだから、この伝馬町の牢屋敷に来て尋ねたらわかるだろう、と、ここへ来てみたら、たまたま相手になってくれたのが、そこにいる青瓢箪《あおびようたん》みたいな邏卒君でね。それがあなた、ヌケヌケと、榎本はここにいて自分が世話をしてるなんていうもんだから、私ゃそれ以来、本やら金やらをせっせと差入れしてやった。ところが、なんと榎本は、その実いちどもここにいたことはなく、龍《たつ》の口の兵部省糺問所《ひようぶしようきゆうもんじよ》の牢屋にいたってえことが、きのうわかったんです」
「………」
「だから、私は真っ赤になって抗議に来ました。差入れした金品が惜しいとは毛ほども思いませんが、こんな人を馬鹿にした悪事は、いかに邏卒でも許すことは出来ません。いえ、邏卒だからいよいよ見逃すことは出来ません。弾正台のお方、私のこの言い分が不当ですか」
「正当です」
 と、大巡察の青年は答えた。爽やかで、甘美でさえある声のひびきであった。
 そして、一ノ畑曾八のほうへきれながの眼を向けた。
「お返ししろ」
「いや、あんなものは。……」
 と、曾八はうろたえた。
「みんな使ってしまったか」
 香月経四郎はいった。苦笑が片頬にきざまれている。
「何にしても、あとでとり調べ、邏卒が不当に入手した金品は政府の責任で弁償いたします。……これ、邏卒、今後もこんな罪を犯すと、必ず処罰するぞ」
 曾八ばかりでなく、あと四人の顔もじろっと見て、
「よいか、弾正台の名において、ほんとうに処罰するぞ」
 と、もういちど繰返した。
「ゆくがいい」
 あごをしゃくられて、五人の邏卒はほうほうの態《てい》で――その実、やれ助かった、という顔で面会所を出た。
「福沢先生、お許し下さい」
 少なからず不満な顔をしている福沢に、香月経四郎は頭を下げた。
「なにぶん、政府の草創期で、いかがわしい連中がウヨウヨしておるのに手が回りかね、やっとこのごろ弾正台でも市中巡察などやり出した状態で。……」
「弾正台のお役人は、みんなあなたのような恰好をしているものですかな」
 と、福沢はまず彼の心を領していた疑問を投げかけた。香月はニンガリと笑った。
「いや、私だけです。ちょっと考えるところがありまして」
「弾正台という役所が出来たことは聞いたが、私なんか、はじめ何をするところか意味もわからなかった。その後、役人の汚職などを調べ、糺弾する平安朝のころの役所が復活したものだと知りましたが、噂によると、エライ古風な方々が集まっておられるようで。……」
 と、福沢はいった。さっき、弾正台、と聞き、相手の水干姿を見て、なるほど、と、つぶやいたのは、この感想があったせいにちがいない。
「それはそうと、私の見るところじゃ、いかがわしいのは邏卒|風情《ふぜい》ばかりじゃない。もっと上のほうで、世変りのドサクサまぎれにうまい汁を吸おうとしておるけしからん連中がだいぶあるようだが、失礼ながら弾正台では、そういうことをどこまで御承知になり、どういう処置をなさるおつもりですか」
 遠慮|会釈《えしやく》もなく、ずけずけとこんなことを尋ねる福沢の眼をまっすぐに見て、香月経四郎は答えた。
「左様、たとえば――御承知のように目下東京では、各藩邸が無人にひとしい状態になっております。これを、いかにもドサクサまぎれに手にいれようとしている、強欲で虫のいい連中が少なくない。そんな実情も内偵しております。そうそう、このあいだ先生は岩倉卿に、西洋の邏卒制度について御教授に参られましたな。そのとき、その進講の報酬として、三田にある島原藩藩邸、一万四千余坪の土地と七百六十九坪の建物を、坪一両という安値で払い下げてもらうわけにはゆくまいか、と談判された、というようなことも承知しております」
 福沢諭吉は、ぎょっとして息をひいてしまった。香月経四郎は、にっときれいな歯を見せていった。
「先生、弾正台としては、かようなこと、いかに処置すればよろしゅうござろうか?」

    五

 その夜、日本橋|馬喰《ばくろ》町裏通りの居酒《いざか》屋で、四人の邏卒は飲んでいた。
 勤務の都合で、牢屋敷の一ノ畑曾八が少し遅れてやって来たときには、四人はもう相当に出来上っていた。
 あれから何か取調べを受けたのか、という問いに、いや別に、という返事を聞いたあと、
「おいこら曾八、あの弾正台のお化けは何じゃ」
 早速、猿木次郎正が訊《き》く。
「わしもよく知らん。十日ばかり前から牢屋敷に来るようになったんじゃ」
 と、曾八も首をひねりながらいった。
「何か特別の囚人を調べるためか」
「いや、ちがう。何か妙なことをやっとる」
「妙なこと?」
「うん、牢屋敷の奥には斬罪場があるが、そこに新しく小屋と、空地に大きな台を作らせた。それから、二、三日前、左様、人間の背丈《せたけ》の倍くらいある木箱がかつぎこまれたが、それが、なんと横浜から――うんにゃ、何でもフランスから来たもので、どうもあの大巡察があつらえた品らしい」
「えっ、フランスから? 何かね、それは?」
「わしも中身は知らんよ」
 曾八は、力なく首をふった。
「それより、あの差入れの件が見つかって、やはり困ったなあ。……」
「別に何の取調べもない、と、いまいったじゃないか」
「いや、しかしあれがもう出来んとなると、ほかの口もあるし。……」
 曾八は盃の上で頭をかかえた。
「それに、あの弾正台、職に似合わんやさ男だが、何だか変におっかないところがあるよ」
「これ邏卒、今後もこんな罪を犯すと必ず処罰するぞ、とぬかしおったな」
 と、鬼丸多聞太が、髯《ひげ》の中から厚い下唇をつき出した。
「若僧《わかぞう》が、えらそうな口をききくさる。――おいこら、亭主、酒じゃっ」
「弾正台が、わしたちにも本気で眼をつけるじゃろうか?」
 と、芋川平九郎が不安がぶり返したようにいった。
「そんなことをしておったら、弾正台が何千人おっても追いつかんわい」
 横枕平助がうす笑いした。
 彼らはまったくどうしようもない連中であった。職権をかさにきて、こけおどしで人民から小銭を巻きあげ、たかり、ペテンにかけるのを日々の任としている。しかし当人たちは、邏卒なんてものは、みんな似たり寄ったりだと思っている。
 それどころか。――
「あの若僧も、どうせ薩長土肥の出《で》じゃろ? 人を食ったいでたちをしおって、何が弾正台の大巡察だ。何にしてもまっとうなやつじゃない」
「そもそも、政府の大官ども、ほんの二、三年前まではみなお尋ね者だ。中には、火つけ、強盗、人殺しもまじっておる」
「それが今では天下だの国家だのほざき――」
「その実、連日連夜、柳橋などを買い切って豪遊しとる!」
「攘夷攘夷と法華《ほつけ》のお題目みたいに鉦《かね》太鼓をたたいて幕府を倒した連中が、幕府が倒れると口をぬぐって、攘夷など唱えたやつはどこのどいつじゃといわんばかりに涼しい顔をしとる!」
 と、口々にわめき出した。ただ酒の上の気炎ばかりでなく、本気で悲憤|慷慨《こうがい》している声であった。
「涼しい顔どころか、傍若無人に利欲肉欲のむさぼり放題じゃ。曾八っ、こんどあの弾正台のお化けに逢ったら、つかまえるなら大官どもをつかまえろといってやれ!」「何が大臣、何が参議。――おれたちと年はあまり変らん――うんにゃ、おれたちよりもっと若僧どもが!
「おれたちゃ、お歯黒《はぐろ》どぶの安女郎を買う金を作るにも、あんないうにいわれぬ苦労をして」
「ええっくそっ、どこで糸が狂っちまったんか。――亭主っ、酒がないぞ! こら、そこにある章魚《たこ》をみんな出せ!」
 亭主は、半泣きの顔をしている。ほかに客はない。邏卒たちがぞろっとはいって来たのを見て、みんなコソコソと逃げ出していったのだ。
 彼らはみな元・新徴組の隊士仲間であった。文久から元治にかけて幕府が浪人たちをかき集めて江戸市中取締りをやらせた新徴組の末期、取締りどころか、ゆすり、たかりで市民から鼻つまみになっていたころに隊士となった連中だが、しかし今になって考えると、あのころはそういう行為をやるにももっと堂々としていて、しかも未来に野心を持っていたと思う。
 それがいまやそれぞれ貧民窟に近い長屋に住んで、一見豪傑風の鬼丸多聞太は、まだ女房がいないのに六十三のおふくろと八十八の祖母《ばあ》さんがいるし、金の勘定をしていると恍惚状態になる猿木次郎正は、ぶきみなほどの大|喰《ぐら》いの、お相撲《すもう》さんみたいな女房があるし、とにかく何もしないのが一番ラクだという信条の持主横枕平助には、ふしぎに七人もの子供があるし、おべっかを使っては仲間にたかる芋川平九郎は、これも女房がないくせに幼い弟妹が五人もいるし、青瓢箪のように元気のない一ノ畑曾八には、一日に一回は亭主の頬げたを張り飛ばすかんしゃく持ちの女房がいる。
 偶然だが、きのうあたり、これがみんなおふくろに深刻な愚痴をこぼされたり、女房ととっくみ合いの喧嘩をしたり、弟妹や子供たちに哀れに泣かれたりした。
 そこで、そのウサばらしに一つ女郎買いでもと――ふしぎに彼らは、共通して女郎買いだけは大好きであった――期せずして元手の製造にとりかかり、はてはこのごろなぜか懐具合のいいらしい一ノ畑曾八をあてにして牢屋敷を訪れたのだが、そこで妙な平安朝のお化けにおどされて気勢をそがれ、かくてこの裏町の居酒屋での酒盛りとなったのだ。
「まかりちがうとおれらとて、柳橋の美妓を左右に侍《はべ》らせて、天下国家を論じていたんじゃが。――」
 と、しぼり出すように鬼丸多聞太がうめいた。「もう、そんな美女を抱くなんて、わが人生には永遠に叶《かな》えられんことじゃ。いまや夢も希望もない!」
 彼は髯面《ひげづら》を章魚《たこ》ののった皿にかぶせて泣き出した。彼は泣上戸《なきじようご》の気味があった。
「ああ、これでわが人生は終るのか! おぬしらとちがって、これでもおれにはやりたいことがあったんじゃ。女郎買いではないぞ。男子としてやるべきことがあったんじゃ!」
「おぬしらとちがって、はひどいな」
 と、怠け者の横枕平助が口をとがらせた。
「こっちにだって、やりたいことはあるよ」
「お前が? 何じゃ」
「よくわからんが……とにかく、やりたいことはあるような気がする」
「おれの望みは、男の花を咲かすことじゃ!」
 と、鬼丸は泣きながら吼《ほ》えた。
「どういう具合にか、それはおれにもよくわからんが、とにかく鬼丸多聞太、この世に生まれて甲斐があった、と思われるようなことをやって死にたい!」
「同感じゃ!」
 と、芋川平九郎もさけんだ。それから。――
「何にしてもこんな飲み屋では気勢があがらん。とにかく吉原に繰込《くりこ》もう」
 と、立ちあがった。
 一同が怖ろしく昂奮してドヤドヤと出かかるのを、居酒屋の亭主はあわてて呼んだ。
「旦那。……お勘定を。――」
「それはこんどこのあたりに巡邏に来たときとどける。それまで待てい」
 と、猿木次郎正がいった。
「いえ、それは困ります。こちとら、その日暮しの商売で。――」
「馬鹿っ」
 と、いま号泣していた鬼丸多聞太が、ふりむいて怒鳴った。「この物騒な世の中にその日その日暮せる商売が出来るのはだれのおかげと思うか。夜も眠らずわれわれが保護してやっておるおかげではないか!」

    六

 居酒屋を出た五人の邏卒は、浅草の方角へ向って行進を開始した。
 治安不良で、月はあるがもう人通りもない夜の大道を、肩を組んで一列横隊になり、大きな声でいまの流行唄《はやりうた》をうたいながら。――
「花のお江戸に
 桑茶をうえて
 クワでいろとはチャにするな
 [#1字下げ]チャクワ、チャンチャン」
 いい気なものだ。
 ずっと向うに浅草御門の影が見え出して来たときだ。横の路地から、だれか駈け出して来た。
「だれか。――」
 と、声を殺してさけび、歌声を聞いて、月光にこちらをすかし、
「あっ、邏卒さん! 強盗です。強盗がはいりました。お助け下さい!」
 つんのめりそうに駈けて来て、すがりついて来た。上ずった声で、
「三人組でございます。刀を抜いておどしております。へたに騒ぐと、殺されます。ああ、よかった。邏卒さんでよかった。早く、早く、すぐそこの角屋《すみや》ってえ質屋で――」
 芋川はその手をふり払った。
「甚だ残念だが、われらは目下別の公務で急行中である。……それ、あそこに浅草御門の邏卒屯所がある。あそこへゆきなさい」
 五人はくるっと反転した。
 歌はやめて、みんないっぺんに酒が醒《さ》めはてた顔色になって、まさに急行的な行進となった。
 ――と、すぐ前の辻に立っている二つの影がある。それが近づいて来て、彼らのゆくてをふさいだ。
 ――なんだ?
 と、いおうとして、邏卒たちはぎょっとした。月光の中に、それが見おぼえのある水干《すいかん》姿と、そして深編笠の姿だということに気がついたのだ。
「帰れ」
 と、水干があごをしゃくると、深編笠も、
「盗賊の訴えがあるっちゅうのに、邏卒が逃げ出す法があるか」
 と、いった。――薩摩|訛《なま》りだ。
「ひき返せ!」
 五人の邏卒は胆をつぶし、また、くるっと反転した。もとの場所へ行進しながら、彼らの頭は惑乱その極に達している。
「さっき、声のしたのはどこだ」
 と、深編笠が訊いた。猿木がふるえながら答えた。
「こ、ここでござります」
 さっき訴えた男はもういない。浅草御門の屯所のほうへ駈けていったのだろう。――そこに水干と邏卒たちを残し、深編笠は一人つかつかと路地にはいっていったが、すぐにひき返して来て、
「わかった。五、六軒奥の質屋じゃ。出て来るとすりゃ、この路地しかなか」
 と、いい、
「香月《かづき》、おはん、追い出してくれんか。おいがここで待ち受けて射殺する」
 懐《ふところ》からとり出したものを見て、邏卒たちはいよいよぎょっとした。それはピストルであった。
「いや待て、殺しとうない。ちょうど、つかまえて使いたい用がある」
 と、水干はくびをふり、
「あんたのほうが、ここでピストルを撃ってくれ。盗賊どもが飛び出して、路地の奥へ逃げるだろう。それをわたしがとり押える」
「大丈夫か」
「と、思う」
 と、腰から抜き出したものを見て、邏卒たちは眼を見張った。太刀《たち》ではない。昼間見たあの檜扇《ひおうぎ》をたたんだものだ。
 そして、例の毛の沓《くつ》で蛩音《あしおと》もなく、ひとり路地の奥へはいっていった。
 いったい、そんなものでとり押えられるのか?――という疑問より、邏卒たちは――特に芋川平九郎は、さっきから彼らをとらえている別の疑問を口にせずにはいられなかった。
「旦那」
 と、ともかくも、深編笠の侍を呼んだ。
「あなたは、いったいどなたで?」
「弾正台大巡察、川路利良《かわじとしよし》じゃ」
 と、相手は答え、ピストルを持った腕を高くあげた。
 路地の奥で、ヒラヒラと檜扇がひらいて動くのが見えた。
「よし!」
 月明の空に、轟然と銃声が鳴り渡った。
 数分後、路地の中に、幾つかの人影がもつれ出た。それが、こちらをすかし見て何かさけび、ついで奥のほうへ逃げかけて、いっせいに棒立ちになった。
 それも一瞬で、たちまちそこに争闘が起っている。数本の白刃がひらめくのが見えた。
「おい、来てくれ。――邏卒ども」
 水干の声が聞えた。彼ひとりそこに立っているのを見て、邏卒たちはあっけにとられた。
 いまの銃声に驚いたのだろう。「なんだなんだ」といいながら、あちこちから飛び出した住民たちも、東京の路地の月光に浮かびあがった平安朝の公達《きんだち》みたいな異形《いぎよう》の姿に、みな狐に化かされたような顔で立ちすくんだ。
「強盗は始末した。みな安心しなさい」
 水干姿はゆるやかに檜扇をふり、駈けつけた五人の邏卒に、
「これをかついで、牢屋敷へいってくれ」
 と、足もとに倒れている三つの影を、その扇でさした。

    七

 邏卒たちの驚きはつづいた。
 まず第一に、どうやら弾正台の若者は、檜扇で三人の盗賊を悶絶させたらしいことだ。檜扇はぜんぶ檜の薄板で出来ているもので、一尺三寸は充分あるから、たためば笏《しやく》となり、ときによっては防禦《ぼうぎよ》用の武器ともなるだろう。そんなことは知らないが、たとえ知っていたとしても、それで白刃を持つ賊を三人倒すとは驚くに足りた。
 二番目の驚きは、その強盗の中に、覆面して男の着物を着ていたから最初わからなかったが、なんと三十過ぎの女がひとり混《まじ》っていたことであった。
 どこを打たれたか、眼をまわして倒れているその三人を、五人の邏卒はあるいは背負い、あるいは手とり足とりして、小伝馬町の牢屋敷まで運搬させられたのだが、三番目の驚きは、そのあと自分たちがみんな牢に――本格的な入牢《じゆろう》の前に、一時収容する一部屋に追い込まれてしまったことであった。
「おい、おれたちをどうするんだ?」
 彼らは狼狽した。
「わからん。大巡察どのの御命令じゃ」
 と、格子《こうし》の外で、番人が答える。
 大巡察といえば、あの深編笠の武士もまた弾正台の大巡察とやらであったのも、むろん驚きの一つであった。あれは、あの平安朝のお化けの同僚であったのだ。
「――と、すると。……」
 と、芋川平九郎が、不安そうにつぶやいた。
「わしはずっとあの大巡察につけられておったのかも知れんぞ。いや、ひょっとすると……おい、わしたちの行状、みんなつかまれておるかも知れんぞ。……」
 あとの四人も、みな蒼くなった。
「で、ここへ放り込まれたというわけか?」
 と、猿木が頭をかかえると、横枕平助が、
「しかし、昼間《ひるま》、一ノ畑があの洋学の先生にとっちめられたあと、べつにお咎《とが》めもなかったじゃないか。それに、あれぐらいのことはどの邏卒もやっとることじゃ、われわれだけが牢にいれられるってえ法はない」
 と長い顔をふりながらいった。
 法はない、といったところで、現実に牢に放りこまれたのだから、心配は解消しない。
 ――鬼丸が、また番人に訊いた。
「それで、二人の大巡察はまだこの牢屋敷におるのかね?」
「おられる」
 と、いってから、番人はつけ加えた。
「斬罪場のほうで何かやっておられるようだ」
 五人は顔を見合わせた。一ノ畑曾八が、かすれた声でいった。
「この真夜中にか?」
「うむ。それに、さっき駕籠《かご》でだれか来た。どうやら大巡察に呼ばれたらしいのだが。――」
「へえ?」
 不安は、いやました。
「だれだろ?」
「わからん。駕籠のまま、斬罪場のほうへいったが。――」
 それから、この番人は、ほかの話をはじめた。
「そうじゃ、さきほどおぬしらが運んで来た三人の盗賊な。あれはたいしたやつらだぞ。一人は山犬の金兵衛、一人はひっつれの丹治、それにもう一人は玉つぶしのお綾という」
「へへえ、みな知らんが」
「おぬしたちゃ新しく邏卒になった衆だから知るまい」
 と、番人はいった。彼は以前からここで牢役人をしていた男であった。
「みんな、何人ひとを殺したかわからんやつらだ。ここにいた囚人の中でも、いちばん怖ろしい連中だった。それが、御一新とともに釈放された。いくら瓦解とはいえ、どうして釈放されたのかわからん。……しかし、よくまあ、あいつらをまたつかまえたもんだ。……」
「――おい、もしかすると、これからそいつらを斬るんじゃないかね?」
 と、芋川平九郎がいった。
「さあ。まさかこの夜中に、と思うが」
「うん、真夜中の斬首など、おれも知らないなあ」
 この牢屋敷詰めの一ノ畑曾八がつぶやいた。
「実は、いま白状するが、おれの役目の一つは、首を斬られたあとの屍骸の始末だったんだが。……」
 あとの四人は、うなされたように曾八を眺めやった。「お前、今夜は自分の屍骸の始末をするつもりか」など冗談をいう者はひとりもない。
 数人の役人がやって来て、彼らが牢から出て斬罪場に連行されることになったのは、それから三十分ばかりたってからのことだ。
 五人の邏卒が一大恐慌をきたしたことはいうまでもない。まさかと思っていたが――首を斬られるのは、自分たちなのだ!
「馬鹿な……そんな馬鹿な!」
 と、身体のどこからか空気が抜けるような悲鳴をもらしたが、だれの声だったのかわからない。彼らはいっせいに胴ぶるいをはじめ、猿木次郎正のごとき例の大靴が片方ぬげたのを知らず、豪傑風鬼丸多聞太に至っては、歩いているうち脳貧血を起したらしくヘタヘタと崩折《くずお》れかけ、両側から役人に支えられて運ばれるという始末であった。
 いくつかの木戸を通ってゆくと、ゆくての夜空に、くわっと赤い光が見えた。その下で何か燃えているのだ。
「ありゃなんだ?」
「わからん。斬罪場だが。……」
 と、歯をカチカチ鳴らしながら曾八が答えた。
 やがて彼らは、一つの埋み門の前についた。一挺の駕籠がそこに置かれていた。さっき番人が、だれか駕籠で呼びよせられたといったのがそれらしい、など思いをめぐらす余裕は彼らにはない。
「おぬしらだけ、はいるように、との御命令である。では」
 門の扉がひらかれ、彼らは押しこまれ、あと扉はとじられた。

    八

 すでに半ば亡者となってはいった邏卒たちは、そこに待ち受けているのが、まさにあの世としか思われない光景であることを知った。
 いたるところ剥落し、ひびわれした練塀に囲まれたその斬罪場のまんなかに、四カ所|篝火《かがりび》が燃えしきっている。夜空を赤くしていたのはそれであったのだ。そのそばに、それぞれ葉のついたままの青竹が立てられ、それを結んでいるのは、風に紙|四手《しで》をそよがせている注連縄《しめなわ》であった。
 四角形のその中に、三層ほどの台が置かれ、その上に人の背丈の倍はありそうな太い柱が二本、人ひとり通りぬけられるくらいの間隔でならんで立てられている。上端は厚い板でつながれているが――その板にとりつけてあるのは何だろう?
 それは篝火に、真っ赤なかがやきを発していた。あきらかに、鉄の刃物《はもの》だ。下方にむけられたその刃《は》は斜めになっていた。下部には、二本の柱にこれまた板が張ってあって、その台の外側には四角な籠《かご》がとりつけてあった。上から綱《つな》が垂れ下がっていた。
 それが何のための器械かは知らず、見る者の魂を奥底から戦慄させずにはおかない、もののけのようないまわしいかたちであった。
 その向うの地上に三つの影が立っていた。
 香月経四郎と川路利良だ。香月はむろん例の姿だが、川路は深編笠をとっていた。三十六、七歳の、口髭《くちひげ》をピンとたてた、いかにも沈毅な風貌の男であった。
 その香月は、いまはいって来た邏卒たちには眼もくれず、うしろをふり返り、
「おい、いいのかえ?」
 と、訊いた。
「ウイ」
 と、相手は妙な声で答えて、うなずいた。
 ――女の声だ。
 こはそも何者か? 邏卒たちは、さらにわが眼を疑った。薄紅《うすべに》色の筒型の蚊帳《かや》みたいなものが、そこにユラユラゆれている。
 邏卒たちはこれまたその名も知らなかったが、それは市女笠《いちめがさ》をかぶり、その笠からいわゆる虫《むし》の垂衣《たれぎぬ》を垂らした女人《によにん》であった。
「よし、これ邏卒」
 と、香月ははじめて五人のほうに顔をむけて、
「そこにおる三人の盗賊――左様、まず顔にひっつれのあるやつをこの台の上へ連れて来い」
 と、命じた。
 五人はようやく、入口のすぐ近くに坐っている三人の男女の姿に気がついた。まさしく例の強盗たちだ。むろん気絶からさめているが、みなうしろ手に縛りあげられ、しかし三人ともまだ意識がはっきりしないような眼を眼前の奇怪な物象に向けているようであった。
「あとの連中は、残った二人をよく見張れ」
 ――ああ、そうか!
 ――首を斬られるのはやっぱりこの連中か!
 と、やっと思いあたって、
「あっ」
「かしこまってござりまする!」
 邏卒の中の一ノ畑曾八と横枕平助が、ばねにはじかれたように歩き出した。曾八のほうは元来がこの斬首場の仕事を手伝っていたというのだから、反射的な動作ということもあったろうが、不精《ぶしよう》者の平助が、がらにもない返答をして真っ先に飛び出したのは、その安堵《あんど》と歓喜がいかに爆発的なものであったかがわかるというものだ。
「立て!」
 二人がひったてたのは、顔の右半分に物凄《ものすさま》じい火傷《やけど》の痕《あと》のあるひっつれの丹治であった。
 一辺だけ注連縄《しめなわ》の張られていない方角から、彼らはその中にはいり、梯子《はしご》のつけてある台の上にのぼった。香月の声と扇子の命じるままであったが、次に、
「その囚人をうつ伏せに台に寝させろ」
 と、いわれたときには唖然とした。
 一ノ畑たちは、てっきりこの男がこの台の上で――それもわけがわからないが――打首になるものと思っていたのだ。
 ――いったい、何をどうするのだ?
 と、ふと頭上の巨大な斧《おの》を見あげて、二人の背にさっと冷気が走った。やっと彼らは、この器械が何のための器械か感づいたのだ。
「柱の下にある板は二重になっている。一枚をあげると穴があく。そこに囚人の首をいれろ。それから、台に革《かわ》の帯があるから、身体を縛りつけろ」
 香月はいいながら、注連縄をまわって、自分も台の上にのぼって来た。
 呪文に動かされるように、二人の邏卒はその通りにした。板の一枚をあげると、それは半月形にくりこまれていて、もう一枚の板との間にまるい穴があくことがわかった。
 それまで奇妙なほど平然としていたひっつれの丹治は、このときようやくただの処刑ではないという恐怖にかられたらしく、猛然と抵抗をはじめたが、何しろうしろ手に縛りあげられているのだから、押えつけられて、その半月形のくりこみに頸をあてられ、上から板を下ろされると首だけ外につき出した姿勢となり、あとはのたうつだけの棒状の肉塊となるしかなった。それをさらに、台にとりつけてあった革の帯で固定した。
「ひっつれの丹治とやら、過去お前の行状が磔《はりつけ》獄門にもあたることは、お前も承知しているだろう。ここに処刑するが、これはフランス式の斬首刑だ」
 垂れ下がった綱をとり、香月経四郎は朗々といった。
「せめて日本におけるその実験の第一号となったことを光栄と思え。それから、最も苦痛のない死を与えられることをありがたく思え」
 そして、その綱をひいた。
 と――そこに形容を絶する音響が発した。シューッという鉄が何かを走る音と、ああーっという絶叫と。――
 人間の声は被処刑者のものではない。台上の二人の邏卒、こちらで息をひいていた残りの邏卒、囚人の|のど《ヽヽ》を裂いたものだ。
 例の三角形の斧は、二本の柱に彫《ほ》られた溝に沿って落下し、その重量自身の力で、穴からつき出したひっつれの丹治の首を切断し、首は外側の籠の中へ転がり落ちていた。凄じい血液が、篝火の中に真っ赤に奔騰《ほんとう》した。
 そのあと落ちた二、三分の怖ろしい静寂ののち、
「邏卒、その胴体を下ろして、あちらに運べ」
 と、香月経四郎の声がした。
「それから、そちらの邏卒、次の山犬の金兵衛とやらを連れて来い」
 山犬の金兵衛は、それまでの麻痺から醒めたように吼えたけり、あばれ出した。縛られたまま逃げようとし、猿木にタックルされて転がったが、猿木を猿みたいにはね飛ばした。もし鬼丸多聞太の剛力《ごうりき》がなかったら、どうなったかわからない。――こうなると鬼丸も大変な馬鹿力を発揮するが、実は猿木ともども、怖るべき大巡察にいいところを見せようと、彼らも死物狂いだったのである。
 台の上の屍骸は、一ノ畑と横枕によってひき下ろされている。首のない胴からなお吐きつづける血が、台にヌラヌラと赤い帯となって残った。
 代って山犬の金兵衛がひきずりあげられ、首を穴にいれられてもなおあばれ、山犬のごとく絶叫していたが、
「では、二人目」
 香月の声とともに鉄斧がすべり落ち、彼はまるで嘘みたいに静かになった。
 ――さて、勝海舟の「氷川《ひかわ》清話」に、「ここにおれの感服した人間が三人ある」といい、三人の凶賊の話がある。
 一人は、江戸で強盗をして、奪った金をすぐにはつかわず地中に埋めておいて上方《かみがた》に飛ぶ。そして上方で強盗をやって、これも金を埋め、前の犯行のほとぼりのさめたころ江戸に帰って埋めておいた金をつかう。そのころ関東は金本位、関西は銀本位だったからこんなことをやったのだろうが、とにかくこれを交互にやったので、だれも長い間その男が強盗であることを知らなかった、というのは、このひっつれの丹治のことである。
 もう一人は、つかまってからの与力の訊問に、たいていのやつはいろいろ言い逃れしようとするのだが、この男の場合、なに、つかまったのは天命だ、と、きれいに白状し、明日にも処刑されるというところを、突如瓦解騒ぎで釈放されることになったが、同囚みな狂喜乱舞しているのに顔色も変えず、へええ、そうですか、おやかましゅう、といったきり平然と牢を出ていったというやつで、これが山犬の金兵衛であった。
 これを官軍入城後、いっとき西郷から江戸の治安をまかされた勝が、「なあに、どうせ五十人や六十人の囚徒を斬ったからといって、世に人殺しや盗賊の種がつきるものでもあるまいと思って、みなひと思いに放免してやったよ」と一斉釈放してしまったのだ。この勝の行為には、彼らしい放胆さとともに、それ以上に彼らしい毒気が感じられる。
 そして、「また今一人は、三十歳あまりの女囚だが、おれはその罪状を聞こうと思って、わざわざ人を払ってその女と差向いになって訊問した。ところがその女は、これまでだれにも話さなかったけれど、安房守《あわのかみ》様だけにはお話し申しましょうと前置して、さていうには、私の顔のきれいなのを慕うてか、多くの浮かれ男が寄りついて参るので、そのうち金のありそうなやつには心を許した風を見せ、○○の時に○○を捻ってこれを殺し、金だけ奪い取って素知《そし》らぬ顔をしている。すると医師が見ても屍体に傷がないから何ともいたしかたがない。この方法でもって、これまでにちょうど五人殺しましたと白状した。実に大胆きわまるではないか」とあるのがこの女で、原本の○○には読者のほうで適当に文字をいれて下さい。これが三番目の玉つぶしのお綾であった。
 それを芋川平九郎は曳いて台上にのぼった。さしもの毒婦も半失神の状態で鉄斧の錆《さび》となったのだが、みずから誇った「きれいな」首が血しぶきとともに籠の中に落ちるのを、いかに女好きの連中でも、ああ惜しいなどと思う余裕はなく、茫然とうつろな眼をむけている。
 いや――五人の邏卒は、実はその光景を見てはいなかった。彼らの眼は、べつのほうへ注がれていた。
 おそらく三番目の死罪者が女だと見て、禁じがたい好奇心をもよおしたのだろう。それまでうしろに立っていた市女笠が、このときユラユラと前へ歩み出て来て、篝火のそばから台の上を見あげていた。――それに彼らの眼は吸いつけられたのだ。
 前をひらいた虫の垂衣のあいだからのぞいているのは碧《あお》い眼であった。雪白の顔であった。そして、垂衣のかげに波打って見えたのは、なんと金髪であったのだ!
 おう、平安の貴女の正体が、異国の女であったとは?
「なるほど。……丈夫なものだな。刃《は》こぼれ一つない」
 下に落ちたままの鉄の斧をのぞきこんでいた香月経四郎が、その女に笑いかけた。
「しかし、ついでだから、もう少し試《ため》して見よう」
 彼は、五人の邏卒のほうへ向きなおった。「さて、お前らの悪行はすでにことごとく調査済みじゃ。東京の治安をあずかる邏卒として言語道断。それさえあるにお前らは、さらに重大な背任|涜職《とくしよく》の罪を犯した。市民より強盗の訴えがあったというのに、それを黙殺するのみか逃避を計ったことだ。なんのための府兵か、なんのための邏卒か。――これは許せん!」
 五人は息をのみ、五つの邏卒の彫像みたいになった。
「昼間、こんどまた罪を犯せば必ず処刑するぞとわしはいった。お前らは、それを犯した」
 三角形の斧が、またシュルシュルと上っていった。
 綱をとって、水干姿の弾正台大巡察は、甘美なひびきを持つ爽やかな声でいった。
「これから順次お前たちをギロチンにかける。さあ、四人目はだれじゃ?」
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  巫女エスメラルダ


    一

 十一月八日の午後三時ごろ、鉄蹄に砂塵をあげて桜田門外の「弾正台《だんじようだい》」に駈けつけた、二十三、四の書生風の青年があった。
 朱塗りの門の外で馬から飛び下りると、門番に何かいい、手綱《たづな》をわたし、急ぎ足ではいって来たのを、ちょうど邸内を、香月経四郎《かづきけいしろう》と何か話しながら歩いていた川路利良《かわじとしよし》が見つけた。
「お、平八どんじゃなかか」
 青年は、水干《すいかん》姿の香月を見てふしぎな表情になったが、すぐに一礼して、
「海江田《かえだ》先生はおられもすか。急報ごわす」
 と、いった。川路とは同郷の若者らしい。
「何か?」
「大阪で、大村益次郎どんが、この五日夜、とうとう亡くなられたっちゅう事《こつ》ごわす」
「――ほ?」
 さすがに二人は、顔見合わせた。
 兵部《ひようぶ》大輔《たゆう》大村益次郎が、京の三条木屋町で八人の刺客に襲撃されて負傷したのは、さる九月四日のことだ。傷はいったん治癒に向うと見えたが、右膝の一傷のみが化膿し、十月一日大阪に移され、洋医ボードウイン執刀のもとに右下肢切断の手術を受け、その後経過良好と伝えられていたが。――
「弾正台へ来たのははじめてごわすが、海江田先生はどっちにおられもすか」
「案内する。こっちじゃ」
 川路は先に立って歩きながら、
「そいにしても、おはん、そげな事《こつ》をどこで聞いた」
 と、ふり返った。まだ電信のないこの時代、五日夜大阪で起ったことを、八日のいまごろどうして知ったのか、という疑問は当然だ。
 青年は答えた。
「は、たまたまきょう、ある人の出迎えに波止場にゆきもしたところ、ちょうど汽船から下りて来た政府の急使が、これも知り合いでごわして――その急使は太政官のほうへいった事《こつ》と思いもすが」
「ああ、そうか。しかしその知らせを、なんで海江田どんにな?」
「先月、ちょっと海江田先生のお邸での会合で、先生がひどく大村どんの御安否を気になされておりもしたで」
「それは、よろこばれるじゃろう」
 青年はふり返った。川路のいう意味がよくわからなかったのだ。
 川路利良は何もいわず、ただ頬に微笑をただよわして歩く。玄関からははいらず、潜り門や木戸を通って、いくつもある庭づたいにゆくのだ。二人のあとを、香月経四郎がブラブラとゆく。
 よく晴れた暖かい日で、庭に向いた障子はどれも大きくあけはなされ、どの座敷でも、たくさんの人々が机に向って何か筆記したり、調べたりしている光景が見える。机の上にはみな書類がうずたかく積まれている。ただ通りながらの一瞥《いちべつ》だが、いまの政府の官庁でこれだけ大車輪といった感じの光景は珍しいかも知れない。
 ずいぶん歩いて、そのいちばんの奥座敷に、六、七人の人物が坐っているのを見た。さっき香月経四郎の水干姿をけげんそうに見た青年は、この場に至って、さらに眼をまろくした。そこに影のように坐っている人々が、なんとみんな烏帽子直垂《えぼしひたたれ》といういでたちであったからだ。
「大巡察、川路利良と香月経四郎ごわす」
 と、近づいて、一礼して、川路が伝えた。
「横浜から東郷平八郎が急報に参りもした」
 青年が縁側に寄って、改めて大村の死を報告した。一座に驚きの声がもれたことはいうまでもない。
 東郷はさらに詳しく、その急使から聞いた話として、大村が最後に、常用の西洋手帖に、「君のため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国の行末」と鉛筆で辞世を書いたが、それは薄く細く、みみずの這ったような、判読するのに骨の折れる絶筆であったらしい、と話した。
「ほう、あの西郷先生さえ馬鹿扱いにしおった大村が喃《のう》」
 と、嘆声をもらしたのは、大忠、吉井|友実《ともざね》という人物である。
 ――と、そのそばで首をひねった者がある。少忠、品川弥二郎であった。
「はてな、その辞世、どこかで聞いたことがあるぞ」
「辞世なんてお経みたいなもので、みんな似たり寄ったりのものではないか」
 といったのは、同じく少忠、尾崎|行正《ゆきまさ》であった。品川が手を打った。
「ああ、そうじゃ。それはわが藩の――開国論を唱え文久三年切腹させられた長井|雅楽《うた》の辞世じゃ! ふうむ、辞世までひとの作ったものを借用して死ぬとは、最後まで人を喰った大村さんらしい」
「それは人を喰ったのじゃなく、気力喪失のせいじゃろ」
「兵部大輔の死にざまとして、どうもあまり感心せんな」
 と、吐き出すように言葉をつづけたのは、河野敏鎌《こうのとがま》と安岡|良亮《りようすけ》だ。
「そげな人じゃ、あの御仁《ごじん》は!」
 と、野ぶとい声がした。これが東郷青年が報告に来た当の相手の海江田|信義《のぶよし》であった。
「最後まで人を喰ったおひとか、あるいは、死にかかってまったく気力を失ってしまったのか。……何にせよ西洋式の軍制にかぶれて、皇国の魂を失った人間の末路はそげなものじゃ」
 分厚い唇の間から、ニタリと白い歯まで見せた。
「品川どんにゃ悪いが、あの大村どんは長州藩の恥さらしじゃて。……松陰先生の門下なら、おはんも同感じゃろが」
 そして海江田信義は、庭の東郷に眼をむけた。
「平八、よか知らせを持って来てくれた。御苦労じゃった」
「はっ」
「もうよか」
 平八郎はお辞儀してゆきかかったが、二、三歩いって、何やら思案顔でふり返った。
「先生。……海軍も西洋式にやるといかんでごわすか」
 海江田はとっさに返答に詰まったようであった。平八郎はまじめな顔でいう。
「おいも、西洋製の軍艦に乗って戦いもした。軍制を西洋式にやると殺されても当然じゃとおっしゃられては、平八郎、どうも納得ゆきもさんが」
 ――この青年はさっき川路に、海江田の屋敷の会合で、海江田が大村の安否を大いに心配していたのを聞いたから、いちはやく大村の死を知らせにやって来た、といった。しかしどういう雰囲気の会合で、どういう口吻で海江田がいったのかは知らず、どうやら彼はその発言を錯覚したらしい。
「ああ、いや、海軍はやむを得んわい」
 海江田は苦《にが》笑いした。
「しかしな、ただ猿真似ばかりじゃ、西洋と戦争したときに必ず負くる。たとえ軍艦大砲は西洋のものを借りても、精神だけは日本人であることを忘れるな。……そいつを大村どんは、精神までも西洋流に切りかえんけりゃこれからの日本は立ちゆかん、と考えておったふしがあった。刺客の口供《こうきよう》に、大村大輔どのは要路の重職にありながら、西洋風を主張し、このままさしおいては皇国の道相衰え候につき……云々とあったが、その志においては、信義《のぶよし》まことに同感であったのじゃ」
 じゅんじゅんといい、それからふいに、庭の別の人間のほうへ声をかけた。
「香月、お前は以前、フランスへいっておった人間じゃが、この海江田の考え、どげん思うかな」
 香月経四郎の水干の袖がぱっとひるがえった。彼は腕を膝にそろえ、深くお辞儀していった。
「かけまくもかしこき大倭天皇《おおやまとすめらみこと》がしろしめす大八島国《おおやしまぐに》、まことに仰せのごとく、たとえ武器道具は夷狄《いてき》のものを用うるとも、神州の魂までけがしては相成らぬと存じまする」
「やっぱり、おぬしもそげん考えるか」
「はっ、ここより拝見拝聴しておりまして、そこに坐《いま》す方々は、やまとごころの砦《とりで》、あたかも高天《たかま》の原《はら》に神留《かむしずま》ります八百《やお》よろずの神《かみ》の、神集《かむつど》いを仰ぎみる思い……、と、臣経四郎、かしこみかしこみ申す。――」
「もういい、もういい」
 と、尾崎行正があわてて手をふった。
「どうもお前のいうことは、いつも祝詞《のりと》のようでいかん」

    二

 弾正台は、もと奈良朝時代、律令《りつりよう》制によって設けられた朝臣の綱紀粛正機関で、官吏を監察し、その非違を糺《ただ》す役所であった。
 これが王政復古とともに、埃《ほこり》を払って持ち出されたのが、この年、明治二年五月のことである。
 長官を尹《かみ》といい、九条道孝が任命された。九条は五摂家のうち近衛《このえ》につぐ家柄であり、道孝は英照皇太后すなわち明治天皇のおん母の実弟であった。
 次は大弼《だいひつ》、少弼《しようひつ》といい、この名は、たとえば上杉家の代々を上杉弾正大弼ととなえたように官名としては江戸時代も残っていたが、これも実際の職として復活した。とはいうものの現実には、やはり大名が一人ずつあてられ、尹《かみ》と同じく役所に重味をつけるだけの存在に過ぎなかった。
 次が、大忠、少忠。それぞれ三人。
 これこそが事実上の弾正台の中枢機関であった。
 大忠が、薩摩出身の海江田信義、同じく吉井友実、土佐出身の安岡良亮。
 海江田はもと有村俊斎といい、安政五年勤皇僧月照が井伊大老の追跡から薩摩へ逃れたとき、西郷とともにこれと行を共にした人物だ。吉井は、これもまた月照を助けるために奔走するなど維新のとき種々功績のあった人で、のちの歌人吉井勇の祖父にあたる。安岡は、例の堺事件――この前年二月、堺で土佐藩兵たちがフランスの水兵十一人を射殺したという事件――で、フランス側の要求で藩士十一人が切腹させられたのだが、そのときくじびきで危く死をまぬがれた中にこの安岡もいた。そして彼はのちに熊本県令となり、「神風連」の乱のために殺されることになる。
 少忠が、品川弥二郎、河野敏鎌、尾崎行正。
 品川はいうまでもなく長州人で、少年時、松下村塾の塾生となり、官軍東征のときのトコトンヤレ節の作詞者となった。のち内務大臣となり、明治二十五年、民党を国賊視してその絶滅をはかる凄じい選挙大干渉を行ったことで有名だ。河野は土佐人で、若くして坂本龍馬などとともに働いた男だが、後年佐賀の乱で、捕えた江藤新平を裁判長として処断した。尾崎は安岡にひきたてられた人物で、のちの叛骨政治家、咢堂《がくどう》尾崎行雄の父である。
 以下、大疏《だいそ》、少疏《しようそ》、大巡察、少巡察、巡察属、史生、台掌、使部などいうものものしい職名をつらね、弾正台全員百五、六十人であったといわれるのに、その階級は十三ないし十五に及んだ。
 その職権は、のちの検事局、警視庁、憲兵隊、会計検査院をかねたものといってよかった。
 おそらく実務を指揮した大忠、少忠のめんめんは、維新政府の上層部からは、どう見ても能吏のタイプではなく、融通のきかない頑固者だと思われてこの職にあてられたものであったろう。
 まさしくその通りであった。彼らはその性、その職に的中した。そのゆえに、彼らは、俄然、能吏と化した。この混沌の時代、ただ右往左往している政府機関の中にあって、まっさきにある目的意識をもってフル回転しはじめたのは、この弾正台であるといってよかった。
 その目的意識とは何か。それは「保守」である。
 そのかみの奈良朝の弾正台は、その糺弾は大臣親王に至るも苦しからずとされたが、彼らの鼻息はそれに慣《なら》うことを辞さなかった。手さぐりながら何とか新しい方角へ動き出そうとする政府に対して、いちいち猛烈なブレーキをかけたのは彼らであった。
「諸公は王政復古を呼号したのではないか」
「諸卿は攘夷を鼓吹したではないか」
 まっこうから彼らにこうひらき直られて、これに弁明の言葉を持つ者は、諸卿諸公の中にひとりもなかった。政府は当惑し、持てあまし、はやくも弾正台を保守反動の巣窟視しはじめた。
 彼らに皮肉な心が針ほどもなかったとはいえまいが、それより彼らは大まじめであった。登庁すると幹部連中は烏帽子直垂《えぼしひたたれ》という姿で会議するのはいま見た通りだが、ふざけているのでも、奇矯をてらっているのでもなく、これぞ王政復古という大信念をもってやっているのである。
 そしてまた、いまのいま、大村死去の報に、大忠、海江田信義は莞爾《かんじ》とした。
 実は彼は、このとし一月五日、参与横井|小楠《しようなん》が京都寺町通りで斬殺された事件についても、六人の刺客の大半はすでに逮捕されているにもかかわらず、いまだに頑としてその処刑に首をたてにふらないくらいだ。
 刺客らの斬奸状に、横井は耶蘇《やそ》教をひろめようとする邪心あり、かくては将来皇国の大害となる云々の文句があったが、即刻死罪に処そうとする政府に対し、海江田はこの斬奸状そっくりの理由で、この志まことに正当で処刑するには忍びない、という弾正台としての見解を提出した。その意見書があまり刺客への同感にみちているものだから、ひょっとすると、そもそも右の刺客を教唆《きようさ》したのは海江田ではないか、という途方もない声さえ、政府部内に出たほどである。しかも、現実には、こと死刑に関する限り、必ず弾正台の許可を要す、という掟《おきて》がとりきめられていたので、政府もいかんともしがたい状態なのであった。
 当時なお暗黙のにらみをきかしていた薩摩藩主島津久光は、みずから「頑固道人」と称したが、この久光がもっとも信任したのは、西郷にあらず大久保にあらず、実にこの海江田信義なのであった。彼こそ頑冥党の権化《ごんげ》であった。
 弾正台は、参議――のちの大臣――の閣議にさえ、その室の一隅に台員が臨席して傍聴することを要求した。
 一方でまた適時役所に踏みこみ、その帳簿を調査した。帳簿に鋏《はさみ》一丁買いあげ十銭とあればその鋏の提出を求め、それが見当らないと会計|紊乱《ぶんらん》ときめつけ、一俵四貫目入りの木炭十俵買入れとあればその俵を出させて秤《はかり》にかけ、三貫九百五十|匁《もんめ》しかないときは、会計方が商人から収賄したに相違ないと追及した。
 さらに市中に大巡察、少巡察を出し、諸藩に隠密使と称するスパイを派遣した。
 笑話のごとくにして、決して笑話ではない一つの話がある。
 明治二十年ごろ大蔵省会計局次長を勤めていた山本|豊躬《とよみ》という人が、始終ニガ虫をかみつぶしたような顔をしているので、だれかが、どうしてあなたは年がら年じゅうそんな顔をしているのか、と訊いたところ、山本は、
「いや、私は若いころ弾正台に勤務していて、役所でいつもにらめ顔をしていなければならぬと命じられ、それから毎日鏡にむかって渋面を作る訓練をしました。その癖がついて、いまもこんな顔以外の顔は出来なくなってしまったのでござる」
 と、依然ニガ虫をかみつぶしたような顔で答えたという。
 実に弾正台は、当時の役人にとって大恐慌の源泉であった。

    三

 まだ狐につままれたような顔をしている東郷平八郎といっしょに、川路と香月は弾正台の赤門を出た。
 東郷は番人から手綱《たづな》を受けとったが、川路が何かと話しかけるので、しかたなく馬を曳いていっしょに歩く。
「そりゃ西洋の馬じゃが……だれから借りた馬じゃ」
「おいの通《かよ》っとる横浜の英語塾のワクマン先生のものでごわす」
「ほう、おはん、いま英語を勉強しとるのか」
 あまり人通りの多くない、ただ初冬の夕日があかあかとさしているサイカチ河岸《がし》をしばらくいったところで、
「あれが桜田門じゃ」
 と、川路は、濠《ほり》の向うの黒ずんだ門を指さした。
「では、井伊大老が殺されたっちゅうのはこのあたりでごわすか」
 と、東郷は改めて感動的な眼で、まわりの風景をながめまわした。
「おはん、横浜にいて、東京にゃあまり来た事《こつ》がなかか」
「はあ、先月海江田先生のお邸にうかがったのが二度目くらいの上京で。……これで、なかなかひまがありもさんで」
「平八どん、あの弾正台な、何を隠そう、あれがもとの井伊家じゃぞ」
 川路はふりかえって、
「それ、いま出て来た門が、音に聞えた井伊の赤門じゃ」
「――ははあ?」
 東郷はさすがに眼を見張った。
「そして、井伊の首をとった男の兄貴が、いまじゃあそこで威張って坐っとる」
「それは知っておりもしたが。……」
 海江田信義のことだ。海江田は、万延元年三月三日、井伊大老を襲撃した水戸浪士たちにまじって、ただ一人薩人として参加し、直接井伊を斃《たお》した有村治左衛門の兄なのであった。
「世の中は、変るもんでごわすなあ」
 東郷は嘆声を発した。
「おはんでも、そげん思うか」
 と、川路は微笑した。
「では、馬を早く返さにゃならんで、帰りもす。御免」
 東郷は一礼し、馬に飛び乗り、駈け去った。
 あと見送って、香月経四郎がつぶやいた。
「なかなかよか若衆《にせ》じゃごわせんか」
 薩摩弁の口真似だ。そういう香月も、東郷とそれほどちがわない若さだが。――
「あの怖ろしい海江田大忠に、あえて異論を呈するとはね」
「あれはすこし鈍《どん》に見えて、その分だけ剛情《ごうじよう》じゃ。おいも、さきざき大物になると思うとる」
 と、川路はいい、それから、いま東郷から聞いた話をポツポツしゃべった。 あれは薩海軍の三等士官として、去年阿波沖で、ことし四月箱館湾で、榎本艦隊と戦争した経験がある。しかし性格に地味で重くてぶきっちょなところがあるので、同年輩の朋輩より昇進遅く、本人も発憤して、英国留学を志し、この秋のはじめ薩摩から横浜に出て来て、目下イギリス人のやっている英学塾で勉強しているとのことだ、というのであった。
 ――むろんこのとき川路はもとより東郷自身も予見のかぎりではなかったが、東郷平八郎はのちに海江田信義の娘を妻とするのである。
「ははあ、貴公と似ておるな」
 と、経四郎がいった。
「おいが?」
「地味で重くて、出世せんところが」
 川路は苦笑した。
 川路利良は薩摩出身で、蛤《はまぐり》御門、鳥羽伏見、上野、会津と転戦し、それぞれ武功をあげ、しかももう三十半ばというのに、また同じ薩閥の吉井や海江田は弾正台の大忠となっているのに、彼はなぜかまだ大巡察の地位にとどめられている男であった。
「それに、私の見るところでは――さきざき大物になるという見込みのところまで似ているよ」
 と、経四郎は笑った。
「とってつけたようなお愛想をいう事《こつ》はなか」
「お愛想ではない。だいたい貴公はよくわからんところがある」
「どこがわからん?」
「左様、なんというか、奥底の知れん、いや、底が二重になっているような。――」
「そげん事《こつ》いわれても、おいのほうがわからん。おいはおはんだけにゃ、胸をひらいて話をしとるつもりじゃが」
 川路の顔には、靄《もや》のような微笑が浮かんでいる。顎の張った、冷静で沈毅な容貌なのに、どこか茫洋とした感じがあるのは、彼がときどき浮かべるこんな微笑のせいにちがいない。
「二重とか何とかいうなら、おぬしのほうが二重の着物をまとっとるような気がするぞ」
 と、川路は相手の水干姿を横目で見た。
「これか」
「いや、大忠たちに対して、何かといえば祝詞《のりと》みたいな返答をするのも――ありゃ、からかっちょるのか」
「正気だ」
 経四郎は、恬然《てんぜん》として袖をひろげて見せた。
「冗談でこんな姿をして歩けるものじゃない」
 多くはないが、それでもゆきかう人々が、みんな彼の姿に眼をまろくする。ただ、すぐに――おそらくその衣裳に、「江戸城」が去年から天皇と公卿の城になったことを再確認するのだろう――半分納得した表情でいってしまうが、しかし異形の装束であることはまちがいはない。
「フランスにいったおはんが――」
 と、川路がいったとき、経四郎がまた眼をあげて、
「日比谷御門まで来てしまったぞ」
 と、つぶやいた。
「私はもう帰るが、あんた、どうするね」
 川路はしばらく考えて、
「きょうは、もう少し、おはんと話したい。おいもいっしょにゆこう。いかんか」
 といった。
「いや、かまわん」
 二人は、必要があれば本庁たる弾正台に出入りするが、主な役目は、事件探索ないし市中まわりの大巡察なので、退庁時間というものはない。

    四

 この香月経四郎という青年は、やさしい、美しい顔をしているくせに妖気がある。もっと下級の役人にはどこかおっかないと感じられ、同輩の役人にも違和感を持たれている。服装のせいだけではない。一方、川路利良のほうも、今をときめく薩人のくせに、先輩のところにも特に出入りせず、同郷の親友もないようだ。
 ただこの二人だけが、おたがいに、どこかウマが合った。経四郎など十くらいも年上の川路を、ときにあんたと呼び、ときに貴公と呼び、川路もそれを異としない顔をしている。この二人が連れ立って歩いているときにかぎり、二人に妖気はなかった。
「フランスにいったからといって、だれもがフランスにいかれてしまうとは限らんさ」
 と、ややあって経四郎は答えた。「もうだいぶフランスやイギリスやアメリカへいって来た連中があるが、大きくわければ、その結果、まるきりあちらに気をのまれ、紅毛宗の信者になってしまう人間と、はじめから体質的に受けつけないか、または恐怖心にかりたてられ、ふつうの日本人以上の日本宗の信者になるか、二つに分れるようだ。私の見るところでは、いままでのところ、その割合はまず五分五分というところだな」
「で、おはんはあとのほうというのか」
「まあ、そういうことになるか」
「それにしちゃ、あのフランスの首斬り台を仕入れたのはどげんしたわけじゃ」
「あれは、御一新以来、日本古来の斬首刑はいかん、西洋流の絞首刑に改めたほうがよかろう、という説が出て、げんにイギリスから絞架の見本が来て牢屋敷にある。それを聞かれたうちの閑叟《かんそう》公が、話によるとフランスにはギロチンという死刑器械があるそうだが、それはどういうものだろう、と仰せられたので、私が世話をしただけだ」
 薄く笑った。
「いったい人間の死に方というものは、外見|酸鼻《さんび》と見えるもののほうが、意外と本人はラクなことが多い。たたみの上の大往生というが、かえってそのほうが生《なま》殺しの生《いき》地獄に近いことが多い。フランスじゃ、あれがいちばん罪人に苦痛がないという考えで採用したという。こないだ試験して見て、確認したがね。あんたも同感だったろう」
「フランスから女を呼び寄せたのはどげんしたわけじゃ」
「呼び寄せたわけではない、と何度いってもわからんか。あれは向うから勝手に追っかけて来たんだ。おれも困っておる」
 ほんとうに、困った顔をした。
「みんな、妙な眼で見て――それくらいならいいが、この新しい世に、まだあの女を斬るの何のといきまくやつがおる」
「じゃが、おはんはそれを帰そうともせん」
「本人が帰らんのだ。それに、斬るとか何とかいわれると、私もだんだん意地になって来てね」
 川路はまだ納得した表情ではない。もっとも、この人物が、たとえ微笑したところで、はればれした感じを人に与えることは少ない。
「しかし、おはん、帰国した当座は、あちら流の理窟を真っ向からふりまわしてみなを辟易させ、とどのつまり命まで狙われたっちゅうが。――」
「だれからそんなことを聞いた」
「さて、だれから聞いたかな」
「貴公――おれも探索しているのじゃないか」
「いや、まさか。――」
 経四郎は苦笑して川路を見やったが、すぐにまたしゃべり出した。
「ふ、ふ、あちらの憑《つ》きものが落ちて、だんだん変ったのさ。さっきいった紅毛宗と日本宗な、はじめからキッカリ二つに分れているとは限らず、その間を迷うやつもあれば変るやつもある。私も変ったんだ。というのは、そりゃ向うの文明のほうが上等だ。正直にいって、天地のちがいがある。だから日本のていたらくに嘆息し、情けなくなり、腹も立てたんだが、さて考えてみると、いくら真似しても、真似は永遠に本物に及ばん、ということがわかったんだ。双方何千年の歴史がちがう。よかれあしかれ、東は東、西は西だ。つまり日本は永遠に日本だ、と痛感するところがあったんだ。ところが、このごろ見ていると、政府の大勢は浮足立って、みな西洋の猿真似に総なだれしそうな気配がある。それでまた臍《へそ》をまげて弾正台のおえら方に加担する気になったのさ。おえら方の烏帽子直垂《えぼしひたたれ》にならったおかげで、受けもいい。しかし、おれも半分は本気のこのいでたちだよ」
「それだけか」
「それだけとは?」
「おはんが弾正台にはいった理由が。……弾正台の国粋主義に共鳴したからだけか」
 川路は首をかしげた。
「とにかく洋行帰りはいまの日本じゃ貴重な人材じゃ。それが弾正台大巡察――まあ、旧幕のころでいえば同心じゃな――そげな役で、おはん満足しちょるのか」
「それじゃ、あんたはどうだ」
「おいは悪いやつを縛るのが好きだからじゃ」
「おれも同じだよ」
 経四郎は手を出して、川路の手を握った。
「どっちも、ただのお勤めでこの職を選んだわけではない。この役目が好きだから弾正台にはいった。だから二人、気が合ったのじゃないか」
 それは事実であった。彼らがまず相手を認めるきっかけになったのも、以来他の朋輩にまして親しくなったのも、たしかにこの仕事に対するただならぬ熱情を感得《かんとく》し合ったからであった。
「あっちの言葉は使いたくないが、フランスではリヴァルという。競争相手という意味だが、いい意味でのリヴァルになろう」
「それはもとよりじゃ」
 川路は大きくうなずいた。
「私はね。――大巡察で満足か、とのおたずねだが――実は弾正台が、政府の中枢機関、最高機関にならなければいかんと考えている」
 経四郎は勢いこんでいい出した。
「政府というものは、正義の政府でなければならない。――そうあらせるためにだ」
「ちょっと待て、香月、それはちと考え過ぎだろう。政府は人民の生活を守るための手段で、司法はその一機関であればよか」
「いや、ちがう。まあ聞け。いったいあの御一新に至るまでの騒動や戦乱でどれほど人間が死んだかよく知らんが、とにかく日本じゅうでは万を越すだろう。それほどの犠牲をはらって、やっぱり以前と同じような政府では、何のための御一新であったか意味が通らない」
「同じような政府にはならんじゃろうが」
「なる。すでにそのきざしは現われている。――幕府はなぜ倒れたか。一見、黒船以来の騒ぎに対応し切れなくなったからに見えるが、しかしいまとなっては、騒いで幕府を倒した連中のほうが間の悪いような顔をしているありさまだから、瓦解のほんとうの原因は攘夷だの開国だのの問題じゃない。要するに幕府の内部が腐敗していたからだ。それだから、あんなものは潰れてもしかたがない、いや潰れてしまえ、と民衆から見限られたんだ。それが根本原因だ」
 さざなみのような薄雲の浮かんだ初冬の空を仰ぎながら、熱烈に論ずる香月経四郎の眼は、夢想的な光にかがやいていた。
「腐敗とは、つまり公私正邪の別が濁っていることだ。だから民衆の信頼を失ったんだ。それが倒れたのはまことに結構なことだ。――しかるに、新しく出来た政府に、早くも腐敗の徴候がある。それは、ほかのだれより貴公が承知のはずだ。それでは何のための革命であったかわからない。いや、第二、第三の革命がまた起るだろう。そんなことを永遠に繰返すのは馬鹿馬鹿しい話じゃないか」
「………」
「政府というものは、ただ人民の生活を守るための手段ではない。それは正義の具現者という目的でなければならない」
「………」
「だから弾正台を政府の最高中枢の存在にしたいというんだ」
「香月、おいがおはんに話したかと思うた事《こつ》は、実はそれなんじゃ」
 と、川路は重い口をひらいた。
「そりゃあぶなか」
「なんだって?」
「おはんの意見は大体察しておった。まことに理窟はその通りじゃろうが、しかし政府っちゅうもんはそげなもんじゃなか。この人間の世界にゃ、正義の具現者なんちゅう政府はあり得るはずはなか。……おいは心配じゃ。香月、おはんのその志望、あんまり凝《こ》ると危険じゃぞ」
「危険? 危険は覚悟の上だ!」
 と、経四郎は眉をあげ、
「川路さん、私はあんたを買っていたが、それじゃほかの大巡察連中と大同小異の」
 と、いいかけて、ふと前方の右側に大きな門を眺めて、もういちど川路をかえりみた。
「おい、いつのまにやら、佐賀屋敷に着いたが。――」

    五

 先刻、「私はもう帰るが。……」と経四郎がいったその帰宅先が、この佐賀藩の元江戸屋敷なのであった。もっとも、むろん彼がその主《あるじ》などであるはずがない。どの大名の藩邸にも塀代りに設けてあったお長屋の住人に過ぎない。
 佐幕派の大名屋敷はたいてい没収されるか空家《あきや》になっているが、ここは健在であった。いま時めくものは薩長土肥と称されているうちの肥は、肥前佐賀の鍋島をさす。戊辰《ぼしん》のいくさで佐賀藩はさしたる戦功はなかったが、そのため人材を温存し、しかもその人材が、早くからある一面では極めて開明的なところのあった藩主鍋島|閑叟《かんそう》によって育成された有能の知識人であったために、新政府としてもいやでもこれを登用せざるを得なかったのだ。
 その江戸屋敷が健在であったゆえんだ。主君の閑叟公は北海道開拓使長官を命じられたが、そちらには家来の島|義勇《よしたけ》を派遣し、自分はいまもここに鎮座している。
「そいじゃ、おいはそのへんをブラブラしてから帰るとしよう」
 と、川路がちょっと頭を下げてひき返そうとしたとき、ゆくての幸橋御門の方角から歩いて来た二人の男のうち、一人が、まだ顔もよくわからない距離なのに、
「やあ、兄上。――」
 と、呼びかけて来た。
「おう、経五郎か」
 と、経四郎は応じたが、もう一人のほうに眼を動かして、
「これは、江藤さん。――」
 と、さけんだ。
 二人は近づいて来た。
 こちらも歩いていって、佐賀屋敷の門の前で逢うと、経四郎は二人に、
「同僚の弾正台大巡察、川路利良君です」
 と、紹介し、また川路に、
「これはわが佐賀藩の英才、会計官判事江藤新平氏と、若いほうは私の弟経五郎だ」
 と、教えた。
 江藤新平は眉ふとく頬骨高く、いかにも強烈な性格の現われた顔の持主であった。それが、
「ほう、あんたが薩摩の川路君。――」
 しげしげと見まもるのに、川路はけげんな表情をした。
「おいの名、御存知ごわすか」
「西郷先生がね、いつぞや、もし将来、警察の組織を本式に整える日、その指揮者に薩摩から人を出せというなら、まず川路じゃな、とおっしゃったので、その名は記憶にとどめておいた」
「えっ、西郷先生が?」
 川路は、いよいよ狐につままれたような顔であった。
「はじめて承わりもす。しかし……おいはとうてい、そげな大任につける人間じゃごわせん」
「はは、先の話だよ。それに、そう何もかも薩摩と長州にとられては、はたがかなわない」
 と、江藤新平はどこか挑戦的な笑いをもらし、こんどは経四郎に向って、
「香月。……おれは実は貴公を訪ねて来たのだ」
 と、いった。
「私を?」
「君がいなけりゃ、奥方《おくがた》でもいいと思って来た」
「奥方? あれは妻ではありません」
 経四郎は苦笑して首をふった。
「しかし、何の御用ですか」
「これを翻訳してもらおうと思ってよ」
 江藤は懐から一冊の厚い本をとり出した。明らかに異国の書物であった。
「フランスの……刑法書ですな」
 経四郎は受けとって、表紙を読んだ。
「いや、私のフランス語程度じゃ、とてもだめです」
「しかし、奥方とはフランス語で話をしているじゃないか」
「なに、私のほうは怪しいものですよ。それもこのごろはあちらのほうが日本語を解するようになって、それで何とか通じているんです。……法律書など、ただの一句も誤訳があっては困るでしょうが」
「いやなに、少しくらいのまちがいはかまわん。いまの日本じゃ、とにかく一日も早く泰西の法律の概略でも知る必要があるのだ」
 と、江藤は眉をあげていった。 経四郎はしばらく思案していたが、やがてうなずいた。
「それなら両人協力すれば、何とかなるかも知れません。やって見ましょう、ただ、江藤さん、このことを佐賀藩人に知らせてくれますか」
「なぜだ?」
「御存知のように藩士の中にはまだ、あれが異国の女だというだけで刀をひねくりまわす方々もいられますのでね。その仕事は一つの盾《たて》になるかも知れない」
「そうか。わかった。そうしよう」
 江藤は門を見て、
「とにかく、屋敷にはいろう。……川路君、あんたもどうぞ」
 と、促《うな》がして、さきにさっさと歩き出した。
 経四郎は、弟の経五郎と何やら話しながらこれを追った。茫然たる顔で、川路もあとに従う。
 江藤新平はこのとし数え年三十六歳であった。上級藩士出身の大隈重信や副島種臣《そえじまたねおみ》などと異なり、軽輩の家に生まれたために、この明治二年、まだ廟堂《びようどう》にその名をつらねるというところまでいっていなかったが、しかし佐賀藩内部では、すでにただものではないという評判を得ていた。その評判通り、彼はこの後みるみる頭角を現わし、わずか三年後の明治五年には初代司法卿となるのである。
 もうこのころから彼を畏敬する若者も多く、香月経四郎の弟で二十一になる経五郎はその門下生となっていたが、五年後、運命再転して江藤が、いわゆる佐賀の乱の首謀者として九州から四国へ惨苦の逃亡行をつづけたとき、その従者の一人となり、かつ、やがて捕われて江藤とともに刑場に立ち、裁判長河野敏鎌に命じて彼らを処刑させた大久保利通でさえ、その日記に、「香月は賊中の男子と見えたり」と書かれるほどあっぱれな最期をとげることになるのだが、むろんこの時点においては神のみぞ知る。
 ――そんな悲劇的未来を知るよしもない経五郎は、兄に似て美しく情熱的な容貌で、もとより年相応にういういしく、久しぶりに逢ったと見えて、なつかしげに兄と語りあいながら歩いている。
 すでに新政府の大物となっている大隈などとちがい、大邸宅にこそ住んではいないが、江藤もまた別に屋敷を借りていた。だが、むろんここは勝手知ったる東京藩邸だ。
 スタスタと先をゆくそのうしろ姿に、やがて経四郎は呼びかけた。
「江藤さん」
「なんだ」
「いま、この川路君と道々議論しながら来たのですが――それが、正義の政府はあり得るか、という問題なのです」
「ほう」
「結論から申しあげると、私は、政府は第一義的に正義の府でなければならない、という論で、川路君は、政府というものはそんなことを第一義とするものじゃない、あまりそんな意見にこだわり過ぎるのは危険だ、という論なのです。どうやら川路君は、私の意見を青二才の論だといいたいらしい。それを承知で、私はなおかつ私の論を主張するのですが、江藤さんはどう思われますか」
「それはおぬしのいう通りだ」
 と、江藤は答えた。
「政府は正義の府であるべきだ」
 返答はあっけないほど明快だが、江藤新平の顔には微妙なうす笑いが浮かんでいる。
 ――のちに、司法卿となってから、彼はこの論法をひっさげて長閥の弾劾《だんがい》に乗り出すのだが、彼の正義は、倫理観というより政敵を倒すための武器であった。いま経四郎の問いに明快に答えつつ浮かべたうす笑いは、そんな彼の重層的な性格のつぎめからもれたものであったろう。
 それには気づかず、経四郎は得意げに川路をかえりみた。
「川路君、あんたの口から、あんたの論をもういちどいえ」
「いや」
 と、いったきり、川路は、例のぼやっとした靄《もや》のような微笑をただよわせただけで、あとは黙って歩いている。
 もう日が斜めにさしている邸内で、ゆき逢う人々が江藤を見ると、みなお辞儀する。それに、「や、や」と快活な挨拶を返しながら、
「それより香月、君はこないだフランス仕込みの首斬り台で罪人の首を斬ったと?」
 と、逆に尋ねて来た。
「は」
「どうだった」
「実によく出来た器械でした」
「おれはまだ一見する機《おり》がないが、どういうしかけだ?」
 経四郎はその説明をした。
 そして、フランスは、いつのころから、だれが何のためにそんな器械を作り出したのだ、という江藤の質問に、そういう処刑具の原型はそれ以前からあったらしいが、八十年ほど前のフランス大革命のとき、おびただしい死刑囚を、迅速かつ確実、さらに無苦痛という人道的目的にもかなうように処理すべく、ギヨタンという医者が、代々死刑執行人のサンソンという男と相談して、その原型を改良した。それでその道具も、彼の名にちなんで、ギロチンと呼ばれるようになったということだ、と話した。
 被処刑者を台上に横たえ、上から落下する鉄の斧で斬首するのだが、ただそれだけでは刃《は》がつぶれるので、衝撃部分を一端だけにとどめるために三角形にするという工夫を出したのは、当時の国王ルイ十六世だったといわれるが、後にこの王様は、王妃マリー・アントアネットとともにみずからこのギロチンにかけられるという皮肉な運命を迎えた。――しかも、革命の嵐が去ったあとも、この器械の機能性はなお認められて、現在に至るまでもフランスでは死刑にこのギロチンが使用されているという。
「君はフランスにいたころ、実際に見たのか」
「いえ、革命当時はパリの広場でやったそうですが、さすがに今は監獄内で執行するので、見たことはありません。それでこないだ、はじめて試《ため》して見たので」
 と、経四郎は答えた。
 ――文久三年、といえばいまから六年ほど前になるが、幕府はヨーロッパに池田筑後守一行の使節を派遣した。それは安政条約によって開国の約束はしたものの、国内の攘夷騒ぎから、とうていその実行は難しいと見て、その延期を請うため、前年竹内下野守以下の使節を送ったのだが、その後も攘夷騒ぎはますます沸騰してやまないので、さらに、少なくとも横浜だけは、延期どころか開港もとりやめたいが了承を請う、と談判するため、この池田筑後守を第二次の幕使として派遣したのである。
 一行は池田以下三十四人であったが、その中に香月経四郎がいた。
 そのころは異国への旅など拒絶症を起す者が多かったので、ちょうど万延元年のアメリカへの使節に、中津藩の福沢諭吉が同行したように、全員幕臣とは限らなかったので、軍備のみには開明的であった鍋島閑叟が、江戸詰であった家来の香月経四郎を、正使護衛役として推薦し、一行に参加させたのだ。彼は当時まだ二十歳であったが、長崎警備の経験もあり、鍋島藩切っての剣の俊才といわれていたからだ。
 結局この一行は、半歳あまりのヨーロッパ旅行で――いや、実質は二カ月のパリ滞在だけで、右の使節目的は頭から達成不可能だということが再確認されたばかりでなく、ミイラ取りがミイラとなって、一同熱狂的開国論者に変心して帰国して来たのだが、そのため彼らはたちまち閉門を命じられた。
 幸か不幸か、経四郎は、パリ滞在中に病気して、いっしょに帰国することが出来なかった。病気が癒っても、日本への適当な船を見つけることが甚だ困難であった。
 そして彼が、ようやくフランス船で、一人そっと帰って来たのは、慶応二年の秋になってからのことであった。だから彼は、満三年ほどパリで暮したことになる。――
「そのギロチンを仕入れられたのはむろん老公だが、教えたのは君だろう。それにしても、フランス政府がよくそんなものの輸出を許可したものだな」
「いえ、それは特別に作らせたのです」
 と、経四郎は小声でいった。
「いま、パリの代々の死刑執行人サンソンという名を申しあげたでしょう。フランス革命のとき王様と王妃を処刑したのはその四代目ですが、まずパリの山田浅右衛門というところですな。ギロチンにかけると、血のしたたるその首の髪を手につかんで、高々とかかげて見物人に見せなければならんという習慣であったそうですが、やはりこの職業は世間からも忌《い》まれ、相続人もいやになったと見えまして、だんだんその仕事を他の人間にまかすようになり、七代目でついにこの家職を捨てたそうです。……ところが私がその八代目と知り合いになりまして、それにギロチンを作って送らせたので」
「どうしてまた、そんな男と知り合いになったのだ」
「私がパリにひとり取り残されたとき、下宿したのが、落魄《らくはく》した八代目サンソンの家だったので、その家にギロチンの設計図やら製作方法を書いたものが残っていたのです」
「ふうむ。……」
 剛腹と見える江藤新平も、さすがに妙な顔をして香月経四郎を見まもったとき、あまり遠くない前方で、ただならぬ叫喚の声が湧きあがった。

    六

「あ!」
 と、経四郎は声をあげ、次の瞬間、江藤たちに会釈《えしやく》もなく駈け出した。何か思いあたるところがあったようだ。
 さっき記したように、鍋島屋敷は四周をお長屋に囲まれている。表に面する側は士分、両側は士分以下という配置になっていることは、どこの藩邸でも同様だが、奥のほうに、元家老や重役、またそれに仕える人々の住む一劃があって、経四郎はその小さい一|屋《おく》を拝借していたのだ。
 果せるかな、騒ぎは彼の家の前で起っていた。
 そこに十人あまりの武士が集まって、口々にわめいていた。みな刀のつかを押え、中には、二、三、抜刀している者もあった。
 これに対し、家の戸口の前で、それに負けず怒鳴《どな》り返している二人の男を見て、経四郎につづいて駈けつけた川路利良が、
「――ほ?」
 と、思わず眼をまるくした。
「ここは通さん!」
「どうでも通るなら、おれたちを殺せ!」
 これも抜刀し、顔じゅう口にしているのは、邏卒姿の――あの鬼丸|多聞太《たもんた》と猿木次郎正なのであった。
 九州の田舎侍まる出しの面《つら》がまえをした連中は、近づいて来た経四郎たちに気づき、
「や、江藤先生!」
 と、さすがにひるみ、どよめいた。すぐにその、二、三人がさけんだ。
「御挨拶の前に――先生は御存知でござろう。御当家に金毛九尾《きんもうくび》の狐が巣くっておることを」
「あのようなものを住まわせておくのは、鍋島家のけがれ。――いや、さきざき藩の命運にもかかわりましょうぞ!」
「それで退治に参ったが、まさか先生もおとめはなさるまいな?」
 江藤はいましがたこの藩邸を――しかも、久しぶりに訪れた按配であったが、詳しい説明を聞かなくても、すぐにこの一場の景のよってきたるゆえんを了解したらしい。
 彼らは、ほんの最近佐賀から上京して来ためんめんに相違なかった。――新政府の時代になったものの、ただちに世の中が開国気分になったわけではない。理窟からいうと、攘夷を標榜した連中が天下をとったのだから、その政策はそのまま推進されると考えるのが、単純で正直な民衆の受けとりかただ。比較的開明分子の多かった佐賀藩だが、一面、「葉隠《はがくれ》」の武士道で洗脳され、他藩より古風頑固の連中もまた多かった。――で、この藩邸に異様なものが住んでいることを聞いて、それは捨ておけぬとおしかけて来たものに相違なかった。
 ――どうやらこれまでに殴り合い程度の争いがあったらしく、佐賀侍の中にも数人、着物の破れたものあり、鼻血を出している者あり、そして二人の邏卒のうち、鬼丸多聞太の笠は飛んでいるし、猿木次郎正の顔も紫色に腫《は》れあがっている。
 つかつかと歩み出そうとする経四郎を、
「待て待て。――あの本を」
 と、江藤がとめ、経四郎にさっき渡した書物を受けとって、自分が出ていった。
「貴公らの心情、わからんでもないが、やはりいかん」
「なぜでござる?」
「貴公らが退治しようとしている相手に大事な用がある」
「なんでござる?」
「これはフランスの法律の本じゃが、至急翻訳してもらわなくてはならんのじゃ」
 と、書物をふりかざした。
「そういうとおぬしらまた騒ぐかも知れんが、いま日本の国益のために必要必須のものとして、太政官から命令を受けて来たものだ!」
 と、大音声《だいおんじよう》でいって、にらみまわした。
「もしこのことに妨《さまた》げをすると、御老公にもおとがめがあろう。それを承知なら、やれ!」
 侍たちはざわめき、動揺し、しかし口々にぶつぶつ泡をふきながら背を見せ、立ち去っていった。
 二人の邏卒はヘナヘナと尻もちをついたが、近づいていった経四郎が、
「あぶないところだったな」
 と、声をかけると、よろめきながら、あわてて立ちあがろうとした。
「なに、大丈夫でござりますっ」
「われわれが守っておるかぎり、何ぴとも通し申さんっ」
 と、威張った。
「ありがとう」
 経四郎の声に涙があった。
 この一面へんに冷徹な若い同僚が、甚だ涙もろい別の一面を持っていることに、川路は気がついている。――それより彼は、ここに例の邏卒たちが、こんな役目をしていることに唖然とした。
 十日ばかり前、自分と経四郎がつかまえた五人の汚職邏卒たち、もっとも甚だみみっちい汚職で、それを新輸入のギロチンにかけるとおどされて、恐怖のあまり腰をぬかしてしまい、むろんそれは経四郎の冗談半分の威嚇であったから、あのあとかんべんしてもらったのだが、いまここで、こんな番犬をさせられていたとは、川路にも思いのほかであったのだ。
「非番の日、交代で来てもらうことにしたんだ。たまたまきょうは、二人来てくれたが」
 と、経四郎は川路にいった。
「佐賀人はあぶないのでね。虫の知らせが的中した」
 戸をあける経四郎につづいて、川路と江藤たちも中にはいったが、そのまま、土間に立ちすくんだ。
 二つ目の奥の部屋に、白い小袖に緋の袴をはいた女があぐらをかいて坐っていたが、それがこちらを見て立ちあがると、
「オウ、ケイシロウ!」
 さけびながら駈け寄って来て、抱きつき、手を経四郎の首にまわし、音たてて唇に吸いついたのだ。
 それから口早《くちばや》に何かしゃべり出した。鳥の囀《さえず》りにも似た異国の言葉であったが、どうやらいままでの恐怖を訴えているものと想像された。
 ――もっとも、川路はこの異人女には、先日のギロチン実験の際に逢っている。経四郎の弟の経五郎はもちろん、江藤新平も、その存在は彼女が去年の夏日本にやって来たときから知っている。
 ただ、この碧眼の女が日本の巫女《みこ》の姿をしているのを見たのははじめてであったのだ。しかも、向うの部屋には、お神楽《かぐら》で見る火焔太鼓や、白木の台に、米を盛った三方《さんぽう》やら、まるい鏡やら、弓やら数珠《じゆず》やら、笹の葉やら、妖しげなものが、ならべられているのが見えた。
「わかった、わかった」
 彼女をおしのけて、経四郎はいった。
「みなさん、ごらんだぞ」
 金髪の巫女は、はじめて経四郎以外の人間に気がついたようだ。
 いっぱいに見ひらいた碧い眼は、川路にも、それが人間の眼ではない、摩訶不思議な宝石のように見えた。いや、それはいまさらのことではないが、こんなに美しい生物がこの地上に存在するのかと、神秘な思いにたえない。――
 それが、なに思ったか、こんどは日本語でしゃべり出した。
「ワタシ、ニホンノカミサマ、オイノリシテマシタ。アマテラス、オーミカミ、オイノリシテマシタ。……ニホンノカミサマ、キットワタシ、タスケテクレマス、ワタシ、シンジマス。……」
「わかった。そのことについて、もっとたしかな方法をこれから相談するのだ。お前、しばらくあっちでひかえていなさい」
 と、経四郎は、奥の部屋を指さした。
 立ち去る女の背中には、緋の袴あたりまで、金髪が流れている。――川路は、ふとさっき佐賀侍の一人が、「金毛九尾の狐」とさけんだことを思い出した。しかし伝説の玉藻《たまも》の前《まえ》も、これほど妖しく美しくはあるまい。
 それまで棒立ちになってこの光景を眺めていた江藤新平が、へだての唐紙《からかみ》がとじられると、さすがに感にたえたようにつぶやいた。
「いまのが、キッスというやつか。……」
「フランスでは、ベーゼと申します。あちらの習慣で、怖れいります」
 経四郎は、いまになって、ちょっと赤い顔をした。――この男に、そういう恥じらいもあるところを、川路は好ましく思っている。
「それにしても、よくあんなこの世のものとも思えぬ美人が、おぬしを追っかけて来たものだな、改めて感心する。……いったい、どうして知り合いになったのだ?」
「なに、私がパリで下宿していた家の娘なのですよ」
 と、経四郎は答え、一息おいて、いたずらめいた微笑を浮かべた。
「それ、さっき申しあげたパリ代々の首斬り役、サンソン一家の九代目にあたる娘で、エスメラルダ・サンソンと申しますが。――」

    七

 一応、座敷にはあがったが、いまの経四郎の言葉に一種の衝撃を受けて、みな黙りこんでいた。江藤はもとより、弟の経五郎も、先日ギロチン刑に立ち合った川路も――ただフランスの女だから器械の説明書でも読ませるために呼んだのだろう、と漠然と考えただけで――その素性を聞かされたのは、これが最初であった。
 さて、改めて経四郎がいう。
 実はあの女をこの佐賀屋敷に住まわせたのは、それでも屋敷外の東京のどこかに住まわせるより危険が少ないだろうと思ったからだが、ごらんの通りの始末だ。以前からの住人はだんだん黙認してくれて来たようだが、いれ代りたち代り国元から出て来る連中が物騒《ぶつそう》だ。――ただいま、フランスの刑法書の翻訳の件でひとまず追っぱらってもらったけれど、いまの様子を見、またさきざきのことを考えると、それも万全の盾《たて》とは思えなくなった。江藤さん、どこか安心出来る匿《かくま》い場所にお心当りはありますまいか、というのだ。
「さ、そういわれても」
 と、江藤も自信のない顔をした。佐賀人に一種の頑冥性のあることは、彼自身よく承知している。
「香月、おはんもいろいろ苦心するのう。……」
 と、川路はつぶやいた。
 彼は先夜、エスメラルダが虫《むし》の垂衣《たれぎぬ》といういでたちで牢屋敷に来たことを思い出した。まさかフランスの衣裳を着たまま牢屋敷に出入するわけにもゆかないので、あれは経四郎の苦しまぎれの便法だろうと思っていたが、それどころか経四郎は彼女を、この住居でも日本の巫女《みこ》姿によそおわせていたのである。
 むろん頑固党に対する偽装に相違いなく、経四郎自身の弾正台に対する水干姿と同根の発想だろう。――しかも、それでもなお心もとない雲ゆきを、川路も了解した。
 といって、彼もあの異国の美女をどこへ連れていったらいいか、見当もつかない。
「兄上」
 と、弟の経五郎が、心配そうに、考えあぐねたように小声でいった。
「あちらに帰すわけにはゆかんですか?」
 そのとき、外で大声が聞えた。
「ここ通すことは相ならんっ」
「いやいや、いかん、お引きとり下さい!」
 例の二人の邏卒だ。――それに対して、叱りつけるような、しゃがれた声がする。
 耳をそばだてた経四郎の顔に狼狽と困惑の表情が浮かんだが、すぐに彼は声をかけた。
「おい、その人はいい。お通ししてくれ」
 はいって来たのは、一人ではなかった。一人は六十前後の老人であったが、もう一人は高島田に結《ゆ》った美しい娘であった。
「や、お縫どのもいっしょか」
 経四郎はいよいよ当惑した声を出したが、老人も意外そうに、
「おう、江藤か」
 と、やや驚いた眼になった。
 江藤が挨拶すると、経四郎は川路を弾正台の同僚だといってひき合わせ、また老人と娘を、佐賀藩の元重役で、いまは兵部省少丞という職にある真鍋直次《まなべなおつぐ》氏とその令嬢のお縫さんだ、と紹介した。
 真鍋直次は経四郎のほうに向きなおった。
「ちょうど殿様のところへ御機嫌うかがいに参上したところへ、いまの騒ぎの知らせがあった」
 半白のチョンマゲをのせた老人は、いかにも好々爺《こうこうや》の相であったが、同時に苦《にが》り切ってもいた。
「このまま日を過しておくと、いずれよくないことが起る――」
 と、いいかけて、ふと隣室のほうに眼をむけて、
「――おるのか?」
 と、訊《き》いた。
「おります」
 答えて、経四郎は声をかけた。異国語である。ただ、エスメラルダという名だけがほかの人間には聞きとれた。隣りで、
「ウイ」
 という返事が聞え、やがて小声の、しかし異様な歌声が流れはじめた。いや、歌ともいえない、呪文のような節まわしであった。
「アチメ、オオオ、アメツチニ、キユラカスワ、サユラカス、カミワガモ、カミコソワ、キネニキコウ、キユラナラバ。……」
 真鍋老人はうすきみ悪そうな顔をした。
「なんじゃ、あれは?」
「日本の古代の神楽《かぐら》歌です」
「なに、あれが日本語」
「私がある神社の老|巫女《みこ》から習って来たのを教えたのですが、なんの意味だか、教えてくれたほうも知らないのですよ」
 経四郎は、ここに来て、はじめて笑った。
「しかし、あれを歌っていれば、当人にこちらの話は聞えないでしょう」
「経四郎」
 真鍋直次は気をとり直したようだ。
「何度もいったことじゃが、あの女を生国《しようごく》に帰せ」
「私も何度もいったのですが、あの女がきかないのです」
「きかないですむことではない。あの女がついておるかぎり、お縫がどうにもならぬ。お縫はもう二十二にもなったぞ。いつまで待たせる?」
「お父さま、そんなことを」
 お縫が、あわててとめた。頬がくれないに染まって、
「わたしのことなど、どうでもいいのです。そんなお話のためにここにおいでになったのですか」
「ああいや、そうではない。そうではないが、経四郎のためにいうのだ。これ、お前ら兄弟はこの直次が育ててやったやつだぞ。……」
「お父さま!」
「ああいや、恩に着せるではない」
 老人はまた舌をもつれさせた。いかにも好人物らしかったが、しかしどうしてもいわねばならぬと決心しているようで、
「わしが惚れ込んで育てた兄弟じゃ、とくに経四郎、お前は将来大成するやつだと見込んでおる。それが、相手もあろうに毛唐の女などとくっついて離れぬとは、こりゃ天魔にでも魅入られたか。――巫女《みこ》などに仕立てて糊塗《こと》しようとしても、だれがごまかされるか」
 声ふるわせていう。
「お前は、弾正台とやらにはいった。いかなる職であれ、必ずお前はえらくなるじゃろう。わしはそう信じておる。しかし、あんな化け物がとりついておっては、その見込みはない。出世の見込みは、絶対にない。――こうなっては、もう甘い顔をしてはおられぬ。経四郎、明日にでもあの女をフランスに帰せ!」
「それが、そうは参らぬので」
 と、経四郎は江藤のほうをながし眼で見た。
「江藤さんからの御依頼で、大至急フランスの刑法の本を翻訳せねばならぬ御用があるのですが、それにはあの女がいてくれぬとだめなのです」
「なんじゃと?」
 真鍋老人はじろっと江藤に眼をやったが、すぐに、
「そんな用は、半年も一年もかかるまい。――よし、その用はすませろ。しかし、いま大至急と申したな。至急という以上、一ト月もみたらよかろう。その仕事をおえたなら、よいか、すぐに帰せ!」
 と、ひざをたたきながらいった。経四郎は、うっと詰まった。
「それにじゃ、殿も先刻の騒ぎを聞かれ、経四郎の女には困ったものじゃ、と仰せられたぞ」
「はあ?」
「殿にそんな御心配をかけてよいか。家中の悶着のたねを御当家に住まわせてよいか!」
 とどめを刺されて、これには一言もなく、経四郎は馬鹿みたいに相手を眺めていたが、
「わかりました」
 と、うなずいた。
「仰せに従いましょう」
「やっ、あれを帰すか。いつ? それはいつ?」
「まあ、その仕事がありますから、大体一ト月前後。――いえ、一ト月以内」
 と、きっぱりいった。
 隣りでは、意味不明の神楽歌の歌声がつづいている。
「アチメ、オオオ、サツオラガ、モタキノマユミ、オクヤマニ、ミカリスラシモ、ユミノハズミユ。……」
 ――経四郎、そんなことを請け合って大丈夫なのかと、川路が心中、首をかしげたとき、経四郎がいい出した。
「伯父上、いままことに過大の御期待のお言葉を頂戴して甚だ恐縮ですが、私、弾正台で将来必ず出世すると仰せられましたな」
 ――彼はこの真鍋直次とは血縁はなかったが、ふだんから伯父上と呼んでいるのであった。
「おう、あの女狐《めぎつね》から離れたならばじゃ」
「さればです。――ところで、この川路君ですが、この人も同郷の大先輩西郷先生から、治安関係の未来の指導者だという太鼓判を押されている人です」
「おはん、突然、何を馬鹿な事《こつ》をいい出すか」
 と、川路はめんくらった。
「なに、この人は薩人か」
 真鍋直次は、ちょっと眉をひそめた。
「他藩の人間を、そう気楽に当お屋敷にいれるのは感心せんな」
 彼は、兵部省でさらに上に位置する薩州出の大官の威張りぶりから、薩摩人にあまりいい感じを持っていないのであった。
「ですから、実は私は、この人と出世争いというやつをしているところなのです」
 経四郎は、老人の苦情にはとり合わず、平気でそんなことをいった。
「ひとつ、伯父上に安心していただくために、この人との競争ぶりを見ていただくことにいたしましょうか」
「競争ぶり? どんな競争?」
 と、老人は眼をむいた。
「それをわしに見せるとは」
「左様、弾正台には、いろいろな事件が持ち込まれます。またわれわれも探して歩きます。そういう事件をですな、これから起る事件のうち難しいやつを、二つ三つ、ないし、四つ五つ、川路君と私と、どっちが早く、どっちが正しく解決するか、それを御覧にいれたいと存じますので。――」
 そういいながら、香月経四郎は川路のほうをむき、真鍋老人に見えないほうの片目をつぶってみせた。
 当座しのぎの調子を合わせてくれ、という合図だろう、と思ったが、突然の奇態な提案に川路利良はあっけにとられ、また馬鹿馬鹿しくなった。
 そういえばここへ来る途中、経四郎がリヴァルになろう、とか何とか口走ったが、それは何もひとに見せるためのものではない。――それにどうやら、この老人は、薩人に対して反感を持ってもいるようだ。
「それは面白い。おれにも見せてもらいたい」
 と、江藤がニヤニヤしていう。――この人物も薩摩に挑戦的なところがある。
「そげな話はともかく、香月君、きょうはこれでおいは失礼する」
 川路が立つと、経四郎はあっさりと、
「そうか。おい、経五郎、お見送りしろ」
 と、命じた。
 川路が外に出ると、大小二人の邏卒が直立不動の敬礼をした。よほど先夜、懲《こ》りたらしい。が、それに笑う余裕もなく、川路は腕組みをして門のほうへ歩き出した。
 若い経五郎がついて出て来た。そして、思いがけなく、あの娘も追って出て来た。――あの老人の娘というのが信じられない、黄昏《たそがれ》の中にも匂うような清純な美しさを持った娘であった。
「わが兄貴ながら、どうも奇妙な兄です。頭がよくって腕がたち、ふつうは優しく尋常なのに、どこか奇矯なところがある。僕にもよくわからん兄貴だ」
 と、経五郎がいう声を、四、五歩の背後に川路は聞いた。
「あなたにも、実に申しわけない。しかし、とにかくあの女をフランスに帰すという確約をしてくれたので、僕もほっとしました」
「ほんとにあのひとを帰すでしょうか?」「えっ、どうして?」
「どうしてだか、わたしにもわからないけれど。……」
「あなたの御心配はごもっともですが、いくら兄貴でも、あの女を妻にするなどいうことは出来ない、ということはわかっているだろうと思うのです。あなたは、兄のいいなずけではありませんか。自信を持って下さい。……ほんとうに、どうして兄貴は早く祝言をあげないのだろう?」
「あの女のひとが日本に来たのは、去年の夏でした。それまでも、経四郎さんは。……」
 吐息のような声であった。自分にとりあってくれなかった、という意味だ。
「まさか、兄貴はあなたを。――」
「いいえ」
 お縫は、小さいながら、きっぱりといった。
「経四郎さんが……わたしを愛していて下さいますことを、わたしは信じているのです」
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  怪談築地ホテル館


[#この行1字下げ] 築地ホテル館鐘塔下の広間にほとんど胴を切断されたる屍体ありたるに、発見者は、あるいは殺人封印の誓いをたてありとその証を示し、あるいは犯行時塔上にありとその証を示し、究明甚だ困難致し候事件の顛末、次の如くに御座候。
[#地付き]――「弾正台大巡察・川路利良報告書」より――

    一

「津下《つげ》四郎左衛門は私の父である。(私とは誰《たれ》かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名《そのな》は只《ただ》聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木《さうもく》と同じく朽《く》ちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、若《も》し私がここに一言を附け加へたら、人が『ああ、さうか』とだけは云つてくれるだらう。其《その》一言はかうである。『津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。』」
 鴎外の史伝「津下四郎左衛門」の冒頭の一節である。
 この短篇は、津下四郎左衛門の子が語るという形式で、京で横井|小楠《しようなん》を暗殺した刺客たちの一人、津下四郎左衛門が、いかなる素性、いかなる思想の人間であったかを説き、父のために弁ずる内容になっている。
「父は嘉永元年に生まれた。幼名は鹿太《しかた》であつた。」
 と、あるから、事件を起した明治二年には、数え年でもまだ二十二歳の若者であった。
 鴎外は、備前国上道郡浮田村の庄屋の子に生まれた津下が、少年時代からの攘夷騒ぎに深刻な影響を受け、黒船の威嚇《いかく》に屈するのは売国奴の行為だ、と信ずるに至り、剣を学んでいわゆる志士となり、上田立夫、柳田徳蔵、鹿島|復之丞《またのじよう》、前岡力雄、中井|刀禰雄《とねお》らの同志を得て、ついに、かねてから耶蘇《やそ》教の信奉者と見られていた参与横井小楠の暗殺をはかるに至った経過を述べ、さらにその日のことについて、次のように書いている。
「明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠《かご》が、寺町を御霊社の南まで来掛《きか》かつた。駕籠の両脇には門人横山助之丞と下津《しもづ》鹿之介とが引き添ってゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取《ざうりとり》が附いて供をしてゐる。忽《たちま》ち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間《ひあはひ》から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。」
 そして、こういう異変にそなえてついていた門人横山や下津らが暗殺隊と乱闘し、さらに小楠自身も駕籠から出て、短刀をふるって津下四郎左衛門と斬り合った光景を描写し、
「四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒《いかり》を発し、勢《いきほひ》鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髻《もとどり》を掴《つか》んで首を斬つた。」
 と、記している。
 津下四郎左衛門は、その首をひっさげて駈け出した。
「此時《このとき》横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の肩尖《かたさき》を一刀深く切り下げた。柳田は痛痍《いたで》にたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。」
 追撃された津下四郎左衛門は、小楠の首を投げつけて、ついに逃走した。
 ――さて、弾正台大巡察|香月経四郎《かづきけいしろう》と川路|利良《としよし》の第一の探偵争いの物語は、この横井小楠遭難に胚胎《はいたい》する事件にからまる。この暗殺は、むろん討たれたほうにとっても討ったほうにとっても惨劇にちがいないが、それとは別個の途方もない悲喜劇が起ったのである。それは後述するとして、ここではそれが右の記述の中に出て来る人名に淵源《えんげん》するとだけいっておこう。

    二

 十一月二十三日の昼過ぎ、ちょうど弾正台に登庁していた香月経四郎と川路利良が、詰所となっている一室でお茶を飲んでいると、上役の少疏《しようそ》長坂九内と少巡察の杉鉄馬がやって来て、話に聞くギロチンを参考のために一見したい、と申し込んだ。
 例のフランス輸入の断頭台は、いまも小伝馬町の牢屋敷の斬罪場に作らせた小屋に収納されている。
「これからでもよろしいか」
 と、経四郎が気軽く訊《き》くと、結構だ、という返事であった。
 経四郎はしばらく考えて、
「長坂さんはあれをごらんにならんほうがいいのじゃないですか」
 と、長坂九内の顔を見た。
 長坂九内は、四十半ばの、もうひたいがつやつやと禿げあがり、えびすさまのように円満な顔をした人物であった。実際、だれにも愛想がいい。一面少なからずそそっかしいところがあって庁内の笑いをかい、仕事上笑ってもいられない失態をよくひき起す。彼の役職の疏《そ》というのは、まあ書記官のことだが、彼の書類にしばしばとんでもないミスがあるのである。それでも、持前の円転滑脱で何とかしのいで来たが、とにかくニガ虫だらけの弾正台には珍しい存在だ。
「いや、これが是非いちど見たいというのでね」
 と、九内は、同行した杉鉄馬をかえりみた。
 これは蒼黒い顔色の、何か陰惨な感じのする三十男で、背も高く、その名の通り鉄のような筋肉の持主であった。少巡察だが、なかなかの使い手だと聞いている。それから、いまの職でも極めて有能だと聞いている。
 二人とも肥後熊本、細川藩出身で、この夏、京都の弾正台出張所から転任して来た。
「そのギロチンとやらの切れ味を知りたいのでござる」
 と、彼はいった。
 経四郎は首をかしげた。
「切れ味といわれても、処刑許可済みの罪人があるかどうか、いまちょっとわかりませんが」
「藁束《わらたば》でようござろう。あちらに用意してあるのですが」
 と、杉鉄馬はいった。まだ経四郎の都合も聞かないうちから、もうそんなものを用意してあったとは、相当に押しつけがましい男だ。
 しかし経四郎は、ふっと笑っただけで、
「それじゃ参ろうか。川路君、君もゆかんか」
 と、いった。川路はうなずいた。
 玄関ではない出口から四人は外に出た。途中の庭で、なるほど杉は、何個所か、作法通り固く縛った大きな藁束《わらたば》を拾って、抱きかかえた。
 すると、赤門の外で、門番と押し問答している大小二つの影があった。
 それが、こちらを見ると、一人が、
「おう、長坂さんではありませんか」
 と、大声をあげた。
 長坂九内と杉鉄馬は、はっとしたように立ちどまった。
「それに、杉鉄馬。……」
 もう一人がうめくようにいうと、こちらの二人は、観念したようにそのほうへ歩いていった。
「河上、何のために来た」
 と、九内が訊く。
「横井小楠暗殺の下手人どもの助命嘆願のためでござる」
 と、相手はいった。
 年は三十半ばか、小柄で、痩せていて、蒼白い顔をして、どこか学者のようなもの静かな感じのする男であった。
「ほう、あなたはここにおられたのか。これはよいお人に逢った。是非、尹《かみ》の九条卿に御|引見《いんけん》たまわるよう御周旋願いたい」
「ま、まさか、貴公のような人間を九条卿に。――」
 九内は眼をまろくして、とんでもない、といった風に手をふった。
「だいいち、尹はふだん登庁なされぬわ」
「では、それに準ずるお方に」
「それもむずかしい。紹介もない外部の人間の陳情に、弾正台はいちいちとり合ってはおれぬのじゃ。なあ……川路」
 と、助けを求めるようにふりむいた。
 近づいた川路と経四郎を、これは弾正台の大巡察と紹介したあと、九内は、
「こちらはわしと同郷の肥後人、河上|彦斎《げんさい》という御仁で」
 と、いったあと、ごていねいに、
「それ、例の佐久間象山先生を斬った。――」
 と、つけ加えたのは、こんな人間をとりつぐわけにはゆかない、と、同意を求めるつもりであったのだろう。
 川路はもとより経四郎も、はっとしてその人物を眺めた。京都で佐久間象山が殺されたとき、ちょうど経四郎は日本にいなかったが、それでもその暗殺の一件は、類似の事件と異って印象されていたからだ。
 河上彦斎は平然として、逆に経四郎の水干《すいかん》姿を、はて異《い》なやつがおる、といった風な眼で見返し、
「じゃから、あなたに御紹介願いたい、と申しておる」
 と、九内に眼を戻した。
「おいやか」
 長坂九内の顔に恐怖の色が浮かび、こんどは助けを求めるように杉のほうをふり返った。
 経四郎と川路は、その杉と、河上彦斎の同伴者が、ただならぬ雰囲気でにらみ合っているのを見た。
 その同伴者は、小柄な彦斎より三十センチ以上も背が高かった。もともと大兵《だいひよう》の上に、足に大きな朴歯《ほおば》下駄をはいていたからだ。それが、凄じい頬髯をはやして、いわゆる肥後モッコスが肉塊と化したような精悍《せいかん》の気を放射している。
「杉鉄馬だな」
 と、彼は低い声でいった。
「おぬし、おれの兄貴を殺したのか」
「殺した? いや」
 杉は首をふりかけて、
「そういわれれば、そういえる」
 と、うなずいた。決して相手の気魄に負けていない面《つら》だましいであった。
「おぬしの兄貴は、切腹した。その介錯《かいしやく》をしてやったのは、まさにおれだからな」
「介錯?」
 朴歯下駄の髯の若者の眼は凄じい光をおびた。
「熊本では、私怨をもっておぬしが兄を土壇《どだん》に置き、試《ため》し斬りの刑にかけたと噂をしておる。元来が熊本ではお試し御用をしておったおぬしだ。あり得ることだ!」
「そういうお役目をしておったから出た、あらぬ噂だ。またおぬしの兄貴下津鹿之介と、まあ剣術の上の好敵手と目された仲じゃったから出た悪口だろう。……しかし、人の口に戸はたてられぬ」
 杉鉄馬はいった。
「しかし、牛之介。……おぬしの兄貴はせっかく横井先生の護衛役となりながら、その役目を果せずむざと刺客に先生の首をとられた。その責任感から切腹した、としたほうが、下津家代々の恥とならぬと思うがどうじゃ?」
「う」
 相手はつまったが、すぐに朱鞘《しゆざや》のつかに手をかけて絶叫した。
「おぬしが兄を試し斬りにしたのか、せなんだのか、それだけをいえ!」
「どうでも思いたいように思え」
 杉鉄馬は不敵なうす笑いを浮かべた。
「細川藩お試し御用としても、弾正台少巡察としても、どっちの立場でも杉鉄馬、責任をとる」
 と、うそぶき、
「おい、弾正台の役人を斬るつもりか。いや、兄貴ほどの腕とも思えぬおぬしが、兄貴と剣名を争ったこの杉鉄馬を斬れるつもりか。――やるか?」
 抱《かか》えていた藁束を放り出し、これも刀のつかに手をかけた。
「待て。……待て待て」
 それまでおろおろしていた長坂九内は、悲鳴のような声をあげた。
「下津、お前は弾正台へ陳情に来たので、その役人と刃傷沙汰《にんじようざた》を起しに来たのではあるまい。そんなことをしては、何もかもぶちこわしになるではないか。……河上、とめてくれ、おぬしもそうは思わんか」
「まったくです」
 このただならぬ雲ゆきを眺めながら、河上彦斎はしずかに笑っていたが、
「これ牛之介、お前はかたき討ちをするために九州から出て来たわけではあるまい。おれの用心棒としてついて来たはずだぞ。きょうのところは、やめろ、やめろ」
 と、いった。
「用心棒じゃと? 河上、おぬしに用心棒がいるのか」
「私はもう人を斬らぬことにしておりますのでね。……それ、象山先生のお命を頂戴して以来」
 眼を地上に移して、
「杉、おぬしのいま投げ出したのは何かね」
 と、訊《き》いた。
「そりゃ、試し斬り用の藁束ではないか」
 杉鉄馬は硬直していた肩を、ぐいとそびやかして、
「左様、これからある試し斬りをやるのに出かけようとしておったところだ。ただし。――」
 と、そこで口ごもった。この相手に説明の必要はない、と考えたからだろうが、河上彦斎のほうもそれ以上尋ねる気もないようで、
「いいものを見つけた。そいつをもらってゆこう」
 と、歩み出て来て、藁束を拾いあげた。
 ふしぎなことに、杉鉄馬はその間、棒立ちになったまま、それをとめようとしなかった。相当に闘志旺盛な気性であることはいま見た通りだが、それでもこの相手には――小柄な学者のような男なのに――理非を超えた恐怖心があるように思われた。
「おい、持ってけ」
 と、河上はそれを朴歯下駄の若者にわたして、
「われわれは陳情に来たのじゃ。それが弾正台の役人と喧嘩しては、いかにも本末顛倒。……牛之介、きょうのところはひきあげて、また出直して来ることとしよう」
 と、いった。
「や、そうしてくれるか」
 長坂九内は安堵のあまりヘナヘナと崩折れんばかりになり、
「それに河上、あの横井先生の暗殺一件については、かねてから弾正台の上《うえ》つ方《かた》におかれては刺客らに御同情あり、その処刑についてはいまだに承認せられておらん実情だ。これ以上、陳情する必要はあるまいと思う」
「だから弾正台に来たのでござる」
 と彦斎は答え、じろっと杉鉄馬を見やって、
「おい杉。……下津鹿之介の死にざまは、この小楠事件が無事落着したあと、改めて調べるぜ」
 と、いうと、用心棒を促し、背を見せて飄然と去っていった。白い冬の日ざしの中に、それは不吉な二羽の鴉《からす》みたいな印象を与えた。

    三

「ゆきますか」
 と、香月経四郎がいった。
「ど、どこへ?」
 長坂九内は放心したような顔をむけた。
「牢屋敷へ」
 長坂よりも杉鉄馬のほうがさきにわれに返って、
「参る!」
 と、いった。
 河上彦斎たちとは反対の方角へ歩き出してからも、九内は、二、三度ふり返り、
「ぶるる、あんな物騒なやつを、大忠どのたちに逢わせられんわい」
 と、つぶやいた。
 ――五年前の元治元年七月十一日、みずから当代第一の人物と称し、その自負から怖れげもなく堂々と開国論を唱えた佐久間象山は、西洋|鞍《ぐら》をおいた馬で京の三条木屋町を通行中、二人の刺客に襲われて、鞭をふるって逃れようとした。と、そのゆくてに待ちかまえて動かぬ三人目の刺客に、かえって馬のほうが竿《さお》立ちになり、たまらず象山は落馬した。その刹那刺客の刀身がひらめいて象山の胸に突きをいれ、つづいて第二撃でその有名な長い顔をたたき斬り、疾風のごとく消えてしまった。
 この刺客が肥後の河上彦斎という男であった、ということは、さっきいったように香月経四郎も知っていたが。――
「しかし、開国論者の象山を斬ったのだから、海江田《かえだ》大忠らも、小楠の刺客以上に尤《もつと》も千万と思われるでしょうが」
 と、経四郎はいった。
「うん。……いや、やったことではない。あの河上彦斎という人間がこわい。なにしろ、あのころ京洛で人斬り彦斎と評判された男じゃからな」
 と、長坂九内は首をふり、それからこんなことをしゃべった。
「あのころわしは細川藩の京屋敷の留守居役をしておったがよ。河上は脱藩同様にして京都に来てあばれておったが、同じ藩士だから、その噂はよく耳にはいった。何でも志士たちが料理屋で酒を飲んでいるとき、一人が京都守護職配下のなにがしかの暴虐ぶりを憤慨してしゃべった。すると、いつのまにか座から消えていた彦斎が、ぶらりと帰って来て、諸君、これをサカナにもっと飲もう、といって、ゴロリと投げ出したのが、いま話に出た幕吏《ばくり》の生首じゃったという」
「ははあ。……そんなに凄い人柄には見えませんでしたが」
「だから、いっそう凄い。人間を人間と思っては斬れない。おれは茄子《なす》か胡瓜《きゆうり》と思って斬っている、といったそうだからな」
「なるほど」
「わしが大忠どのらへの陳情をことわったわけがわかるじゃろ。あんなやつをひき逢わせては、あとあと肥後人のためにろくなことはない」
 小伝馬町へ歩きながらの会話だ。
「ま、細川藩には珍しい勤皇の志士というやつで、本来ならもっといまの世の中に出て来ていい人間のはずじゃが、何でも反対のへんくつ男で、どうやらこんどは新政府のやりかたに不平があるらしく、熊本でも剣呑《けんのん》がられて、たしか細川藩の飛び領|豊後《ぶんご》の鶴崎というところへ追いやられ、いまそこの屯所の隊長を命じられておるはずだ。それでもそこで不平分子を集めて蠢動《しゆんどう》しておる――とか聞いておったが、あんな用件で上京して来ようとは思わなんだ」
「横井先生は肥後の大先輩でしょう。それを暗殺した連中の助命嘆願に出て来るとは妙ですな。しかもわざわざ九州から」
「なに、河上は、きちがいじみた旧弊党だからね」
 そういわれれば、一見もの静かなあの人物の面上に、何かものに憑《つ》かれたような妖しい翳《かげ》があったと思い出さないわけにはゆかない。
「ところで、あの河上のお供をしておった用心棒とは何者ごわすか」
 それまで黙々としていた川路が、はじめて口をきいた。
「あ、あれは同郷の軽輩で、いま河上の弟子となっておるらしいが。……」
 九内はちらと杉のほうを見やり、口ごもった。川路はさらに訊《き》く。
「杉が、あの男の兄貴をどうとかしたといっておりもしたな」
「あれでござるか」
 と、杉鉄馬のほうが返答した。
「あれは下津牛之介という男ですが、いま聞かれた通り、あれの兄下津鹿之介は、小楠先生の門人でしてね。しかもなかなかの腕自慢で、自分から小楠先生の護衛役を志願した。ところがその小楠先生をむざむざ討たれてしまった。これは何ともとり返しのつかない失態ですから、他の護衛役ともども一応京の弾正台で実情を取調べたのですが、その拘禁中、下津だけ、以前からの高言の手前大いに恥じ、かつひっ込みがつかなくなったのでござろう、ちょっとした隙《すき》に切腹してしまったのです。……」
「おはんが試し斬りをしたとか何とかいっておったようじゃが」
「いや、それは切腹直後その場にゆき逢わせた拙者が介錯してやったのを、熊本時代拙者が藩の首斬り役をしていた関係で、京都弾正台に職を奉ずるようになってからもその役を承っておったためと、以前熊本で拙者と下津が剣術の上でちょっとした好敵手であったために、国元のほうでそんなあらぬ噂をたてられたのです。どうやら下津の弟牛之介はその噂を信じているらしいが、実にもって迷惑至極です」
 彼は長坂九内に眼をむけた。
「上役もおられるのに、勝手に試し斬りなど……いわんや同藩の士にそんなことが出来るものではござらぬ。左様ですなあ、長坂少疏。……」
「う、うん、その通りじゃ」
 九内はうなずいたが、
「しかし、あいつ、あの藁束を持っていったが、何に使うつもりか。師匠が剣鬼と呼ばれた男じゃから、何ともうす気味が悪いわい」
 と、不安そうにいった。
「何も向うに悪いことをしておらんのに、何を怖れられるか」
 杉鉄馬は肩をそびやかした。
「われわれはただの熊本人ではない。いまや天下の弾正台に籍を置いておる人間ではありませんか」
 途中、ゆき逢う邏卒《らそつ》が、こちらを見ると棒立ちになって敬礼する。
 はじめ経四郎は自分たちに向ってのことだと思っていたが、どうやらそれは杉少巡察に対しての敬礼らしい、と気がついた。
「うむ、うむ」
 と、そのたびに杉は横柄《おうへい》にうなずく。この少巡察は、邏卒たちになかなか威力をふるっているようだ。
 やがて彼らは、小伝馬町の牢屋敷についた。
 調べてみると、五日前に処刑許可の下りている死罪の囚人が二人あった。
 一人は、反政府運動のための軍資金徴発と称してある商家に押しいり、三人を殺傷した男で、一人は、隣家の倖《しあわ》せをねたんでその家の幼女を井戸に放りこんで殺した女であった。同情の余地は全然ない。
 本来なら、旧幕以来まだ斬首御用を承っている山田浅右衛門がもう処刑しているところだが、このところ浅右衛門が気分がすぐれないそうで出勤せず、そのままになっているという。
「藁束は不要となりましたが――ギロチンをごらんになりたければ、ごらんにいれますが」
 と、経四郎はいった。
「いや、実物を見るのか、それはどうも」
 長坂九内は辟易《へきえき》したが、杉鉄馬は、
「それはますます好都合です」
 と、いった。
 二人の極悪囚はひき出された。
 ギロチンが使用されることになったのは、実はあれ以来、これが二度目だ。――三角形の鉄の斧は、ふたたび半自動的に落下して、骨と肉と血の歌をうたった。
「たいした切れ味でしょう」
 ふり返る経四郎の眼に、地べたにへたりこんで土気色になっている長坂九内の姿がうつった。
「なるほど。――」
 うなった杉の顔に驚嘆の色があったが、すぐに彼は首をかしげた。
「で、これから先、死罪の人間は追い追いこれでやることになるのでござるか」
「いや、絞架の案もあるし、それはおえら方がおきめになることだが、しかし、いままでの刀をもってする斬首刑が廃止の方向へ向うことはまちがいない」
「拙者は反対でござるな」
 と、杉はいった。
「実はこの道具の話を聞き、同憂の士と懸念《けねん》しておったが、まことに聞きしにまさる無情無惨の刑具、これでは罪人のほうも浮かばれまい。いかに罪ふかき人間とはいえ、あれも人間、せめて斬り手の魂のつたわる刀をもってあの世へ送ってやるのが、日本人の古来よりの美風ではござるまいか」
 経四郎は相手の顔を見まもったきり、黙っている。
「実物を見て、いよいよこれは見逃してはおけぬという確信を持ちました。香月大巡察、せっかくながら拙者、職を賭して同憂の士とフランス製断頭台反対運動を起しますが、御了承いただきたい」
 杉は経四郎をにらみつけるようにしていい、
「長坂少疏、御同感ではありませんか。御同感なら、あなたに音頭をとっていただきたいが。――」
 と、いった。
 長坂九内は、地面から蟹《かに》みたいな泡を吹いて、あふ、あふ、と意味不明な声を出した。
 長坂九内と杉鉄馬が牢屋敷を去ったあと、川路と経四郎は話した。
「何かと屁理屈を申しておったが……香月、あの杉が、旧幕以来の山田浅右衛門をやめさせて、自分が新政府の首斬り役人になりたかと動いちょるのを知っちょるか」
「知っておる」
 経四郎は笑った。
「だから、何をいうかと連れて来たんだ。しかし、首斬り役人になりたいとはなあ」
「あれでなかなか収入《みいり》のよい職らしか。それに杉は元来細川家の首斬り役も勤めておったっちゅうから、蟹は甲羅に似せて穴を掘る。あの男からすりゃ新政府の首斬り役人になる事《こつ》は当面の出世かも知れん」
 ――つまり、そのために杉はギロチンにケチをつけに来たわけだ。
「それにしても、きゃつ相当に有能で、仲間や邏卒たちにも信望があるらしか。何かといえば罰金をとり、届け書は出さん。が、それを自分のポケットにいれるわけじゃなく、仲間や配下にふるまっちょる」
 ――川路大巡察の眼は、同僚の行状にもひかっているようだ。
「上役にも威張ってるな」
 と、経四郎がつぶやいた。
「長坂さんの事《こつ》か? ありゃあんまり無能過ぐる」
「無能というより、長坂さんは杉に何か妙なしっぽをつかまれているのじゃないかと思われるふしがある」
「そういえばそげな感もあるな。……ただ長坂さんはあの人柄で評判は悪くなか。瓦解後、細川藩京屋敷留守居役から京都の弾正台に職を得たのも、九条卿にうまくとりいったせいと聞いちょる。あれがギロチン廃止の音頭とりになると、それはそれで馬鹿には出来んと思うが」
「おれは別にギロチンの推進者でもないつもりだがね」
 ギロチンの屍体のあと始末をしている牢役人や邏卒の姿を眺めながらの対話であった。邏卒は一ノ畑曾八だ。屍体は棺桶にいれて、いちじ屍体置場に収容し、やがて小塚ッ原に埋葬にゆくのであった。
 そのギロチンで、ある人間のことを思い出したらしい。
「香月、例のフランス刑法の翻訳は進んどるのか」
「うむ、まあ何とか。……」
「一ト月くらいであのエスメラルダをフランスに帰すと約束したが、大丈夫か。こうっと……もう半月たったぞ」
「うむ、まあ。……」
 香月経四郎は、あいまいな顔をした。

    四

 三日後、ふと経四郎が、
「川路君、実はあしたエスメラルダと築地居留地にゆくことになっているのだが、いっしょにゆかんか」
 と、いった。川路は眼をパチクリさせた。
「そりゃまた、どげんしたわけじゃ」
「あの女、日本に来て一年以上になるが、佐賀屋敷から、白昼、外に出たことがない。せめていちどは東京を見たいと哀願されておった。といってあちらの姿で市中を練り歩かれては、見物どころか見世物になるのが落ちだ。そこで居留地を思いついたわけだ。あそこは純粋な東京とはいえんが、ともかく異人のための町だから、そんな心配はあるまい」
「なるほど」
「で、せめて日本での名残《なご》りの外出をさせてやろうと考えてね」
「――香月」
「なんだ」
「やっぱり帰す気か」
「やむを得んなあ」
 川路はいささか拍子《ひようし》ぬけがした。
 その翌日、約束した午後三時ごろ、川路は築地居留地にはいる橋の一つ、真福寺橋で待ち合わせ、香月経四郎とエスメラルダと逢った。
 エスメラルダは駕籠に乗って来た。彼女は、きょうは巫女《みこ》姿でもなければ、虫の垂衣《たれぎぬ》もつけていなかった。
「ボンジュール。――」
 と、いいかけて、彼女はすぐに、
「コンニチワ、ムッシュー川路」
 と、いいなおし、薄紫のふくらんだ長いスカートの中の脚を折った。
 ボンネットとかいう帽子の広い鍔《つば》で冬の日光をさえぎっているのに、黒いレースの紐であごをくくった顔は白い光をはなって浮かびあがっているようで、異国の女とはいえ、妖艶、とはこのことか、と、川路もまぶしいほどの思いがした。
 しかし、途中ちらっちらっと横眼《よこめ》で見ると、どこか無邪気ないたずらっ子のような感じもある。――とうていパリ代々の死刑執行人一家の娘とは思われない。
 築地居留地は、東側は河口に面しているが、あと三方は広い掘割に囲まれ、橋のかかった場所には番兵の小屋があり、規則上は、怪しい挙動の者は呼びとめてとり調べることになっている。
 そこをはいると、右手にまたそこだけ細い堀をめぐらし、十幾つかの屋根のかたちをそろえた一|劃《かく》があった。廓《くるわ》だ。
 経四郎とエスメラルダは、そこで異国の言葉で会話をはじめた。
「おい、どうしても新島原が見たいそうだ」
 と、経四郎が苦笑していった。
 堀に沿ってゆき、右に曲ると道幅四十メートルほどある広い通りに出、その左側に、吉原そっくりの大門があった。門の中がいわゆる新島原遊廓であった。
 見世見世《みせみせ》の構えは立派で、格子の朱もまだあせていないのに、柱や格子には埃《ほこり》がこびりついている。昼間のせいもあるだろうか、ひやかしの客はむろん、掃除する若い衆の姿も稀にしか見えない。
 これは遊廓の未熟児であった。
 この居留地の計画は幕末期にはじまり、新政府に受けつがれ、やっと去年の十一月に開かれ、異人のために遊廓さえも設置された。ところが、さきに述べたように、意外にもほとんど外人が利用しない。諸外国の公使館などはもっと中央部に適当に置かれたし、商社はすでに根づいた横浜のほうを便利として、移転して来ない。――かくて居留地そのものが未熟児となったのだ。
 ひっそり閑とした廓の「仲之町《なかのちよう》通り」を歩く。それでも朱格子の奥に蒼白い顔が浮かび、飛び出すような眼が見送る。
 平安朝風の男と、みごとな異国風の女が通過してゆくのにびっくりしているのだ。
「やっぱり、これではどっちが見物だかわからぬ」
 と、経四郎がつぶやいた。
「あの女たちの中には、佐幕派の侍の娘がだいぶまじっておるっちゅう事《こつ》じゃ」
 と、川路がいった。
 事実は日本人を客とする遊廓となってしまったが、元来は異人相手のつもりだったのだから、ここに来た女たちは、相当な事情の果てに相違ない。
 エスメラルダは経四郎に何かしゃべりつづけていた。鳥の歌声のようであった。
「うん、いや」
 それに対して、経四郎は、日本語のこんな応答を返すのみだ。川路には、経四郎が何かほかのことを考えているように見えた。
 新島原遊廓を出て、ふつうの町にはいる。ふつうの町といっても、小規模ながら整然とした碁盤《ごばん》状の街路に、あちこち煉瓦作りの洋館が見え、木造家屋の店にもペンキなど塗って、精一杯西洋めかしている。
 店の中に、パン屋、靴屋、唐物屋、ビードロ細工屋などが目立ち、扇子や絵草紙、人形など日本の品を売る店でも、外人向けのつもりだから、何となくエキゾチックな雰囲気をかもし出している。屋根屋根を越えて、海際にならぶ倉庫群も見える。
 日本風の遊廓内より、かえってこちらのほうをぞろぞろ歩く見物人が多い。そして、さすがに居留地で、異人の姿も少なくない。
 往来の人々がふりかえるのは、ここでもむしろ経四郎の水干で、そのついでに眼がエスメラルダに動き、そこではじめてはっと大きく見開かれる。――
 そして町の向うに例の壮大な建築物が近づいて来た。外壁は黒い瓦を菱型《ひしがた》に張って、目地《めじ》に白い生子漆喰《なまこしつくい》をほどこしたもので、二階建てだが、ふつうの建物の倍の高さがある。その上に銅板ぶきの二重の屋根をおいた、まるで祭礼の山鉾《やまぼこ》みたいな塔がそびえている。去年竣工したばかりの築地ホテル館であった。
 そのころ刊行されたサムエル・モスマンの「新しい日本」にこの建物の説明があるから、それを借りるとしよう。意訳すれば、次の通りだ。
「それは花壇や小川の間にほどよく舗装された小路の走る庭園に囲まれていて、建物は二百フィートの正面と八十フィートの奥行を持ち、六十フィートの鐘塔がある。居心地のいい点では欧米の優秀なホテルに匹敵するものである。約百人の旅客を収容出来るが、ヨーロッパ並みに収容すれば二百人の宿泊が可能であろう。食堂のほかに撞球場や、長い手摺とヴェランダのある接客室がある。宿泊代は三ドルである」
 正面前の広場には、見物のためか妙に人が集まっているので、彼らは横にまわり、川路がそこの門に名刺を示して、庭から中にはいった。
 部屋は一階が六十三室、二階が三十九室、合計百二室あった。各部屋には暖炉《だんろ》がとりつけられ、ヴェランダが設けられている。なかなか立派なものだ。
 紺の制服を着たボーイに、三人は案内された。経四郎も川路も、外から見たことはあるが、内部にはいったのは実ははじめてだ。エスメラルダは例の小鳥のようなさえずりをひびかせつづけた。どうやらいろいろ批評しているらしい。
 ただ、客はほとんどない。特に異人の客が少なくて、日本人の、それも田舎から出て来た客のほうが多いらしい。
 そのためにホテルの中はがらんとして、川路には、まだ見たことはないけれど、何か西洋の寺院のような感じがした。
 その印象をいっそう深めたのは、ホテルの中央部にある大ホールであった。そのまんなかに、吹きぬけの大天井まで直径一メートル以上はある巨大な木の円柱が立ち、これをめぐって階段がとりつけられている。塔へ上る回り階段である。
「オー!」
 エスメラルダの唇から、明らかに感嘆の声がもれた。
 この建物はだれが作ったのかと尋ね、清水嘉助という日本人だと聞くと、彼女はいよいよ感心したらしかった。――このホテルは木造建築である。支柱としてむろん鉄など使用してはいない。そこで高い塔へ直接上る手段として、この太い中心柱に螺旋《らせん》階段を巻きつけるというのは、たしかに独創的なアイデアにちがいなかった。
 三人は、ボーイを先に上り出した。
 階段はなかなか急だ。しかも狭い。幅は一メートル足らずで、二人ならんでは歩けない。それでも両側には、ツルツルしたチーク材の細く優雅な手摺がとりつけてあった。
 彼らはグルグル回りながら塔の上に上った。さっき紹介したモスマンの本には六十フィート(約十八メートル)とあるが、実際はもっと高くて、塔の屋根までは三十メートル近くあった。

    五

「やあ!」
 塔上へ上って、経四郎は驚きの声をあげた。
 何人かの先客がいたのだ。少疏《しようそ》長坂九内に少巡察杉鉄馬、それに五人ほどの女性や少年、おまけにあの邏卒猿木次郎正までいる。
「おう」
 向うもまた、びっくりしたようすだ。
「御見物ですか」
「左様。ちょうど非番でしてな」
 と、杉のほうが答えた。
「ちょうど軽子《かるこ》橋の番所にこの猿木がいたものですから、それを案内に」
 猿木次郎正は、めんくらった顔で敬礼をした。――杉の威令はこの邏卒にも及んでいる風であった。
「子供たちにせがまれてな。――これがわしの家族じゃが」
 と、長坂九内は愛想よくいった。品のいい中年の婦人、それに美しい十八、九の娘、あとその妹や弟らしい構成であった。中に、まだ五つくらいの可愛らしい男の子もいた。
「そ、それが、あの……」
 彼らの眼はまじまじとエスメラルダにそそがれている。長坂九内や杉鉄馬も、経四郎にくっついているフランス娘のことは耳にしていたようだ。その好奇の眼は、たちまち感嘆の色に変った。
 しばらく、紹介や雑談ののち、経四郎たちはすぐ東向きの窓に寄った。
 この塔屋の四方、どの面にも、火燈《かとう》形の大きなガラス窓がある。銅板ぶきの屋根に立つ風見竿から四方の軒先に鎖を張り、これに日本古来の五重の塔と同様に風鐸《ふうたく》が吊るしてあった。
 その窓を通して、広い河口と、その上を動いたり泊ったりしている船が見える。多くは艀《はしけ》だが、四、五隻の外輪船や帆船など西洋の船も見える。その向うは佃島《つくだじま》と広い蒼い海であった。
 経四郎たちは、順次、窓を移しはじめた。こんな高いところから東京を一望したことはない。掘割にかこまれた居留地も、まるで掌にとるようにその全景が俯瞰《ふかん》出来る。東京と名は変えても、やはり「江戸」の町だが、その中にこの居留地だけはまるで墨絵にはめこまれた銅版画のようだ。西のほうには、冬の大空に雪をかぶった富士まで見えた。エスメラルダはよろこびの声をあげつづけた。
 一応鐘塔ということになっていて、天井からは大きな西洋の鐘がぶら下がっているが、それが鳴らされたことはなく、実際はただ展望台になっている塔であった。
「さ、そろそろゆきましょう」
 と、長坂の妻が子供たちを促した。
 見ていても微笑《ほほえ》ましい幸福な一家に見えた。ただ、いささか陰惨な印象を持つ杉鉄馬だけが――おそらく同郷なので長坂一家の行楽に同行したものだろうが――異質な混り物の感があった。
 その杉からついと離れた長女らしい娘が、ひとり西側の窓から下界を見下ろして、
「あら……あれ何かしら?」
 と、さけんだ。福々しい父親に似ぬ、冷たい感じすらする面長の美しい娘であった。母親似だ。
「え、何でござる? お汲《くみ》どの」
 杉がすぐにまたそこへ寄った。みんな集まった。
 ホテルの前の広場に、群衆が大きな輪を作っているのが見えた。そのまんなかに変なものが置かれ、二人の浪人風の男が立っていた。一人は白刃を抜いている。それを人々は見物しようとしているのだ。さっき経四郎たちがホテル館にはいろうとして、そこに沢山人が集まっているのを見たが、あれはただのホテル見物ではなかったらしい。
 変なものが置かれている――とは、台の上の藁束だ。
「あれは、河上彦斎。……」
「そして、下津牛之介。……」
 と、長坂と杉がうめいた。
 まさしく鉢巻|襷《たすき》姿で白刃をぶら下げているのはあの高名な暗殺者で、少し離れて腕組みして仁王立ちになっているのは、朴歯下駄をはいた肥後の青年であった。
 杉が訊《き》いた。
「いったい何をしようとしているのだ」
「二、三日前から、毎日この時刻、ああやって人を集めて、日本刀の試し斬りとやらをお見せなさるので。……」
 と、経四郎たちを案内したボーイが答えた。
「それが当館御宿泊のお客さまなので困っております」
「なんだと? あいつら、ここに泊っておると?」
 長坂九内は仰天した声をあげた。
「あの開化ぎらいの彦斎が、この築地ホテル館に。――」
「や、何かいっているようでござる」
 杉が、急いで、内びらきになっているガラス窓をあけた。
 すると、いままで聞えなかった風音とともに、地上からの声がきれぎれに舞いあがって来た。
「――やいっ、紅毛の夷狄《いてき》めら、耳あらば聞け――いや、神州の言語がわからなければ、そのビードロのような眼をあけてよっく見よ――日本刀の切れ味を――」
 怒鳴っているのは下津牛之介であった。
「――この藁束は人間の胴より固い。――もし日本を侮《あなど》るにおいては、なんじらの血肉をもって、三尺の秋水の味を味わわせてくれるぞっ」
 そして大上段にふりかぶった彦斎の刀身が電光のごとくひらめくと、台上の大きな藁束がザックリみごとに両断されるのが見えた。
 ――藁束は、わきにまだ四、五個積んであった。あれから、杉から奪っていったものを見本に、どこかでまた作らせたものにちがいない。
「馬鹿なまねをいたしおる。……あんなことをしたくて、ここに泊ったに相違ない」
 と、九内は舌打ちした。
「それにしても、よくいままでこのホテル館の中でゆき逢わなんだものじゃ。……」
「逢ったところで大丈夫でござる」
 杉はそらうそぶいた。
 しかし長坂九内は急にそわそわして、
「ま、きゃつらとは一切かかわり合わぬに越したことはない。早くゆこう、これ邏卒、あいつらの眼にふれず、どこぞから出る口があるか?」
 と、訊き、経四郎たちへの挨拶もそこそこに、家族を抱かんばかりにして回り階段を下りていった。

    六

 長坂らの姿が塔の上から消えたあと、しばらくしてボーイが、
「あ、忘れもの!」
 と、さけんだ。窓ぎわに一本の煙管《きせる》が残されていた。
「長坂どんのものじゃな」
 と、川路がそれをとりあげていった。
「例の粗忽《そこつ》だ。早く持っていってあげるがよか」
 ボーイが階段を駈け下りていってから、経四郎と川路は話した。
「しかし、長坂さんは家族思いだなあ。このごろの役人には珍しい」
「幸福人じゃな。弾正台の役人をさせておくのは気の毒なくらいじゃて」
「ところで」
 と、経四郎がいった。
「猿木め、ありゃただの出合いの案内人ではないな。あれも杉に何かしっぽをつかまれておるな。……つかまれるしっぽに不足のないやつだから、それはいたしかたないとして、長坂さんも、やっぱり杉にしっぽをつかまれておるな。先日、そんな感じがしたが、いま、いよいよそう感じた」
「何を見てじゃ?」
「長坂さんの娘さんがいたろう。杉はどうやらあれに気があって、娘さんのほうは敬遠している。長坂さんはむろんそれを知っているだろう。にもかかわらず、下僚の杉をこばむことが出来ない。つまり、何か弱味を握られているからだ。――と見たのは、かんぐり過ぎるか?」
「なるほど、色男だけに、そげな男女の微妙な雲ゆきには|かん《ヽヽ》がよか」
 妙なほめかたをされて、経四郎は苦笑した。
「いや、長坂どんはたしかに杉に弱味がある」
 と、川路はうなずいた。
「横井遭難事件について、長坂どんと杉以外にも当時京都弾正台におって、いま東京に来ちょる人間があったから、それに聞いてわかった事《こつ》がある」
「ほう?」
「あの事件で、長坂どんはとんでもない二つの|へま《ヽヽ》をやったっちゅう」
「どんな|へま《ヽヽ》を?」
「少し話が長くなるが、聞くがよか。……この一月五日、小楠先生を襲ったのは六人の刺客じゃが、その中の一人柳田徳蔵は、小楠先生の付け人下津鹿之介に斬られて重傷のまま捕えられた。柳田は口を割らずに死んだが、その名と素性は知られ、その事《こつ》からあとの仲間も判明した」
「………」
「そのうち、京都に潜伏していた津下四郎左衛門は一月十四日、高野山まで逃げのびていた上田立夫と鹿島復之丞は一月十六日に逮捕されたが、あと二人前岡力雄と中井|刀禰雄《とねお》は、事件勃発後いわゆる京|七口《ななくち》に非常線が張られたにもかかわらず、これを巧みにくぐりぬけて、いまだにゆくえをくらましちょる」
「………」
「長坂どんの第一の|へま《ヽヽ》っちゅうのは、この中井刀禰雄の逃走に関してじゃ。長坂どんは京都弾正台の責任者として粟田口の検問にあたっておられたが、そこへ中井が向ったっちゅう情報がはいった。中井刀禰雄の人相はわからんが、とにかく正味三尺の朱鞘の長刀をふるう髯だらけの剽悍《ひようかん》な男じゃっちゅう事《こつ》で、それで粟田口にさしかかった浪人風で長い刀をさしちょる髯男は、みんなとっつかまえてとり調べたんじゃが、そこを中井はやすやすと通りぬけた事《こつ》があとでわかった。なんと中井は、ただ髯をそって短い刀をさしていただけで見逃されたっちゅう」
「………」
「実に馬鹿げた|へま《ヽヽ》じゃが、検問を抜けたのはそこばかりじゃなかから長坂どんだけは責められんとして、あのお人はつづいて二つ目の|へま《ヽヽ》をやった」
「………」
「十四日に、刺客の一人津下四郎左衛門がつかまった事《こつ》はいまいった。この津下は名の四郎左衛門があんまり古風でものものしいので、別名土屋延雄とも名乗ったが、それより幼名の鹿太と呼ばれる事《こつ》が多く、はじめ政府のほうでもその名で捜索した。一方、小楠先生の付け人に下津鹿之介という肥後人がおった。――つまりあの牛之介の兄貴じゃな。――これは刺客の柳田徳蔵を斬り伏せ、小楠先生の首をとって逃げる津下を途中まで追跡したほどの豪の者じゃったが、結果的には小楠先生の護衛に失敗した事《こつ》になり、弾正台に拘禁された」
「………」
「よく聞くがよか。小楠襲撃者が津下鹿太、小楠護衛者が下津鹿之介。よくもまあ攻守両側に似た名の男があったものと思うが、これはおいの作り話じゃなか。おはんの聞いた通り実際の話じゃ」
「………」
「さて、つかまった下手人らは海江田大忠らの御異議でいまだに処刑を延期されちょるが、しかし事件直後は京のおえらがたはむろんかっかとのぼせあがり、まっさきに逮捕された津下鹿太のごとき、即刻斬首の命令が下ったっちゅう。その処刑命令書を書いたのがあの長坂どんであったのじゃ。ところが、あの御仁、その被処刑者の名を、うっかり下津鹿之介と書いてしまった。――」
「えっ」
 さすがの経四郎も、ここではじめてさけび声をもらした。
「実は、ほんとうのところはよくわからん。おいに話してくれた人も、はっきりいわん。あとはおいの想像が半分混っちょる。しかしおいはその想像にまちがいはなかと思っちょる。――津下鹿太と下津鹿之介、声に出していえばまちがえるやつはおるまい。しかし文字に書くと、うっかり書きまちがえるおそれが――いや、それもあの迂闊男の長坂どんなればこそじゃろうが、ま、一方の下津は同じ肥後人じゃから、その名のほうが頭のどこかにあって、それでかえって魔がさしたようにその名を書いてしまったんじゃなかか。――」
「ふうむ。……」
「その命令書を受けたのが、あの杉鉄馬じゃ。あれはその通りに下津鹿之介を処刑してしまった。彼は小楠先生護衛の失敗の罪での処刑とばかり思いこんだといったらしか。げんに井伊大老が殺されたとき、護衛の供侍どもはその責任を問われてみな処刑されたような例があるからの。――しかし、この場合はちがうな。長坂どんの書きちがいを承知で、杉はわざと不審を返さず、そのまま斬ったと思われるふしがある。しかも、あの試し斬り云々は事実らしか。熊本におったころの不仲の意趣ばらしじゃ」
 経四郎はまた黙りこんでしまった。
「長坂どんは下心《したごころ》あって故意に書きちがえたのじゃなかろ。ついうっかりの|へま《ヽヽ》だけに、かえってそれが弱味となった。あとで知らされて仰天した長坂どんに杉は食いこんだ。まこときゃつのいうごとく、人の口に戸は立てられず、国元の熊本じゃ、杉が私怨をもって下津鹿之介を試し斬りにしたっちゅう噂が立った。その悪評もあえて杉は引き受けた。それが長坂どんへの貸しになるからじゃ」
「………」
「右の一件が事実とすると、それが闇に伏せられたままになったっちゅう事《こつ》は奇怪じゃが、あまり馬鹿馬鹿しい話なので新政府の鼎《かなえ》の軽重《けいちよう》を問われるとして、かえって公けにしにくかったんじゃろ。おいに話してくれた人も、この事《こつ》はどうぞ公けにせんでくれろと封じたからの。一方にゃ、あの長坂どんの憎めぬ人柄も影響したに相違なか。特に長坂どんは九条卿に可愛がられちょるからな。その長坂どんに食いついておる事《こつ》こそ、自分の出世の唯一のよりどころ、維新以来ぱっとせん国元の肥後などは相手にせん――と、杉は思案しちょるんじゃなかか?」
「………」
「どげん思うか、香月」
「いや、驚いた」
 と、経四郎はまじまじと川路を見まもった。
「おぬしの調査の内容にも驚いたが、おぬしの調査そのものにはもっと驚いた。……おぬし、同僚にとっても剣呑《けんのん》な男じゃな」
 驚いていいのは、いまこの場ではじめてこんなことをしゃべる川路利良のおちつきぶりであったかも知れない。
 この問答の間、エスメラルダが窓外の光景に心を奪われているばかりに見えたのはありがたかったが、このときやっとふりむいて何かいった。
「なに、下界の見世物はもう終ったか」
 と、経四郎はうなずき、薄い笑いを浮かべて川路にいった。
「しかし、川路さん、こりゃ何か起りそうだなあ。……」
 ――これほど懐《ふところ》の深い大巡察川路利良だが、その後に起った事件は、彼のいかなる予感をも超えた。

    七

 十一月二十八日の夜、ロングというイギリス人が斬られるという事件が勃発した。
 彼は大学校のお傭《やと》い教師で――本国では理髪師だったということがあとで判明したが――日本の女を妾としていた。それが二十八日の夕方、妾を連れて夜店の出ている神田須田町を散歩中、突如白刃を抜いた壮漢に襲われ、肩口に重傷を受けた。
 妾の悲鳴に人々が集まり、犯人は逃走した。ロングはからくも生命をとりとめる按配であったが、イギリス公使パークスが政府に厳重抗議を申し込むという大事となった。
 この下手人は髯をはやした浪人風の大男で、非常に長い朱鞘の刀を持っていたというだけで名もわからずゆくえも知れなかったが、数日のうちに川路は、「あれは横井事件の逃亡犯人、中井刀禰雄ではなかったか」という疑惑が弾正台の中に出ていることを知った。
 十二月三日に、川路は経四郎からまた妙な事件を聞いた。
 築地居留地詰めの邏卒猿木次郎正からの報告だが、という話で、二日の朝、あのホテルの大ホールの階段下に、例の試し斬り用の藁束が一つ、それも両断されてころがっていたというのだ。
「そりゃ、どげな意味か?」
「わからん。……ボーイが発見したそうで」
 狐につままれたような話だ。
 しばらくして、
「ところで香月、あのロング事件の下手人が中井刀禰雄ではなかか、という説が流れておるのを知っちょるか」
「聞いたよ」
「何を根拠に、そげな事《こつ》をいい出したのか。ただ下手人が長い刀を使ったからかの」
「よくわからん。どうも私の見るところでは、長坂少疏と杉少巡察がそう見こんで動いているようだ。あの二人が何か事実をつかんでおるのかも知れん」
「ふうむ」
「中井刀禰雄なら、その思想から異人襲撃の挙に出てもおかしくはないが。――」
「それをいうなら、あの河上彦斎と下津牛之介、そのどっちかはどうじゃろ? いや、髯の大男というから、下津のほう――」
「やりかねないが、あの二人にはアリバイがあった。十一月二十八日、両人ともまちがいなく朝から夜まで築地ホテル館にいたそうだ」
 アリバイという言葉はすでに経四郎は川路に教えてある。――経四郎は笑った。
「貴公、そのことはもうちゃんと調べたじゃないか」
「うむ。……」
 川路はちょっと間のわるい顔をした。
「どうも事件捜査にはいささか頼りない長坂さんだが、下手人が中井なら、前にあれをとり逃した長坂さんにもたしかにこんどの事件に責任がないとはいえん。何とかしてこんどこそ自分の手で捕えたい、と懸命になるのも無理はない。いや、長坂さんより杉のほうが一番ここで大殊勲を、とシャカリキになっているようだ」
 経四郎はいった。
「ついでにいえば、その夜のアリバイはむろん、その後の藁束切りの件も、河上、下津ともにあずかり知らんといってるそうだ。いや、これも貴公、御存知だろう。……しかし、築地ホテル館のその御両人、やっぱり何だか気にかかるなあ」

 川路のいかなる予感をも超えた事件とは、しかしこの異人傷害事件ではない。さらに四日後の十二月七日の朝、築地ホテル館の例の塔の下のホールで発見された大惨劇のことである。
 川路は京橋紺屋町に小さな一軒を借りて十五になる下女を傭って一人で住んでいたが、その朝――八時半ごろ、邏卒芋川平九郎の急報を受けた。
「旦那、すぐ築地ホテル館へ来て下され。香月の旦那がお呼びです」
「築地ホテル館? 香月が? 何が起ったのじゃ」
「人殺しでござります」
「なに、殺人――だれが殺されたのか」
「私は外で猿木邏卒を通じて命じられたのでよくわかりませぬ。とにかく旦那に早く来て下さるように、とのことで。――」
 川路利良は、芋川邏卒とともにいっさんに築地明石町に駈けた。もう吐く息が真っ白な季節であった。
 芋川邏卒のみちびくままに、彼はいつかの通り、横手の門から庭伝いに例の塔の下にはいった。ドアをあけると、すぐ大ホールになっている。例の大円柱の下に、一団の人々が凍った影のように立っていた。
 おそい冬の朝もとっくに明けているが、ホールはまだ暗い。しかし、こちらを向いている河上彦斎と下津牛之介の顔がまず見えた。こちら側に背を見せた一群は半円を描いて、十人くらいいる。大部分は邏卒だが――その中でふりむいたのは、なるほど香月経四郎であった。
「やあ、御苦労」
 と、いった。
 川路は近づいて、香月とならんで、長坂九内とその娘――たしか、お汲とかいった――が、立っているのを見とめた。ボーイも一人いる。
 そして、彼らのまんなかに――床の上に、人間が一人横たわっているのを見た。屍体だ。それは、凄じい流血の中に、明らかに腹部を斬られ、臓腑さえも溢れさせた杉鉄馬なのであった。

    八

「猿木の注進で駈けつけたらこの始末だ」
 と、経四郎は川路にいった。
「関係者からいろいろ話を聞いたが、頭が混乱してよくわからん。川路君の判断を仰ぎたいと思う。……もういちど、整理して承りたい。長坂少疏どうぞ」
 長坂九内は、水母《くらげ》のようにフラフラしていた。下僚から取り調べられるかたちとなったが、それに異議も唱えず、唇をわななかせながらしゃべり出した。
「例のロング傷害事件だな。あの下手人は、横井小楠先生暗殺事件の逃亡者中井刀禰雄ではないか、といい出したのは杉少巡察じゃった。その男の逃亡には、ある事情があって、わしにも責任がある。もしそうならば、どうあってもわれわれの手で捕えたい、と、わしと杉は語り合い、死物狂いにそのゆくえを探した。
 ところが、一昨日のことだ。中井の情婦がこの築地居留地の新島原遊廓にいて、そこに傷ついた中井が潜伏しているらしい、と、杉が報告した。――」
 ――はじめて聞く驚くべき事実だ。川路は眼を洞穴《ほらあな》のようにあけていた。
「どこの見世《みせ》のなんという女郎か、それは教えてくれなんだ。杉という男は一人のみこみの自信家で、ただそう承知していてくれ、といっただけじゃ。それから昨日の朝、その見世には中井の仲間が二人ほど流連《いつづけ》客としてやはり潜伏しておって、捕縛するには相当な怪我人を覚悟しなければなるまい。場所が居留地だけに、なんとか殺傷沙汰は起したくないものだ、と苦慮しておる、と報告に来た。
 そして昨日の夕方じゃ。杉がその女とどう話をつけたか、明日の夜明方――つまりけさじゃな――中井だけが新島原を出て立ち去ることになった。それを番所で捕えることにした、といった。むろん中井自身は、こちらの動きは気がついておらぬ、という。
 ただ、中井がその時刻に見世を出るところまではうまくゆきそうだが、どの方角へ向って、どの橋を渡るかまではわからない。みなも知る通り、この掘割にかこまれた居留地から外に出るには、あちこち十以上もの橋があるからの。その橋には番所のないものさえある。むろん、そのどれにも邏卒を詰めさせて警戒させるが、出来れば杉自身が、中井に気づかれぬように先回りして、きゃつの来る橋で待っていたい、と杉はいうのじゃ。
 そこでじゃ、わしに、けさ暗いうちに築地ホテル館にいれてもらって、この塔の上から見張ってくれぬか、という案を杉は持ち出した。
 香月らもこないだ見た通り、塔の上には四面大きな窓があって、居留地は眼下一望に見下ろせる。同時に居留地のどこからも――どの番所からも、わしがグルグル回っておればその姿が見える。で、塔の上からわしが、中井のゆくさきを、身ぶり手ぶりで指し示す。それに従って杉が動き、また番所の邏卒が待機する、という案なのじゃ。
 しかも、杉は、わしだけでなく、娘のお汲も同行して、いっしょに見張っていてくれ、という。なぜかと訊《き》くと、わしが信じられんからという意味のことをいう。わしはみなも知る通り少々粗忽なところがあるから、それも道理だと承知した。杉はまた、これであなたの顔が立つ。中井刀禰雄の捕物の総司令官といった役割ですからな、ともいった。実際わしもそう思い、杉のこの一見奇抜な見張りと指揮の方法に感謝した。
 で、けさ、その通りにした。まだ暗いうちにやって来て、ボーイにこの塔の上に昇らせてもらった。――」
 ボーイはうなずいた。長坂の身分を明かせば拒否は出来なかったろう。
「わしとお汲は、グルグルと回りながら見張った。夜が明けて来た。しかし、いつまでたっても、朱鞘の長刀をさした男の影も杉の姿も現われん。その時刻だから、居留地内の街路をだれか歩いておればわかるはずなのじゃが、眼を皿《さら》のようにしても、何も見えん。そうであったのう、お汲。……」
 娘は梨の花のような顔色でこっくりした。
「そのうち、六つ半――七時になった。なぜそれがわかったかというと、明石橋の向うにあるアメリカ商館の時計塔が鳴ったからじゃ。あの時計塔は、朝の七時と正午と夜の七時に大きなひびきをたてて鳴るそうで、それが聞えて来たのじゃ。……そのひびきが消えたか消えぬとき――階段の下で、何かただならぬ音がした。音ともいえぬ、何といっていいかわからぬような音じゃ。
 わしたちは顔見合わせ、ともかく見張りは娘にまかせ、やがてわしだけが勇気をふるって、回り階段を下りていった。……すると、杉少巡察が、あのような姿で倒れ、そして、そばに河上彦斎と下津牛之介がつっ立っておったのじゃ。……」
 川路はしゃがんで、杉鉄馬の屍骸を見ていた。
 その腹部はほとんど半ばまで斬りこまれていた。どうやら一方から一方へ一閃、横|薙《な》ぎに薙ぎはらわれたようで、身の毛もよだつ手練というしかない。むろん杉は即死したろう。しかも、屍体の眼はなおかっとむき出されたままだ。
 そして川路は、ぶちまけられた鮮血が、床はむろん、階段の五、六段までしぶき、河上と下津の足もとに、刃渡り三尺はあろうと思われる血まみれの一本の刀身と、そばに大きな朴歯下駄が二つころがっているのを見た。
 川路は下津牛之介の足もとに眼をやった。例の下駄ははいていない。はいているのは、草履《ぞうり》だ。――ホテル館専用のものらしい。
「試《ため》し斬りの胴斬りに似ておるな」
 と、彦斎がその屍体を見て、薄笑いしていった。
「もしそやつが下津鹿之介を試し斬りにしたというならその通りにしてやったろうが、いかんながら、それをやったのは、わしでもなければこの牛之介でもない。なぜなら、まだ鹿之介の件についての確証をあげるところまでいっておらんからだ。
 左様、先刻、わしたちの部屋の戸をたたく者があった。戸をあけると、ボーイとともに、その邏卒が立っておった」
 と、彦斎は、猿木次郎正にあごをしゃくった。
「邏卒がいう。下津鹿之介の件につき、談合のことがあるといって、杉少巡察がホテル館のこの塔の裏庭に待っておるからすぐに来てくれぬか、と。ござんなれ、とわしたちは思った。改めてボーイに訊くと、塔と海とのあいだの芝庭だという。いや、訊かずとも、この広間からすぐそこへ出られることは、わしたちも知っておる。
 邏卒とボーイが去ったあと、わしたちは身支度して部屋を出た。時刻は――左様、この広間にはいろうとする前、廊下の大時計が鳴っておった。いまから思うと、七時じゃな。と、ここらあたりで何か異様な物音がした。それで、急いで戸をあけて広間にはいると――ここにあの杉めが、この姿で倒れていたのじゃ。
 まわりを見まわしても、だれもおらぬ。わしは反対側の戸をあけたが、長い廊下にだれの姿も見えぬ。牛之介は裏庭へ出る戸をあけた。しかし、そこにもだれもおらず、ただ庭の向うにあの邏卒が立っていたばかりであったという」
 彦斎がまたあごをしゃくった邏卒たちの中に、横枕《よこまくら》平助がいるのを川路は見とめた。
「へ、わたしゃ、杉の旦那に、そこで待っていろ、といわれて立っておりましたんで」
 と、横枕邏卒はいった。川路は尋ねた。
「お前、杉少巡察といっしょに来たのか」
「へえ。そして、杉の旦那は、ひとり裏口からここにはいってゆかれました」
 彦斎がまたいった。
「で、またわしたちは杉の屍骸のところに戻り、いったいこりゃどうしたことじゃ、と呆れはてておるところに、階段の上のほうから長坂さんが下りて来たのじゃ。……」
「横枕邏卒、杉少巡察がここにはいったのはいつごろの事《こつ》か」
「こうっと、杉の旦那がはいってゆかれてすぐにあの明石橋の向うのアメリカの時計が鳴りましたから。……」
 と、横枕平助はいった。
「それからまたすぐにそこの髯のお侍が戸をあけて外をのぞいた。その顔がどうもただごとでござらぬ。そこへ玄関のほうから外廻りに猿木がやって来たので、二人相談の上、ここをのぞきに来て、この始末にびっくり仰天して、香月の旦那を呼びにいったという次第でござります。……」
 そして経四郎が来て、また川路を呼びに芋川邏卒が走ったというわけだろう。
「杉は何といってこのホテル館に来たのか」
 と、川路は、猿木や横枕に尋ねた。
「へえ、何でもそのお客に急用があるとかいうようなことをいってましたが。……」
 と、猿木邏卒が答え、あとは横枕と異口《いく》同音にいった。
「それ以外、よくわかりません」
 川路の眼は別のものに移った。
「あの下駄は何じゃ?」
 血潮の中にころがっている二つの下駄であった。川路は歩いていって、それを拾いあげた。太い鼻緒の大きな朴歯下駄であった。
「……いかにもおれがはいていたようだな」
 と、下津牛之介がつぶやいた。
「おれの下駄は部屋にある。そんな下駄は知らん」
 なるほど、和洋|折衷《せつちゆう》とはいえ、いや、それなればこそこの建物の中で朴歯下駄をはいて歩くやつはいないだろうが、しかしまた、こんな下駄をはく人間が、この男以外にあろうとも思えない。
「一見、わしたちの仕業《しわざ》に見えるのう」
 と、彦斎がまた口を切った。依然、苦笑の翳《かげ》が頬に浮かんでいた。
「しかし、わしは斬らん。先日いった通り、わしはもう人は斬らぬことにしておるのでな」
 そんな弁明はこの人物にかぎって通りそうにない。
「では、この牛之介がやったことだというか。――ところがね、牛、刀を抜け」
 命じられて、下津牛之介は、腰の刀をゆっくりと抜いて見せた。
 人々は眼をまるくした。朱鞘は三尺もあるのに、抜かれたのは、半分ばかりで折られた、使いものにならない刀身であった。
「自分のまいた種《たね》で、わしを狙うやつはたんとおる。しかし、わしは人を斬らぬことにしておる。そこで、この図体《ずうたい》だけは大きな牛之介を、さらに朴歯下駄まではかせて、コケオドシの用心棒として連れ歩いておるのだ」
「その刀で斬ったとはだれもいっていない。斬ったのは、あそこに落ちている刀だ」
 と、経四郎が血まみれの長刀を指さした。下手人がそれを使ったのは明らかだ。
「どうやら罠《わな》にかかったようじゃ」
 河上彦斎は嗄《か》れた声でいった。さっきまでの薄笑いは消えていた。
「なんのために長坂さんはいまごろあの塔の上におったのか。だいいちそれがくさいではないか」
「そのわけはさっきいった」
 と、長坂九内はせきこんでいった。
「それはそれとして、罠にかけたという以上、下手人は貴公ら以外にあるといいたいのじゃろう。しかし、あの肥後でも使い手として知られた杉をかくもみごとに胴斬りにする人間がどこにおる? わしはだめだ。ヤットウのほうは、てんでわしはだめなのだ。それにもひとつ、先日この大広間で藁束《わらたば》が両断されてころがっているのが発見されたというが、なんの意味かは知らず、あれも貴公らの仕業《しわざ》に相違ない。――」
「……ば、馬鹿な。――そんなことはおれたちの知ったことか!」
「それはさておき、そもそも、貴公らがこの屍骸を発見したとき、わしが塔の上から――階段のずっと高いところから下りて来たのを貴公らも見たはずではないか」
 九内は唇のはしに泡をにじませながらしゃべった。
「みなの証言からして、杉が斬られたのは七時前後じゃ。まず七時といっていい。そのときわしは塔の上におった。そのことはこの娘が知っておる。いや、娘は証人になれぬというなら、そのことを知っとる人間はほかにもある」
 邏卒の大半がうなずいた。各番所からこの塔上を眺めていた連中にちがいない。
「とにかくこの急な回り階段を、一瞬間に駈け上ったり、駈け下りたりすることは出来ん。……なに、こんなことをいうのも馬鹿馬鹿しい。だいいちわしには、杉を殺す理由がない」
「客観的にみれば……河上どん、あんたがたに弾正台に来てもらわんけりゃならん事《こつ》になりもしたようだが。……」
 と、川路がいった。
「ゆかん。ゆかんぞ」
 と、彦斎は首をふった。いよいよ嗄《か》れた声であった。
「うぬら、政府の犬ども、みんなグルだ。そうまでしてこの河上を罠に落そうとするか。それほどこの彦斎が怖ろしいか。どうしてもしょっぴくというなら、わしにも覚悟がある」
 嗄れ声は、この男が人を斬るときの前兆であった。――知るや、知らずや、川路利良は自若《じじやく》として首をふる。
「いや、その前に、まだ不可解な事《こつ》がいろいろある」
「何か」
 と、経四郎が声を出した。
「そもそも杉少巡察は、何のためにこのホテル館に来たのか」
「河上さん――特に下津牛之介氏と対決のためではないか」
「中井刀禰雄の事《こつ》はどげんした? いや、中井はどこへいったのか?」
「しかし、何はともあれ杉鉄馬殺害の件に関するかぎり、その両人以外に下手人の可能性のある者がおらぬ。……」
 長坂はいいながらあとずさりし、川路のかげにかくれながら、かん高い声でいった。
「川路、即刻弾正台に曳《ひ》け。弾正台上司として、わしが命じる!」
「川路君、わからんか」
 経四郎がいった。
「わからん。少なくとも、杉の行動がわからん。……おはん、わかるか」
「おれにもわからん。わからんから貴公を呼んだのだ」
 経四郎はやや首をかたむけて宙を見ていたが、
「ひとつ、エスメラルダに来てもらおうか」
 と、いった。
「エスメラルダ? あのフランスの?」
 川路はめんくらった顔をした。
「何をしにじゃ?」
「話せば長いが――いや、話しておるひまがない。あれにね、私は日本の巫女《みこ》の修行をさせた。ところが、ふしぎなことに、彼女を教えた日本のある老巫女が驚くくらいその道に上達してね。このごろ、あいつ、死者を呼ぶのだ」
 みな、あっけにとられた。
「で、ここへ来させて、杉少巡察の死霊を呼んでもらう」
「そ、そんな馬鹿な。……」
「杉がどうしてこのホテル館に来たか、残念ながら死人に口なしだ。それを当人の口から聞きたい。とにかくひとつ、やらせてくれ。……おう、そうだ、ついでに来てもらいたい衆がほかにもある」
 経四郎は委細かまわず、邏卒の中から、猿木次郎正、横枕平助、芋川平九郎を呼んで何やら命じた。
 三人の邏卒は敬礼して、広間から裏庭へ駈け出していった。

    九

 ――一時間もたたないうちに、その人々が続々と駕籠で到着した。
 なんと、弾正台の――すでに登庁していたものだろうが――海江田《かえだ》信義をはじめ六人の大忠少忠のお歴々《れきれき》であったが、それより河上らの眼をむき出させたのは、むろん異国の美女であった。それに、どういうつもりで呼んだのか、あの真鍋|直次《なおつぐ》とその娘のお縫まで、けげんな表情でやって来た。
 海江田信義らはむろん例の烏帽子直垂《えぼしひたたれ》姿であったが、エスメラルダに至っては、市女《いちめ》笠に虫の垂衣《たれぎぬ》といういでたちで広間にはいって来た。それがとり去られると、中から、緋《ひ》の袴《はかま》に袖の長い白絹の衣服を羽織り、背に長く金髪を流した碧眼の女が現われたので、さしもの河上彦斎が口をアングリあけて、しばし声もなかったのも無理はない。
 彼らが来るまでに、経四郎はボーイや邏卒に命じて、広間の柱の前に大きなテーブルを運ばせ、その上に杉鉄馬の凄じい屍体を横たえさせた。また別に、いくつかの椅子も運ばせた。
 その椅子に坐った大忠たちに、川路が事件の概要と登場人物の説明をしているあいだ、経四郎はエスメラルダとともに、彼女が持参した鏡やら弓やら数珠《じゆず》やらを、台上の屍体のまわりにならべたり、また笹の葉で、顔の部分だけ除いて、屍体を覆ったりした。その間、二人は低声で異国語で何か話しつづけていた。
 実にエスメラルダは、大八車をひかせて、その上に右の品々のみならず、火焔太鼓や羯鼓《かつこ》などの古代楽器まで運んで来たのである。その大八車を曳き、押して来たのは、どこでまぎれこんだか、いままで顔の見えなかった邏卒の鬼丸多聞太《おにまるたもんた》と一ノ畑曾八であった。
「されば、臣香月経四郎、かしこみかしこみて申す。――いよいよ杉少巡察の死霊を招きたてまつる。――」
 と、経四郎が、いったとき、床《ゆか》の上には右の楽器がならべられ、そこに例の五人の邏卒があぐらをかいて坐っていた。
「この者ども、私がちょっと私用で使っております間に、未熟ながら、神楽歌の合奏をおぼえましてね」
 と、こんどはふつうの言葉で経四郎が註釈をした。五人の邏卒は澄まして、むしろおごそかといっていい顔つきをしていた。
 だれも笑う者はいない。事態が事態だ。胴斬りになった死人は顔をこちらにむけて、台の上に横たわっている。場所が場所だ。ここは巨大な円柱の立つ寺院のような大広間であった。
 鬼丸多聞太が、火焔太鼓をドーンと一つ打った。同時に、笙《しよう》、笛、羯鼓《かつこ》、シャギリなどの楽の音がながれはじめた。
 金髪の巫女《みこ》は、立ったまま、ゆっくりと歌い出した。彼女は碧い眼をとじていた。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、
 アマツカミ、クニツカミ、オリマシマセ。――」
 はじめ、異国の歌かと思ったのは、その節回しに、日本的でないところがあったからだろう。奏楽もムチャクチャであったが、それがかえってぶきみな音覚《おんかく》の世界を醸《かも》し出した。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、
 ナルイカズチモ、オリマシマセ。――」
 歌につれ、エスメラルダは妖しく腰をくねらせる。
 川路利良も茫然として立っていたが、彼はこのとき、経四郎がボーイに何かいい、ボーイが河上彦斎のところへいって何かいい、それでなくても狐につままれたような顔をしていた河上が、いよいよけげんな表情でうなずき、ボーイが広間から出てゆくのを見た。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、
 スギテツマノ、ミタマ、マイリタマエ。――」
 巫女の片手に持っていた神楽鈴が、シャラン! と鳴った。
「イマ、マイル。……」
 依然、うす暗い広間の空気が、何だかさらにすうっと暗くなったようであった。
「オレハ、スギテツマダ。スギテツマノタマシイダ。……」
 みな、ぎょっとした。巫女の声調が変ったことに気づき、その言葉の意味がはじめてわかったのだ。声調が変ったといっても、やはりエスメラルダの、奇妙なアクセントの声にちがいなかったが、なぜか、台の上でまだ眼をあけてこちらをむいている死人の口が動いたような気がした。
「シノセカイニキテ、オレハ、ハジメテ、セイノセカイガ、ミトオセル。……オレハ、シヌマデ、オレガナゼシンダノカ、ワカラナカッタガ、イマヤット、ソノワケガワカッタ。……オレヲコロシタノハ、ナガサカショーソダ。……」
「な、何をいう」
 長坂九内が奇声を発した。
「杉……いや、あの女、何を馬鹿なことをいう」
 シャラン! と、その声を断ち切るようにまた鈴が鳴った。
 川路はこのとき、ボーイが小脇に藁束《わらたば》と縄を持ってはいって来たのを見た。そして、一人の邏卒とともに、それを階段の五、六段のところに立て、胴のあたりから縄を左右に張って、手摺《てすり》の柵《さく》に結びつける作業をはじめたのを見た。さらにその上に立った経四郎が、小声で指図《さしず》している。彼は両手に例の血刀と下駄をぶら下げていた。
 しかし、川路以外にそんなことに眼をむける人間が、この場にいたろうか。
「ナガサカドノハ、ナカイトネオガ、コノキョリューチニ、センプクシテイル、ト、イッタ。ミナ、ウソダ。ウソヲ、ショウチデ、ラソツニメイジテ、バンショニ、テハイシ、ジブンハ、トウニ、ノボッタ。……」
「何を。――」
「ナガサカドノガ、ソンナコトヲ、シテイルトハ、オレハ、マッタク、シラナンダ。……オレハ、ケサハヤク、サルキラソツ、ト、ヨコマクララソツ、ニ、ヨバレテキタ。ナガサカドノト、ソノムスメ、オクミドノガ、カワカミタチニ、サラワレテ、コノホテルカンノ、トウニ、トジコメラレテイル、トキイテ、オレハ、オドロイテ、カケツケタノダ。……」
「やめさせろ」
 長坂九内は声をしぼった。
「あのたわごとをやめさせろ。……死人があんなことをしゃべるわけがない!」
 川路も、下半身から這いのぼって来るような冷気に襲われている。巫女エスメラルダのしゃべる内容の驚くべきことはいうまでもないが、長坂とは逆に、それが死んだ杉鉄馬の言葉としか思われないからであった。そうでなければ、たったいまここへ来た異人娘が、あんなことをしゃべるわけがない。
 ……とはいえ、死者というものは、生前自分の知らなかったことでも、死後に知るものだろうか?
 さしもの彼も、このとき階段の上にいた香月経四郎の姿がふっと消えているのを、いつ消えたのか、どこにいったのか気がつかなかった。
「オレハ、キョリューチニハイリ、ラソツニ、トウノウエヲミロ、ト、イワレテ、ソコニ、ナガサカドノト、オクミドノヲミタ。カワカミタチニサラワレタ、ト、イウノハ、ホントウダ、ト、オモッタ。オレハ、ムチュウデ、ホテルカンノ、ヒロマニハイリ、カイダンヲ、カケノボッタ。……」
 そのとき人々は、広間の空に、ふしぎな音を聞いた。シューッと、何か滑るような音を。――
「イッポウ、サルキハ、カワカミト、シモヅウシノスケヲ、コノヒロマニ、サソイダシタ。……」
 何か、階段を、怖ろしい速度で滑って来た。キラッ、キラッとひかるものが、三度、四度、大円柱をめぐって見え、消え、また見えた。
「カイダンヲ、ゴロクダン、ノボッタトコロデ。……」
 階段を、五、六段のぼったところで、バサッという音がした。人々は、そこに立ててあった藁束が上下二つに切断されて、縛られていない上半分が階段からころげ落ちるのを見た。
 切ったのは、水平になった一本の長い刀身であった。刀身は左右に何かへんなものをはめていたが、藁束を切ると同時に大きく飛び、はめていたものをふり落した。それは二つの朴歯下駄であった。
「オレハ、キラレタ」
 みんな、凍りついたように、この怖るべきメカニズムを眺めている。――彼らは、大きな朴歯下駄の二枚の歯が、階段の左右の手摺《てすり》を噛んで滑り落ちて来たことを知ったのだ。
「カタナハ、ゲタノハナオヲ、ウマクツカッテ、ヌケナイヨウニ、シテアッタ。ドウジニ、カタナノ、オモミハ、フタツノゲタヲ、ハズレナイヨウニ、オサエツケ、スベルハヤサヲ、ハヤクシタ。……」
 この間、奇妙|奇天烈《きてれつ》な奏楽はつづいている。五人の邏卒は、けんめいに頬《ほ》っぺたをふくらませたり、へこませたりしている。
「ソレハ、ムチュウデ、カイダンヲ、マエカガミニナッテ、カケノボル、オレノハラニ、カソクドヲツケテ、ミゴトニ、クイコンダ。コノトキ、ゲタノハナオハ、カタナノミネニアタルカラ、キレルコトハナイ。……」
「………」
「フツウナラ、カタナガ、オレニ、フレタトタン、ハジキトバサレルカモシレナイガ、ラセンカイダンヲ、マワッテキタタメニ、チョウド、キリアイデ、キッタト、オナジヨウニ、オレヲナデギリニシタ。……」
「………」
「オレハ、ソノチョクゼンニ、アタマノウエデ、ミョウナオトヲ、キイタガ、ヒロマガ、クライノト、ハシラヲマワル、ラセンカイダンノタメニ、ソノキョウキガ、スベリオチテクルノヲ、ミルコトガ、デキナカッタ。……」
「………」
「コレデ、ナガサカドノハ、タカイ、トウノウエニイテ、トウノシタノオレヲ、ドウギリシタコトニナル」
 人々の中に、物音が起った。長坂の娘、お汲が崩折《くずお》れたのだ。
「ナカイトネオガ、コノキョリューチカラ、ニゲル、ナドイウコトハ、ソノサツジンノトキ、ナガサカドノガ、トウノウエニイタ、トイウコトヲ、ラソツドモニ、ショウメイシテモラウタメダ」
 階段の上のほうから、香月経四郎が下りて来た。いまこの階段殺人の「追試」をしてみせたのは彼にちがいない。
「ナガサカドノハ、コノカラクリヲ、ギロチンカラ、オモイツイタ。……イツカマエ、ココデ、ワラタバヲキッタノハ、ソノカラクリデ、カタナガ、ウマクスベルカ、マタ、ハタシテキレルカ、トイウ、ジッケンダ。ソレヲ、ソノママ、アトシマツシナカッタノハ、アトデ、コノサツジンノ、ギワクヲ、カワカミタチニ、ムケルタメダ。……キョウ、カワカミタチヲ、コノヒロマニ、サソイコンダノモ、ムロン、ソノタメダ。……」
 長坂九内はいつのまにか、失神したお汲のそばにうずくまっていた。禿《は》げあがった頭は、娘の身体にくっつかんばかりであった。
「ウカツナ、ナガサカドノガ、コレダケ、テノコンダ、ヒトゴロシヲ、ケイカクシタ。エライモノダ。……ソノチカラハ、ナガサカドノガ、カテイノ、コウフクヲ、マモロウトスル、シニモノグルイノ、ネガイカラ、デタ。ナガサカドノハ、オクミドノヲホシガル、オレトイウニンゲンヲケシ、ドウジニ、ムカシノシッパイヲ、アバコウトスル、カワカミタチヲ、オレヲコロシタ、ゲシュニントシテ、コレモ、コノヨカラ、ケソウトシタノダ。……」
 シャラン! と、また鈴が鳴った。
「シカシ、カリニモ、ダンジョウダイニ、ショクヲホウズルモノガ、オノレノ、カテイノ、コウフクノタメニ、サツジンヲシテ、ヨイモノダロウカ。……コレハ、ヤハリ、ギロチンニカケルベキダ。……」
 どどん、と鬼丸多聞太が火焔太鼓を打った。
 怖るべき「死者の告発」を口にした巫女エスメラルダは、しみいるようにそれっきり沈黙した。
「終ったようだ」
 いつのまにか、川路のそばに来ていた香月経四郎がいった。
 川路をはじめ、いながれる弾正台の大忠少忠たちも、剣鬼河上彦斎らまで、しかし、そのまま冥界の影のように動かなかった。

「あの――お汲さんか――あれも共犯ということになるだろうが、いま聞いた通りのなりゆきだ。あれは許してやってくれ」
 大忠たちに聞えるように、香月経四郎はいい、みなが黙っているのを見ると、
「おい、長坂少疏を弾正台に連れてゆけ」
 と、命じた。
 五人の邏卒が、うずくまった長坂九内のところへ近づいた。
「香月。……しかし、あの邏卒どもの中に……共犯の疑いのあるものがおるのじゃなかか?」
 われにかえった川路がいった。
「そうなるのかな。そうなるだろうが……おそらくは、長坂にいいくるめられたのだろう。きゃつらのことだから、いろいろしっぽをつかまれている杉少巡察にこの世から消えてもらいたいという気もあったろうが……しかし、結果的にはこの事件の解決を手伝ったことにもなる。あとで、叱っておく。この際、私に免じて、見のがしてやってくれ」
 と、経四郎は小声でいい、川路が何もいわないうちに、真鍋|父娘《おやこ》のところへいって、
「伯父上、お聞きの通りです。おかげさまで、川路君との手柄争いに、何とか勝たせてもらったようです。……例の翻訳は終り、明日でちょうどお約束の一ト月になりますが、あのフランスの娘、もう少し日本に置いてやってもいいように思いますが、どうでしょう」
 と、いった。真鍋直次は言葉を失ったようであった。
 ただ眼を見張っているお縫のほうへ、もう虫の垂衣《たれぎぬ》をつけたエスメラルダが近づいて来て、垂衣のあいだからにっと笑いかけ、平安朝の女のように優雅に腰をかがめていった。
「ボンジュール、ゴキゲン、イカガ? マドモワゼル・ヌイ。……」
[#改ページ]

  アメリカより愛をこめて


[#この行1字下げ] 雪の夜、神田川に人力俥とともに転落し溺死せる者ありたるに、雪上それを曳ける人間の足跡なく、一方「生霊《いきりよう》」なるものの存在を半信せしむる事件ありて、究明甚だ困難致し候事件の顛末、次の如くに御座候。
[#地付き]――「弾正台大巡察・川路利良報告書」より――

    一

 明治三年一月末の、よく晴れたある午後であった。邏卒|鬼丸多聞太《おにまるたもんた》は、ぶらぶらと浅草仲見世通りを本堂のほうへ歩いていた。
 仲見世といっても、むろん現代のような華やかな商店街ではない。雷門は慶応元年の師走《しわす》に焼け失せたままだし、そこからはいって左側は浅草寺《せんそうじ》末寺の薄汚れた塀だけだし、右手には|よしず《ヽヽヽ》張りの床《とこ》店がならんでいるけれど、あちこちに空《あき》地があって、そこには露店商人が台や莚《むしろ》の上に品物をならべている。
 もっとも、それでもいまの東京では、やはり繁華な地区の一つにはちがいない。品物は、卵や納豆、海苔《のり》、乾魚、飴に菓子に甘酒、醤油や漬物などの食い物、扇子や箒《ほうき》や笊《ざる》や蓑《みの》などの雑貨、皿小鉢や古道具など、種々雑多だ。
「さあ、いらっしゃい、早いもの勝ち」
「御用とおいそぎのないかたは」
「おいおい、あっちで御用とおっしゃる。はいはい、こっちで御用とおっしゃる」
 商人の売り声、客寄せの笛の音、女の笑い声、子供の泣き声。――ゆきかう客も、まあ肩と肩がときにはふれるほどは混んでいる。
 鬼丸多聞太は、油揚げを二、三枚重ねたまま食いながら、歩いていた。いまそこの店で、ヒョイとつまんで持って来たものだ。
 油揚げばかりではない。さっきは別の店から|ゆで《ヽヽ》卵を口にほうりこんだし、菓子も食った。さらには、付木《つけぎ》を一|束《たば》とりあげて、ポケットにねじこんだ。まるで自分のものでもとるような傍若無人さだ。
 品物をつかんだ腕を見て、売手はむろん「あ!」とさけんでとめようとするが、その腕が関羽髯《かんうひげ》をはやした大男の邏卒につながっていることを知ると、それっきり声をのんでしまう。鬼丸多聞太が、こわい顔をいよいよ威嚇的なものにしていることはいうまでもない。
「おう」
 仁王門近くで、鬼丸はまた立ちどまった。
 莚に、漆器や皿小鉢がならべてある。――古物ばかりだが、その中の一本の徳利が彼の眼をひきつけたのだ。三合くらいははいりそうな大きさだが、ふくらんだ胴といい、つまみ具合のよさそうな頸《くび》といい、肌の古びた色つやといい、なかなかいい。
 手を出して彼は、莚の向うに坐っている売手と顔が合った。色のさめた黒紋付、のびた月代《さかやき》、モジャモジャした不精髯――尾羽打ちからした、という形容さながらであったが、かつてはさぞ精悍であったろうと思われる侍の顔だ。三十前後だろう。そばに、三つくらいの男の子がチンマリと坐っている。
 二人はにらみ合った。――心中、鬼丸は、これはいかんかな、と、ひるんだが、一瞬おいて、くわっと歯をむき出して見せ、
「これをもらってゆくぞ」
 と、その徳利をひっつかみ、立ちあがった。
 そのまま、歩き出す。浪人風の男は何もいわなかった。
 肩をゆすり、威風堂々と仁王門をくぐり、鳩の群れ飛ぶ本堂近くに来たときだ。背後から声がかかった。
「お待ちなさい!」
 それが女の声であったので、ひとのことかと思っていると、
「お待ちなさい、そこの邏卒どの!」
 と、呼びかけられて彼はふりかえり、眼を見張った。
 追って来たのは、二十四、五の女であった。これまたつぎはぎだらけの着物を着ているが、キリリとひきしまった顔をして、息せき切って、
「邏卒どの、わたしの店から品物を持ち逃げなさったのはあなたでしょう。……いえ、そうにちがいない。その徳利を返して下さいまし!」
 鬼丸は狼狽をねじ伏せた。
「何をいうか。これは断わってもらい受けて来たものじゃ」
「夫は承知したおぼえはないと申しております。その徳利は、わたしの店の品のうちでも値のいいものなのです。……いえ、値の高下《こうげ》はともかく、黙ってとってゆくなど、許せません。お上のお役人ともあろうおかたが、貧しい売り食いの人間から。――」
「やかましいっ」
 鬼丸多聞太はのしかかるように吼《ほ》えた。
 どうやらその女は、いまの浪人の妻女らしい。さっきはどこかにいっていて、夫から聞いて追っかけて来たものと見えるが、気丈なものだ。
「つべこべとよく骨箱《こつばこ》を鳴らす女じゃ。天下の邏卒にいいがかりをつける気か」
「いいがかりではありません。そこに徳利を持っているではありませんか。邏卒が泥棒してよいのですか」
「なにっ、泥棒とは何じゃ、おのれ、ここで無礼討ちにしてくれるぞっ」
「斬るなら、お斬りなさい、この徳利泥棒!」
 ぱっと飛び立つ鳩の中に、女が帯の前に手をやったのを見て、鬼丸多聞太はたまげた。女は懐剣に手をかけたのだ。
 まわりには、たちまち人々が輪を作っている。もうこうなっては、無理にでも女を屯所にひっぱってゆかなければひっこみがつかない。
「こ、こ、こいつめが!」
 と、のばした猿臂《えんぴ》の先にまだ徳利を握っているのに気がついて、周囲がどっと笑ったのに、いよいよ満面を朱に染めたが、うろたえたその眼に、ふと群衆の中にある顔を発見して、鬼丸はぎょっとした。それは大巡察川路|利良《としよし》の無表情な顔であった。
 彼は立往生した。
 ――と、そのとき、相手の女房の挙動にも、奇妙な変化が現われた。女は、鬼丸ではない方向に眼をとめて、そのまま黙ってしまったのである。
 一息おいて、
「邏卒どの、その徳利はさしあげます。……御無礼いたしました」
 と、いった。
 鬼丸は、あっけにとられた。見物人も、なんだ、といった顔で、輪を解き出した。
 女房はまだそこに立って、一方を眺めている。その眼が、散ってゆく人々の中の、一人のお高祖頭巾《こそずきん》の女の背にそそがれているのに鬼丸多聞太は気がついた。
 お高祖頭巾の女は、もう参詣をすましたのであろう、仁王門をくぐり、仲見世のほうへ出てゆく。――数分後、こちらの女房は、もう鬼丸に挨拶もせず、明らかにそのあとを追い出した。

    二

「鬼丸」
 そばで、声がした。川路だ。鬼丸多聞太は改めて赤面した。
「どげんしたかの、あの女」
 川路はしかし、そのほうが気にかかったようで、
「ちょっとようすを見よう」
 と、いって、歩き出した。やむを得ず、鬼丸多聞太もそのあとを追う。
 女房は、自分の店――店といっていいか、亭主の坐っている莚の前を通るとき、ちらっとそちらを見た。しかし、声はかけず、そのまま通り過ぎた。亭主を呼べば、子供を残してそこが無人になる、と考えたのかも知れない。浪人風の夫は、うなだれて坐ったままで、こちらには気がつかなかったようだ。
 お高祖頭巾の女は、仲見世の雑踏の中を歩いてゆく。決してふとっちょではないが、実に豊満な身体つきで、しかも柔媚きわまる物腰だ。
 追いつこうと思えば追いつけるのに、追っている女房は、しかしふしぎなことに追いつくことをせず、ためつすがめつ相手を観察しているようであった。
 相手はやがて広小路に出た。ちょうどそこへ、一台の俥《くるま》が来た。
 女は呼びとめて、それに乗った。俥は走り出した。
 女房はむろんうろたえて、あたりを見まわした。しかし、たまたま大通りには、ほかに俥の影はない。
 ――と、彼女はふり返り、ちょうど近づいて来た鬼丸邏卒を見ると、いきなり駈け戻って、その手をつかんだ。
 そのはずみに、邏卒がまだ持っていた徳利が落ちて地面でパックリ割れたが、女はそれを意に介した風もなく、
「邏卒どの、いいところへ来て下すった。それ、あそこをゆく人力俥の女のおかた、あれを追っかけて、そのお住まいをつきとめて下さい!」
 と、いった。別人のように――いや、最初に鬼丸をとがめに来たときと同じはげしさをとり戻している。
 鬼丸多聞太はヘドモドした。
「そして、わかったら、わたしに教えて下さい。わたしはあなたが徳利を盗んだ場所にいます」
 鬼丸は、ちらっとふりむいた。そして、川路がうなずくのを見ると、その俥の消えた方角へ駈け出した。
 川路利良は女のそばに寄って、名乗った。
「弾正台の大巡察じゃが」
 女房は、はっとしたようだ。
「おはん、何ちゅう女じゃ。いまのお高祖頭巾の女は何者か?……ありゃ、ただの市井《しせい》の女じゃなかな?」
 女房が口ごもっているのを見て、川路は言葉を重ねた。
「どうせ邏卒に調査を頼んだのじゃなかか。同じこっちゃ」
「は、はい」
 女房は、決心したようだ。
「わたし、九州|唐津《からつ》生まれの五百《いお》と申しますが……いまのおかた、頭巾で顔はかくしておられましたけれど、あれはたしかもと唐津の殿様、小笠原|壱岐守《いきのかみ》さまの御愛妾のお弓さま。……」
「なに、小笠原壱岐守、元老中の――その御愛妾を、なぜおはん追っかけようとしたのか」
「いえ、はじめはただ、はっと思い、深い考えもなく、ただ、いまどこに、どんな暮しをしておられるのだろう、とお尋ねしたくて追っかけたのですけれど――そのうち、妙なことに気がついたのでございます。あのおかたは、どうやら御懐妊のごようすで」
「はん?」
「五月《いつつき》目か、六月《むつき》目か。――」
 こういうことは、女だけにしかわかるまい。
「いえ、わたしも|かん《ヽヽ》でございます。けれど、ほぼまちがいございますまい。七月《ななつき》とはいっていない――それはたしかでございます」
 ようやく川路の顔が緊張して来た。
「おう、そうじゃ、小笠原どんは、たしかアメリカへ逃げられたと聞いたが」
「左様でございます。去年のあの箱館のいくさのときです。殿様は箱館からそのままアメリカへ逃げられた、と私が耳にいたしましたのは、たしか五月の末でございました」
 女は、指を折った。
「いま追いかけながら、私は勘定しました。殿様が日本にいられなくなったと聞いてからでも、八カ月たちます。まさか殿様は箱館へまであのおかたを連れておゆきにはならなかったでしょうから、殿様があのおかたと御一緒であったのは、さらにそれ以前のことでなくてはなりません。そのおかたが、いま、五、六カ月の御懐妊とは。――」
「壱岐守どんが、日本におられるっちゅう事《こつ》か!」
 と、川路利良は大声でさけんだ。
 すると、彼にとって思いがけないことに、女はぎょっとした表情になった。
 彼女にとって、それが意外な指摘であったことは明らかであった。
「そうでなかとすると――はて、おはん、何を考えちょったのか?」
 二十四、五と見えるのに、どこか少年じみたりりしささえある女の顔が、このとき、ぼうと赤くなった。

    三

 その夕方、川路利良が弾正台に帰って来ると、いれちがいに例の真鍋老人が出ていった。赤門の下で川路は目礼したが、相手はむっとした顔のまますれちがった。
 詰所にはいると、香月経四郎《かづきけいしろう》が一人、机に頬杖ついて坐っている。衣裳が衣裳だけに、そんな姿も優雅なものだ。
「おい、そこで伯父御に逢ったぞ」
「うん、私は逢わなんだが……大忠たちに強談したらしい」
「エスメラルダをフランスに帰せっちゅうのか」
「左様」
「それで大忠どのらは何といわれたな」
「まだ聞かないが、まあとり合われなかったろう。なるほど以前は、あの女について苦《にが》い顔をしておられたが、あの築地ホテル館の一件で、みなさま、あの女を見直されたようだからな」
 経四郎は笑った。
「香月」
「なんだ」
「あのエスメラルダの巫女の件にゃ、おいも驚いたが……あとで考えると、妙に思う事《こつ》がある」
 川路は経四郎の顔を見つめていった。
「エスメラルダが犯人や犯行のからくりを解く前に、おはん、その解明のための支度をしておったようじゃが……事前におはん知っちょったのか?」
「実はそうなんだ」
 経四郎は頭をかいた。
「あの前夜、あの女、おれと交合しておって……その絶頂に達した際に口走った。いや、あれほど明快ではなく、高熱のうわごとみたいなせりふじゃが……実はあの女にとって、あの巫女的行為の前奏として、前夜そういう状態になることが必要らしい」
 これには川路も、なお質問をつづける勇気を失って、眼を白黒させただけであった。
「ところで香月、おいは先刻、浅草で妙な事件に逢ったぞ」
 と、川路は話し出した。
「いや、それを話す前に、おはん、小笠原壱岐守どんの名を知っちょるかの」
「知らいでか。わが佐賀藩の隣藩唐津の殿様ではないか。そして、瓦解《がかい》前の御老中で、その後、アメリカへ逃げられたというおかた」
 それでなくても、そもそも弾正台の目的というのが、役人の監察とともに、謀叛人の剔抉《てつけつ》にあったから、行方不明の幕府要人について、これくらいの知識は当り前かも知れない。
「その御愛妾じゃったっちゅう女に逢ったのじゃ」
「ふん」
「それが、妊娠五、六カ月で。――」
「ふん」
「ところがな、壱岐守どんがアメリカへ逃げられたのが去年五月ごろで――これはもいちど念のため調べる必要があるが――とにかく、勘定が合わん」
「その妾が姦通したのだろう。いや、壱岐守どのがいないというなら、姦通ともいえまい」
 経四郎はつまらなさそうにいい、すぐに妙な顔をした。
「川路さん、しかしどうしてまたその女の妊娠月数まで知ったのかね」
「ある女の観察による」
「ある女?」
「おはんのいまの姦通|云々《うんぬん》の推定は、その女の推定と同じだ。ところが、おいは、壱岐守どのがアメリカへ逃げたっちゅうのは嘘じゃなかか、と、まず考えたのじゃ」
「やあ!」
 はじめて経四郎は眼をまるくした。
 そこで川路は、浅草の一件を話し出した。
 ――可笑《おか》しくも、露店浪人の妻に命じられて、壱岐守どの御愛妾のゆくえを追跡した邏卒鬼丸多聞太は、その住所が谷中初音《やなかはつね》町の墓地のそばの一軒家で、どうやら彼女はそこに唖《おし》の小女《こおんな》一人を使って住んでいるらしい、ということをつきとめて来た。
 例の古茶碗や古徳利を売っている浪人夫婦のところで待っていた川路は、改めて、唐津生まれとはいえ、男なら知らず、その妻女が、なぜその女人にあれほどの関心を持ったのか、ということを訊《き》きただした。
「いや、眼に見た以上の勇婦じゃった。その女房は五百《いお》といい、唐津の寺に生まれたが、娘のころから尊皇攘夷にかぶれての。いちじはなんと、男装して、刀をさして、西国《さいごく》一円の志士――坂本龍馬とか高杉晋作とか――の間を往来した事《こつ》もあるっちゅう」
「へへえ。……」
「それくらいじゃから、唐津出身の壱岐守どんの、幕府老中としてのいろいろな活動にはきわめて不満じゃった、不満どころか――五百はいちど唐津の坊主のところに嫁入りしたのじゃが、その後、夫を捨てて水戸の浪士鯉淵彦五郎なるものと再婚し、その夫の命令で、いちどは唐津藩の江戸屋敷に婢《はしため》となってはいりこみ、その暗殺まで企てた事《こつ》があるっちゅう」
「それはまたたいした女ではないか」
「おいも驚いた。御愛妾お弓の方は、そのときに見たっちゅう」
「なるほど。……ところで、その女志士が、どうしてまた大道で露店をひらくまでに落ちぶれたのかな」
「出身の唐津藩がいわば準朝敵藩となった上に、いまいった再婚相手の水戸浪士が――その水戸が天狗党《てんぐとう》騒ぎのおかげで自滅のありさまになり果て――瓦解後、とにかく市井で生活せんけりゃならんなりゆきになったのじゃが、これが暮しの上ではまったく芸なしの人物らしゅうてな。悄然としてそのときも露店に坐っておったが、まことに気の毒な夫婦じゃて」
「で、その女志士のなれの果てが、壱岐守どのの妾が相手の不明な子を孕《はら》んだと知って……どうするのかな」
「さ、それじゃ。その女房、むろんいまでも壱岐守どんによか感じを持っておらんらしか。にもかかわらず、その愛妾がえたいの知れぬ懐胎をしたとなると、それは許せぬ、といった、おだやかならぬ心境にあると見えた」
「ふうむ」
「それも問題じゃが、おいのほうはいまいったように、ひょっとしたら壱岐守どんは日本に――この東京のどこかに潜伏しておるのじゃなかか、という疑いにとらえられたんじゃ。じゃとすると。――」
「それは一応、一大事だな」
 と、経四郎はうなずいた。
 いま新政府が捜索中の「戦犯」は何十人かある。しかし、その中でも小笠原壱岐守はA級の人間にちがいない。――
「ただしかし、そういうことになると、壱岐守どのについて、私の知識は少し不足しているな。なにしろ瓦解前の三年間、外国へいってたんだから。――川路さん、すまんが、教えてくれ」
「さ、そういわれると、おいもよく知らんところがあるが。……」
 川路がそういったのは、小笠原壱岐守の履歴より、その人間についてであった。
 ――壱岐守|長行《ながみち》は肥前唐津藩六万石の家に生まれ、老中となった人物だ。それが藩主かというと、最後まで世子の身分であった。
 というのは、彼は前藩主|長昌《ながまさ》の長子であったにもかかわらず、二歳のとき父が亡くなったので、同族の――といっても、実際上の血縁関係はないが――小笠原長国を藩主として迎えた。それは、小笠原家は長崎警護の任務があったため、幼少の藩主は許されなかったからである。で、彼は前藩主の長男でありながら冷飯食いとして成長した。
 彼が現藩主のあとつぎとして認められたのは、なんと三十七歳になってからで、しかも土佐の山内容堂の斡旋によるものであった。容堂が彼の才を見込んだからだが、このことに意外に手がかかったのは、小笠原家にもう長国派と長行派が生じて、糸がこんがらがりかけていたからである。
 さて、その長行は、唐津藩の当主でなく世子の身分でありながら、文久二年に幕府老中となった。この破格の就任は、当時の困難を極めた攘夷と開国の騒ぎに、いかに彼の才気が世に知られ、その手腕があてにされたかを物語る。
 だから、一見唐津には、二人の殿様がいるような観を呈したことになる。
 壱岐守は明快な開国派であった。彼は、生麦《なまむぎ》事件のあと、薩摩に代って幕府から十万ポンドの償金をイギリスに支払った。征長軍の総督も勤《つと》めた。それどころか、実行不可能な攘夷を唱えて幕府を悩ます朝廷に対し、いまにして思えば身の毛もよだつクーデターを企んだ形跡すらある。
 しかし、あらゆる苦心は水泡と化し、幕府は倒れた。彼は抗戦継続を唱え、榎本|武揚《たけあき》らのたてこもる箱館までいった。――そこまではわかっている。
 そして、榎本らがついに降伏したあと、彼の姿は消えていた。調べてみると、四月某日、すでに壱岐守は二人の家来とともに、箱館湾内にいたアメリカ船に投じ、アメリカへ逃げたらしい、ということが判明した。
 さてそのあとの唐津藩だが、これは壱岐守の行為は一切藩のあずかり知らぬところだ、と、新政府に弁明した。当主の長国は、藩内に長国派と長行派のあったことはお調べになってみればわかる、元来長行とは、すべてにおいて正反対の立場にあった、と、いい張った。そして、壱岐守の消息がわかり次第報告し、もし日本に帰ったことがわかればただちに逮捕してつき出す、と誓言して、あやうく藩としての命脈を保つことが出来た。
 えてして人間世界にはよくあることだが、唐津藩は、長行が老中をしているころは、結構それに便乗して大きな顔をしたくせに、いざ存亡の事態となると、長行を徹底的に「悪役」に仕立てたのである。
「まず、ざっと、こげな履歴じゃが。……」
「ははん、あちらの立場になってみれば、それなりに筋が通った行動の人物ではないか。あのころの幕閣のウロウロ連中にくらべれば、骨もある」
「そのくせ、人物がよくわからん」
「と、いうと?」
「その長州征伐の総督となったときにじゃな。真っ黒な漆《うるし》塗りの鉢金《はちがね》に、二尺もあろうかっちゅう|わらび《ヽヽヽ》型の二本の前立《まえだて》のついた兜《かぶと》をかぶり、燃えるような朱の陣羽織をつけるっちゅう堂々たる大将ぶりじゃったそうじゃが、あるときある大名が陣中見舞いにいってその軍装に感心すると、兜をとって手渡した。すると、手も浮きあがるような軽さなので驚いた。その黒光りする兜は、ピンからキリまで桐で作ってあったのじゃな。そして、笑っていうには、こりゃ大将として偉そうに見せかけるための脅《おど》かしじゃ。森や林を逃げるとき、前立が金物《かなもの》ではひっかかって落馬するおそれがあるが、これならすぐにポキンと折れる。――」
「へえ」
「そして、朱の陣羽織をひっくり返すと、これが真っ黒で、しかもどう見てもそれなりにちゃんとした陣羽織になっちょる。これも逃げるときの用心じゃといったっちゅう。――」
「へへえ」
「それから老中としても、賄賂《わいろ》を持って来るやつがあれば、平気で受けとる。ある人間が諫言したら、なにこれをつき返しても、向うは手を替え品を替えて持って来る。それにいちいち応対し、ああだこうだとやり合っちょるほどこちらはひまじゃなか。面倒くさいから、持って来たものはみんなもらっておく。ただし、その賄賂の効き目は一切なかぞ、と大笑し、事実その通りじゃったっちゅう。――」
「そりゃ、案外|洒落《しやれ》た人物ではないか」
「そげな事《こつ》を洒落ちょるというのか。おいは感服せん。……おはん、幕府が腐っておったといつか憤慨したが、こげな事《こつ》もその現われじゃなかか」
「そういわれれば、そうかも知れん。――いくつくらいのお人だったのかね」
「逃亡時、たしか五十前、というところじゃったろう」
「そうか。なるほどこれは面白いな」
 経四郎は、川路の顔を見た。
「万一、そのお妾を孕ませたお人が壱岐守どのだとすると、これは近来の大捕物だ。――その相手を捜すのに、川路さん、また競争しようか」
「競争とは大袈裟な。――その愛妾を見張るか、もしくはとっつかまえて、相手はだれかと訊けばよか」
「さ、そう問屋が下ろすといいが」
「……ちゅうと?」
「いや、これはあんたからいま聞いたばかりの話で、何ともいえないが、偵察にやったというのがあの鬼丸多聞太だろう。あれが、その妾が一人暮しだということまでつきとめて来たそうだが、相手に気づかれず、尾行し、そんな聞き込みをやるほど器用な男じゃない。その相手の男が足止めしたらどうする? かつまた女をつかまえて調べても、ほんもの隠しのためにいいかげんな男の名をあげたらどうする?」
「それは、そのときのこっちゃ」
「まあ、おぬしの好きなようにやってくれ。私は私のやりかたでやって見る」
 と、経四郎はいった。
「というのは、外側から調べるということだが、さてそうなると、いま好きなようにやってくれ、といったが、やはりその御愛妾を直接とり調べられると、少し具合が悪いなあ」
「よか、よか、わかっちょる」

    四

 一人の女を孕ませた男を探る。
 ふつうなら弾正台のやるべきことではないが、それが、大戦犯――とくに、当時としては破天荒の国外逃亡という離れわざをやった人物にからまる、とあれば話は別だ。
 香月経四郎の挑戦はともかく、川路利良はふるい立った。――こうして両人の探偵争い第二話の幕があがる。
 翌日の午前、彼は鬼丸邏卒、横枕《よこまくら》邏卒とともに、昨日鬼丸がつきとめた谷中初音町へいって見た。
 鬼丸の同行は前日に命じてあったのだが、横枕平助はそれに勝手にくっついて来たものだ。元老中の妾云々と聞いて、この不精者も好奇心をもよおしたものに相違ない。
 のちに露伴が描いた有名な五重の塔のある天王寺の南側に、四つ目垣をへだてて広い墓地がひろがり、それに沿う道の反対側に、十軒ばかり、豆腐屋、炭屋、荒物屋、線香屋などがかたまっている。冬の午前で、みな戸を一、二枚あけただけなので、いっそうわびしい風景に見える。それ以外は、小さな寺々の塀だけだ。店はこの寺を相手にしてひらいているものらしい。
「女の家はあれでござる」
 と、ある店の前で、鬼丸は指さした。
 そこから四、五十メートル向うに三本の銀杏《いちよう》の大木が裸のままそそり立っていて、その下に小さな、しかし風雅な家が一軒見えた。
「お前が聞き込みをしたっちゅうのは、ここらの店か」
「左様でござります」
 一軒の荒物屋に、おかみさんらしい女の影が見えたので、川路はのぞきこみ、問題の家の住人や出入りしている人間について尋ねた。
「ああ、あんたはきのうの。……」
 と、おかみさんは鬼丸邏卒の髯面を見てさけび、すぐに川路をその上司と悟ったのだろう、恐怖した表情で、しかしペラペラとしゃべった。
 あの家には美しい女主人と唖の小女だけしか住んでいないこと。二人が住みついたのは、去年の六月ごろからであること。女主人はめったに外出せず、外出するときはお高祖頭巾で顔をつつんでいること。買物その他の用事は小女がやっていること。――など、大体においてきのう鬼丸が報告したのと同じようなことであった。
 そのあとで、だれか外から訪ねたのを見たことはいちどもないが、ただ――一ト月か二タ月にいちどくらいの割合いで、人力俥に乗ったラシャメン風の女の訪問客があるようだ、それはこの前の道を通るからわかる、と、妙なことをつけ加えた。
「ラシャメン?」
 川路は、首をかしげた。
「その女は、あちらの洋服でも着ちょるのか?」
 これに対しておかみさんは、いえ、そんなわけではないが、頸に頸飾りをつけているし、化粧のようすが何となく異人くさいからそういうだけだ、といい、またその女は、あの家にいってもほとんど戸口での立ち話ではないか、と思われる時間でまた去ってゆく、と答えた。
「ふうむ。……」
 事は、はじめ考えていた以上の妖《あや》しさをおびて来た。
「男が来た姿を見た事《こつ》はなかと?」
「はい。……」
「それで、暮し向きはどげな暮しか」
「それが、なかなかぜいたくな暮しをなすっているようで……たっぷり縁切りのお手当をもらったお妾じゃあるまいか、と、みな話しておりますよ」
 お妾、という推定はあたっている。
「それで、あの家にゆくにゃ、この前の道を通るほかはなかのじゃな?」
「はい、もっとも墓場を通りゃ、別ですけれど――ああ、そうそう、その墓場に変なことが。……」
「何か」
「幽霊の話なんです」
「ほう? 出るべきところに、出るべきものが出るか」
 これくらいが、川路利良の精一杯の諧謔《かいぎやく》だ。
「いえ、あたしなんざ、ここで何十年も暮していますけれど、そんな話、聞いたことがありません。ところが、去年の夏、線香屋のお米《よね》さんが夜おそく、ひょいと墓地のほうを見たら……お米さん、呼んで来ましょうか、旦那さま。……」
「うん? いや、まずお前の話を聞こう」
「ちょうど月のある晩でしたが、墓の向うを白いものが動いている。その時刻墓詣りはおかしいし、坊さんでもないようだってんで、それで亭主の吉さんを呼んで、二人で墓地にはいり、近づいてゆくと、いちど墓にかくれたその白いものが、すうっと空中《そら》に――こんな高さに。――」
 と、おかみさんは手をいっぱいに上にのばして、
「浮かんで、墓石《はかいし》の上を遠くへ消えてしまったんだそうで」
 と、いった。
「それから、暮《くれ》のある朝、まだうす暗い時刻、豆腐屋の善さんが、同じものを見たというんです。このときは黒い影でしたが、やっぱりその高さで空中《そら》をながれていったという話で」
 そのとき、おかみさんが、「あ!」とさけんだ。
 ふりむいた川路たちは、戸口のすぐ外からのぞいている十五、六の――霜やけのしたまるい頬の少女に気がついた。
 眼があったとたん、少女は飛び離れ、バタバタとあの家のほうへ駈けていった。手に風呂敷包みをかかえているところを見ると、何か買物をしての帰途、ふとこの店に川路らの姿を認めたものだろう。いつからそこに立っていたのかわからない。
「聞いてたな」
 と、おかみさんが、間の悪そうにつぶやいた。
「唖なそうじゃが」
「いえ、耳は聞えるんです。変な唖で」
 とにかく、これ以上、その家に近づきにくいことになった。もっともそれは覚悟していたことで、川路がここへやって来たのは念のためであったが、望外の収穫があった。
 もっとも、その墓場の空をながれる白い影、あるいは黒い影は何のことだかわからない。
「あの女が、あそこに住みついたのが去年六月ごろ、その墓場の変化《へんげ》はそれ以来の事《こつ》じゃな」
「大巡察、踏みこんで、とり調べましょうか」
「いや待て。……それじゃ、ぶちこわしになるおそれがある。もう少し。――」
 川路は荒物屋を出て、まだ考えこんでいたが、ふいにふりむいて、
「鬼丸邏卒、これからおはん、どこかで食糧を買い集めてな。あの墓場にいって、当分張りこんでくれんか。――ただし、だれにも見つかってはいかんぞ」
「――ひえっ」
 鬼丸邏卒は仰天した。
「この、幽霊が出るという墓場に、でござるか」
「その化物が出たら、つかまえるんじゃ」
「そ、そんなことを……私、一人でござるか?」
「おはんの剛力を見こんでいうのじゃ」
「夜も、でござるか!」
「むろん、その幽霊は夜出るっちゅう事《こつ》じゃからな。追って後命あるまで、やってくれ」
「お、おい、横枕、お前もいっしょにいてくれろ」
 横枕平助は、すでに半分逃げ腰になったまま、じろっと川路を眺め、
「一人ですむ仕事に二人かかる必要はあるまい。貴重な人材の浪費じゃ」
 と、かん高い声を張りあげた。
「うんにゃ、浪費じゃなか。これはあえて貴重な人材を投入すべき仕事じゃて。おう、そうじゃ、交替でやるがよか」
 川路は無表情に横枕邏卒を見つめて、
「お前、こげな役にも立とうとしてついて来たのじゃなかか? 友達甲斐に、二人でやれ」
 寒風の中に、棒立ちになり、泣き面をした二人の邏卒をふり返りもせず、川路大巡察はスタスタと遠ざかっていった。

    五

 やがて川路はまた浅草にやって来た。
 例の古皿古徳利の露店のところへいってみると、例の女房はいない。ただその夫の浪人と子供だけが、影薄く坐っている。
「おう、昨日は失礼。お内儀はきょうはお休みか」
 と、川路は声をかけた。
「いえ、それが。――」
 答えかけてためらい、その鯉淵彦五郎という浪人はまた口をほどいた。
「弾正台大巡察と存じて御相談いたす。女房は、唐津藩元重役のところへ参りました。昨日知れた小笠原壱岐守どのの御愛妾の件に関してでしょう」
 実は、川路がまた浅草に来たのは、あのきかぬ気の女房が、あのままじっとしているはずがない、という虫の知らせのようなものがあったからであった。ひょっとしたら、谷中で鉢合わせするかも知れない、とさえ考えた。
 それで、いま騒がれるとこちらの段取りの邪魔になるので、改めて釘をさしに来たのだが――そうか、彼女はやはりそんなところにいったのか。
 ところで川路は、むろん、壱岐守のことに詳しい唐津藩の関係者を調査しなければならぬと思い、しかしさしあたって思い当る人間がいないので、さてどこでとっかかりをつかまえようか、と思案していたのだが、いまの鯉淵彦五郎の言葉に、さてこそ、と心中にほくそ笑んだ。
「女房は、実にそういうことが好きなのでござる。よくいえば黙って見過ごせぬ正義の化身、悪くいえばお節介な金棒《かなぼう》曳き――その点、なみの女離れしていると申そうか。しかし、左様な奔走はいまのわれわれにとって百害あって一利なし、いや、だいいち御覧のごとく子供も放りっぱなしで実に迷惑いたす」
 切々と鯉淵彦五郎は訴えた。
 女志士|五百《いお》に前夫を捨てさせた水戸浪士の鯉淵が――それどころか、昨日聞いたところでは、かつて壱岐守を刺せと五百を送りこんだような話であったが、どうも少しようすがちがう。その後、人間が変ったのだろう。ただし、まじめな人間であるらしく、印象は悪くない。
「もういまとなっては、壱岐守どのの妾はおろか、壱岐守どの御自身がどうあろうと、私どもとは何の関係もない。それどころか、要らざる身の危険を招くおそれすらある、と思うのですが、あの悍馬《かんば》のような女房、私のいうことなどとうてい聞きませぬ。どうぞお上のほうでおさとしになってくれませぬか」
「ふうむ、それで、その唐津藩元重役は何ちゅう人か」
「田鎖左玄《たぐさりさげん》という人物で、長国派、つまり長行反対派の頭分《かしらぶん》だそうで」
「どこに住んで、いま何をしておる」
「たしか京橋|木挽《こびき》町に住み、民部省|少録《しようろく》を拝命しておるとか聞きました。――あ、女房はそのお役所のほうへ参ったかも知れませぬ」
「お、役人をやっちょるのか」
 川路はちょっと意外な気がした。唐津藩にしては数少ない例だろう。
「よか、そっちのようすを見てやろう」
 川路は、こんどは丸の内の民部省へいった。――ぜんぶ、二本の足でまわるのだから、大変である。
 名刺を出して都合を訊くと、やがて面会室に田鎖左玄が出て来た。
 でっぷり肥って、いかつい顔をして、なるほど元は唐津藩の家老をしていたことがうなずかれる貫禄の持主であったが、さすがに顔色を改めている。
 民部省少録というとものものしいが、まあ下級の官吏といってさしつかえない。それでも世子が「逃亡戦犯」となった唐津藩の人間としては、まだ新政府に職を得たのを倖せとすべきかも知れない。
 さて、これが、ここに同郷の鯉淵五百なる女性が来なかったか、という川路の最初の問いに、
「先刻、参ってござる」
 と、浮かぬ顔のまま答えた。
 そして、小笠原壱岐守どのの元愛妾の所在を御存知であったか、その女人がいま妊娠中であることが判明したが、その相手に心当りはないか、という次の質問に、彼は不機嫌な表情で答えた。
「そのような女、むろんいままで所在は存じ申さなんだ。お調べ下されば明らかになると思いますが、拙者は唐津藩でも勤皇党、つまり長国派でござりましてな、もともと壱岐守さまが幕府老中として働かれることに反対の立場の人間でござった。その壱岐守さまのおかげで唐津藩は大難に見舞われ、以後も甚だ不遇の運命に立ち至りました。壱岐守さまはトコトンまで幕軍とつき合われて、あげくの果てはアメリカへ逃げられたと承わったが、実に無責任なお方だと憤慨にたえない次第だ。いまでは一切関係ないものと存じておる。その元愛妾がいま孕《はら》んでおろうが、相手がだれであろうが一切関心がござらぬ」
 吐き出すようにいった。
「その五百なる女、いかにも参りました。たとえ壱岐守さま御不在とは申せ、いや、それなればこそいっそう、かりにも御愛妾であった女が孕むとはけしからぬ、と申すのでござる。むろん、それを知れば在京の元唐津勤皇党のめんめんはただでは捨ておかぬでござろう。それをまた期待して、五百は拙者を焚きつけに来たようでござる。しかし、拙者、はねつけました。五百にも、左様なことはいよいよもって唐津藩の恥さらし、これ以上無用な愚行はよしにせいと申しわたしました」
「壱岐守どんが亡命されたっちゅうのは嘘で、そのまま日本に――東京のどこかに潜伏しておられるっちゅう事《こつ》は、あんた考えられた事《こつ》はごわせんか」
 と、川路はいった。
 田鎖左玄は口をぽかんとあけた。
「それは!」
 と、さけんだ。
「そんな、馬鹿な!」
「しかし、アメリカにいる壱岐守どんを、あんた方が御覧になったわけじゃごわすまい」
「そ、そりゃそうでござるが……しかし、われわれとて、壱岐守さまがアメリカへ逃げられた、ということは、それほど根拠なく信じたことではござらぬ。箱館でアメリカ船に乗りこまれたということは、当時箱館にあった幕臣数名の目撃されたところでござる。――だいいち、もし壱岐守さまが日本におられるならば、われわれ長国派が捨ててはおかぬ。――」
「その長国派ゆえ、壱岐守どのの御消息に縁がなかったっちゅう事《こつ》はごわせんか?」
「いや、そんな。……」
 と、また田鎖はうめいて絶句したが、ややあって、ほとばしるように、
「唐津藩が何とか御|宥免《ゆうめん》になったとき、万一壱岐守が日本にまかりあること判明したる場合は、ただちにこれを逮捕し、その筋へつき出しまする、と政府に誓約つかまつった。はばかりながらこの田鎖左玄、藩を代表してこの誓言にそむかぬこと、ここに明言いたしまする」
 と、いった。
「そうでごわすか」
 川路の顔には、やや失望の色があった。
 この唐津藩の元重役が、たとえアンチ長行派とはいえ――いや、アンチ長行派なるがゆえに――壱岐守長行の国外逃亡を、こうまで信じて疑わないなら、自分をとらえた疑惑はついに妄想であったか、と思わないわけにはゆかなかったのだ。
 一礼して、面会室を出かかり、彼はふりむいた。
「ああ、その御愛妾のほうには、近くの谷中天王寺の墓地に邏卒を張りこませてありもすで、懐胎の主《ぬし》が通《かよ》ってくれば、それが何者じゃろうとつかまえもす。で、それまで鯉淵五百ちゅう女には、これ以上騒がんように、もしまたこっちへ来たら、くれぐれもさとしておいて下され」

    六

 四、五日後、経四郎が川路にいった。
「こっちも、唐津藩の関係者を見つけたぞ」
 こっちも、といったのは、川路が先日の探偵の始末を話しておいたからだ。
 経四郎は競争云々といったけれど、川路にはまだそんな気はないし、ただ事件そのものに興味を持って乗り出したのだが、どうも自分の見込みちがいの結果になったようで、苦笑しながら経四郎に報告したのだ。
 それなのに経四郎は、経四郎なりにまだ何か調べていたと見える。――もっとも、あの愛妾を懐胎させた相手は依然として不明であるのみならず、その身辺にふつうでないものが漂っていることは事実だ。
「うちは唐津藩の隣藩だから、おたがいに知人が多かろうと何となく思っていたのだが、意外に少ない。唐津藩士で役人になっている者が少なくて調べがつかない、というせいもあってね。――それが、あった。それも、これは長行派の大物だ。江戸家老まで勤めておった赤松孫兵衛という人物」
「長行派の? それは、よくまあ」
「しかも大蔵省の史生《しじよう》という地位――いや、役人としては最下級のほうだが、何でも経済のほうじゃ大変有能な男でね、それで拾いあげられたらしい。いま諸藩の藩札の始末に携《たずさわ》っているということだ」
「ふうむ。……」
「そこで、あんたのように、私が直接逢って訊こうと思ったが、そらとぼけられてはそれまでだ。人間、当人のしゃべることだけではあてにならない」
「それは、そうじゃ」
「ところでその赤松は、毎月五日に横浜にゆくそうだ。その日は、役所の休みをとってまでゆくそうだ」
「ほう。……それはどげな用件でじゃ」
「わからん。ただ、そういうことだけがわかったんだ。休んでまでゆくというのがただの物見《ものみ》見物とは思われん。横浜というのが、この場合、何ともいぶかしい。そこで、あしたはちょうど二月五日だ。それを尾行してみるつもりだが、あんたもゆかんかね」
「ゆこう」
「住まいは本郷の建部《たけべ》坂だという。たいてい朝早く出かけるらしいが、左様、七時ごろでよかろう。水道橋の北寄りのたもとに来て待っていてくれ。邏卒芋川平九郎に見張らせておく」
 翌朝、二月五日。
 川路は七時前に到着して、水道橋から、神田川すなわち外濠《そとぼり》に沿って、その北側の道を歩いて見た。
 通りの南側は絶壁だが、北へは、いくつかの小さなゆるい坂が上っている。建部坂とはどれだろう、と歩いていると、そのいくつ目かの坂の下に俥が二、三台客待ちをしていて、その一台の蹴込みに邏卒が一人坐って俥夫たちと話していたが、前を通る川路と眼が合うと、大福餅を踏みつぶしたような顔に、片目をつぶってみせた。芋川平九郎であった。
 しばらくいって、ひき返し、水道橋にもどると、経四郎が来ていた。例の水干姿である。
「建部坂というのは、昔、忠弥坂と呼んでいたらしい。丸橋忠弥が住んでいたということだ」
 と、彼はいった。
 そして、こんどは深い濠《ほり》を見下ろしながら、数日前、お茶の水近くで人力俥が一台落ちて、俥夫は何とか水際の樹の枝まで泳ぎついたが、客は水死したということだ、と、話した。
「なんでも通りを走っていたのが、北側の坂から俥が一台下りて来たのを、出合《であい》がしらによけようとして落ちてしまったというのだが、俥などいうものがこう多くなると、濠《ほり》沿いに柵をつけたほうがいいかも知れんな」
「おいは、俥っちゅうものを野放しにするのはいかん、許可制で営業させる必要があると思う」
 足踏みせずにはいられないような寒さの中で雑談していると、芋川邏卒が駈けて来た。
「いま、来ます」
 数分おいて、一台の人力俥がやって来た。幌《ほろ》の中に、四十年輩の、面長の、いかにも思慮深げな男が乗っているのが見えた。
 それが橋を渡ったころ、二台の空俥《からぐるま》が俥夫にひかれて来た。芋川が手をふって、とめさせた。
「こういうこともあろうかと思って、俥を待たせておいたんでさあ。さあ、旦那、早く」
 さっき芋川が話していたのは、ただの客待ちの俥ではなかったのだ。
「あの俥を追っかけてくれ。横浜にゆくらしい」
 と、俥の上で経四郎がいった。
 ――実際、俥は魔法のように発達した。去年の夏、それが大八車に箱をのせたような姿ではじめて出現したときはみなを失笑させたものだが、その後みるみる改良され、ほとんど一日ごとにニュータイプのものがお目見得《めみえ》し、いまでは車輪は鉄輪《かなわ》になり、上部の客席は西洋の乳母車から学んだらしく、折りたたみ式の幌《ほろ》をかけたものも見え――二人が乗ったのも、それであった。もっとも、どこか依然として滑稽な乗物であることは変らない。俥夫も、後年のように紺の筒袖、腹掛《はらがけ》、股引に饅頭《まんじゆう》笠といういなせないでたちではなく、尻っからげにねじり鉢巻の――それどころか、冬というのにふんどし一本という雲助さながらのやつも少なくなかった。
 東京横浜間に鉄道建設の話は出ているが、まだ手はつけられていない。反対運動があって、文字通りその最大ブレーキをかけているのが例のごとく弾正台の大忠連であった。
 東京から横浜まで、俥で五時間以上かかり、横浜に着いたのは昼過ぎになっていたが、それでも歩くよりはらくだということを、改めて川路も認めないわけにはゆかなかった。
「はてな」
 先の俥のゆくさきを見て、川路がつぶやいた。
 東京はまだ江戸のままといってもさしつかえないが、横浜はさすがにエキゾチシズムの香が潮の香とともにたちこめている。通りもひろく、俥は何台でもならんで走れる。
「きゃつ、居留地へゆくぞ」
 尾行を気づかれないように、車間距離を置いて走って来たが、向うはまたはじめから自分を尾行している者があろうとは思いもよらない風で、堂々と居留地にはいっていって――それが停《とま》ったのは、海岸通りに面し、谷戸橋のたもとにある洋館の前であった。
 その玄関から大通りにかけて、数十人の行列がつづいている。日本人ばかりで、しかもみんな病人のようだ。
 赤松孫兵衛は俥から下り、玄関ではない横手のほうへ消えていった。
「こりゃヘボン館じゃなかか」
 と、川路はさけんだ。
 間口は七、八間、奥行きはよくわからないが、百坪くらいはあるだろう、木造だが、うす青いペンキを塗った清雅な洋館であった。

    七

 ドクトル・ヘボン――その名は、経四郎も知っている。もう十年も前から横浜にやって来て、耶蘇《やそ》教の宣教と病貧の人々の施療と救助にあたっているアメリカの聖医だ。
「貴公、来たことがあるのか」
 と、経四郎は訊いた。
「うむ、それ、去年十一月末、大学校のロングという外人教師が暴漢に斬られたっちゅう事件があったじゃろ。肩に重傷を受けたロングを戸板でここへ運んだのじゃが、その運搬の宰領《さいりよう》をやらされたんじゃ」
 そのとき、玄関から出て来た白衣の男が、病人の行列を整理しかけたが、ふとこちらを見て、
「こりゃ、川路大巡察じゃないですか」
 と、呼んで、近づいて来た。白衣の下もあちらの服を着ているらしい。白い頭巾のようなものをかぶっているが、たしかにザンギリ頭で、三十七、八の、髯もじゃの大男であったが、むろん日本人だ。
「お、これは岸田ギンコーどん」
 経四郎にはそう聞えた妙な名を口にし、川路は、「もうしかたなか、……あれはヘボン先生の助手をしとる男じゃ」と、つぶやいた。
 岸田ギンコーは、川路と西洋人みたいに握手をして、
「きょうはまた何用です」
 と、いいながら、ジロジロ経四郎の衣裳を見ている。川路は経四郎を、これも弾正台の大巡察だと紹介したあと、
「実はいま、ここにある人物がはいったのを見かけましてな」
 と、切り出した。
「元唐津藩の江戸家老、赤松孫兵衛っちゅうかたで――そのかたに、ちとうかがいたい事《こつ》があるのでごわす」
「ああ、赤松さん。なるほどきょうは五日ですね」
「毎月、五日に赤松どんはここへ来られるっちゅう事《こつ》ごわすな。何用ごわすか」
「左様。それは、――」
 と、いいかけて、
「いや、それは私の口から申してよいかどうか、よくわからない。とにかく、こちらにおはいり下さい」
 と、先に立って玄関のほうへ歩き出した。
 二人は、玄関をはいって、すぐ左側の、十坪以上もある広い応接室に通された。壁に聖母子像の絵がかけられ、棚にキリスト裸像や地球儀などが飾られている。
「岸田どんはの、もうこの横浜で、新聞を出したり、船会社を作ったり、石油会社をやったりして、なかなかの実業人だったのじゃが、高潔なヘボン先生に逢ってひどく傾倒し、先生が日本最初の和英辞書の作製にとりかかったのを手伝う一方、いまじゃ手術なんぞの助手もつとめておるんじゃ」
 と、川路は説明した。経四郎が訊《き》く。
「ギンコーって名かね」
「ああ、あれは本名はたしか銀次郎っちゅんじゃが、みなが銀公銀公と呼ぶものじゃから、いっそ風流な吟香っちゅう名にした、とか、いっとったが、まことに人を喰った快男児じゃて」
 そこへ、その岸田吟香と赤松孫兵衛がはいって来た。吟香は手に一|束《たば》の書類|様《よう》のものを持っている。
「弾正台の方でござると?」
 挨拶ぬきに赤松は口を切った。
「私が毎月ここへ来る理由をお調べでござると?」
「小笠原壱岐守どのの行方を探索しとるうちにつかんだ事実です」
 と、経四郎がずばりといった。
 赤松孫兵衛は沈痛な眼をむけた。
「左様、仰《おお》せあっては、もはや隠してもせんないことでござろう。この岸田氏におうかがいなさればわかることですが、それはアメリカにおわす殿からのお手紙や御送金を受けるためでござる」
「えっ、御送金?」
「壱岐守どのは、あちらで何をしておられるのか」
 と、二人はさけんだ。
「殿は、アメリカ西海岸のサンフランシスコとかいう町の捕鯨会社の……まあ、東洋方面の相談役をなされておるとかで……毎月、船に託して便りをお寄越しになる。アメリカからの便りを拙宅へとどけてもらう便もござらぬし、かつはまた殿は御承知のような亡命の御境遇ですから、お上に対してもはばかりがあって、日本での受取人はヘボン先生にお願いし、それを月に一度、拙者が受け取りに参っておった次第です」
「お調べは、そんなことだろうと思っていた。きょうは残念ながら、お便りが到着しておりませんが、これが、以前からの――赤松どのにあてたもの以外の、ヘボン先生への小笠原さんの手紙です」
 と、吟香が手にしていた書状の束をテーブルの上に置いた。
 反射的に川路はその二、三通を手にとったが、封筒の表はアメリカ文字ばかりで、何と書いてあるのか、歯も立たない。
 経四郎も一通拾って、中をのぞきこもうとした。
「いや、みな英語ですぞ。向うの人に代筆してもらったものでしょうが」
 と、吟香が笑った。水干姿と見くらべて、いささか嘲笑《あざわら》う気味の笑顔であった。
「送金――とか、いわれたな」
 経四郎は手紙を持ったままいった。
「どなたへの御送金か」
「は。……」
 赤松はいいよどんだ。
「あなたへですか」
「とんでもない!……私が殿からそんなものを頂戴する理由もない。実は、さるおかたへ」
「御愛妾のお弓のお方へではないか」
「それを御承知でござるか」
 赤松は愕然としたようであった。
「さればです。それをこのヘボン先生のもとで、日本の|かね《ヽヽ》に替えて、お弓さまのところへとどけていただいております」
 そのとき、川路がはっとしたように口をさしはさんだ。
「ひょっとしたら、その届け人は、女人《によにん》ではごわせんか」
「やあ、あれか」
 と、岸田吟香が突然うなずき、つかつかと部屋を出ていった。
 ちょっと、あっけにとられてそれを見送った経四郎は、やおら態勢を立てなおし、
「ところで、その壱岐守さまの御愛妾――東京|谷中《やなか》にお住まいのお弓の方さまが、いま御懐胎中であることを御存知ですか」
 単刀直入に、核心に切りこんだ。
 赤松の顔が眼に見えて硬直した。
「しかも、どう見ても、壱岐守さま御亡命後の御妊娠と判断されるふしがあるが、これをどう思われるかな」
「――ああ」
 と、赤松は長嘆した。
「そこまで、おつきとめに相成ったか?」
 そして、そのまま宙を見ていたが、
「お信じ下さるか、どうか。――」
 と、いい出した。
「それは、壱岐守さまのおん生霊《いきりよう》のなしたもうわざでござる」
「なに、生霊《いきりよう》。――」
 そのときドアがまたひらいて、岸田が顔をのぞかせた。うしろに彼と同じような、白衣をつけた若い女が立っている。
「これは、その病院の手伝いをさせておるお伝という女ですが、このひとに、そこへ金をとどける役をやってもらっていたのですよ」
 むろん、丸髷《まるまげ》をゆい、日本の着物を着ているが、頸飾りらしいものが見え、どことなくエキゾチックな美人であった。
 川路は、谷中の荒物屋のおかみさんから話を聞いただけで、もとよりその実物を見ていない。しかし、いまその女を見ると、なるほどこれか、これにちがいない、と、合点しないわけにはゆかなかった。
「わかりもした」
 彼はうなずいた。
 ヘボン館の「看護婦」は、妖精のごとく消えた。
 ――去年の夏ごろ、上州から癩病の夫とともにここの門をたたいて、夫はいまも施療中であり、本人はその看病とともに病院の手伝いをやっている貞婦高橋お伝の、若く甲斐甲斐しい姿がそれであった。――約十年後、警視総監川路利良は、毒婦お伝を斬首刑に処することになるのだが、それはこのときにおいては悪魔のみぞ知る。
「その金を。――」
 と、経四郎が尋ねた。
「なぜ、あなたが直接谷中におとどけにならなんだのか」
「それは……壱岐守さまのことに関し、坊主憎けりゃの譬《たと》え通り、お弓のお方さまにもこころよからぬ向きが少なからず、そのためその御所在は極力秘してあったと申せ、なお在京藩士の中には、あるいは察知しておる者がないとは申せぬ。長行派の代表と見られた私についてはいうまでもござらぬ。で、二人は無関係の立場にあったほうが、二人の安全のために好都合だ、と拙者は存じておりました」
 赤松はいった。
「もし二人の間に往来があると知られれば、人によっては何を申すか、何をしでかすかわからぬ剣呑《けんのん》なやつもあり、されば私自身は絶対に直接お弓のお方さまにお逢いすることを御遠慮申しあげようと決め、そこで、まことにお手数の上にお手数をかけ恐縮千万ですが、その金をおとどけいたすのにも、ヘボン先生のお手をわずらわした次第です」
「なるほど、あれは男子禁制のお家というわけか」
「いえ、私はゆかない、と、申しているだけですが。……」
 経四郎は、さっき耳にした奇怪な言葉に立ち戻った。
「ところで、壱岐守さまの生霊《いきりよう》とは何ですか」
「されば、拙者も半信半疑だったのですが、いつぞや殿からお弓の方さまへ、アメリカより生霊となって日本に帰り、そなたを抱いてつかわすとお便りがあったそうで、それ以来、ときどき殿が谷中のお家に現われなされ、その結果、御懐妊になったと申す。……」
「そんな馬鹿な!」
 経四郎は大声をあげ、次に冷笑した。
「生霊は電信でゆくとその便りにはなかったか。……そもそも、一切お弓の方と接触しないあなたが、どうしてそんなことを御承知か」
「いや、それは御懐胎のとき、お弓の方さまが一度か二度、拙者にお手紙を下されたからでござる。いま申した通り、拙者もはじめ信ぜず、もし御懐妊がまことにて、しかも在京藩士にでも知られたら、いかなる大事に立ち至るや測り知れざるものがあると苦慮いたしましたが。……」
「失礼ですが、お弓の方さまは、巷間にいう間男《まおとこ》を作られたのではありませんか」
「何を申される」
 赤松孫兵衛は、はじめてくわっと眼をむいた。
「弾正台のかたのお調べだと存ずればこそ、拙者、この刀を抜きませぬ! それは……いかに壱岐守さまがお弓のお方さまを愛《いと》しゅう思っておわしたか、またお弓のお方さまがいかに壱岐守さまをお慕い申しあげておられたか、それを知らぬかたの、笑止な世迷《よま》いごとだ!」
 生霊なるものを笑って、しかも世迷いごとだときめつけられて、そのくせ経四郎はしゅんとした。
 怖ろしく現実的な川路利良がボンヤリとつぶやいた。
「――すると、あの谷中の墓地の白い影黒い影は、あれは壱岐守どんの生霊じゃったっちゅうのか?」
「いや、アメリカという国は、人間の生霊くらい電信で送りかねんぞ。わははははは!」
 と、岸田吟香が魁偉な髯の中から大笑したが、すぐに厳粛な顔になり、
「マリアは聖霊によって身籠られた。……げんに、うちのヘボン先生など、毎日聖霊と会話なされておる。信心の奇蹟は、現代でもあり得るのじゃ。……アーメン」
 と、十字を切った。
 ――この吟香は、二十一年後、なんと五十八歳にして天才洋画家岸田劉生という子をもうけることになるのだが、あるいは彼の睾丸《こうがん》にも偉大なる明治の精霊がとり憑《つ》いたのかも知れない。
 ヘボン先生は施療に忙殺されていると見えて、ついにその姿を見ることが出来なかった。しかし、小笠原壱岐守の送る手紙と金が、聖者ドクトル・ヘボンによって仲介されていることは明らかとなった。ということは、小笠原壱岐守がアメリカにいるのはまちがいないということになる。
「完璧のアリバイというやつだな」
 どういうつもりでつぶやいたのかは知らず、香月経四郎の頬には自嘲的と見える薄笑いが浮かんでいた。
 この場合、太平洋の向うで小笠原壱岐守は「おれがやったのだ」といっているにひとしいのだから、アリバイという言葉はおかしいが、川路の実感としてもまさにその通りであった。

    八

 ――ついでに記しておくと、ヘボンにかかわりあった弾正台の役人は、このときの香月経四郎、川路利良だけではなかったらしい。ほかにも、ちがう人間が、別の見地から接触しようとしたこともあるらしい。耶蘇ぎらいの弾正台としてはさもあるべきことである。
 一八七一年(明治四年)三月二日のヘボンの手紙にいわく、
「……帝国政府については何ら期待するものはありません。政府は日本からキリスト教を追放する意志をもって、直接反対しているようです。数年前、わたしが訳して出版したキリスト教の小冊子を御存知のことと存じます。政府はこの出版を手伝った日本人の素性を探索しています。その目的をもって、弾正台は諜者を派遣して、わたし、ならびに前記日本人を調べようとしているのです。……」(岩波書店版・高谷道男編訳「ヘボン書簡集」)
 疑惑は氷解したような、謎はいっそう深くなったような、落着きの悪い数日間ののち、経四郎が川路にいった。
「あの赤松孫兵衛な、まじめな顔をしていて、あれで藩札処理をごまかして、汚職をやっておるぞ」
「ほう? どげな?」
「それが複雑で、一口ではいえん。大蔵大丞の井上馨氏にそれとなく訊《き》いてみたのだが、藩札を扱っておる役人が多少悪いことをしても、いまの段階じゃ、とうてい証拠をつかまえることは難しい、素人の弾正台など手を出すな、ということだった。なに、私の見るところじゃ、その井上大丞もくさいのだが、それだけにちょっと手がつけられん。しかし、私の|かん《ヽヽ》では、赤松が妙なことをしているのはたしかだ」
「ふうむ、……」
「そのくせ、あれを調べると、建部坂の家は小さなもので、家族もなく、老婢一人を使っている質素な暮しだ」
「そうか」
「一方、あの長行反対派の田鎖左玄、あれは大変な酒好き女好きで、しばしば柳橋などで遊ぶというぜいたくな暮しをしておる。当人、唐津に大財産があったのかも知れんが、とにかくたいした余禄もあるはずのない民部省の下っ端《ぱ》役人としては、いぶかしいといえばいぶかしい」
「そりゃ、どげんした事《こつ》か?……それが、あの谷中の女人に何か関係ある事《こつ》か?」
「わからん。ただ、そういう事実がある、というだけだ」
「おいも先日から考えちょるんじゃが……例の生霊《いきりよう》なんて、やっぱり信じられん。あの女人を孕《はら》ませたのは、赤松孫兵衛じゃなかか?」
「一応はそうも考えられるが、しかしそれなら金も直接自分が持っていってやればよさそうに思う。李下《りか》の冠瓜田《かんむりかでん》の履《くつ》、を装《よそお》うにしても、ヘボン先生を介する、などいう手数をかけるやりかたが不可解だ。だいいち江戸家老まで勤めた男が、生霊によって女が孕んだ、などいう弁明をするのは奇抜過ぎる」
「では、いよいよあの谷中の愛妾をしょっぴいて訊くか」
「生霊はともあれ、かりに何者の子を孕もうと、壱岐守が存在しないかぎり、法では罪する理由がない」
「それは、そうじゃが」
「なお、念のため、田鎖左玄には猿木邏卒、赤松孫兵衛には芋川邏卒、あの鯉淵夫婦には一ノ畑邏卒をもって見張らせておる。そのうち、何かあるかも知れん。あまりあてにはならん連中だが、いましばらく。――」
 さらに数日後。
 二月十三日の朝であった。弾正台の詰所に出勤したばかりの川路と経四郎のところへ、邏卒鬼丸多聞太と横枕平助がころがりこんで来た。
「出ました!……出ました!」
 と、二人はさけんだ。
「何が出た」
「小笠原壱岐守の生霊《いきりよう》が。……」
「なんじゃと?」
 さすがに沈着な川路も眼をむいた。
「どこに?」
「谷中の墓地に」
 川路は絶句して、二人の邏卒をしげしげと見つめた。
「お前ら、そうか、まだあそこにおったのか。……」
「――まだあそこにおったのか、とは、そりゃあんまり、ひどい」
「――後命あるまで見張っとれ、と、いったじゃありませんか」
 尻餅をついたまま、鬼丸多聞太と横枕平助は気息|奄々《えんえん》たる声を出した。二人ともげっそり頬がこけて、顔色は水母《くらげ》みたいになっている。無理もない、この寒中、指おり数えればもう半月近く、彼らを谷中の墓地に張りこませていたのである。
 いや、全然忘れたわけではなく、ときどきふっと思い出すこともあったのだが、たしかにお弓の方のところへ通う何者かがあり、しかも荒物屋の内儀から奇怪な話を聞いただけに、川路もまた、いましばし、いましばし、と考えているうち、つい半月たってしまったのだ。
「そりゃ、すまん事《こつ》をした。それより、生霊とは何じゃ」
 と、尋ね、はてな、この二人は、生霊《ヽヽ》などいうことは知らぬはずだが、と心中に首をかしげた。
「そいつは――いや、それをお話しする前に、鬼丸、あのことを御報告せにゃならんな」
「そうだ。それをいわなきゃ、お信じになってもらえんかも知れん」
 二人は、顎をがくがくさせながら、ささやき合い、
「川路の旦那、実は申しわけないことに、三日ばかり前からあの見張りに、ほかの人数が加わったんで。……」
 と、横枕邏卒がいった。
「ほかの人数? 何者が?」
「まず三日前の夜、田鎖左玄ってえ人と、鯉淵彦五郎ってえ人が」
「なんじゃと?」
「田鎖ってえ人は、何でも元は唐津藩の家老で、いまは民部省のお役人をしている人だそうで、それが例の御愛妾を孕ませたやつをとっつかまえたい、是非仲間にいれてくれろと。……その人は、おれたちがあそこに張りこんでいることを、川路の旦那から聞いたようにいってましたぜ」
 そういえば、田鎖左玄にそのことを伝えたことを川路は思い出した。
「それから、鯉淵ってえ人は、田鎖さまから連絡を受けてやって来たらしいんで……そうそう、なんでもその奥方のほうが詮議に熱心なのだが、まさか子持ちの女房が夜の墓場に張りこみに来ることも出来ないんで、自分が駆り出されたとか、愚痴まじりに弁解してましたがね」
 彼らの勝手な行動を制するために、邏卒の見張りを告げたことが逆の目に出たらしい。
「それから、おとといの晩になって、こんどは赤松孫兵衛ってえ人が来た。田鎖さまと久しぶりに逢ったような挨拶をしていたが、ありゃ唐津藩江戸屋敷の家老だったんですってね。これは例のお妾から、邏卒が二人墓場に張りこんでるってえ知らせが来たから、ようすを見に来たといってたが、おれたちの張りこみ、かんづかれてたんですねえ。……」
 横枕邏卒は頭をかいて、
「もっとも川路の旦那、ひとに見つかるなってえ御下知でしたが、そりゃ無理ですよ。この冬の真夜中、酒も飲まず火も焚かずに、あんなところに吹きさらしになってるわけにゃゆきませんや。夜はおろか、日中だって、たえず足踏みし、はねまわっていなけりゃ、こっちが人間|墓石《はかいし》になっちまいそうで……で、火を焚く、はねまわる、これじゃ何のための張りこみか、わけがわからんと。――」
「なぜ、その三人が加わった事《こつ》を早く報告せんか」
「それが、田鎖ってえ人から、弾正台に報告するな、と、えらいけんまくで口止めされたんで、まあ、二、三日のことなら、と。――」
「こっちもそんな仲間でもあると、少しは寒さ退屈さがまぎれるだろうってえ心境になったもんですから、つい。……」
「まあ、よか。話をつづけろ」
「その赤松さまが、壱岐守さまの生霊の話をされたのでござる。お妾さまがそういったそうで……むろん、みんな、そんな馬鹿なことはない、といった。その赤松さま自身が、わしも半信半疑、もし生霊が通るなら、お妾さまには内緒でわしも見たいと思い立った、とかいって、これも墓石《はかいし》のかげにしゃがむことになりました。……」
 壱岐守派、アンチ壱岐守派の思わざる張りこみの勢ぞろいである。
 鬼丸邏卒がいう。
「そして、けさ、ついにそれが出たのでござる。――けさ、左様、あれは六つ時(午前六時)ごろでござったか。――一同、火を焚いて、あれこれ、瓦解前後の話をしておりましたところ――」
「そげな雑談の事《こつ》はよか。何が出たのか」
「遠くで、ふと、キイクル、キイクル……と、かすかな、妙な音が聞えたような気がしました。一同、のびあがって見ると、例の家の方角から一つの影が、墓場の空中を――いや、空中ではないが、墓石の上に浮きあがって、すべるように動いてゆきます。ちょうどこの世が薄氷《うすらひ》にとじこめられたようにほの明るくなって来たころで。――」
 怪談話のせいか、鬼丸多聞太にも似げなく、叙述が文学的になった。
「それが、どうやら武者らしい。兜《かぶと》をつけ、陣羽織を着て。――」
 さしもの川路も、すうと背に水が流れたような思いがした。
「私ども、ぞっとなりながら、それでも赤松さんが歩き出したのを先頭に、そのほうへ、泳ぐように近づいてゆきました」
「先廻りして、その影の進む前へ出た」
 と、横枕邏卒がいう。
「そいつは、人力俥に乗っていたのです。はじめに聞えたのは、その車輪の音だったんで。……ところが、それを曳く俥夫がいない。――」
「なんだと?」
 と、経四郎もさけんだ。
「俥夫がいないのに、梶棒だけが水平にあがって、その武者を乗せた俥は近づいて来た。真っ黒な漆《うるし》塗りの鉢金《はちがね》に、二尺くらいもあるわらび型の前立をつけて、真っ黒な陣羽織をつけて――あれは、あれは、と、赤松さんがさけんだ。あれは殿ではないか。――」
「しかも、お聞き下され、おれは見たのでござる。いや、見なかったのでござる」
 と、鬼丸多聞太が妙なことをいった。
「その兜の下には顔がなかった。……それがなくて、何があったかというと、どうしてもわからぬ。まるで空気が兜をかぶっていたような感じで。――」
「おのれ、化物、と、鶏の絞め殺されるような声で田鎖さまがうめいて、刀を抜いてそのほうへ駈け寄ろうとした。すると、その顔のない武者が声を出したのでござる。何ともいえぬ、気味の悪い声で」
 横枕平助がいった。
「主に刃向うか、田鎖左玄。信ぜぬ者のために、このたびわざと姿を見せてやったのじゃ。不忠の者あらばよく伝えておけ。――小笠原壱岐守の生霊《いきりよう》のアメリカよりの百夜通《ももよがよ》い、じゃまするにおいては憑《と》り殺してくれるぞ、と。……」
「わっといったきり、一同そこへ尻餅をつきました。俥はななめに墓石の間を――いえ、墓石などはないもののように、キイクル、キイクル……と、いってしまいました」
 川路も経四郎も、判断を絶したように、二人の邏卒を眺めたままだ。
「う、嘘をつけ。……」
 と、川路がやっとうめいたが、これはまったく反射的な、無意味なつぶやきであった。
「嘘? 嘘だと思うなら、旦那、あとの三人を呼び出して聞いて下され……」
 という鬼丸多聞太につづいて、横枕平助が長い顔を撫でていった。
「あの赤松さまが、お妾さまを孕ませたのはアメリカにいる小笠原壱岐守さまの生霊だって、田鎖さまに話していたっけが、ありゃほんとのことだったんですねえ。……ただ、いくら考えても腑に落ちないのは、身体のない生霊が、どうして女とやるかってことで……あのとき、相手はだれもいないのに、股をひろげた女の、あそこだけが、パアク、パアクとひらいたり、とじたり……」
 まだ数十秒、茫然としていて、川路利良が間のびした一喝を投げた。
「馬鹿もん!」

    九

 この一件に関し、現実に怪異の殺人が起ったのは、それからさらに一週間後のことであった。
 しかも経四郎と川路は、その事件の直後、現場に立ち合うことになったのである。偶然ではない。それはこういうわけだ。
 二月二十日であった。――その日は、朝から雨がふった。この時代はまだ旧暦だから、いまの暦なら三月下旬にはいったころである。寒い寒いといっているうちに、その雨はあきらかにもう春の匂いにけぶっていた。東京は、おきまり通り泥濘《でいねい》の町になった。そして、昼過ぎからはチラチラと雪に変った。春の雪だ。
 さて、この夕方、民部省少録田鎖左玄と大蔵省史生赤松孫兵衛は、役所が終ってから、柳橋で落ち合い、そこで芸者を呼んで飲んだ。そして夜九時ごろ、どういうなりゆきか、二人は俥を呼んで、本郷建部坂の赤松の家へいった。――酒の好きな田鎖はすでに相当酩酊状態で、ともすれば赤松にからみかげんであった。
 そして、そこで傭《やと》いの老婆に肴《さかな》を作らせて、また飲み出した。家の外に俥を待たせ、雪がふっているので、二人の俥夫も台所にあげて、これにも酒を出した。
 この経過を、二人の邏卒が追っていた。
 ――実は、以前から、猿木次郎正は田鎖左玄を、芋川平九郎は赤松孫兵衛を、一ノ畑曾八は鯉淵夫婦を見張らせてあったのだが、それにもかかわらず、例の生霊出現の夜の前後、田鎖や赤松や鯉淵が谷中の墓地へ集まったのを、その邏卒たちは知らなかった。――寒中の張りこみに辟易《へきえき》して、みんなズルをきめこんだのである。
 のちにわかったことだが、赤松づきの芋川平九郎など、いつのまにか赤松にかんづかれて声をかけられ、手なずけられ、あの晩など、銭をもらってよそへ酒を飲みにいっていたという。――とんだ張りこみもあったものだ。
 もっとも、はじめから張りこみというほど積極的な目的もなく、ただ念のためその動静を見張らせるという命令者香月経四郎の意志が、何となく彼らにも感得されての怠慢であったかも知れない。
 で、こんどは改めて厳命されて、その二月二十日の夜、芋川邏卒と猿木邏卒は、柳橋から本郷へ、二人の役人を追い、建部坂に至った。
 彼らも、赤松孫兵衛と田鎖左玄が元同藩の重役でありながら、壱岐守派とアンチ壱岐守派で、あまり仲がよくない――むしろ反撥し合っていた関係であったことは、もう知っている。それが柳橋でともに酒を飲み、そのあと一方が自分の家へ一方をいざなった。
 ――これは、大巡察にお告げしたほうがよかろう。いや、御報告せねば、あとでまた大眼玉をくらわされる。
 と、二人は相談したという。
 彼らはしばらくその家の近くに立っていたが、やがて俥夫まで上りこんで酒を飲み出したようすなので、これはしばらくはそのままだろう、と判断して、芋川は山下御門内の佐賀屋敷の香月経四郎のところへ、猿木は京橋紺屋町の川路のところへ駈けつけた。
 ――ふむ、それは面妖。
 期せずして両人とも同じ反応を示し、それぞれ俥を二台ずつ呼ばせ、邏卒も乗せて本郷にやって来た。
 雪はふりやんでいるが、二寸ばかりつもっている。この時刻、この雪では、大通りにほとんど人影はない。逆にどうしても所用ある人が使う俥ばかりが目立つ。月のあるはずはないが、雪の反映のため、夜の東京は妖しい仄明るさに満ちていた。
 建部坂近くで、香月経四郎が芋川と俥を乗り捨てたのは十一時過ぎであった。濠《ほり》沿いの道には、俥の跡も人の足跡もない。雪明りにすかしてそれを見て、
「川路はまだかな」
 と、経四郎がつぶやいたとき、水道橋を渡って来る二台の俥の影が見え、相ついで川路と猿木が到着した。
 四人は、濠沿いの道から左へ折れて、建部坂を上っていった。狭い、ゆるい坂で、両側からは塀越しに、雪をのせた竹林の枝がもうたわんで垂れている。そこを上りながら川路は、なぜか極めてふしぎな感じがしたが、その理由が彼自身にも、そのときはわからなかった。
 赤松孫兵衛の家は、五十メートルばかりの奥にあった。
「や、俥がないぞ」
「田鎖左玄は帰ったのかな」
 と、芋川と猿木が小声でつぶやいたとき、まだ灯のともった赤松の家の中で、何やらさけぶ声が聞えた。――と、表の格子戸がひらき、五メートルばかり離れたところに立ちすくんでいた経四郎たちの眼に、どやどやと、二つ三つの影が現われたのが見え、それが、
「あっ、俥がねえ!」
 と、これもいまさらのように気がついた大声をはりあげた。
「それでは田鎖は帰ったのか?」
 と、いったのは、聞きおぼえのある赤松孫兵衛のやや酔った声で、
「帰った? 俥をだれが曳いたのですかい?」
「あ、おらの俥もねえが――二台とも、どうしたんだろ?」
 と、さけんだのは、明らかに俥夫の影だ。
 彼らは俥のわだちの跡を眼でたどって、塀の蔭に佇んでいた一団の影にはじめて気がついて、ぎょっとしたようであった。
「また、お目にかかる。弾正台の大巡察です」
 経四郎は声をかけた。
「市中見廻りの途中ですが、どうなされた?」
 こんな小さな坂の奥まで来る市中見廻りもなかろうが――反射的に、赤松は訊いた。
「いま、そこへおいでになったのか?」
「左様。たったいまです」
 赤松孫兵衛は、それ以上こちらを疑う余裕もないらしく、かつまた先日の横浜ヘボン館での問答も頭にない風で、
「それは御苦労でござる。……いや、拙宅に客があったのですが、それが先刻ふっと消え、そのまま姿を現わさんので、いま探しておったのですが……」
 と、いった。
「挨拶もなく、帰るというのもおかしいし。――」
 と、首をひねって、雪の上を眺め、
「しかし、俥はない。出ていったわだちの跡がある。――」
 近づこうとした経四郎たちに、手をあげて、ふいに大声でさけんだ。
「ちょっと、動かないで下され」
 そして、ふりむいて、家の中に命じた。
「婆《ばば》、提灯《ちようちん》を持って来い」
 それから、やや正気に戻った顔で説明しはじめた。
「やあ、弾正台のおかた、私どものことに関し、どこまでお調べか存ぜぬが……いや、先日のお話からしても相当程度御存知のことと思うが……実は同藩の元重役田鎖左玄なる者、これは壱岐守さまを唐津藩の疫病神に仕立てた一派の頭領でござったゆえ、拙者とは相|容《い》れず、瓦解以来、いまは同じ政府の役人を勤めながら不通の間柄でしたが、先日あることで久しぶりに逢い、逢えば元同藩の人間ですからつもる話もあり、今夜柳橋で酒席を共にする羽目に相成りました。そしておたがいの誤解、解けたこともあり解けぬこともあり、ひきつづいてこの拙宅に連れて来て、大いに談じた次第。……しばらく、そこを動かないで下され」
 と、また手をあげた。
「しかるところ――先刻、拙者が詩を吟じるのを、田鎖は横になって、手枕をして、ウトウト聞いておったが、ふと厠にと立ちました。それが、いつまでも帰って来ないので、厠へ呼びにいったが姿が見えぬ。だいぶ酩酊のようでござったから、どこかに倒れて寝ておるかと探したが、依然どこにもおらぬ。そこで、これはとばかり、隣室で飲んでおった俥夫を呼んで、ここへ出て見たら、待たせてあった俥が二台とも消えておったというわけです」
 老婆が提灯に灯をいれて持って来た。
「俥夫がいるのに、俥がない。それもふしぎだが、それよりもっとふしぎなことに、拙者いま気がついた」
 と、受けとった提灯を低くして、地上を照らした。
「御覧なされ、わだちの跡はあるのに、曳いた人間の足跡がない!」
 経四郎たちと戸口の間は五メートルばかりあった。いかにもそこには、俥を回したあと、それも一台ではない跡、そして、人の足跡もあるのに、それが動いていったゆくえを辿《たど》ると、車輪の跡はあるが、その中間にあるべき足跡はなかった。
「帰って来たとき、まだ雪がふっていたから、これはそのあと、ついたものだが。――」
 赤松は提灯をぶらさげて歩き出した。
「とにかくこのわだちの跡を追おう」
 彼のうしろに、狐につままれたような表情で二人の俥夫がついて来た。彼らは、ゆるい坂を下ってゆく。経四郎たちもそれを追った。
 経四郎たちの立っていた地点から坂の下までは、彼らがいま上って来た足跡がついていて、それ以前に足跡があったか、どうか、はっきりわからないが。――
「いや、なかった」
 と、川路はうめいた。
「さっき、妙な気がしたのはそのことじゃったか。たしかに人力俥のわだちの跡があるのに、俥夫の足跡がないので、それで妙な気がしたんじゃ!」
 俥のわだちは、大部分重なってはいたが、よく注意すると、一台分ではなかった。たしかに二台分あった。それは重なりつつ、離れつつ、五十メートルほどある建部坂を下り、大通りをつっ切って、濠《ほり》のふちに消えていた。
 ――絶壁の下の夜の神田川に、二台の俥が半ば沈んでいることがわかったのは、それから三十分ちかい騒ぎと捜索のあとである。いくつかの新しい提灯や荒縄をとりよせ、その二台の俥と、その中に溺死している田鎖左玄の屍骸が引揚げられたのは、さらに一時間以上もの深夜の作業の後である。
「まかりまちがえば、拙者が下手人とされても、どうしようもない場合でござったな」
 濠ばたの雪の上に、ビショ濡れのまま横たえられた田鎖左玄の無惨な屍体を見下ろして、赤松孫兵衛は身をふるわせ、吐息をついた。
「さっき申したような仲の上、うちへ来てからも、こやつ、殿を罵倒し、拙者反論し、その口論の声は、俥夫どもも聞いておったでしょうからな。いや、俥夫たちは台所で飲んでいたのですが、あのような小宅、唐紙一枚をへだてただけのことです」
 二人の俥夫は、がくがくとうなずいた。
「それでも田鎖は、最後は拙者の詩吟を子守唄にして寝てしまったが――おう、俥夫、わしの詩吟を聞いておったろう」
「へえ」
「それから騒ぎがはじまったのだが、まさかわしが、田鎖を連れ出して俥に乗せ、あの坂を曳いて下りて濠へ落し、また坂を上って来たとは思うまい?」
「しかも、二台とは?」
 と、経四郎が首をひねった。
「それだ、その意味が拙者にもわからぬ。……しかし、もし一人の人間が曳いたとすれば、一人がいちどに二台の俥を曳ける道理がござらぬゆえ、二回坂を往復したわけで、わしがそんなことをしておれば、隣りの俥夫が気がつかぬはずがない」
「左様でございます」
「旦那の、詩吟ってえやつですが、そのお声はずっと聞えておりましたようで」
 と、二人の俥夫はいい、しかし困惑し切った顔を見合わせた。
「ああ、しかし、この壊れた俥、どうしてくれるってんだ?」
「そんな手間《てま》の話より、曳いた人間の足跡のないことが奇怪千万じゃて。……いかにも俥は、人力俥、というように、人が曳かねば動かぬ道具じゃが。……」
 と、川路はなおうなった。
「経四郎、わからんか?」
「わからん。私は、俥が二台、というのがわからん。もう一台は空俥《からぐるま》であったのか、それとも田鎖さん以外のだれかを乗せていたのか?」
「――殿が来られたのじゃ!」
 突然、赤松孫兵衛が絶叫した。沈毅な相貌がワナワナとひきつって、
「もう一台には、壱岐守さまの生霊が乗っておわしたのだ! そうだ、あの谷中の晩、殿は曳き手のいない俥に乗って現われなされた。殿のおん生霊が、不忠者田鎖左玄を呼び出され、誅罰せられたのだ!」
 と、暗い空へ、凍りつくような眼をあげた。
 川路は、雪明りの坂道を、曳き手のいない二台の俥が、一台は田鎖左玄を、一台は、長い前立をつけた真っ黒な兜《かぶと》とまっ黒な陣羽織をつけた武者を乗せ、妖々と漂い下りてゆく幻影を見たような気がした。

    十

 昔の名前は忠弥坂――その建部坂に、奇怪な祭典がくりひろげられたのは、その翌日の夜のことだ。
 赤松孫兵衛の家の前に、二台の空俥が置かれ、その向うに三つの篝火《かがりび》が燃えていた。
 いちど弾正台に運ばれた田鎖左玄の屍骸がまた戸板で持って来られ、そこに横たえられている。顔を除いて、それは青い笹の葉に覆われている。
 坂の両側には、牀几《しようぎ》がならべられて、烏帽子直垂《えぼしひたたれ》の弾正台の大忠少忠連がいかめしく坐り、川路利良、真鍋|父娘《おやこ》も呼ばれて、それにつながっていた。坂といっても極めてゆるやかなものであったので、そういう座を作られても、さほど不自然ではなかった。坂の雪はむろん溶けて、いまは泥濘《でいねい》に変っている。
 反対側には、五人の邏卒が、例の古代楽器を膝にして、莚《むしろ》の上にあぐらをかいていた。
 水干姿の香月大巡察のそばに、赤松孫兵衛は、茫然と眼をひらいて立ちすくんでいた。――なかんずく、彼の眼と心胆を奪ったのは、篝火の光をあびた金髪碧眼の巫女《みこ》の姿であった。
 昨夜、ここで起ったあの不可解な殺人事件、あれを弾正台でも解きかね、この巫女が、殺された人間の死霊を呼び出して解く、というので、やむなく彼も立ち合わされたのだ。
 火焔太鼓がドーンと鳴った。打ったのは、邏卒鬼丸多聞太だ。そして、おかしげな、怪しげな、神楽《かぐら》の五人|囃子《ばやし》がはじまった。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、アマツカミ、クニツカミ、オリマシマセ。――」
 巫女は片手に神楽鈴を持ち、腰をうねらせ、歌い出した。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、ナルイカズチモ、オリマシマセ。――」
 美しい、しかし極度に悠長な歌声がながれて、やがて、
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、タグサリサゲンノ、ミタマ、マイリタマエ。――」
 声とともに、シャラン! と神楽鈴が鳴った。
「イマ、マイル。……オレハ、タグサリサゲンダ。タグサリサゲンノ、タマシイダ。……」
 田鎖左玄の死霊を呼ぶとは聞いていたが、その刹那、改めて赤松孫兵衛の背をさっと鳥肌にした妖しい声であった。
「シノセカイニキテ、オレハ、ハジメテ、セイノセカイガ、ミトオセル。……オガサワライキノカミサマハ、アメリカニハ、ユカレナンダ。ハコダテカラ、アメリカノフネニハ、ノラレタガ、ソノフネガ、イチド、ヨコハマニ、タチヨッタトキ、ジョウリクシテ、ソノママ、トウキョウニ、センプクサレタ、トイウコトガ、オレニハ、イマ、ワカッタ。……」
「なに?」
 さけんだのは、赤松ではなく川路であった。
「イキノカミサマハ、トウキョウノ、サルトコロニ、ヒソマレテ、シカモ、ダイタンニモ、ヤナカノ、オユミノカタノモトヘ、カヨワレタ。……イッショニ、スマワレナンダノハ、ハッカクヲフセグタメ、マンイチノトキ、オユミノカタヲ、ツミニオトサナイタメダガ、ソノクセ、メカケガヨイヲ、ヤメラレナンダノハ、イカニモ、イキノカミサマラシイ」
「馬鹿なことを!」
 赤松がうめいた。
「イチドカ、ニド、イキノカミサマハ、ヤナカノボチデ、ソノスガタヲ、マチノヒトニ、ミラレタ。ソノトキ、イキノカミサマハ、ソンナバアイノタメ、イツモタズサエテイタ、キリノカブトニ、ハオリナドヲカブセテ、ニゲラレタ。コレモ、ヒトヲクッタ、イキノカミサマラシイ」
「………」
「アカマツマゴベエハ、ムロン、ソレヲシッテイタ。ソレドコロカ、オカミノカネニ、テヲツケテマデシテ、オフタリノ、クラシノカネヲ、ミツイデイタ。……シカモ、イキノカミサマトハ、イッサイ、セッショクセズ、カネハ、オユミノカタヘ、トドケタノダガ、ソレモ、マンイチノ、トリシラベニ、ソナエテ、ワザワザ、ヨコハマノ、アルアメリカジンニタノミ、イキノカミサマガ、ギャクニ、アメリカカラ、カネヲオクッテキタヨウニ、ミセカケル、トイウ、テノコンダヤリカタヲシタ。……」
「………」
「ケイカイシテ、イタトオリ、ヤガテ、ダンジョウダイガ、ソノアメリカジンヲ、シラベニキタ。ソレデ、アメリカカラノ、イキノカミサマノ、テガミヲミセタ。ヒトリノ、ダイジュンサツハ、ゴマカサレタガ、モウヒトリノ、ダイジュンサツハ、スコシ、エイゴモ、シッテイテ、ソレガ、デタラメデアルコトヲ、スグニ、ミヌイタ。……」
 川路は顔をのびちぢみさせた。
「ソレハトモカク、ソノヒミツハ、ソレイゼンカラ、アルニンゲンニ、シラレテイタ。……オレダ、コノ、タグサリサゲンダ。……」
 その刹那、みなの眼は、戸板の上の田鎖左玄の口が動いたような錯覚にとらえられた。
「イキノカミサマヲ、ツカマエテ、セイフニ、ツキダスコトガ、カラツハンシガ、ウカビアガル、ダイイチノホウダ、ト、カンガエテイタオレハ、アカマツノドウセイヲ、シジュウ、ミハリ、アカマツガ、ミョウナコトヲヤッテイルラシイ、ト、キガツイタ。アカマツハ、マタ、ソレヲシッタ。ソレデ、オレノクチフサギニ、カネヲモッテキタ。……」
 このとき、われを忘れたような声で、赤松孫兵衛が、
「おれが職をけがしたのは、むしろ、うぬにやる金のためだ。うぬの強欲はかぎりもなく。……」
 と、うめいて、はっとまわりを見まわしたが、だれもしいんと黙りこんでいて、反応はない。
「ハズカシイコトニ、オレハ、ソレデ、クチヲフサガレタ。トウキョウノ、ナガクニハノ、カシラブン、ト、ミラレテイタオレハ、イツノマニカ、ナガミチハノ、アカマツト、オナジアナノムジナ、ト、ナッテイタノダ。……」
「………」
「シカシ、ホカノニンゲンハ、ダレモシラヌ、ト、オモッテイタ。トコロガ、ハタンハ、イガイナ、コトカラ、キタ。……オユミノカタサマガ、ハラマレ、ソレヲ、アル、オセッカイナ、オンナニ、カンヅカレタノダ。……」
「………」
「アカマツマゴベエハ、ソノコトニツイテハ、カネテカラ、クリョシテイタ。モシ、ソノコトヲシラレタラ……オユミノカタサマヲ、ハラマセタノガ、イキノカミサマゴジシンダ、ト、ナガクニハノ、ニンゲンニ、シラレタラ、イキノカミサマガ、アヤウク、タダノ、カンツウダト、ナガミチハノ、ニンゲンニ、シラレタラ、オユミノカタサマガ、アヤウイ」
「………」
「イキノカミサマノ、イキリョウノオカゲダ、ト、イウオモイツキハ、バカゲテイルト、ワラワバ、ワラエ、アレハ、ゼッタイゼツメイノ、タダヒトツノ、クルシマギレノ、ニゲミチダッタノダ。……」
 赤松孫兵衛の顔色が鉛色に変っているのを見ながら、川路は自分の顔も赤くなったり、青くなったりしているのを感じた。
「サテ、ソノ、オセッカイオンナニ、チュウシンヲウケテ、オレハアワテタ。ソノオセッカイオンナガ、サワギタテテ、ナガクニハノ、メンメンガ、ウゴキダスト、コマル。ソノウチ、ダンジョウダイハ、ヤナカノボチニ、ラソツサエ、ハリコマセハジメタ。ナンニセヨ、ジジツガ、バクロサレレバ、アカマツノミナラズ、オレモ、タダデハ、スマヌコトニナル。……」
「………」
「ソコデ、ソノイキノカミサマノ、イキリョウヲ、ダンジョウダイニモ、オセッカイオンナニモ、ホントウニ、ミセナケレバ、オサマリガツカナイ、ハメニ、オイコマレタ」
「………」
「イソギ、アカマツト、ソウダンシタスエ、ソレハ、ワザワザ、ミセルヒツヨウハナイ。ダンジョウダイノラソツト、ソノオセッカイオンナ、ノ、オットヲ、バイシュウシテ、ウソヲツカセレバ、オナジコトダ、トイウ、ケツロンニ、タッシタ。ソレデ、カレラニ、タイキンヲアタエテ、マボロシムシャノ、ウソバナシヲシテ、モラウコトニシタ。……」
 川路は、篝火に火のように赤くなった眼で、鬼丸邏卒と横枕邏卒をふり返った。
 巫女の口をかりる死者の告発を、聞いているのかいないのか、太鼓のほかに鉦《かね》も分担している鬼丸と、笛係りの横枕は、きちがいのようにたたき、吹き鳴らしている。
「バカナラソツノ、バイシュウハ、カンタンデアッタガ、オンナノオットハ、キイテクレルカクレナイカ、ジツハ、シンパイシテイタガ、コレモ、ケッキョク、ショウチシテクレタ」
「………」
「モトハ、イサマシイ、ミトロウシ、デアッタ、ソノオトコハ、ナガイ、ビンボーグラシニ、ジブンヲ、シリニシイテイタ、ニョウボウヲ、イチド、ミカエシ、シッペガエシシテヤリタイ、トイウ、ノゾミヲ、モッテイタノダ。……」
 この座に、鯉淵彦五郎はいなかった。しかし、のちに、彼は妻の五百《いお》に捨てられ、五百は敢然として新しい婦人運動に乗り出し、後年太平洋戦争に至るまで、全日本の女性を統率した愛国婦人会の創始者奥村五百子として名を残す。
「テキミカタ、ソウグルミノ、ウソバナシ、ト、イウワケダ。……」
「それから、どうした?」
 と、赤松孫兵衛が、しぼり出すようにいった。半ば挑戦的、半ばうつろと聞える声であった。
「シカシ、オレハ、スグニマタ、シンパイニナッタ。コンナコトデ、イツマデゴマカセルダロウ、ト。――ソコヘ、アカマツカラ、ヨビダシガ、キタ。アカマツモ、オレイジョウニ、シンパイシテイタノダ。オレト、アカマツハ、ヤナギバシニ、オチアッテ、コンゴノコトヲ、ソウダンシタ」
「………」
「イマニシテ、オモウト、アカマツハ、ホカノダレヨリ、オレニツイテ、シンパイシテイタノダ。タグサリサゲンハ、イツ、ウラギルカモシレヌ、キャツハ、イマノウチニ、シマツセネバナラヌ、ト。……」
「………」
「アカマツハ、オレヲヨワセ、サラニ、ニダイノクルマデ、コノタケベザカノ、ジブンノイエニ、ツレテキテ、イヨイヨ、デイスイサセタ。ソノアト、オレハ、イマ、シノセカイカラヨミガエルマデ、マッタクオボエガナカッタカラ、キャツハ、ヨコハマノ、サルトコロカラ、ナニクワヌカオデ、モラッテキタ、ネムリグスリヲ、サケニイレタ、オソレサエアル」
「………」
「ソノサケヲ、オレニノマセナガラ、キャツハ、チョイ、チョイ、ソトニデテ、ニダイノクルマヲ。……」
 いつのまにか、香月経四郎が動き出していた。彼は、ならんでいた二台の俥を、おたがいに向い合わせる作業をしていた。
「カジボウヲ、カサネアワセタ」
 経四郎は、その通りにした。双方の梶棒を重ねて、細い紐で四カ所ほどゆわえた。
「シバッタモノハ、カジボウガ、ハナレナイヨウニシ、アト、カクドニヨッテ、カンタンニ、キレルテイドガ、ヨカッタ」
 川路は、かっと眼をむき出していた。見よ、そこには、人力俥ではない――なんとも奇怪なかたちの四輪車が出現したではないか!
「ソシテ、ザシキデハ、シギンヲギンジツヅケ……ネムリコンダオレヲ、リョウテデカカエテ、ソトニハコビダシ、クルマノイチダイニノセ、コレマタ、ホソイヒモデ、シバリツケタ。……」
 川路のみならず、人々も凝然と眼を見張っている。――経四郎は、戸板の上の田鎖左玄の屍骸を抱きあげ、これまた巫女の言葉通りにしたのだ。
「ソレハ、キセルデ、タバコイップク、ノムホドノ、ジカンデスンダ。アカマツハ、ソノクルマヲ、オシタ。クルマハ、ヒトリデニ、ウゴキダシタ。……」
 シャラン! と、鈴が鳴った。
 つながった二台の俥は、まさに自動器械のように動き出した、ゆるやかながら、そこが坂道になっているせいであった。
「アカマツハ、ザシキニモドリ、ソレカラ、サワギダシタ。トナリデ、ノンデイタ、フタリノシャフハ、マッタク、キガツカズ、イッショニ、サワギダシタ。……」
 二台の俥は、こちらから見ていると、一台の俥のように影を重ねて、次第に速度をあげて坂道を遠ざかり、そして遠い濠《ほり》のあたりで消えた。水音さえも聞えなかった。
 弾正台の大忠たちもまた、声もない、
「アノヒ、ユキガフッタ、ユキニノコル、クルマノ、ワダチノアト、ソシテ、ソレヲヒク、ニンゲンノアシアトノ、ナイコトヲ、アカマツハ、シャフニ、ショウゲンシテ、モラオウトシタ、ユキハフラナクテモ、アメノ、ヌカルミダケデモ、オナジコトダ、ト、カンガエタ」
「………」
「ソノスグアトニ、ダンジョウダイガ、ミマワリニキテ、ハナシハ、イヨイヨ、コウツゴウニナッタガ、モトモト、シャフノ、ショウゲン、ダケデモ、コトハ、ウマクユクハズダ、ト、カレハ、カンガエテイタノダ。……」
「………」
「オモウニ、アノハカバデ、マボロシムシャガ、ヒキテノイナイクルマニ、ノッテキタ、トイウノハ、アカマツノ、モチダシタ、ハナシデアッタ。シテミルト、アカマツハ、モウソノトキカラ、オレノコロシカタヲ、カンガエテイタノニチガイナイ」
 巫女の声が、だんだん低くなった。
「ニダイノクルマハ、ガケカラオチルトキ、オチルジカンノ、チガイカラ、シバッテイタヒモハ、キレテ、ハナレタ。オレヲシバッテイタホソイヒモモ、キレタ。ソシテ……オレハ、コウシテ、オダブツニナッタノダ。……」
 巫女は金髪の頭を垂れた。
 突然、川路利良が躍りあがった。
「これ、小笠原壱岐守どんは、いま東京のどこにおるのか、教えてくれ!」
 あの世からの声のように、かすかな返事があった。
「イキノカミハ、アメリカヘ……コンドコソハ、ホントウニ、アメリカヘ。……」
 それっきり、しみいるように巫女は沈黙した。
 まるでひとごとのように、鬼丸邏卒が、ドドーンと火焔太鼓を打った。同時に、赤松孫兵衛がぬかるみの地上へ崩折れた。
「そいつの始末は私がやる。おい、お前たちは、御苦労だが、もういちど、あの俥と屍骸を引揚げてくれ」
 経四郎は五人の邏卒に命じ、川路のほうへ歩いて来た。
「終ったようだ」
 川路は、邏卒たちの中の――鬼丸多聞太と横枕平助をにらみつけ、
「おんどれ」
 と、そのほうへ歩きかけた。その前に経四郎は立ちふさがって、
「待ってくれ。まるで雑巾《ぞうきん》のようなやつらで、使えば手がよごれるが、拭き掃除《そうじ》の役にも立つ。私に免じて、この事件に関するかぎり、大目に見てやってくれ。……」
 と、甘美な笑顔でいった。
 五人の邏卒は、ころがるように坂を駈け下りていった。
 向うでは、巫女エスメラルダが、真鍋|父娘《おやこ》のそばへ寄って、特別製の長い緋の袴の中で足を折って、挨拶していた。
「ボンジュール。ワタシ、アナタニアウノガウレシイデス、マドモワゼル・ヌイ。……」

 小笠原壱岐守余談。
 ――終始一貫、本郷妻恋坂に潜んでいたA級戦犯小笠原|長行《ながみち》が、榎本武揚らの釈放を見すまして姿を現わしたのは、明治五年七月になってからのことであったが、このとき彼は新政府に、「明治二年箱館より帰京の途中、風浪のため海外に漂流まかりあり候ところ、今般帰朝つかまつり候」という人を喰った帰国届けを出している。しかし、計算通り、彼はもう罰せられなかった。
 そして、明治二十四年一月まで生きて、晩年に至っていよいよ子を生み、大往生をとげ、谷中天王寺の墓地に葬られた。
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  永代橋の首吊人


[#この行1字下げ] 隅田川の河上、永代橋の欄干に首吊人あり、他殺の徴明らかなれども、その推定死亡時刻に被疑者その場にあらざることも明らかにして、究明甚だ困難いたし候事件の顛末、次の如くに御座候。
[#地付き]――「弾正台大巡察・川路利良報告書」より――

    一

「経四郎《けいしろう》、経四郎」
 春の夕ぐれ、山下御門内の佐賀屋敷の中を、同僚の川路|利良《としよし》といっしょに歩いていた香月《かづき》経四郎はふりむいた。
「またその男を連れて来たか」
 真鍋直次《まなべなおつぐ》が、にがい顔で立っていた。例によって娘のお縫《ぬい》がうしろにより添っている。
「みだりに他の藩の人間をいれてはいかんといったはずじゃが」
「や、先日はどうも。……よい季節になりましたな」
 と、経四郎はお辞儀して、
「いやなに、他藩の人間と申しましても、この川路君は薩藩出身ながら、あまりそのことを意識しない――むしろ薩摩を眼中にいれていない男でありましてね」
「しかし、薩摩弁を使っておるではないか」
「そりゃ、どうにもいたしかたありませんが、精神の問題として」
「精神的に故郷を無視する――いよいよ感心せんな。そんな罰《ばち》当りな人間が、ろくなやつであろうはずがない。出世する見込みはないわい!」
「伯父上、川路君は私同様、ただの弾正台大巡察で」
「さきの見込みのことをいっておるのじゃ!」
 ここまでは、郷党意識の強烈な真鍋老人が、ふと持論の一端をもらしたものと見られたが、そこでまた別の、例の憤懣《ふんまん》を思い出したらしい。
「それより、お前。――佐賀どころか、日本どころか――フランスの女、まだ帰さぬか」
「いえ、私はともかく御存知のようなあの巫女《みこ》のわざのために、大忠のお歴々が帰国をお許しにならんのです」
 老人はぎろっとひかる眼で経四郎を見すえていたが、やがて肩をそびやかしていった。
「何とでもぬかせ、経四郎。――実はこのお縫の縁談が最近にも二つあった」
「それは結構なことで。――」
 お縫が顔を赤くして父の袖をひくのを眺めながら、経四郎が訊《き》く。
「相手は、どなたで?」
「お父さま」
「いや、お前ももう二十三ではないか。待つに甲斐なきものをいつまでも待っておれる身ではない。――一つは、綱川平馬じゃ」
 老人はいった。
「それ、宮内省に出仕しておる。――以前から、なんども申し込みがあったが、お縫が首をたてにふらぬ。さりとてよそに嫁にゆく風でもない、それほどこちらに不満があるか、と、三日ばかり前、親御のほうから色をなしての厳談であった。綱川平馬なら、名門であり、秀才でもあり、男前も悪からず、百人の見るところ――」
「いけませんよ、あれは」
 と、経四郎は首をふった。
「いかん?」
「あれは出世のためには、はたにどれほど泥水をひっかけてもいとわない性分です。それはよろしいが、女に惚れたら、いっときは夢中になるが、すぐに飽きて放り出して平気な、自分勝手な男です」
 真鍋直次はあきれたように経四郎を見まもった。
「お前が、それをいう!」
「悪いことは申しません。綱川はおよしなさい。――もう一つの口はどこです」
「それが、奇妙な話で。……」
 と、いいかけて、
「いや、それはまだお前にいう段階ではない」
 と、老人は首をふり、
「とにかく、そういう話があることだけは承知しておけ。……お縫、ゆこう」
 と、娘をうながして、背を見せた。
 しばらく見送っていて、やがて経四郎の住居のほうへ歩みながら、川路がいった。
「おい、いまの娘御の顔を見たか」
「え。――むろん、見ていたが、それがどうした」
「おはんが、何とかっちゅう男との縁談はよせ、といったときのお縫どんの顔じゃぞ」
「はて、どんな顔をしておったかな」
「眼がかがやき、笑い――とまではゆかんが、たしかにそげな感じが匂い立つようじゃった」
「これはおぬしに似ぬ観察だな」
 経四郎は笑った。
「綱川平馬は感心出来ん男だからな。いかんといわれて、うれしかったんだろう」
「それだけかな?」
「とは?」
「それをいったのがおはんじゃから、うれしかったんじゃなかか?」
「はて、なぜよ?」
「おはんが、よそからの縁談に悪口をいうのは、あの娘御に気がある証拠じゃ、と。いや、うまくはいえんが、とにかくそげな感じをお縫どんはいだいたのじゃなかか?」
「ばかな。世の中には、ただの親切からひとの縁談に異をとなえる場合はたんとあるぜ。これは怖れいった。そんな邪心があったら、おれはむしろ何もいわんよ」
「邪心?」
 経四郎はちょっと動揺した表情になった。
「いつか、お縫どんが――おはんが愛してくれちょる事《こつ》を信じちょる、と、いったが――おはん、その言葉を否定するか?」
 経四郎は黙って歩いている。
「おはん、なぜあの御老人の心配事を解いてあげんのじゃ」
「私はまだ妻帯など出来ん」
「ちゅう事《こつ》は、あのフランス娘の件についても同様じゃな」
「むろん」
「妻帯出来んわけはなんじゃ」
「仕事だ」
 経四郎は足を早めた。
「川路さん、その話はもうよそう」
 経四郎が邸内に拝借している住居に帰ってゆくと、例によってエスメラルダが出て来て、盛大なるベーゼというやつをやった。
「……?」
 いくどか見馴れている風景だが、見るたびに川路の胸には、西洋の書物に出て来る疑問符というやつが浮かびあがるのを禁じ得ない。その行為より、経四郎の心理についてだ。
 それはそうと、川路が佐賀屋敷にやって来たのは、別にこれといった用があってのことではない。例のごとく、弾正台を退出しての路々の議論のつづきをやるだけのことだ。
 議論はまた、「正義の政府はあり得るか」という問題についてであった。
 経四郎はエスメラルダを隣室に追いこみ、酒を持ち出し、話をつづけたが、どういうきっかけか、こんどは西郷と大久保と木戸と、だれがいちばんえらいか、という月旦《げつたん》になった。
「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、地位もいらぬ人間ほど怖《こわ》いものはない、と西郷さんはいったそうだが、西郷さん自身がまさにそれに当る」
 と、経四郎はいい、
「弾正台のお歴々の選抜には、たしか西郷さんの意向も加わっていると聞いたが、なぜ西郷さんが長官として乗り出されなかったのだろう?」
 と、首をひねった。
「西郷先生は、それにゃ大き過ぎるわい」
 と、川路が苦笑すると、
「むろん、政府の総大将もかねてだ。……維新以来、西郷さんは何だか、ぽかんとして、木戸さん大久保さんらに何もかもまかせておられるようだが、地位も金もいらん、という西郷さんの怖ろしさが、悪いほうに出ている。しかし、何だな、あの人のカリスマ性は日本人にゃ珍しいな」
 と、経四郎は評した。
「いかにも西郷先生の人物は第一等じゃ。じゃがな、おいの見るところでは、西郷先生をじかに知っちょる者はみんなその魅力に心酔するが、人間生涯、じかに接触するのは多くても千《せん》の単位じゃろ」
 冷静に、川路はいう。
「ところが大久保どんは、組織力っちゅうものをお持ちじゃな。組織力っちゅうものは、大久保どんをじかに知らん者をも……数万、数十万の人間を動かす。おいは大久保どんのほうが怖ろしか、と思う」
 そのとき、隣りから、「ケイシロウ」と呼ぶエスメラルダの声がした。
 経四郎は立っていって、話をはじめた。フランス語の会話だから、川路にはちんぷんかんだが、どうやらフランス娘の声は、西洋の鳥のさえずるようでありながら、不平のひびきをおびている。これに対して経四郎の声もかんしゃくを起した調子に変り、はては明らかに口論となった。
 川路はふっと立って、外へ出ていった。
 二十分ばかりして経四郎がもとの座に戻り、けげんな顔で戸口に顔を出すと、ちょうど川路がぶらりと帰って来た。
「いや、失礼した。ケンカは終ったよ」
 経四郎が頭をかいてあやまると、川路は微笑を浮かべていたが、どうしたとも訊《き》かず、
「おいはもう退散するとしよう」
 と、いった。
「ところで、そこでまたお縫どんに逢ったが……どうやらこっちが気がかりで、真鍋どんにはないしょで、おずおずのぞきに来た気配じゃったが」
 と、ふとまじめな表情になっていった。
「そこで、おいが、さっきのもう一つの縁談について訊いたところ――なんとそれは、ふつうの縁談ではなく、岩倉卿の養女にならんかっちゅう話じゃったという」
「なんだと?」
 さすがの経四郎も、あまり思いがけない話に眼をむき、そそくさと草履《ぞうり》をつっかけて外に出て来た。
「いや、話はそれだけじゃ。お縫どんが進んでしゃべったわけじゃなかが、といって、隠しておるようでもなか。……なんでも先日真鍋どんが、岩倉卿の筋からそげな話があったが、といっただけで、それ以外には何も知らんちゅう。真鍋老人も、まじめにとり合った話ではないらしか。……では、おいは帰る。いや、わかっちょる、送ってくれんでよか」
 二、三歩いって、ふりむいた。
「ああ、新政府のおえら方で、いちばん怖ろしかお人は、あの岩倉|具視《ともみ》卿じゃと、おいは思う」

    二

「香月、おいは妙な向きから付け人を頼まれたぞ」
 川路利良がこんなことを報告したのは、それから十日ばかりのち――まだ落ちつかない世で、見る人もない明治三年の東京の桜が葉桜に変りかけたころであった。
「付け人? だれの?」
「谺国天《こだまこくてん》という人物の」
「おう、谺!」
 経四郎がさけんだのに対して、川路のほうがけげんな表情をした。
「おはん、知っちょるのか」
「うむ、最近」
「最近、とは……どげなわけか」
「それより、まずあんたの話を聞こう」
「おはんが谺どんを知っちょるとは思わなんだ。まったく蔭《かげ》の人物じゃからの。岩倉卿の懐刀、とか、黒幕、とかいわれちょる御仁だと、おいもはじめて知った。……岩倉卿はな、維新前、事志とちがって数年間、京の岩倉村に潜居されておった事《こつ》がある。が、なにしろあれだけの人物じゃから、潜居しておると見せかけて、種々回天の秘策をめぐらしておわした。その手足となったのが、柳の図子《ずし》党っちゅう連中じゃ。知っちょるか?」
「いや、知らんぞ」
「京の今出川上ル室町頭《むろまちがしら》の柳の図子っちゅうところに――図子とは露地《ろじ》の事《こつ》じゃそうなが――そこの隠れ家《が》に岩倉卿の秘密の配下たちがおって、これが卿のために働いたのじゃが、その頭分《かしらぶん》が谺どんじゃそうな。ところが御一新以来、岩倉卿は事実上、新政府の最高実力者となられたのに、谺どんは世に出ん。だれも知らん。おいは調べて知ったのじゃ。――どうやら、いまでも岩倉卿の秘密機関として働いておるらしか。名目は岩倉家の執事っちゅう事《こつ》になっとるが。……」
「ははあ、そんな人物か。……で、その護衛とは?」
「その谺どんが、七日ばかり前、神田|連雀《れんじやく》町で一人の刺客に襲われた。駕籠で通行中、路地から飛び出して来た若い男に一刀突き込まれ、右のふとももを刺されたが、とにかくその場は逃れたっちゅう。犯人もまた逃走してつかまらん」
「そんな事件の報告を受けたことがないが」
「谺どんのほうで、知られたくなかったんじゃ。――岩倉卿は、おいは世間の誤解と思うが、維新前後には天下の奸物と評されるほどの事《こつ》をやられた御仁、その懐刀といわれるお人なら、いまだにいのちを狙われる|たね《ヽヽ》に事はかくまい。……で、卿が御心配になって、西郷先生に御相談になったところ、西郷先生がおいの名をあげて、あれに頼めといわれたそうな、……これは、おいに命令を出された海江田大忠のお話じゃが」
「なるほど」
「それで、きのう、谺どんに会った」
「ほう」
「岩倉卿のお屋敷は日比谷門外にあるが、谺どんはそこには住まず、家はちょうど背中合わせにその裏手にある。門札も出しておらんので、だれも気づかん家じゃが。……」
「どんな人物かね」
「一言ではいいがたか。年は五十前後か、どげなわけか頭はいがぐりにしておるが……とにかくあの煮ても焼いても食えぬ岩のごとある岩倉卿が、懐刀として使わるるのがふしぎでなか人物、っちゅうよりほかはなか。ふとももの負傷がまだ癒えず、横になっておられたが、声には底力があって、おはんが西郷さん御推挙の用心棒か、よろしく頼む、とだけいったが、実は迷惑げじゃった。ああ、もうひとこといった。護衛してくるるのはありがたかが、弾正台の人間に、家に出入りしてもらっては困る、護衛しとるとひとには知られんごと護衛してくれ、とな。そう聞いて、おいはかえってやる気になったが……こげなわけで、おいは当分この役をつとめる。……ところで香月、おはんが谺どんを最近知ったっちゅうのはどげんしてか?」
「それがだ。あんたが話した、例のお縫の、岩倉卿養女の件からだ」
「ほ?」
「どうもあの話が突飛でね。もひとつ突っ込んで調べたところ、あの話はほんとうだった。もっとも真鍋老人がまともにとり合わなかったのも事実で、詳しいところは依然不明だが、何でもうちの藩の大隈さんを介しての申し込みで、そう申し込んだのが、岩倉家執事の谺国天。……」
「何じゃと?」
「しかし、真鍋老人も、いかに考えてもそんな人物に眼をつけられるおぼえがない、という。私も首をひねって、こんどは大隈さんの筋を探って見ると、もう一つ、やはり佐賀藩士の娘で、同様の申し込みを受けた者がある。こういっちゃ何だが、これもお縫同様、人に知られた美しい娘だ」
「ふうむ。……」
「でね、あれから例の五人の邏卒を使って、ほかにもそんな話はないか、と町の聞き込みをやらせて見た。むろんそんな申し込みを受けた当人にはめぐり逢えまいが、噂としてだ。大してあてにしていたわけではないが、きゃつら、そういう種類の聞き込みにかけては、あれで馬鹿にならん耳を持っておるな。なんと、それが、きょうまで三件の報告を受けておる」
「ほほう」
「どれも、元朝敵藩でうだつのあがらぬ浪人暮しをしておるか、あるいは元旗本などだが、それがみんな何々小町とかいわれておる娘ばかりだ。報告を受けたのは三件だが、この分でゆくと、ほかにも相当そんな話があるのじゃないか?」
「………」
「つまり、岩倉卿の美女集めだな」
 川路はまじまじと経四郎を見まもった。
「養女とかいう。――しかし、岩倉さんには、もう四、五人もの子女がおられるそうな。その上、なんのための養女探しか?」
 経四郎は首をかしげた。
「しかも、対象は美女ばかりだ。……新政府の大官に成り上ったお歴々の中には、何人もの権妻《ごんさい》を侍《はべ》らせて鼻の下を長くしているやつが少なくないと聞く。あの岩のような岩倉さんが? と思うが、常識をもってすれば、この政府の最高地位にある人も、藤原道長になったような気で、そんなことをやりはじめられたものと考えるよりほかはない。どうだ?」
 川路にも反論のしようがない。
「谺国天は、いま聞くと、維新回天のために蔭で奔走した人物のようだが、少なくともいまは岩倉卿専属の女衒《ぜげん》だ。先日襲われたのも、そんな活躍の後遺症のように思われるが、案外いまいった美女集めの余波ではないのか」
 経四郎は川路の顔を見た。
「貴公、それでも谺さんの護衛役を相つとめる気かね?」
 川路はしばらく沈思していて、やがて分厚い表情で答えた。
「やろうと思う」
 そして、また考えたのちにいった。
「それにしても、おい一人では何かと不都合じゃ、例の邏卒のうちの一人を手先に使いたかと思うが、よいかな?」

    三

 しばらく見ないあいだに、横浜居留地三十九番地のヘボン館の芝生が鮮やかに青くなり、裏手にあたる掘割沿いの道から鉄柵をへだてて、ならんだ十数本の高い樹々が、美しい花を咲かせているのを、川路はもう二時間あまり眺めていた。
 桜ほどな大木で、桜ほど枝をひろげないが、紅と白、交互に植えられたその樹の花は、桜よりも瀟洒《しようしや》で清楚《せいそ》に見えるが、さて何という樹か川路は知らない。日本の花ではないようだが、それでも、いつまで見ていても見飽きない。
 川路の立っているのは、掘割にかかった谷戸橋のたもとで、やや三角形をなしているヘボン館の敷地の一角にあたるので、そこからはその裏通りとともに、表側の海岸通りをも見通すことが出来る。春の港には大小の船が浮かんでいるが、このほうはもう川路に珍しい風景ではない。
 ヘボン館の施療所には、その大通りへかけて、きょうも数十人の病人の行列がならんでいた。――さっきまで、その行列の中に、谺国天の駕籠もまじっていたが、やっと施療所にはいったようだ。
 谺の受けたふとももの傷が、そのまま癒《なお》りそうに見えて化膿した。あたかも同様な目にあって死亡した大村益次郎の例を聞いているだけに谺も狼狽し、横浜で有名な大医ヘボン博士の往診を求めたところ、患者多くして施療所を離れることが出来ない、もしたっての御希望なら横浜においで願いたい、ということで、さすがの谺も駕籠で出かけて来ざるを得なかったのだ。岩倉卿の黒幕、といっても通じる相手ではなかったが、ひょっとしたら、患者が大臣でも、ヘボンは同様の返事をしたかも知れない。
 ――で、谺はやって来たが、来ても一般庶民と同様にならんでくれ、と、やられたのには驚いたようだ。こういったのはヘボン博士の助手を相つとめる岸田吟香で、いわれた谺の供の者たちは怒り出したが、それを駕籠の中からとめて、指示に従うように命じたあたり、谺も一人物である。
 それが三日前のことで、きょうは二度目のヘボン館通院だ。
 川路はむろんそれを護衛《ごえい》してついて来た。はじめて谺に会ってから十日目のことになる。駕籠には供の者が四人もついているが、川路と彼が手足とした芋川平九郎は、別に、だれも護衛とは気がつかない間隔をおいて見張っている。
「旦那!」
 門の方から芋川邏卒が走って来た。もっとも邏卒の服はぬぎすてて、着物を尻っからげにした風態だ。
「出て来ました。ところが患者の行列の中から飛び出した男が、玄関で駕籠に乗ろうとした大将を見つけて、何か怒鳴っていますぜ」
 川路は駈けていった。
 門内の空地では、行列が崩れて、不規則な大きな輪を作り出していた。その輪の内側で、なるほど一人の男がわめいていた。
「谺か、見ろ、おれの姿を。――」
 それは二十六、七の職人風の男であった。
「元はこれでも三百石取り、御一新後も横浜港生糸検査所の長として奉職しておったこのおれを、異人の船乗り相手の散髪師|風情《ふぜい》に落したのはうぬのせいだぞ!」
 谺国天は、もう駕籠にはいって、中からじっとそちらを見ている。細い眼だが、ただものではない異様なひかりがあった。
 供侍が四人、ほかに駕籠かきも二人いるが、みな顔色を蒼くして立ちすくんでいるだけだ。――いや、そのとき供侍が動こうとしたが、
「こわがるな、おれはここに剃刀《かみそり》一丁持っちゃあいねえ。いや、その剃刀で指を怪我して|※[#「病だれに票」]疽《ひようそ》になって、このヘボン館に通《かよ》ってるくれえだ。たとえ、匕首《あいくち》を持ってたって握れねえありさまだから、いまのところは心配しねえで、おれのいうことを聞きやがれ」
 と、まくしたてられて、またすくんでしまった。相手の言葉に安堵したからではなく、その男のけんまくに圧倒されたのだ。
 言葉も侍言葉と職人言葉のちゃんぽんであったが、姿も職人風ながら侍以上の凄じい迫力があった。それはほんとうに怒りと呪いに満ちた人間そのものであった。川路さえも一瞬ひるんだ。
「うぬは、岩倉卿の執事でありながら、女狩りの総|元締《もとじめ》として」
「大巡察、つかまえてくれ」
 と、はじめて谺が声をかけた。
「そして、追って指示するまで、世間に出すな」
 川路は歩み寄った。
 男は陰惨な眼で迎え、
「その筋の人かね?……よかろう、これで牢屋にぶち込まれりゃ、谺国天の行状にも、おれの災難にも何もつけ加えるものはねえ」
 と、ニヤリと笑って、両手をうしろにまわした。さっき※[#「病だれに票」]疽だとかいったようだが、なるほどその右手の中指に繃帯が巻いてある。
「お待ちなさい」
 と、そのとき声がかかった。
 谺の駕籠のうしろに立っていた白衣《びやくえ》の岸田吟香であった。おそらく、それでも谺を送って出て来たものだろう、彼がそこに立っていることは川路も知っていたが、それが、
「その患者は近く切開手術をしなければならんかも知れないのだが、それを承知で拘引しますかな?」
 と、いった。
 芋川から縄を受け取ろうとしていた川路は、ややまごついて谺のほうをふりかえり、谺が黙っているのを見ると、
「身分ある人にそれ以上の暴言は許さぬ。黙って退散するなら許してやる」
 と、低い声でいった。
「そうかね。そうだろう。おれもこんなところで恨みつらみを述べたってしようがねえ。もういわねえよ」
 男はうなずいたが、
「退散しろといわれてもね、この※[#「病だれに票」]疽の治療を受けなくっちゃ、痛くってたまらねえ。退散するのは谺さんのほうだろう」
 と、不敵なせせら笑いを残して、崩れた行列のほうへひき返していった。
「大巡察、そして岸田君、ちょっとそこまで来てくれぬか。話したいことがある」
 と、谺はいい、駕籠かきに、
「ゆけ」
 と、命じた。
 駕籠は患者のむれの中を動き出し、「人通りのないところで停めてくれ」という中の人間の指示に従って、門から裏手の――さっき川路が眺めていた掘割沿いの路上に下ろされた。
「足が痛むので、このままで失礼する」
 と、駕籠の中から谺国天はいい、垂れだけあげさせた。
「弁明するわけではないが、御両人にはそれぞれ世話になっておるので、ちょっといまの男の件について説明したい」
 といって、ちょっと坊主頭を駕籠から出して空を見あげ、
「はて、岸田君、この花は何の樹かな」
 と、尋ねた。
「ああ、それはドッグウッドといいヘボン先生がもうかれこれ十年近くも前、アメリカからとり寄せてお植えになったものです」
 と、吟香は答えた。
 後に日本で花水木《はなみずき》と呼ばれるようになった樹である。
「左様か。桜より美しいの」
 自若たるものだ。
 実際この谺国天という男は、やや肥ってはいるけれど、それほど大兵《たいひよう》でもなく、頭はいがぐりにしていて、渋味のきいた異相――眼は細く、厚い唇をへの字にして、むしろ醜男《ぶおとこ》といっていいのに、また傷のため駕籠の中に坐ったままというのに、相対するものを緊縛するようなどっしりした重量感があった。
 彼は、四人の供の者と駕籠かきを分けて、少し離れたとこに立って見張りをしているように命じ、ついでにちょっと芋川平九郎の大福餅を踏みつぶしたような顔を見たが、これは川路の配下と認めたらしく、これには何もいわなかった。そして、
「そこで、話というのはな。――川路大巡察は西郷先生から御推薦のあったほどの人物だから、わしの行状について、ある程度調べたろうし、岸田君のほうは、わしの負傷といい、いまの男の件といい、剣呑《けんのん》な患者と見られてヘボン先生のお気持を悪くさせては不本意なので、岸田君を通じて釈明しておきたいが」
 と、改めて口を切った。
「ちょっとお待ち下され」
 川路は言葉をさしはさんだ。
「いまの男は、そのお怪我をさせた男とは別人ごわすか」
「ちがう。神田で襲ったやつは、わしも駕籠を透《とお》して顔を見たが、いまの男ではない」
「御存知の男ごわすか」
「見おぼえはあるが、名は忘れた。――また、いまさらその名を思い出しても無益なことじゃ」
「しかし、また同様の行為に出るというおそれもごわすで」
「なに、そんな心配をしておれば際限がない。また、貴公のような人がついてくれておる。それにわしは、たとえそのような難に逢っても、いまさら驚かぬよ。維新前後に味わった数々の危難にくらべたら児戯に類する」
 一息おいて、
「わしのいのちは、すでに卿に――いや、お国に捧げておる」
 と、重々しく、しかし決然といった。
「実はな、わしはここ一、二年、ひそかに巷から美女を集めて、岩倉邸の御養女とするという仕事をつづけておる」
 と、国天はいい出した。
「というと、まるで卿の寵愛される女を求めているようだが、そうではない。また卿も、そんな馬鹿げたことを求められるわけもない。実は、人材登用のためじゃ」
「へ?」
 と、吟香が妙な声を出した。
「薩摩出身の川路君にいうのもどうかと思うが――いまの政府の要職は、ほとんど薩長土肥の人間によって占められておる。要職どころか、政府機関の末端にいたるまで、それ以外の出身者でその職を得るのは僥倖といってよいありさまじゃ。これは、まことによろしくない。薩長土肥以外の人間にとってよろしくないのみならず、将来の日本国のためにもよろしくない――と、私は考えた」
 深沈と、谺はいう。
「いま考えたのではない。維新直後からわしは、いまの事態を予感しておった。果して事態はそうなった。しかも、現実の問題として、薩長土肥以外の人間をひろく登用することは、まことに難しい。いかにそこにめざましい英才があってもじゃ。……そこでわしは思考の末、一案を岩倉卿に御進言申しあげた。それは、巷の美女――美しいのみならず、利発な娘を探し、えらび、岩倉家の養女とし、それに薩長土肥以外の俊才をめあわせ、これを登用することだ。つまり、岩倉家の養子となることだから、これにはどこからも文句が出まい?」
「………」
「世に出られぬ埋《うず》もれた人材をひろく世に出したい、というわしの望みに対して、これはあまりに姑息な手段じゃが、今のところ、わしにはこれしか手段はない、と考えた。しかし、実際やってみると、この内輪な試みに合格するやつさえ、なかなかない。ここ二年ばかりやって、選び出した女がたしか二十三人、男が十七人。これを内々見合いさせるのじゃが、双方気にいってうまく夫婦《めおと》になったのは十三組に過ぎん」
「………」
「男は将来政府の中枢にいれて然るべき男、女はその男を魅惑するに足る美しさと、優秀な子を生む見込みのある利発さをそなえた女、という条件がある。ただ女の場合、右の条件に叶えば、これは薩長土肥につながる女でもさしつかえないから、その方面にも才色兼備の噂のある女人なら口をかけたが……それでも、意外に事がたやすう運ばんのには、わしもいささかウンザリした」
「………」
「むろん、いまだこれときまった縁談のないらしいことをたしかめて、親を通じてひそかに申し込んだのじゃが、親がその気になっても、これが親も知らぬ約束の相手があったりしての。しかもその相手はわしのめがねに合わんと来ておる。……それで、中には、女が岩倉家の養女となることを承知したあとで、それに惚れていた男が、強引に事情をさぐりあてて逆上し、わしの邸におしかけてあばれたやつもあった。それ、神田でわしを襲ったのは、そういうふられ男じゃ」
「………」
「それからいまの男はの、これは……本人もいっておったが元旗本で三百石、幕府海軍の士官にもなった男。で、御一新後にも、いかにもこの横浜の生糸検査所の所長の職を得た。それには惜しい、という噂を聞いての、呼んで会ったところなかなかの俊才と見た。また聞いたところ、縁談の話など一切ないといい、わしの見立てた女との見合いの件も快諾した。そこで、時を見て、別にこちらで探した娘と見合いさせたところ――なんぞ知らん」
 分厚い唇に、かすかに苦笑がにじんだ。
「あの男にはいいかわした娘があった。それをきゃつ、さっさとこちらに乗りかえたのじゃ。相手の娘には何とかうまい口実を作って、縁談はとり消したらしい。それを知らぬ当方は、別の筋からその娘を養女の一人にえらんだ。それがはからずも両人見合いの羽目とはなったのじゃ。わしのほうから見ればまったくの偶然じゃが、やはり一つの天意であったろう。娘は驚き、難詰した。たまたまわしはその席におったが、最初から気丈な娘とは見ておったが、いやはや、あの男が面《おもて》をあげられぬ痛烈無比の面罵でな。……実は、わしも、わしをあざむいたことをふくめて、きゃつ――左様、寺西仁十郎とかいったな――あの男に、極めて心証を悪くした」
「………」
「で、大蔵省に伝えて、寺西を解職させたが、それが一年ほど前のことじゃ。いま異人の船員相手の散髪屋になったとか申しておったな。ふむ、そこまで落ちぶれおったか。……しかし、いきさつはいま申した通りだ。わしを恨むのは外道《げどう》の逆恨《さかうら》み、みずから招いた運命と思うが、岸田君、どう思うかの、貴公、さっき、きゃつをかばったようじゃが」
「いや、べつにそんな気でもなかったですが……ははあ、左様でありましたか」
 吟香は頭をかいた。
「しかし、いまのところ、あの手ではべつに危険な行動には出られますまい。当分通院の必要がありますから、あれ以上不心得なまねはせんように、私がそれとなくいい聞かしてやりましょう」
「この養子養女の件については、わしも真剣に考えておる。わしの残生をかけておる、といってもよい。それだけに、あまり不心得なやつがまじって来ると、腹を立てる。……いまのところ、うまくいったのはたった十三組だが、それから生まれて来る子のことなど思い合わせると、これは将来、いわゆる藩閥の害をふせぐのに、必ず少なからぬ効果をあらわすものと信じておる。薩摩出身の川路君、貴公はどう思うかの」
「いや、感心しもした」
 と、川路はうなずいた。

    四

 これはお世辞ではなかった。――どこまで本気か知らないが、こないだ経四郎が、故郷に拘泥せぬ男だと紹介してくれたが、決してそんなことはない。骨の髄からの薩摩人にちがいないのだが、しかし、この岩倉卿の懐刀といわれる男の奇抜な計画を、なるほど名案、と認めるだけの余裕を、彼は持っていた。
 ――これは作者の作り話ではない。
 同好史談会編の「漫談明治初年」に鹿島則泰という人の談話として、
「……明治五、六年頃の、書物にのっておらぬ話で、私が聞き伝えて、覚えておることが二、三ある。噂によると、岩倉さんの所では別嬪《べつぴん》を自分の所において養女にしたり、世話をしたりして、有為な人に嫁にやったそうです。つまり自分の門下に、有為な人材を網羅しようというわけではなかったかと思います」
 と述べられている。
 思い立ち、実際上動いているのは谺だろうが、むろん岩倉卿の了承を受けてのことにちがいない。川路が、岩倉卿を最も怖ろしいというのは、このしたたかな公卿が、その権謀の周到さ、遠大さでいちばんたけているように漠然と感じていたからだが、いまはからずもその証拠を見たような気がした。
 薩長閥の害をだれより早く予感し、これを阻止する計にとりかかったのもさすがだが、それに、閥外の優秀な子弟を養子養女とし、将来の親衛隊に育てるという法を着想し、実行する。実に心中あっとさけばざるを得ない。
 これで岩倉卿の美女集めという奇事も腑に落ちたし、例のお縫がその候補者に擬せられたということも――女のほうは藩閥にこだわる必要がないというのだから――その疑問が解けた。
「貴公らの理解を願っておきたかったのはこれだけじゃ」
 と、谺はいい、見張っていた供の者たちを呼んだ。それから、岸田吟香を見あげて、
「ときに岸田さん。――足の傷は、この前に消毒していただいただけで、見ちがえるようによくなった。きょうはヘボン先生から、もう七、八日もすれば歩けるようになるだろうとお言葉をいただいた。薬礼以外に何かお礼をしなけりゃ気がすまんが――」
「なに、ヘボン先生にそんな必要はないですよ」
「それは承知しておる。しかし、せめてあんたにお礼したい。あんた、相当に飲める口と聞いた。そのうち東京のどこかへお招きしたいが、つき合って下さるかな?」
「いや、そんな御心配は」
「まあ、考えておいて下さい」
 谺は笑いながら、垂れを下ろした。
 駕籠はあがり、表通りへ出ていった。むろん、ヘボン館の門前は通り過ぎて、海岸通りを北へ歩いてゆく。東京に帰るのだ。
 岸田吟香は、川路と邏卒とともにそのあとを追うかたちで歩いた。
「川路大巡察、いまの話をどう思われるかな」
 と、吟香は訊《き》いた。二人はすでに顔なじみだ。川路は答えた。
「さっきも申したが、感心しもした。あの方は、策士であると同時に、やっぱり一個の国士ごわすな」
「あれは、だれより私に聞かせたかったのかも知れん」
「へ? なぜ?」
「つまり、自分がそういう人間であることを知ってもらうために」
「だから、なぜ? おはんに、なぜ?」
「それは――」
 と、吟香はいいかけて、ふと海のほうを眺めて、
「や、おれの蒸気船が帰って来た」
 と、さけんだ。
 碧い海には、大小の異国の船が浮かんでいる。が、むろんまだ大きな船が横づけ出来るような大|桟橋《さんばし》はないので、それらはみな少し離れた沖に碇泊し、そこから艀《はしけ》で陸と往来するのだが――なるほど、そこから、艀でない船――滑稽なほど小さな蒸気船が一隻、海岸通りに近づいて来る。
 岸田吟香は手をふりながら、そのほうへ急ぎ足で歩き出した。川路は狼狽した。
 東京へ帰ってゆく谺国天は護衛しなければならないが、いまの岸田の言葉は何とも気にかかる。「おれの蒸気船」に至っては、好奇心の極に達する。
 ――よし、あちらの一行はあとでいそいで追おう。供の者も四人ついていることだし、まあ、大丈夫だろう、と、川路は決心した。
「芋川」
「へい!」
「お前、ヘボン館にはいってな。さっきの寺西仁十郎とかいう男、見張っちょれ。おれはこの岸田どんとそこまでいっしょにゆくが、あの男に不審な挙動があったら――まあ、そげな事《こつ》はあるまいと思うが――すぐに報告に呼べ。岸田どんはこの通り白衣の大男じゃから、あの人混みの中でもわかるじゃろ」
 こっちのほうだけ、念のため警戒することにした。
 芋川平九郎は、ヘボン館の門内へ駈け込んでいった。
 ヘボン館の表側は海岸通りに面している。そこは谷戸橋を渡れば山手にはいる南端で、まだ人通りは少ないが、すこしゆくと、もう織るような人の波だ。さすがに異人が多く、それを見物に来た人々も多い。中に、袴に靴をはいたり、チョンマゲに帽子をかぶったりして得意そうに歩いている者は、東京よりうんと多く、異人のほうから見れば、こっちのほうが見物に値する風景であったろう。駕籠とともに人力俥、はてはほんとに馬車の影も見える。
「谺どんが、おはんに人物を知ってもらうために、あげな話をしたっちゅうのは、どげな意味ごわす」
「この前来たときから、あの人は、私が、四、五年前、支那の上海《シヤンハイ》へいったことを知っておりましてね。――いや、ヘボン先生といっしょにいったのです。そのころヘボン先生は日本ではじめての和英辞書を作られたのだが、日本にゃそれを印刷する活字がない。それが上海にあるというので、辞書を印刷するために二年ほど上海にいたことがあるのです。そのことを、あの人は知っていた。どうも事前にいろいろ調べたらしい。そのとき、医術用にわれわれが少々阿片を仕入れて来たことまで知っていた。――」
 歩きながら、岸田は野太い声で語った。
「それで、上海のどこへゆけば阿片が手にはいるのか、いや、阿片とはどういう吸いかた、どういう作用があるのか、など、治療の間にいろいろ訊いた。あとでヘボン先生が、医者以外の者が阿片に興味を持ってろくなことはない、と苦《にが》い顔をされたが――いったい、あの人は、それを手にいれてどうしようというのか、私にはわからん」
「ふうむ。……」
「で、自分がいかがわしい人間ではない、ということを知らせたいために、私にあんな話をしたものじゃないか、と私は邪推した。しかし私だけに話すと何だかわざとらしいので、あんたを案山子《かがし》としてくっつけたのじゃないか」
「……?」
「私がとり合うと、そのうち阿片を、お国のために、という理窟に結びつけるかも知れませんぞ」
 と、髯《ひげ》の中から、白い大きな歯をむいて笑った。
「しかし私は、さっきの話自体に、あまり感心せんですな。御当人はお国のために大したことをやってるように考えておられるらしいが藩閥打破はいいとして、その手段が馬鹿げておると思う。だいいち趣味がよろしくない」
 川路はそうは思わない。思わないが、そういう感じ方もあるか、と、ちょっと意外な思いで、この豪傑風の人物を――新聞、船会社、石油会社など、怖ろしく新しい事業を手がけながら、アメリカの大医の辞書作製の助手となったこの「奇男子」の関羽髯をななめに見あげた。
 これは、はじめから藩閥を無視した自由人だけが持つ不快の表白であった。実は先天的に権謀好きなところのある川路利良は、まだその自分の個性を自覚せず、ただこの件について吟香と問答をつづけるのは何だか剣呑《けんのん》なような気がして、
「ところで、おはんの蒸気船とは?」
 と質問を転じた。
「その通り、私の所有している蒸気船で、ギンコー丸といいます」
 彼は眼を海のほうへ向けた。せいぜい十五馬力くらいだろう。それでも、まんなかの屋根につき出した煙突からは、モクモクと煙を吐き、その下の操舵室に立って舵輪を握っている船長が見えた。
「あれでも元幕府海軍の軍艦を動かしていた男です」
 と、吟香はいった。川路はこのとき、ようやくこの男が、以前船会社を経営していたということを思い出した。それはやめたと聞いたが、道楽にまだそんな船を持っていたらしい。
「あれをいろいろ動かして、試しているので」
 船首に、ギンコー丸――正確には、銀公丸で、吟香丸でないところが人をくっている――と書いた文字が見え、その船長が昔の幕府海軍の将官と同様のいわゆるレキションと称する制服を着、口髭をはやした、中年の立派な顔の持主であることまで見えて来たとき、
「おや」
 と、岸田がふと顔を海からそらして、
「ありゃ、香月さんじゃないですか」
 と、いった。
 なるほど、海岸通りの群衆の中を、香月経四郎が歩いて来る。例の装束だから、異装に事欠かぬこの場所でもたちまち目立つ。邏卒の鬼丸多聞太、横枕平助、猿木次郎正もいる。みんな、キョロキョロして、何かを探しているようだ。
「おうい、香月」
 眼をまろくして川路が呼ぶと、彼らは走って来た。
「どげんしたか」
「疋田義徹《ひつたぎてつ》を追っかけて来たのだ」
 と、経四郎がさけんだ。
「疋田義徹とは何者じゃ」
「ああ、まだいっておらなんだな。神田で谺国天どのを襲った下手人だ」
「なんじゃと」
「あれから、神田連雀町の現場附近を改めて捜査して、この連中が念のいった聞き込みをやってくれて、やっと下手人の顔を見た、そして名も知っている、という人間を探し出した。それが昨夜のことだ。元旗本で、疋田義徹という男。深川の相川町に住んでいることまでつきとめた」
「ほう」
「そして、けさからまた附近の聞き込みをやって、まちがいなしという確証を得、踏み込んだところ――路地の陋屋であったが――疋田は一足ちがいで出かけたという。いや、感づいたせいではないらしい。横浜に知人があってそこへゆくといって出かけたそうだから。――事実、こちらがそれを追って永代橋にかかったとき、すでに本人の姿も見たことのあるこの横枕邏卒が、橋を渡り終えた人影を、あいつだ、と指さしたのだ。ところが、そこで気づかれたようだ。きゃつ、逃げ出した」
 経四郎をはじめ、三人の邏卒はまだ息せき切っている。
「われわれは追った。もう少しのところで追いつきかけたこともあったが、品川あたりで見失った。――しかし、品川まで来たところを見ると、きゃつがやはり横浜に来たことはまちがいないと思う」
 彼は邏卒たちをふり返った。
「品川からおれだけ、二人曳きの俥で居留地の入口まで走って来たが――走り過ぎて、まさかやり過ごされたのじゃあるまいな?」
 それから川路に眼を戻した。
「ところで、川路、あんたどうしてこんなところにいるんだ」
「谺どんを護衛して来たのだ」
「ああ、そうか、谺どのはヘボン館に通院するといっていたな。なるほど、吟香さんがいる」
 笑って挨拶した。この前の小笠原壱岐守一件で、彼も岸田は知っていたのだ。
 これに対して吟香は、川路に対するよりもっと親愛的な笑顔を返したが、何もいわず――谺国天のことなど興味はないように、また眼を、岸に接近して船首を横にまわしかけている小さな蒸気船のほうに返した。
「大変じゃ!」
 一瞬、ぽかんとしていたのち、われに返って川路は飛びあがった。
 谺国天の駕籠がさっき東京へ帰っていったことを思い出したのだ。そこへ、そんな凶漢が、東京から来たとすると、どこでゆき逢って、どういうことになるかわからない。
「おいっ、その男の顔を知っとるやつ、いっしょに来てくれ!」
 川路利良は珍しくあわてふためいて、海岸通りを駈け出した。

    五

 岸田吟香が谺国天と柳橋で会食したのは、それから一週間ばかりのちの、三月の末の夕刻のことであった。
 三月末というと、いまの暦なら、四月末だが、朝から、春雨《はるさめ》というより、うす暗い梅雨《つゆ》のような雨がビショビショとふりつづいている陰気な日であった。
 それでも川路は、芋川邏卒とともに、日比谷門外の谺邸の近くを、合羽に笠をつけて、ぶらぶらと歩きまわっていた。――谺が横浜から帰った日は、途中別に変ったこともなかったが、あの疋田義徹という男のゆくえがまだ知れないので、眼が離せないのである。
 その後、彼は、香月経四郎といろいろ情報を交換した。――それにしても、川路と経四郎の情報の交換ほど世に奇妙なものはない。
 川路が、同僚中最も隔意なくそんなことをやるのは、むろん香月とだ。ただし、すべてではない。ときには彼が経四郎に知らせない事実もある。それは経四郎が、例のリヴァル意識だか何だか知らないが、こちらに対しても隠していることがあるからだ、と彼は考え、また、ちょっとした狐と狸の化かし合いだな、と苦笑することもある。こちらが何を隠すかは、自分でもよくわからない微妙な選択による。
 それはともかく、これは経四郎から聞いたことだが、あの疋田義徹は元二百五十石の直参だが、箱館までいって戦争したという。降伏後江戸で牢にいれられ、出て来たときには家は没収されて家族のゆくえも知れず、いまは深川相川町の陋宅に住んで、何をしているかわからない。
 が、この男にも以前からいいなずけがあったのだが、これがどういう次第でか、あの岩倉卿の養女探しの網にかかった。疋田を愛している娘は、一応それを拒否した。しかし家の事情でそれを承知せずにはいられない羽目におちいり、そのあげくとうとう首を吊って自殺したらしい。疋田は最近その真相を知って、悲憤していたという。
 これは、経四郎が、疋田の隣りに住み、彼の面倒を見ていた糊《のり》屋の婆さんから聞き込んだことに、彼自身の判断を加えて語ったことである。
 ともあれ疋田は、その筋から眼をつけられたと知って、あれ以来相川町の家に立ち戻らず、ゆくえをくらましたままだ。聞けば元直真陰流の榊原鍵吉門下の逸材であったというし、年はまだ二十五、性格も非常な直情家だそうだから、こうなると自暴自棄が加わって、いよいよ何をするかわからない。
 ――で、その日も川路は、谺邸のまわりを徘徊して、警戒していたのである。
 すると、午後二時半ごろ、谺家の奉公人が――いつも、国天の外出時、供についている一人だが――出て来て、彼をつかまえて、国天がこれから柳橋の料亭にゆくことを告げた。
「どうやら、そのお相手は、それ例のヘボン館の髯男らしいのだが」
「なに、あの岸田吟香と?」
 川路はちょっと意外な気がした。
「左様、それでな、向うは妙な男で――供侍を四人も連れたようなおえらいお方と酒を飲むのは気がつまる。お一人でお越し下さるなら罷り越してもよろしい、お身のまわり御不安なら、例の弾正台の大巡察をそれとなく外に立たせておかれたら御心配ありますまい――と、申して来たというのじゃ」
「その御会合の申し込みは向うからいって来たのでごわすか」
「そこのところは私にはよくわからん。私はいま聞いた話だが、前から打合わせがあったのかも知れん。――横浜へ帰らなければならんので、早目の時刻にしてくれということで――とにかく、そういうわけだから。貴公、なにぶん一つ、よろしく頼む」
 こういう次第で、その日、川路たちだけが、谺国天の柳橋ゆきのお供をすることになったのだ。
 幌つきの人力俥を呼んで、谺が屋敷を出たのは午後三時ごろであった。川路は、西洋古道具屋から買った、懐中時計を大事に持っている。
 谺国天は、びっこをひいていたが、しかしもう歩行も可能で、俥にも一人で乗った。乗るときに、川路に、「御苦労」と声をかけた眼に、最初のいかにも迷惑げな反応とはちがう微笑の光があった。ようやく彼も、この職務に誠実な大巡察の労を多とするようになったようだ。いや、それはもうこの前の打明け話でも看取された。もっとも岸田はあのとき川路をアテ馬扱いにしたけれど。――
 柳橋はあずま家《や》という政府大官のよく使う大料亭であった。川路らは、そこにはいる路地の手前でとどまり、谺の俥だけが、入口の前に梶棒を下ろした。何台もの俥がそこにとまっていたから、岸田がもう来ているかどうか不明であったが、その後、彼がはいっていったようすもなかったから、招待されたとはいえ、身分がちがうから、岸田のほうで先に来て待っていたものと思われた。
 ――あとで聞くと、やはり岸田のほうが先だったそうだ。もっともそれは、べつに礼儀からでもなかったようだ。その証拠に、そこから先に出たのも吟香のほうが先であった。
 その理由がいかにも吟香らしい。
 暗いのか明るいのかわからない日であった。昼の間は妙にうす暗く感じ、ただ路地の奥のあずま家の入口の中に、着いたのがまだ四時ごろというのに、決して一つではないと思われる洋燈の灯がかがやき、その中を出入りする芸者の影が幻の蝶のように浮かびあがり、いまの東京にもこういう世界があるのか、と川路は改めて感心して、たんに警戒のためばかりではなく、興味|津々《しんしん》と眺めていたのだが、一時間ばかりでさすがにそれにも飽いて、芋川邏卒とともにちょっと歩き出し、戻って来たところに、はたと岸田とぶつかったのだ。
「おや」
 彼は眼をまろくした。
「もう出ておいでごわすか」
「うん」
 まだ雨がふっているので、洋服姿の岸田は傘を――蝙蝠《こうもり》傘をさしていたが、その下の顔は少しふきげんであった。
「どうもあまり面白くないのでな、お先に御免こうむりました」
「で、谺どんは?」
「芸者どもと大浮かれです。あれはしかし見かけによらぬ通人ですな――いや、私も以前はずいぶん遊んだ、遊んだどころか若いころ芸者の箱屋までやったもんだが、ヘボン先生のお手伝いをしているうち、どうもあんな雰囲気が肌に合わなくなりましてな」
 吟香は笑った。
「しかし、私も飲むのは好きだ。あんたと飲み直そう」
 川路は驚いた。
「いや、おいはこれでも勤め中でごわすで」
「なに、あのようすじゃ、谺さんはまだ一時間や二時間は帰りませんよ、ああいう大料亭で美妓に囲まれて飲んでるやつ、しかも、ふだん何をしておるのかわからんようなやつの身辺を護るために、こんなところで立ちん坊をしているなんて馬鹿げておる。ぐっしょり雨にぬれて……あんたはともかく、そこの大福餅みたいな顔をした邏卒君、可哀そうに、まるでふやけたようになって。……」
 吟香は往来の向うを指さした。
「あそこに縄のれんがある。私なんぞ、ああいうところのほうがいい。あそこへちょっと、はいろうじゃないですか」
 川路は心が動いた。飲みたいと思ったわけではない。この前、話の途中で別れたかたちになった岸田と話すいい機会ではないか、と考えたのだ。
 彼は時計を見た。ちょうど五時であった。
「では、ちょっと」
 彼は芋川をうながし、往来を歩いて、吟香といっしょにその縄のれんをくぐった。縄のれん風にしてはやや大きな店で、ちょうど時分どきにかかったので、町人職人風の男たちがいっぱいになって喧騒していた。――なんぞ知らん、魔の風はその縄のれんの外を吹き過ぎようとは。
 酒を飲み出して、川路がまず訊いたのが、きょうの会合の意味であった。
「あまりうるさく呼び出しがかかるからやって来たが、案の定だ。例の阿片の件でしたよ」
 と、ぐいと茶碗酒をあおって、吟香はいった。
「その話はしたくない、といったら、大将しらけて、ふくれあがって、それきりさ。それからすぐに私は出て来たからね。――ま、何を目的にしとるか知らんが、それだけしつこく私に訊こうとするところが、ろくなことを考えてのことでない証拠さ」
 それっきり、その件についての話はしなかったというのだから、それ以上聞きようがない。
 吟香もまた、それ以上ここでもそんな話はしたくない、といった顔で、別のことをしゃべり出した。しゃべりながら、怖ろしく酒を飲む。不愉快さを吹き飛ばすためばかりではなく、本人もいっているように元来が大酒家なのだろう。ヘボン館で、神妙な顔で白衣を着ている人と同一人とは思えない。
 話は次第に支離滅裂となったが、主として、美作国《みまさかのくに》に孤児として育った彼が、学問して某藩の殿様の講師になったかと思うと、江戸に来て、落ちぶれて、風呂屋の三助から遊廓の牛太郎《ぎゆうたろう》、芸者の箱屋から一膳飯屋までやったという半生記であった。――そして、吟香はさらに波瀾万丈の後半生を送ることになるのだが、それはこの時点において彼自身知りようがない。
 話そのものは面白かったが、いまそれをいつまでも聞いていられる場合ではない。川路はときどき言葉をさしはさみ、例の寺西仁十郎の※[#「病だれに票」]疽がどうしても切開療法をやるほかはなくなって、おとといそれをやったことや、彼の蒸気船は、そのうちいつか、せめて横浜東京附近の海上交通だけは日本人の手でやりたいと思って、元幕府海軍で艦長をやって、その後|落魄《らくはく》していた朝倉|尚親《なおちか》という男を探し出して――というより、あの寺西仁十郎の世話で傭って、いま近海の水路や接岸可能地などを適宜調べてもらっている、というようなことを、やっと訊き出した。
「それはそうと岸田どん。……横浜へ帰られるっちゅうなら、遅くなりはしもさんか」
 と、川路は心配したが、吟香は平気で、
「なに、いずれ東京に店を出さにゃならんと考えて、築地居留地に家を一軒借りてあるんじゃ。いまは無人じゃが、そこへゆきゃ泊れる」
 と、答えた。
 そのとき、三角形のこんにゃくをくわえて、ふと入口のほうを見た芋川平九郎が、ふいに口からこんにゃくを落した。

    六

 川路は眼をあげて、のれんをくぐってはいって来た邏卒の横枕平助を認めて、これもはっとした。
 すると、横枕も気がついた風で、あわてて口を指でおさえた。
 ただゆきずりで、偶然はいって来たものではないらしい。何が起ったのか? と、騒ぐ胸をおさえながら岸田の相手をしていると、やがて横枕は縁台に一つ席を見つけて坐り、あきらかに芋川を招く合図をした。
 ふつうの着物に尻っからげした芋川は、そのほうへ身体をかがめて近づいていったが、三分ばかりして帰って来た。ただならぬ顔色で、
「旦那……疋田義徹がこの店にいるそうです」
「なに、どこに?」
「それ、あそこの隅に」
 川路は頭をむけた。なるほどその隅の席に、月代《さかやき》をのばし、髯ものびた浪人風の若者が坐って、いましもあらあらしく酒をあおったところであった。精悍というより、人生を捨てたようなつらだましいだ。
「ふうむ、あれが疋田か。……いつからあそこにおるんじゃ」
「ほんのさっきはいったそうです。横枕は偶然両国橋のこっちで見つけ、あとをつけたら、柳橋に来て、この店にはいったといっています。感づかれてはいけないので、ちょっと間をおいて自分もはいって来た。向うはまだつけられているとは気づいていないようだが、これからどうしようかと案じていたそうで」
「きゃつ、谺どんがいま柳橋に来ちょる事《こつ》を知っちょるのかな?」
「さあ。……あ!」
 と、芋川が口の中で小さな声をあげた。徳利一本を飲んだだけで、疋田は銭をおいて出てゆくようだ。川路は狼狽した。
「どうなすった?」
 と、このとき御酩酊の吟香も、やっと不審をいだいたらしい。
「いや、なに」
 川路は意味不明の返事をして、疋田がのれんをくぐって外に出るのを見すかすと、酔客をかきわけてあとを追って、のれんから顔を出した。
 疋田義徹という若者は、ふらふらと歩いてゆく。しかし、あずま家のある路地の方角とはちがう、反対の両国橋のほうへゆくようだ。
「おい、追え」
 と、川路はうしろに駈け出して来た横枕と芋川にいった。
「そして、きゃつがひき返して来るようじゃったら、一人、先に走っておいに報告しろ」
 彼はもとの席に戻った。
 吟香は酔眼を細くして、このなりゆきを見ていたが、なんの興味もなかったのか、あるいは全然見ていなかったのか、それ以前と同じ調子で、
「なあ川路君、これから俥を走らせても、横浜まで五時間はかかる。汽車をつければ三十分……弾正台はそれに反対しているってえが、ほんとにまあ何というカンカチ爺いどもか。……」
 と、いや同じ調子どころか、威張りくさって気焔をあげはじめた。
 二人の邏卒からは何の報告もないが、川路は次第に不安につきあげられて来た。やはりあずま家の谺国天が気にかかるのだ。
 三十分ばかりたって、ついにたまりかねて、彼は、
「岸田どん、ちょっと失礼しもす」
 と、立ちあがり、外へ出て、あずま家にいった。
 そして、そこで、驚愕すべきことを聞いた。
 谺国天はいなかったのである。それも、岸田が辞去して十分ばかりしてから、谺も帰るといい出して、あずま家を出ていったというのである。
 このころお抱えの俥などいうのはまだなかったから、家から乗って来た俥は捨てていた。で、あずま家のほうで別の駕籠を呼んで、それに乗って帰ったというのである。――してみると、それは川路が岸田と縄のれんにはいって間もないころのことだ。
 川路は当惑した。あずま家に、どこにいったと思うか、と訊くと、けげんな顔をして、むろん御帰宅になったのでしょう、という。
 動こうにも、疋田を追っていった芋川、横枕の両邏卒が、いったいどこまで追っかけていったのか、まだ帰って来ない。ここに報告に来いと命じたのだから、動きようがない。
 彼は念のため、あずま家の若い衆に、日比谷門外の谺邸にいって、国天帰宅の有無を訊き合わせにいってもらうことにした。
 川路は、あずま家と縄のれんの両方見える町の角に立って、自分の不覚を悔いていた。そのうち、岸田吟香が縄のれんをやっと出て、蝙蝠傘《こうもりがさ》をさしてふらふらと向うへ歩いてゆき、途中出合いの俥に乗りこむのも見たが、走っていって声をかける気にもならなかった。ながい春の日も、もうとっくに暮れつくして、しかも雨はまだビショビショとふりつづいている。
 芋川平九郎が駈け戻って来たのは、彼らが疋田を追って出ていってから、一時間近くもたってからのことであった。それでも、谺邸に走らせたあずま家の若い衆が報告に帰って来るのよりは早かった。
「旦那。……」
 芋川平九郎は顔をひきつらせてさけんだ。
「谺の大将、首を吊って死んでますぜ」
「なに? どこで?」
「永代橋の欄干で」

    七

 当時、大川には、五つの橋しか、かかっていなかった。下流からあげてゆくと、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住大橋の順である。むろん、ぜんぶ木橋だ。
 両国橋をすぐ東にした柳橋から永代橋へゆくのに、このころの道としては二キロ以上はあったろう。それでは往復に一時間近くもかかったのも無理はない。
 川路は時計を見た。六時半であった。
 そして、彼と芋川邏卒が永代橋の現場に全速力で駈けつけたときは、六時五十分をまわっていた。
 報告通り、ほんの三時間半前、川路が柳橋の料亭に送りとどけた谺国天は、永代橋のまんなかあたりの欄干から、いがぐり頭の首に縄をかけられて、橋と水面の中間の空中に吊り下がっていた。
 夜の雨はなおふりしきっている。昼間からうす暗く、雨のまま夜にはいったのに、広い河の上のせいか、ふしぎな光にみちた天象《てんしよう》で、川路には、すべてが魔界の出来事のように思われた。
 あの疋田義徹という男は、横枕邏卒とともに、その橋の上にボンヤリ立っていた。縛られてもいなかったが、逃げようとするようすもなかった。
「弾正台の方か」
 川路を見ると、彼はさけんだ。
「何のゆかりもない巷の処女に眼をつけ、おのれたちの野心のいけにえとして、それを憂国の行為などと妄想しておる|※[#「けものへん+弗」]々《ひひ》入道に天誅が下った。あははははは」
 と、のどをあげて嘲笑し、眼をひからせて、
「しかし、殺《や》ったのはおれではないぞ。殺すなら――おれなら、斬る!」
 と、挑戦的に刀のつかをたたいて、そのときはじめて横枕があわててその腕をつかんだくらいである。
 横枕平助が、そのときまでこの男を縛らなかったのは、むろん彼の腕では出来もしなかったろうが、実は次のようななりゆきだったからであった。
 そもそも、この事件に最初に気がついたのは、この疋田義徹であったのだ。
 ――柳橋の縄のれんを出た疋田は、大川端をぶらぶら歩いていった。どこで手にいれたのか、破れ傘をさして、足が少しよろめいていたのは、あの店以前にもどこかで飲んだせいらしい。新大橋のある浜町河岸を通り、やがて永代橋に達すると、これを渡り出した。深川へ渡ると、すぐに彼の住む相川町だ。事実彼は、それまで品川附近に潜伏していたのだが、この日やっと自宅に帰って見る気になって現われたのだ、といった。
 そして、橋のまんなかあたりで、おや、といった。
 彼は下流側の欄干に沿って歩いていたのだが、足が何かにひっかかった。見ると、壊れた竹の|たが《ヽヽ》だ。彼は見下ろした。そしてもう一つ別の|たが《ヽヽ》が、欄干の柱の一本の根もとにしっかり嵌《はま》っており、同時に縄が巻きついているのを見た。
 これを大して怪しいと思ったわけではなく、歩きながらむしろ何気なく、そこから河のほうをヒョイとのぞいたのである。
 すると、空中に浮かんだ人間の首が見えた。
 雨の夜にそんなものが見えたのはふしぎだが、前にもいったように、雨の中に妖光の漂うような夜で、あとで来た川路も、朦朧《もうろう》とながら、ほんとうにその顔を見たのである。吊られた人間が、のけぞるように頭をそらしているせいもあったろう。
 とはいうものの、常人の眼には、その人相まではっきりわかるはずはなかったのだが、
「あっ……谺国天!」
 と、彼がさけんだのは、それが夢にまで見た憎悪の宿敵の顔であったからだ、と彼はいう。
 それで、あとをつけていた横枕と芋川が馳《は》せつけた。邏卒として巡回中であった横枕は、角燈を持っていた。芋川は谺の顔を知っていた。
 こうして彼らは、永大橋に吊るされていた谺国天を発見したのである。
「……ははあ、おれをつけていたのかね」
 と、疋田は、邏卒姿の横枕平助を見て、はじめてそのことを知ったらしいが、抵抗や逃亡の気配は見せなかった。それどころか、
「つけていたなら、お前さんたち、やったのはおれじゃないことを知ってるだろう。おれも、こいつがどうしてこんなところでこんな死に方をしているのか知りたいよ。上役を呼んで来い」
 と、自分からいい出して、川路が来るまで、横枕邏卒とともにそこに立って、待っていたからである。
 ――二時間ほどして、急報を受けた香月経四郎も俥で駈けつけて来た。鬼丸多聞太、猿木次郎正もいっしょだ。
 そして、それまで吊るされたままになっていた屍体ははじめてひきあげられ、改めて谺国天だということが確認された。
 谺家、弾正台へ、手分けして芋川と猿木がまた走り、疋田はともかくも縛って鬼丸多聞太が連行し、角燈を持った横枕を警戒に立たせておいて、川路と経四郎は、足もとに横たわった、岩倉卿の黒幕といわれた男の無惨な屍骸を見下ろした。
「わからん。谺どんは、あずま家を出て、どこへ、何のためにいったのか……。これほどの人を、やすやすと絞め殺すとは、魔人のわざとしか思えんし、どげなつもりでこげなところに吊るしたものか、まったく五里霧中じゃ……」
 川路がつぶやいた。
「おい、川路さん、こりゃ絞め殺されたものじゃなくて、どうやら自分で首を吊ったようだぜ」
 と、経四郎がいった。
「なんじゃと?」
「さっき気がついたんだが、見なさい、頸についた縄の痕《あと》は、絞め殺したときにつく水平な痕じゃなくって、|のど《ヽヽ》から両耳のうしろへ、ななめにくびれている。これは自分で首を吊った証拠だとは思わんか?」
「なに、では、この人が自分の首に縄をかけて、この橋から飛びこんだっちゅうのか!」
 川路はさけび、数十秒絶句し、またいった。
「それにしてもこの縄は何じゃ。縄は欄干に結ばれんで、縄に結びつけた小桶の|たが《ヽヽ》みたいなものが、半分切られて、欄干にはまっておるし、縄のもう一方のはしは、河までとどきそうに長く垂れておった。……そのわけは知らず、他人の手がかかっておるとしか思われん!」
「むろん、私も、この人物が、自分で首を吊るようなタマとは思っていない。と、すると。――」
「容疑者として、いまのところ考えられるのは、あの疋田義徹と、それから、それ、寺西仁十郎じゃが。――」
「疋田のいいなずけの娘は、首を吊って死んだというが。……」
 しばらくして、川路は沈痛にうめいた。
「何にしてもこの惨事は、護衛役であったおいの責任じゃ!」
 三日のち、弾正台で二人は問答した。
「川路さん。何かわかったか」
「わからん。……いや、わかった事《こつ》もあるが、それでかえって、いよいよわからなくなった」
「と、いうと?」
「まずあの晩の谺どんの動静じゃが……あずま家が呼んだ駕籠屋を調べたところ、谺は浜町へ、といって、浜町河岸で下りたそうじゃ。あそこにも花街があるから、駕籠屋はそこへいったものとばかり思っておったっちゅう。おいもそう思うが……浜町で下りた谺どんが、どげんしてまた、柳橋から浜町までの距離よりなお遠い、浜町から永代橋までいったのか……乗物を変えたのか、あのびっこの足で歩いていったのか、だれも目撃者はおらんし、理由もわからん」
「………」
「そこであの疋田義徹だが……あの男、自分が尾行されちょったから、谺殺しの下手人じゃなか事《こつ》は邏卒が証明してくるる、と、|たか《ヽヽ》をくくっちょったようじゃが、実は当人にとってあぶなか事《こつ》じゃった。なるほど柳橋を出てからは邏卒が尾行しちょったが、柳橋に現われるまでの犯行ではなかったか、という嫌疑は充分じゃからの。ところが……その点については、このおいが疋田の証人にならざるを得ん羽目になった。だいたいの時間じゃが、岸田吟香があずま家を出て来たのが午後五時、それから十分ほどして、谺どんが出た、というのじゃが、つまりそれは五時十分ごろじゃったろう。ところが、おいがあずま家にいって、芋川邏卒から事件の報告を受けたのは六時二十分じゃったが、それからあの夜の事《こつ》をいろいろ逆算すると、疋田は五時半ごろすでに柳橋の縄のれんにおった事《こつ》になる。まだ谺どんは浜町へ駕籠にゆられちょる時刻じゃ。いかにしても、その谺どんと同行して永代橋までゆき、また半里以上もある柳橋に帰って来られるわけがなか」
「………」
「もう一人の寺西仁十郎じゃがな。こいつは当夜、たしかに横浜におった、っちゅうのはな、あの夜の前々日、ヘボン先生に※[#「病だれに票」]疽の切開手術を受けて、それで自分では急に軽快したような気になって、かねてからたまっておった用事を果すために、前日東京へ出て来たっちゅうのじゃ。それでまた悪化して、横浜に帰ってから痛みが烈しくなって、またヘボン館に何とかしてくれと転がりこんだのが、あの夜の八時ごろっちゅうのじゃ。谺どんがあずま家を出たのが五時十分、それから見て、半里離れた永代橋に着いたときは、少なくとも五時四十分にはなっていたろう。そのとき寺西が永代橋におったとすれば、俥で走っても五時間はかかる横浜へ、二時間二十分後の八時までに帰れるわけがなか」
「………」
「さらにヘボン先生は、あの指のようすじゃ、ハチマキを結ぶのもむずかしか、と、いっちょられた。いわんや、あの※[#「病だれに票」]疽の手術をしたばかりの指で、大の男を絞め殺し、橋から吊るすなどいうあらわざが出来るわけがなかっちゅう。……これは余人じゃなか、おいも神様のように思っちょるヘボン先生の証言じゃ」
「ふうむ」
 経四郎はうなっただけだ。
 川路も嘆声をあげた。
「そりゃ、あの谺どんじゃから、ほかにも命を狙う相手がなかとは限るまい。しかし、ともかくも下手人が、あの寺西、疋田両人でなかとすると、おいはまったく見当がつかん!」

    八

「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、アマツカミ、クニツカミ、オリマシマセ。――」
 その翌日の夕刻。――晩春の黄昏《たそがれ》の永代橋の上で、美しくも妖しい例の声がながれた。
 交通を断《た》ったその橋のまんなかに、縛られたままの疋田義徹と寺西仁十郎がひきすえられ、そばに川路利良と香月経四郎が立っている。その前で、神楽《かぐら》鈴を持ち、歌い出した巫女《みこ》エスメラルダであった。
 橋の下流側の欄干に沿って、弾正台の大忠連と真鍋|父娘《おやこ》がならび、上流側には邏卒たちが坐って、古代楽器を合奏している。――例の構図だ。ただし、三人だけだ。鬼丸多聞太と一ノ畑曾八がいない。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、コダマコクテンノ、ミタマ、マイリタマエ。――」
 シャラン! と、神楽鈴が鳴った。
「イマ、マイル。……ワシハ、コダマコクテンダ。コダマコクテンノ、タマシイダ。……」
 何度聞いても、この刹那、聞いている人間の背に、水を走らせずにはおかない。
「シノセカイニキテ、ワシハ、ハジメテ、セイノセカイガ、ミトオセル。……アノバン、ワシハ、ヤナギバシカラ、ハマチョウ、ニ、イッタ。アズマヤデノ、ハナシノナカデ、フト、キシダギンコウガ、ジブンノジョウキセンガ、ソノヨ、ハマチョウニ、キテイルハズダ、ト、ハナシタカラダ。キシダハ、コノトコロ、ヨコハマカラ、トウキョウ、マタ、オオカワデ、ジョウキセンノ、セツガンデキル、バショヲ、シラベサセテイルノダ、ト、イッタ。……」
 歌うように、碧眼金髪の巫女はいう。
「アズマヤデ、キシダハ、キュウニ、キゲンヲ、ワルクシテ、セキヲタッタガ、ソノアト、ソノフネニ、イッタモノトカンガエ、ワシハ、ソノアトヲ、オウ、キニナッタ。ハマチョウニ、ユクト、ウスグライ、ユウグレノアメノナカニ、チイサナ、ジョウキセンガ、マルデ、ユウレイセンノヨウニ、ウカンデイタ」
 そのとき、大忠たちは、上流にあたる、浜町のある新大橋のほうから、一隻の蒸気船がこちらに進んで来るのを見た。
「フネニチカヅイタ、ワシハ、フト、クビニ、ハモノガ、ツキツケラレテ、イルノヲ、シッタ。フリカエルト、ヒトリノオトコガ、カミソリヲ、ワシノクビニ、アテテオッタ。……ソノママワシハ、フネニノセラレ、カンパンニ、タタセラレタ。……」
 人々は、近づいて来る蒸気船の小さな甲板に、大小二つの人影が立っているのを見た。どうやら、邏卒らしい。
「ソノオトコハ、ヘボンカンデ、ソノヒ、キシダガ、トウキョウデ、ワシト、アウ、ハナシヲ、キイテ、アルケイカクヲ、タテテ、アズマヤカラ、デタ、ワシヲ、ズット、ツケテイタ。カレハ、ワシノカエルノヲ、マチウケテ、イカナルシュダンヲトッテモ、ハマチョウノフネニ、ツレコムツモリデ、イタノダガ、ワシハ、ソノヨ、シノウンメイニ、トリツカレテイタノカ、ワザワザ、ジブンカラ、ソノフネノトコロニ、イッタワケダ。……フ、フ、フ」
 陰気な笑いを、異国の巫女は笑った。
「アメノユウグレノ、オオカワバタニ、ヒトカゲハナク、マタ、ワシハ、コエヲ、タテルコトモ、デキナンダ。ソノオトコハ、ホントウニ、サッキ、ニ、モエテイタカラダ。……ソシテ、フネハ、ミルミル、エイタイバシニ、チカヅイタ。……」
 蒸気船の甲板に立っている鬼丸多聞太の髯面と、一ノ畑曾八の生気のない哀れな顔が見えた。
「エイタイバシノ、カリュウガワノ、ランカンカラハ、ナガイニホンノ、ナワガ、タレテイタ。イッポウノハシハ、ワ、ニ、ナッテイタ。……ソコヘ、フネハ、ススンダ。センチョウハ、ソノフネノ、センチョウニ、ナルノニ、ソノオトコノ、セワニ、ナッタノデ、ソノオンギカラ、オトコノ、メイレイニ、シタガウヨリ、ホカハ、ナカッタ。ソシテ、センチョウハ、ソノオトコノ、ヤロウトシテイルコトヲ、ヨクシラナカッタノダ。ワシモマタ、ジブンガ、ドウサレルノカ、ワカラナカッタ。……フネガ、ハシノシタヲ、クグッタセツナ。……」
 小蒸気船は実際に橋の下に消え、シャラン! と鈴が鳴った。
「オトコハ、イキナリ、ソノナワノ、ワ、ヲ、ワシノクビニ、ヒッカケ、ツイデ、モウイッポウノ、ナワヲツカンダ。イッシュンニ、ワシハ、ソラニツリアゲラレ、フネハススミ、オトコガ、ナワヲハナシタトキ、ムロン、ワシハ、クビツリシタイニ、ナッテイタ。……」
 船は下流に出ていった。甲板には、鬼丸多聞太の姿だけが残っていた。
 あとでわかったのだが、同じように一ノ畑曾八は、橋の下に吊るされていたのである。もっとも、縛られたのは、首ではない。両手をあげた腋の下であったけれど。――
「ソノオトコハ、ヒダリテ、ダケデ、コノシゴトヲ、ヤッタ。ミギテヨリ、モットツヨイ、フネノチカラヲ、カリタノダ。……ナワノ、トチュウニハ、タケノタガヲ、ハンブンニ、キッタモノガ、二、三、カショ、ムスビツケラレテ、ソレガ、ランカンノハシラニ、ハマッテ、ナワガ、トマルヨウニ、シカケテアッタ。ソレハ、マエノヒ、トウキョウニキテ、ヤッタコトダ。ジッサイノトキ、ソノタガノ、ハジメノ、ヒトツ、フタツハ、ハジケトンダガ、ミッツメガ、ミゴトニハマリ、コノシカケハ、セイコウシタ。……」
 蒸気船は――のちのいわゆる一銭蒸気の先祖となった銀公丸は、もう夕靄にけぶる広い河口へ消えてゆく。
「カクテ、ゴゴ六ジチカクマデ、エイタイバシニ、イタニンゲンガ、八ジニハ、ヨコハマニ、イルトイウ、ハナレワザモ、セイコウシタノダ。……」
 ドーン、と、火焔太鼓が鳴り、巫女の声は低くなった。
「ハンバツノ、タイガイカラ、ニッポンヲ、スクオウトスル、コノワシ、コダマコクテンノ、オオイナル、ココロザシハ、カクテ、ヨニモオロカナ、オトコニ、ホウムラレタ。……タダシカシ、コノ、オオガカリナ、エンキョリサツジンノ、カラクリニハ、コロサレタオレモ、イササカ、カンシンシタト、アノヨカラ、ホメテ、オコウ。……」
 声は消え、巫女はうなだれた。
「立て」
 と、香月経四郎が寺西仁十郎にいった。
 川路利良は馬鹿のように、エスメラルダが笑顔でお縫のところへ挨拶に近づいてゆくのを眺めていた。
[#改ページ]

  遠眼鏡足切絵図


 遠眼鏡ながら女人の足を切る景を目撃せるむねの証言者あり、事実その切断されたる足も出現せるに、いずこにも被害者なく、究明甚だ困難いたし候事件の顛末、次の如くに御座候。
[#地付き]――「弾正台大巡察・川路利良報告書」より――

    一

 こんどエスメラルダのところへ、フランスからとどいた荷物の中に面白いものがある。最新式の遠眼鏡だ。それでエスメラルダが、もういちど築地ホテル館へいって、例の塔の上で東京を見たいといっているが、君もその眼鏡で見物しないか、と、香月経四郎《かづきけいしろう》が川路利良《かわじとしよし》を誘ったのは、明治三年八月のある日であった。
 そして、見せられたのが、ブウランジャー双眼鏡というものだ。川路はそれまで片目で見る見世物用の遠眼鏡は見たことがあるが、そんな精巧な双眼鏡ははじめてであったので、なるほどこれで町を遠望したら素晴しいだろう、と、一も二もなくそれに応じた。
 それで、エスメラルダを駕籠にのせて、三人は居留地へ出かけた。いうまでもなくこのころは旧暦だから、東京にはもう秋の気がただよいはじめている。
 居留地にはいる真福寺橋の番所には、邏卒猿木次郎正がひとり椅子に坐って、机の上にならべた小銭をトロンとした眼で眺めていたが――また例のごとく、市民から巻きあげたものに相違ない――前を通りかかる三人を見ると、驚いて銭をかき集めてポケットにしまい、猿みたいに歯をむき出した笑い顔で、大きな靴をパクパク鳴らしながら追っかけて来た。
 経四郎がきょうの目的をいうと、是非お供させてくれという。
 やがて彼らは、またホテル館の高さ三十メートルになんなんとする鐘塔に上った。
 そこで、双眼鏡を通して見わたした東京の風景はまた格別で、まるで別世界の町を見るような昂奮を彼らにあたえたことはいうまでもない。ものに動ぜぬ川路でさえ、何度も驚異の声をあげた。
「エスメラルダどん、パリスとくらべてどげんでごわす。パリスの眺めもこれほどじゃごわすまいが」
 と、彼は大まじめに話しかけた。
 エスメラルダは笑っただけで、何もいわなかった。
 ――二年後、川路は洋行することになるのだが、マルセーユからパリへ向う汽車の中で便意をもよおし、ついにたまりかねて座席で新聞紙の上に垂れて、まるめて、窓外に投げ捨てる、という悲話を演じた。
 さて、パリに着いて、ノートルダム寺院の屋上に上って――当時エッフェル塔はまだなかった――そこで、フランス人たちがじろじろ自分たちを眺めながら何か話しているので、通訳に訊《き》くと、通訳は苦笑しながら、「何でも昨日、汽車の窓から糞を投げ出した日本人があったそうです」といった。「それがなぜ日本人じゃとわかったんじゃ」と、訊き直すと、「その糞をつつんだ紙が、どうやら日本から持って来た日本の新聞紙らしいので」という返事であったので、彼はギャフンとなった。――
 で、パリの景観を見わたしても、二年前の東京の俯瞰《ふかん》の記憶と比較して、いまさら赤面する余裕などなかったろうと思われる。
 代る代る双眼鏡を持ち変え、その騒ぎがひとしきり鎮静したときだ。
「あの……すみませんけど、ぼくにも見せてくれませんか」
 と、声をかけた者がある。
 途中から、ボーイといっしょに、そこに上って来た十歳ばかりの少年であった。侍の子らしく、前髪をつけ、きちんと袴をはき、短い刀さえさしている。
 さっきからその少年が、双眼鏡に興味を奪われて、その言葉を出すのに耐えに耐えていたことを経四郎は気づいていて、むろん見せてやるつもりでいた。
 なお、それを眼にあてて離そうとしない猿木邏卒に、
「おい、いいかげんにそのお子供衆に貸してあげろ」
 と、声をかけ、
「使いかたを教えてやってな」
 と、注意した。
 やがて、頬をかがやかせて、双眼鏡で四方を眺めている少年を見ながら、川路は、少年を連れて上って来たボーイに訊いた。
「ありゃ、ここに泊っちょるお客の子か」
「いえね、そうじゃございませんので」
 と、ボーイは答えた。
「たったいまやって来て、どうか塔の上に上らせてくれ、と申しますので」
 この塔には、むろん原則として宿泊客しか上れないことになっている。
「何でもこの居留地の教会をはじめて見に来て、そのついでにここに立ち寄ったとかで――とにかく、あんな小さいのが、ひとりでなかなかちゃんとした挨拶をするものですから、つい案内してやる気になりまして」
「ほう、教会に」
 そういえば、どこか異人めいた容貌をしている。決して混血児というような意味ではなく、あくまで日本の少年に相違ないが、その年齢にしては彫りが深く、では美貌かというとその反対で、むしろ可愛らしくない。が、珍しく聡明さと意志力にみちた少年の顔であった。それにしても、一人で居留地の教会を、さらにホテル館の塔を見物に来たとは変っている。
 それだけ耳にして、経四郎は少年のそばに歩いてゆき、どこらあたりを眺めたいかと尋ねて、改めて双眼鏡を調節してやった。
「坊やは東京の人かね」
「ちがいます。上州の高崎です」
「え、高崎――お父さんはそちらにおられるのか」
「いえ、父は奥州|石巻《いしのまき》にいます。……権《ごんの》判事というお役で。――家族は高崎」
 少年は双眼鏡に眼をあてたまま、明晳《めいせき》に答える。
「じゃ、坊やは一人で東京に出て来たのか」
「はい。お父さまのおいいつけで、英語の勉強に。――いま、イギリスの女の先生の塾にはいっているんです」
「ふうん、それはえらいな。耶蘇の教会見物に来たそうだが、その先生にゆけといわれてかね」
「いえ、友だちが、面白いからいってみろといって……」
「面白かったか」
「はい、西洋の女の人が、大きな箱みたいなものをたたくと音楽が鳴って、そして、英語の歌をうたって……でも、この双眼鏡のほうが、もっと面白い!」
 経四郎も、いまさらのごとく「新時代」を感じないわけにはゆかない。
「坊や、しかし、このごろ東京に出て来たにしちゃ、言葉が田舎くさくないじゃないか」
「え、もともと東京に生まれて、七つのときまで小石川にいたから……お父さまが高崎藩の江戸詰めのお侍でしたから……いまも殿さまのお屋敷にいます」
「君、いくつ?」
「十《とお》」
「名は?」
「ウチムラ・カンゾー」
「え?」
「内村鑑三」
 そのとき、少年が、突然、「あ!」とさけんだ。
「どうした」
「あんなところで、男と女が、へんなことして――」
「なに? どれどれ」
 さすがの経四郎も狼狽して、双眼鏡をひったくった。
「どこだ?」
「教会の左のほう……三つ目の洋館の二階です」
「待て待て」
 経四郎は双眼鏡でうろうろ探した。
「その洋館の右から二つ目の窓です」
 一、二分後、双眼鏡の焦点が合って――しばらくして、「あ!」と経四郎もさけんだ。
「どげんしたか」
 と、川路も猿木も、エスメラルダまでが好奇の眼で集まって来た。
 経四郎が見たのは、大きなガラス窓を通して、ベッドに横たわっている女と、そばに立っている男であった。明らかに洋風の部屋だが、その男女は西洋人ではない。日本人であった。そして、少し離れて、男がもう一人いた。
 いま少年が、へんなことをして――と、さけんだのは、どうやら男の一人が、女を抱きあげてベッドに横たえたのを見てのことであったらしいが――そんな行為はむろん、いまの二人の構図だけでも、ふつうの日本人の世界では、第三者には見られないものにちがいなかった。
 ただ、経四郎が、「あ!」という声をもらしたのは、その女が――女でないことを知った驚きのためだ。いま巷の若い女の間で「田之助|髷《まげ》」という髪型がはやっているが、それは、その髪型をはやらせた張本人にまぎれもなかった。
「あれは……沢村田之助だ!」
 と、彼はさけんだ。
 つづいて、その双眼鏡を奪いとった川路が、数分、熱心に見ていて、
「あの男……一人のほうはおいも知っちょる。ありゃたしか民部省の牧盾記《まきたてき》っちゅうお人じゃて」
 と、いった。
「もう一人は何者か。ノッペリ、ゾロリとして、どうやらこれも役者くさかが。……」
 三番目に双眼鏡をとったエスメラルダは、女に見えるが実は女形《おやま》というカブキの男の俳優だと、いくら経四郎に説明されても、どうしても納得しなかった。
「猿木、来い」
 エスメラルダから双眼鏡の番が回って来るのを、足踏みしながら待っている猿木次郎正に、川路は無情にあごをしゃくって、つかつかと螺旋《らせん》階段の上り口に歩き出した。
「川路さん、いって見るのか」
「居留地の洋館に、政府の役人と、いろいろいかがわしか評判のある女形《おやま》がいっしょにおるとはいぶかしか。ちょっと調べて来る」
 二人を見送って、経四郎がもういちど双眼鏡でのぞいてみると、ガラス窓の中に三人の男女の姿はもう見えなかった。

    二

 歩いて十五分くらいの距離であろうか。――川路と猿木がその洋館を探しあてたとき、当の三人は五分ほど前、俥で立ち去ったということであった。その洋館は無人で、ただ一人、傭われ爺さんが留守番をしているばかりであったのだ。
 築地ホテル館で待っていた経四郎たちに、ひき返して来た川路はそう報告した。
「なに、無人の洋館に――あの連中が何をしに?」
「いや、無人といっても、あのあたり借手のなか洋館が多いが――その洋館には借手があった。それをだれだと思う?」
「わからんな」
「岸田銀次郎……すなわち、吟香じゃ」
「ほ?」
「どうも、あまりものを知らない留守番の話じゃが、吟香はもう一年も前からあそこを借りとるっちゅう。いや、買ったといったかな?」
 そういえば、と、川路自身、いつか吟香と雑談の際、築地居留地に一軒持っている、というような話も聞いたことを思い出した。
「しかし、いまのところ、めったに来た事《こつ》もなかが、きょうはお客三人とあそこで待ち合わせるっちゅう約束じゃったそうなが、急な用があって本人は来られぬっちゅう連絡があって、あの三人はしばらくあそこで休んだのち、空しく立ち去ったっちゅう」
「ふうむ、それならそれで別に妙な話でもないじゃないか」
「いや、やっぱり妙じゃ。ドクトル・ヘボンの弟子と、民部省の役人と、芝居の女形と――その取合わせが奇妙千万じゃ」
「そういえば、そうだが……世の中には合縁奇縁という言葉もあるからな」
「ところで、その沢村田之助っちゅうのはどげな役者じゃ。おいはまだ舞台で見た事《こつ》はなか。そのくせ、いかがわしか噂は聞いちょるが、ありゃまッこと男か」
 エスメラルダのみならず、川路もさっき見た双眼鏡の中のその女形の美しさに、昏迷をきたしているらしい。
「なに、私も二、三度、芝居を見ただけだが。……」
 ――沢村田之助は、幕末から明治初年にかけて、その美貌ぶりを――これは後の言葉だが、田之助の前に田之助なく、田之助の後に田之助なし、と、うたわれた女形であった。
 弘化二年、五世沢村宗十郎の子として生まれた彼は、十五歳で名題《なだい》、十六歳で立《たて》女形《おやま》となった。名門の出《で》としても異例のことだ。この明治三年には、その妖艶ぶりが絶頂に達した二十六歳である。
 その人気は、幕末よく芝居を見にいった、蘭方の名家桂川甫周の娘今泉|みね《ヽヽ》が「名残りの夢」で、「この役者の人気と申したらとても大したもので、どうしてあんなに人気があったのかときかれますが、実に名優だったのでしょうね。美しいことも、私が見た中であれほどの美しさは前後になかったと思います。ただの美しさではなく、なんとなく神々《こうごう》しい美しさでした」といい、その美貌は、これは後のことだが逍遙が「当世書生|気質《かたぎ》」で、ある美しい芸者を「その容姿はいかにというに、痩肉《やせじし》にして背もひくからず、色はくっきりと白うして鼻筋通り、眼はちとばかりりきみあれど、笑うところに愛嬌あり、紅《くれない》なる唇といい眉根といい、故人となりたる田の太夫の舞台顔に髣髴《ほうふつ》たり」と、描写している通りであった。
 町には、田之助|紅《べに》、田之助|白粉《おしろい》、田之助|衿《えり》というものが売られ、それどころか、田之助髷、田之助下駄なるものまではやっている。
 今泉|みね《ヽヽ》は「神々しい美しさ」と形容し、またふだんでも、顔あからめて「ちょっとお手洗《ちようず》にいって参ります」などいうときは、深窓のお嬢さまのようであったというが、一方で他の役者の芸を、舞台で小声で嘲ったりして深刻な恨みを買い、また、ひいきの男性相手、女性相手に、両刀使いで撫で斬りの、淫蕩きわまる生活をしてはばからなかったともいう。――変り者の多い役者の中でも、特別「妖人」と呼んでさしつかえない女形であった。
 ――むろん経四郎は、田之助についてこれだけの知識もない。ほんとうに、二、三度芝居を見て、その凄艶さに悩殺されたことがあるだけだ。
 彼は、ぽつぽつと、知っていることだけを川路に話した。川路は川路で、芝居を見たこともないくせに、警察的見地から田之助のいかがわしい噂だけは耳にいれていた。
「ふうむ。……なんでもあの役者は、何十人かの男女の怨霊《おんりよう》にたたられて、たたみの上の大往生が出来るはずはなか、っちゅう悪口を聞いた事《こつ》もあるぞ。……」
 と、彼はつぶやき、
「それにしても、もう一人のノッペリした男は何者かの」
 と、首をかしげた。この件を、そのまま捨てる顔つきではない。
 それから十日ばかりの間、二人はかまけて逢う機会がなかったが、八月十八日の午後、小伝馬町の獄舎で顔を合せた。
 日を正確にいったのは、これは雲井龍雄がこの牢に送られて来た日だったからである。薩長政府打倒の陰謀をたくらんだとしてこの四月逮捕され、故藩の米沢に収監されていたこの反政府の大物が東京に送られ、この日小伝馬町にいれられたのを、彼らは警護をかねて見物にやって来たのだが、思いがけず小柄で、女のようにやさしい容貌をして、しかも不敵な叛骨はありありと現われて、見る人を、なるほどとうなずかせるものがあった。雲井龍雄、このとし満で二十六歳である。
 そのあと二人は、べつにこれといった目的もなく、浅草橋の方角へ向ってぶらぶら歩きながら、はじめ、むろん雲井のことについて話した。
「香月……貴公、案外、雲井の心事について共鳴があるのじゃなかか?」
「そう見えるかね、ふ、ふ」
 経四郎は笑った。
「しかし、私は、あの男は馬鹿だと思う」
「なぜ?」
「多少の人間を動かして謀叛《むほん》を計ったとして、いまさら新政府が外から倒れるもんか。……倒すなら、内側から、だな」
「内から? どげんしてな?」
「そんなことは私も知らんが、兵法として、ただそう思うだけさ」
 川路は黙って歩いていたが、ふと、
「ああ香月。……例の田之助の件な」
 と、いい出した。
「横浜の岸田吟香のところへいって訊いたところ――吟香は以前から田之助のひいきじゃそうで、それで同じくひいきの牧盾記どんと意気投合したらしか。で、あの日、田之助と、やはり役者の――そうそう、あのときのもう一人の男が、その嵐|璃鶴《りかく》っちゅう役者だったのじゃ――あの洋館で待ち合わせ、海釣りにゆく約束をしておったっちゅう」
「ふむ」
「あの洋館は、いかにも吟香が東京へ出て西洋薬屋でもやるために買ってあったそうな。ところが、あの朝、吟香は急用が出来て、そのむね連絡の者を出したんじゃが、相手が三人のこととて手ちがいが生じ、三人ともやって来て、待ちぼうけを食わされて帰っていったものらしか」
「ふむ」
「はじめは妙な取合わせじゃと思ったが、役者とひいき客とすれば、なるほどどげな組合わせもあり得るな、と、おいもにが笑いしてひっこみかけたが、ま、それにしても、女形をひいきにする役人とは――と、念のため、もいちど牧っちゅう人物を内偵して見た」
 茫洋たる川路には、仕事の上では妙に執拗な一面があった。
「牧盾記、民部省|権少丞《ごんのしようじよう》、長州出身、三十八歳。浅草田原町の家に、老母と姪《めい》が同居しておるが、当人はまだ妻帯しておらん。人柄は、あの通り、まるまるとふとった身体に似て円満と見られ、しかも役所での仕事は精励かつ緻密、っちゅう評じゃ」
「ふむ」
「まだ独身、っちゅう以外に妙なところは全然なか、と、だれもいうが……猿木を使って調べて見たところ、高利貸に大変な借金がある。――きゃつ、そげな調べは感心にうまか――牧どんは、酒もばくちも女も、その他ふつうの道楽は一切やらん。ただ田之助にいれあげちょるだけで……どうやら、そのほうの借金らしか。むろん当人は隠しておって、役所の朋輩はほぼだれもそげな事《こつ》は知らん」
 経四郎は笑い出した。
「それは面白い人じゃないか」
「ふつうの人間ならばじゃ。役人としては面白うなか。……実際問題として、上司に知られたら免職になる事《こつ》は必定《ひつじよう》じゃ」
 二人は、浅草橋のほうに近づいた。――と、
「ほ」
 と、川路が奇妙な息をもらした。
「なんだ」
「知らん顔しちょれ。……向うから、いまの話の高利貸が来る」
 なるほど向うから、でっぷりした男が、女を連れて歩いて来た。男はもう六十を越えているだろうか、あぶらぎった肉がだぶだぶして、醜悪さもさることながら、高利貸然とした強欲さが眼鼻をかたち作っているようだ。女は――その凄艶さに、経四郎は眼を見張りかけて、向うが水干姿をふしぎそうに眺めつつすれちがったので、あわててそ知らぬ顔をした。
「横町へはいっていったよ。――お、あいつのうちが、たしかあっちの薬研堀《やげんぼり》じゃったな」
 と、川路がいった。
「牧どんが借りちょる高利貸はほかにもあるらしかが、あれがいちばんの貸手じゃ。たしか三百両以上貸しちょる。薬研堀で質屋ののれんを出して、一方じゃ高利貸もやっちょる、小林金平っちゅう男じゃ。こないだ猿木と往来を歩いておって、きゃつに教えられた。むろん、向うは気がつかんが」
「女は?」
「妾のお絹」
「あれがあの男の妾か。もったいないな」
「もと猿若町の芸者で、一、二を争う売れっ妓《こ》じゃったちゅうが、金の力にゃ勝てん」
「芸者か、道理で」
「それ以前は、ある旗本の中間《ちゆうげん》の娘じゃったそうな」
「妾がその質屋の本宅におるのか」
「妻妾同居じゃ。もっとも本妻は中風で寝ちょる」
 経四郎は、呆れたように川路の顔を見た。
「いや、よく調べたものだな。――もとはたった一つの双眼鏡で、これだけのことをほじくり出す。調査対象はむろん、そのまわりまで飛ばっちりを食う。貴公に眼をつけられたらかなわんな」
「なに、こりゃ、あの猿木の働きじゃて。それが、なんとあの猿木次郎正、あれから小林質店に質をいれにいって、そこから出て来る牧どんを見かけた事《こつ》があるっちゅうのが、牧どんの借金を知るきっかけになったっちゅうのじゃ」
「ふうむ。あいつが。……」
「そりゃそうと、その双眼鏡じゃがな、あれは面白か。いずれそのうち、もういっぺん、おいに貸してもらいたいもんじゃて」
「あれは無くなっちまったよ」
 と、経四郎はいった。川路は眼をまろくした。
「無くなった?」
「いつのまにか、見えなくなってしまった。私のいないときは、たいていあの邏卒たちのだれかが来て番をしてくれているんだが、それでもやられた。……もっともあれは、佐賀屋敷でも評判だったからなあ」

    三

 さらに十日ばかりたった九月上旬のある小雨のふる夕方、笠に合羽《かつぱ》という姿で、柳橋近くを巡邏していた川路利良は、ふいにうしろから駈けて来た二人の男女に気がついて、眼を見張った。
「猿木じゃなかか」
「あ、旦那。――」
 男はまさに邏卒姿の猿木次郎正であったが、川路が眼を吸いつけられたのは女のほうだ。それはたしかに薬研堀の質屋兼高利貸小林金平の妾であった。
「なんじゃ?」
「人さらいでさあ」
「なに?」
「いまここでお話ししてるひまがござらぬ。……いや、この旦那がついてくれりゃ百人力だ。もう心配ない、きっとつかまえてやるから」
 と、女のほうをふりむいて、
「あっちへ逃げたんだね、両国橋のほうだね?……旦那、走りながら話します」
 と、一人で大きな靴を鳴らしながら、また駈け出した。
 白い両こぶしを握りしめている女をあとに、川路はそれを追う。
「猿木、どげんしたか」
「いまね、私、あの小林質店にいったんでさ――へ、その、恥かしながら質入れに――すると、あのおかみさん、といっていいか、どうか、いや、旦那はもう御存知のお絹ってえひとだが――あれが駈けて来て、いま友だちがさらわれたってんです」
 あえぎあえぎ、猿木はしゃべる。
「友だちってえのは、猿若町の菊千代ってえ芸者衆だそうで……さっき用があって俥でやって来て、さて帰ることになって待たせてあった俥に乗りこんで走り出したら、そばに刀を抜いた男がくっついている。どうやら俥夫をおどしてその芸者をさらったらしい――と、気がついて、あわてて大通りまで追っかけて出たところへ、私がゆき逢ったってえわけで――」
「どげんしたわけで、その芸者がさらわれたのか知っちょるか」
「くわしく訊《き》いたわけじゃありませんが……あっ、靴が――」
 猿木邏卒が足にしばりつけている大きな靴が、片足ぬげた。
「靴を持って走れ」
 川路に叱咤されて、片足はだしのまま、また駈け出す。
「その男は、その芸者衆を親のかたきと狙ってる男だそうで」
「なに、男が女をか?」
「いえ、その男の親が、その女の兄に殺されたんだそうで――そのことが最近わかったらしく、このごろ男がその芸者のまわりをウロウロして、気味悪いので、きょうもそのことで相談に来たところなんだそうで――やっ」
 猿木は指さした。
「あれだ。――たしか幌つきの俥だといってました!」
 なるほど、幌つきの人力俥が両国橋を渡り切って、本所のほうへ消えてゆく。まだ幌つきの俥など少なかったし、それにただならぬ早さだ。いや、たしかにそのそばに、刀を抜いた男がくっついて駈けてゆく。
 二人は雨の中を走った。
 いくどか見失いそうになりながら、彼らがその俥を追いこんだのは、本所五ツ目の羅漢寺という寺であった。
 半ば崩れた山門の外に、その俥が置かれていた。しかし、二人が追いついたとき、空《から》俥以外に人影はなかった。
「あ……あそこでさあ!」
 門内に駈けこんだ猿木邏卒がさけんだ。そのほうを見て、数瞬、川路は立ちすくんだ。
 この寺は五百羅漢で有名な寺だが、別に境内の北側に、栄螺《さざえ》堂という建物がある。その中には百体の観音がまつってあった。そこまでは川路は知らなかったが、その建物が細長い三階建てになっていて、しかも階段が外側に、螺旋形にとりつけられているのが見える。だから栄螺堂と呼ばれているのである。そして、本堂もさることながら、とくにこの珍しいかたちをした三層堂のいたみが甚だしく、まるでいまや倒潰しそうなほど荒廃しているのも、まざまざと見える。
 その栄螺堂の、二階から三階に上ろうとする階段に、人さらいは、女をはがいじめにして立っていたのだ。――俥夫はどこかへ逃げてしまったのか、境内のどこにも姿は見えない。
 年のころは二十五、六、それでも黒紋付を尻っからげにして、蒼白い、どこか狂的な容貌の男であったが、これが野獣みたいに口をあけて、
「追って来たのは木ッ端役人か」
 と、わめいた。
「ただの人さらいではないぞ。――おれの父は、こやつの兄のためになぶり殺しに合ったのだ!」
「馬鹿もん、よせ。……こやつの兄っちゅうて……殺したのは、その女じゃあるまい。はなしてやれ」
 まだよく事情がのみこめないままに、とにかく川路はさけんだ。
「それは、殺され方を知らんからだ。父は、生きながら二本の手を斬られ、それから首を斬られたのだ!」
 このとき川路は、その男がただ昂奮しているばかりでなく、酔っぱらっているらしいことに気がついた。――彼は、懐の中のピストルをまさぐった。
「よいか、見ておれ、おれはこれから、この女の腕を一本ずつ斬って、そこへ放り出す。……」
 女は、逃げようとして、たまぎるような悲鳴をあげた。それがじゃまになり、このとき雨がはげしくなり、ピストルはとり出したものの、川路は狼狽した。
 雨の中に、白刃が大きくあがった。
 その刹那、刀身は宙に飛び、三層の堂の下へ落ちていった。
 男のうしろから、だれかその腕をとらえ、たちまちねじ伏せるのが見え――そして、縄を口にくわえた水干姿の香月経四郎の姿が見えた。
「捕《と》った。川路さん――来てくれ」
 駈けつけた川路と猿木は、そこに経四郎と職人風の若者の姿を改めて見いだして、唖然とした。彼らは栄螺堂の三階から現われたものにちがいなかった。
「偶然だが、いや、災難がなくて結構だった」
「香月、どげんして、おはんはこげなところにおったのか」
「そのわけは、あとでこの職人に訊いてくれ」
 彼らは、縛りあげた誘拐犯人を堂の一階に連行して、取調べにかかった。――荒れ果て、羽目板からは雨さえ吹きこむ堂の中には、まわりに数十体、ズラリと剥落した観音さまのむれがならんで眺めている。
 犯人の名は、賀川彦麿といった。驚いたのは、彼が――さっき川路を木ッ端役人と呼んだくせに――彼自身が太政官の少史という小役人であったことだ。
 彼はたしかに酔っぱらっていて、はじめのうちはよく呂律《ろれつ》もまわらないほどであったが、ともかく彼が白状したことは、さらに川路らを驚かせた。
 賀川彦麿は、幕末京都で暗殺された千種《ちぐさ》家の雑掌賀川|肇《はじめ》の子だったのである。――賀川肇は、主人千種|有文《ありぶみ》卿や岩倉卿と共謀して、叡山の僧に孝明天皇の調伏を依頼したという風評をたてられて、七年前の文久三年一月二十八日の夜、下立売《しもたちうり》千本|東入《ひがしい》ルの家を数人の浪士に襲われた。
 そのとき賀川は、かねてから二重壁に作ってあった床の間のうしろにかくれたが、浪士たちは刀で下女をおどし、この下女が気丈な女で、傷つけられて血みどろになりながら、知らぬ存ぜぬといい張ると、十一になる弁之丞という賀川の子をつかまえて、それでは奸物の片割れとしてこの子の命はもらう、と脅迫した。そこでたまりかねて賀川はころがり出し、惨殺された。浪士たちはまずその両腕を一本ずつ切断したあと、首を斬った。数日後、首は東本願寺の太鼓楼上にさらしものにし、右腕は脅迫状とともに主人千種有文卿の屋敷へ、左腕は同じく岩倉卿の屋敷へ投げこんでみせしめとした。――
 そのころ頻発したテロの中でも、ひときわ物凄じい例の一つとして、そういわれれば川路も思い出すことが出来た。
「そのときおはんは、どこにおったのか」
「私は当夜。……」
 彦麿はふるえながら、
「偶然、親戚の家に泊りにいっていて、難はまぬがれましたが。……」
 しばらく黙りこんでいたあと、彼は早口でいった。
「その下手人が、当時姫路の藩士伊丹源一郎以下の数名であることがわかったのは、数年後のことでした。しかし、そやつらがどこへいってどうなったのか、とうとうつきとめることが出来ませんでした」
「………」
「ところが、十日ほど前、私のところへ投げ文をした者があって、それに猿若町の芸者菊千代という女は、伊丹源一郎の妹だと書いてあったのでござる。……」
 酒はだいぶさめて来たらしい。それで、どこか小心らしい神経質な顔が浮かび出たが、顔色は寒気《そうけ》立ったように蒼ざめて、
「暗殺者の妹に復讐するなど、見当ちがいの所業だとは重々承知しておるが、しかしあの父の死にざまを思い出すと、どうにも遺恨やみがたく――それにその投げ文によれば、伊丹源一郎は数年前たたみの上で大往生をとげたとかで――ところへ、きょう、ちょうど非番で、柳原の自宅近くの居酒屋で飲んでおりましたところ、ふと見るとそばに紙片あり、今夕、菊千代が薬研堀の元朋輩の家へ出かける、仕返しするには天与の好機だぞ、云々と書いてありました。――」
「なんじゃと? その紙っきれを見せろ」
「は、それが私、それよりみずから勇気を鼓舞するために、五合ほど酒をあおっている間に、気がつくとそれがなくなっておりました。――」
 川路は経四郎と顔を見合わせたが、やがてまたいった。
「では、そげな事《こつ》、嘘かまことかわからんではなかか」
「嘘をついてもしかたのないことです」
「それでおはん、女をさらって殺す気じゃったのか」
「いえ、こ、殺すとまでは――」
「片腕くらい斬るつもりだったかね」
 と、経四郎がいった。
「いえ、ど、どうするつもりだったか、私にも――」
 賀川彦麿は、混乱した表情になった。
「何にしても、おはん、女が無事であったとて、それで罪が消えるわけじゃなかぞ。いやしくも太政官に職を奉ずる者が、刃物をふりまわして女をかどわかすとは。――」
「わ、わかっております。いかなる御糺明をも受けます」
 首も折れんばかりにして、そういったかと思うと、急に彼は自棄的なかん高い声をはりあげた。
「どうせ、私の人生は呪われているのだ!」
「あの、許してあげて下さい」
 突然、芸者の菊千代が声をかけた。いままで放心したように、そこにべたりと坐っていたのが、われに返った風で、
「罪を犯したのはわたしの兄です。兄が怖ろしいことをしたのです。どうぞ、この方を許してあげて……」
 と、涙声でいった。大柄《おおがら》で、はでな顔だちだが、人柄は善良そうな芸者であった。
「この方がお仕置を受けられると、わたしがいよいよたまりません。……お願いです、このまま帰してあげて下さい。……」
「一応、そういうことにしてやったらどうだ」
 と、経四郎がいった。
「ともかく怪我《けが》もなくてすんだことだし。――」
 川路は黙っていた。
 そして彼は、経四郎が賀川の縄をとき、賀川が二、三度、埃だらけの床に頭をつけて、そのあと急にまた酔いがぶり返したような足つきで、栄螺堂を出てゆくのを、これまた黙って見送ったが、やがて、
「きゃつに復讐しろとそそのかしたのは――それがまことじゃとして――いったい、何者じゃろう?」
 と、ぽつんとつぶやいた。
 経四郎は、首をひねっただけである。その顔をふと川路は見て、
「ところで、おはん、どげなわけでここにおったんじゃ」
 と、最初からの不審を改めて口にした。
 それまで、あっけにとられたように、そこにぼんやり立っていた若い――まだ十八、九の職人が、お辞儀してしゃべり出した。それによると。――
 この羅漢寺は、御一新以来のいわゆる排仏|毀釈《きしやく》で、檀家も失い、窮乏その極に達し、とうとうこの栄螺堂を売ることになった。買ったのはただ材木をとるためだけの壊し屋である。ところが、栄螺堂には三階にかけて百観音がまつってある。この百観音は、昔々から、親の冥福、子の追善などのために、信者たちが、その時々の名人といわれている仏師たちに彫らせて寄進したもので、ただ芸術としても保存しておきたいものが沢山ある。ところが、この観音さまの塗り彩色の中に金箔の部分があって、それで下金《したがね》屋が買った。仏体は燃やして、灰をふって、あとに残る金をとろうというのだ。そのことを聞いて、彼は――彼は高村光蔵という彫刻師であった――下金屋に、せめてそのうちの五体だけでも灰にすることをやめてくれと哀願したが、相手はきかない。
「そこで、あっしは思案にくれて、ふと知り合いのこの香月の旦那を思い出し、ひとつ口をきいていただきたいとお願いし、それにしてもこの百観音をいちど御覧になっていただこうとお連れ申して来たわけでございます」
 と、彼はいった。
 高村光蔵――のちに、宮城前の楠公像や上野公園の南洲像を残し、詩人兼彫刻家高村光太郎を生むことになる高村光雲の若き日の一挿話であった。
「観音さまの功徳《くどく》はあらたかであったな」
 と、経四郎は芸者を見て微笑した。

    四

 芸者菊千代を誘拐した賀川彦麿を、経四郎が釈放してやったのは、果して妥当な処置であったか、どうか。
 川路は、それでも賀川という男が気にかかり、完全には眼を離さなかった。
 調べて見ると、役所の勤務ぶりはあまり感心出来ないもののようだ。出勤すればおとなしく事務をとっているが、欠勤が多い。原因は、酒の飲み過ぎらしい。飲むと、凶暴になり、前後不覚になり、そして、翌日はへたばって動けないというていたらくだ。どうやらアルコール中毒の気味がある。
 数日後のある夕方、川路は、彼が役所からの帰途居酒屋にはいる姿を見かけたので、相手に気づかれないように、自分も店の隅に坐って、彼の酒乱状態を観察する機会があった。そして、賀川が泥酔して、
「おれは卑怯者だ。おれは臆病者だ。……おれは、おやじが殺されるとき、壁の中に隠れていたんだ。おやじがなぶり殺しにされ、十一の弟が、お父様を殺すなら、弁之丞を殺して、と身を投げ出して泣きさけんでいるのを聞きながら……おれはとうとうそこから出ることが出来なかった。おれは生き残ったが、あのときもう死んでしまったんだ。おれは人間のぬけがらだ。……」
 と、つぶやいているのを聞いた。
 はじめ川路は、なるほど、と、先の誘拐に至った賀川の心事まで改めて納得し、次に、いや、生まれつきそげな弱かやつだから、父親を見殺しにしたんじゃ、と思い直した。当時彼は十八、九であったろうが、いかにも公卿の家来の息子らしい。薩摩の若者では考えられないことだ。いずれにしても、こやつは廃人的一生を過ごすよりほかはないだろう。……
 賀川肇の暗殺といえば、あの栄螺堂事件のあと、経四郎が川路に尋ねたことがある。
「賀川肇は、岩倉卿などと先帝調伏を計ったという疑いで浪士に殺されたといったな。岩倉卿がどうして天皇さまを調伏しようとしたのかね」
「いや、たんなる風評じゃ」
「どうしてそんな風評が起ったのか」
「よくは知らんが……おいの考えるところでは、先帝は実は幕府を倒す事《こつ》にゃ御賛成ではなかったっちゅう。公武合体、つまり朝廷と幕府、共存してそれぞれの天職を果せばよかっちゅう……それが、幕府を倒して王政復古を志す岩倉卿にゃ不満であった。で、その不満からもれる言動が誤解されたのじゃなかか。……」
「つまり天皇制確立のためには、それに乗気ではない天皇を倒すのもやむを得ず、というわけか」
「……?」
「いつか貴公、岩倉卿がいちばん怖《こわ》い、といったが、なるほど怖いお方だな」
「こら待て、おいは何も真実岩倉卿がそのために先帝を調伏したなどいっちょらんぞ」
 と、川路はあわてていった。が、経四郎は、それが彼のくせだが、ひとりのみこみの顔つきで、
「なに、目的のためには手段をえらばんのは岩倉卿にはかぎらん。……人間とは、妙なものさ」
 と、薄く笑った。――そしてまた、逆に川路のほうが、いや岩倉卿ならやりかねぬお人じゃて、と心中にうなずいて、あわてて周囲を見まわしたことであった。
 さて、川路は右のごとく、一日はからずも築地居留地の岸田吟香の洋館に、民部省権少丞牧盾記が、二人の歌舞伎俳優といっしょにいるのを見た。
 それで、その取合わせに不審をおぼえ、牧を内偵して彼が高利貸から多額の借金をしていることを知った。
 それから、その高利貸小林金平が芸者あがりの妾を持っていることを知った。
 ついでその妾お絹の元朋輩の芸者菊千代が、幕末の暗殺者の妹で、そのために、暗殺された人物の子たる賀川彦麿に誘拐されかかった事件に逢着した。
 みんな、バラバラだ。これらの事実を知ったのは、ただ猿木邏卒から教えてもらったか、あるいは偶然その場に居合わせたからに過ぎない。そしてまた知った事実も、人間の世界にはいろいろ悶着のたねがある、ということを、常人よりもよく思い知らされている警察関係者として見れば、大して特別の例ではない。むしろ市井の瑣事《さじ》といっていい。
 ――しかし、彼の知り得たこれらの事実はバラバラではなかった。それは一つの事件として、ある破局へ向って、着々と進行していたのだ。
 芸者の菊千代が行方不明になったという知らせを川路が受けたのは、栄螺堂事件からまた十日ばかりたってからのことであった。
 前日の午後五時ごろ、菊千代は朋輩芸者三人と、猿若町の置屋から俥をつらねて松山町のある料亭へ呼ばれたのだが、途中、浅草寺境内を突っ切った。そのとき彼女の俥はいちばんうしろを走っていたのだが、ふと菊千代が、「ちょっと拝んでゆくから待っててね」と俥夫にいった。そこで俥夫は、本堂のほうへ小走りにゆく彼女を見送ったのだが、それっきり菊千代は帰って来なかった。――夜にはいっても、翌日になっても。
 その日の夕方になって、川路は猿木邏卒からこの報告を受けて、さすがにはっとした。猿木はまた小林質店にいって、お絹からその話を聞いて駈けつけたという。
 二人はすぐに猿若町へ出かけた。そして、朋輩芸者や当の俥夫をとり調べたが、前日の菊千代のようすにふだんと変ったこともなく、浅草寺で姿を消すときも、別に金品など所持している風には見えなかったという返答しか得られなかった。
 菊千代はまたさらわれた、と見るしかない。
 当然、二人の頭にはあの賀川彦麿のことが浮かんだ。
 彼らは、その足で柳原の賀川の自宅に急行した。
 賀川は、やはり近くの居酒屋で飲んでいた。役所がひけての酒ではなく、その日は欠勤しての飲酒であった。そして、川路の問いに、昨日の夕方から夜にかけてもここで飲んでいた、といい、「何事ですか?」と、訊き返した。もうだいぶ酩酊していたのが、酔いもさめたようで、オドオドした顔色になったが、それがこの男の本心のようでもあり、そらとぼけているようでもある。改めて居酒屋のあるじとおかみに尋ねると、賀川はたしかに昨日の午後四時ごろから十一時ごろまで、ここに坐りつづけであったという。これは虚言とは見えなかった。果然、賀川彦麿にはアリバイがあったのである。
 川路たちは、狐につままれたような顔でひき揚げざるを得なかった。
 ところが、それから三日目に酸鼻な珍事が出来《しゆつたい》した。
 九月二十日の早朝のことだ。芝浜松町に、民部省少録、鳥羽周蔵なる者の家があった。その家の前に一台の人力俥が置かれていて、その中に一本の白い物体が立てかけられているのを、家人が発見した。それは、膝の上から切断され、さらに足首から先がなかったが、たしかに人間の足であった!
 煮えくり返るような大騒ぎとなったことはいうまでもない。届けを受けて、川路も経四郎も現場に急行した。
 その足は、足首から先がないため、とっさには右足か左足かわからなかったが、ふくらはぎの肉のつきかげんから、どうやら左足らしいと思われた。まだ生々《なまなま》しく、おそらく前夜か前日、鋭利な刃物で切られたものらしいことは一目でわかった。血はきれいに洗われていて、それでいよいよ真っ白な肉の棒は、そのふくよかさ、毛が一本もないこと、などから、だれが見ても女人の足と思われた。
 鳥羽家では、何も思い当る女も事件もない、といい、その俥はやがて、すぐ近い築地の俥屋から盗まれたものであることが判明した。
 むろん、川路の頭には、その被害者、加害者の疑いのある二人の人間が浮かんでいる。被害者は菊千代であり、加害者は賀川彦麿であった。
 彼はまた柳原の賀川のところへ急行した。
 しかるに。――
 賀川は、前日ちゃんと太政官に出仕しており、その帰り、また例の居酒屋で飲んで、しかも、これはちょいちょいあることだが、当夜も酔いつぶれて、店の隅に横たわったままで、その朝八時ごろになって、やっとふらふらと帰っていったことが明らかとなった。
 賀川自身はむろん、居酒屋の亭主夫婦、また前夜来ていたなじみの客などを呼んで、いかに訊問しても、このことにまちがいはないようであった。――川路は茫然とした。
 しかるに――また。
 彼はその翌日、猿木邏卒から急報を受けた。アリバイの成立したはずの賀川彦麿が、川路の訊問を受けたあとから、どこかへ逃亡してしまったというのだ。
 素破《すわ》!
 また見逃しただけに、川路は狼狽した。彼は経四郎と相談の上、使い馴れた例の五人の邏卒を召集し、東京じゅう賀川彦麿の捜索を命じ、それから、
「おう、そうじゃ。菊千代の事《こつ》もある。あの女はどこにおるか。――あげな風に足を斬られた以上、生きちょるものとも思われんが――出来たら、足のなか女の屍骸も探せ!」
 と、つけ加えた。
 猟犬のように――といっても、ちっとも勇ましく見えない連中だが――ドタドタと飛び出してゆく邏卒たちを黙って見送って、香月経四郎はどこか吹っ切れない顔をしていた。
「……しかし、賀川彦麿にはアリバイがあるじゃないか?」
 と、彼はいった。
「一応はな。しかし、どこかにごまかしがある。もういちど取調べ、きゃつのごまかしを見破ってやる」
 と、川路はうめいた。
「また、きゃつが直接手を下さずとも、人に頼むっちゅう手もある。……賀川以外にこげな事《こつ》をする者がどこにある。だいいち、きゃつが逐電したのが何よりの白状じゃなかか?」
「あの男のおやじは手を斬られたそうだが、こんどの被害者は足を斬られたのはどういうわけかな。……幽霊になって、出やすいためか」
「馬鹿な! それは……ほかに、手も斬られちょるのかも知れん。屍体を見んけりゃ何ともいえんわい」
「その足も、膝上で切断してあるのみならず、足首もまた斬られてそれから先がない、というのは――」
「実に大無惨、あいつの父親は両腕と首を斬られたっちゅうので、こんどは被害者を、五体バラバラどころか、一寸刻み五分だめしに切り刻んだのかも知れん。――正気の人間のやる事《こつ》じゃなか!」
 川路の頭には、あのどこか狂的な――特に酒乱状態になったときの賀川彦麿の顔が粘着して離れなかった。
 三日たっても、四日たっても、賀川はつかまらず、菊千代の屍骸も発見されなかった。
 そして五日目、賀川彦麿は現われた。ただし水死人として。――
 両国橋のすぐ上流、本所|横網《よこあみ》町の河岸《かし》に、防水用に杭《くい》をたくさん打った場所があって、これを百本杭といい、ここでは鯉をはじめ魚がよく釣れた。そこへ、その早朝、釣りにいった人が、杭にひっかかって浮いている屍体を見いだしたのである。
 屍骸には、べつに傷はなかった。首を絞めた痕《あと》もなかった。ただ彦麿は、五日の間に、こけた頬にぶしょう髯が生え、別人のように痩せ衰えていた。
 冷たい秋の川風に、岸にひきあげられたこの屍骸を、経四郎といっしょに見下ろした川路は、茫乎《ぼうこ》としてつぶやいた。
「こやつ……進退きわまって自決しおったか。しかし、これで殺された女のゆくえがいよいよわからなくなったぞ……」

    五

 人力俥に乗せられていた一本の片足、そういうことをやったと思われていた男の水死体。それらに立ち合ったときより、ある意味では、それから二日後に起った事件に接したときのほうが、川路にとって衝撃が大きかったかも知れない。
 正確にいえば、事件のあとだ。
 九月二十七日の午前十時ごろ、弾正台で川路が、猿木邏卒から、前日までまだ女の屍体が見つからないという報告を受けているところへ、丸の内の民部省から報告があった。さきほど、少録鳥羽周蔵なる者が庁内の一室で割腹自殺したというのである。
「鳥羽周蔵? どこかで聞いたようだが。……」
 いっしょにいた香月経四郎が、とっさに首をひねった。まさか、それほどではなかったが、川路にもそれは思いがけない名であった。
「それは、あの片足を乗せた俥がとめられておった家の男の名じゃなかか!」
 と、彼はさけんだ。
 それで経四郎も、あのとき、事件について思い当るものは全然ない、ここにそんな俥があったのは偶然でござろう、といった鳥羽周蔵の、黒くて細長い、しかし、いかにも意志の強そうな顔を思い出した。
 三人はそのまま民部省に急行した。
 その一室には、まだ十人近い職員が凍りついた環《わ》のように立ちすくみ、その中に――床の上に血の海を作って、鳥羽周蔵がつっ伏していた。
「こりゃ……どげんしたわけごわす?」
 と、川路がいった。
「殺人の罪で自害したのでござる」
 と、肥満した一人の男が答えた。――その返答の意外さもさることながら、経四郎も川路も、その男の顔を見て、心中「あ!」とさけんでいた。それは、いままで直接に挨拶して逢ったことはないが、いつか双眼鏡で見たあの牧盾記であった。
 牧盾記はたしか民部省権少丞、鳥羽周蔵は少録。――このころの官制によれば、牧は鳥羽の上司ということになる。
「だ、だれを殺したっちゅう?」
「賀川彦麿を」
「何じゃと?」
 川路は仰天した。
「とにかく、そのわけを聞こう」
 ――さて、牧盾記およびその場に居合わせた役人たちの証言によると、この朝の事件の顛末《てんまつ》は次のようなことになる。
 鳥羽周蔵は、役所でも同僚をしのぐ有能で、かつ剛直な男であったが、一年ばかり前から、一人の芸者にのぼせあがるようになった。猿若町の菊千代である。最初は、牧が、同じ長州であるのみならず同村の出身である下僚の鳥羽を、料理屋に連れていって、そこで菊千代を呼んだのがはじまりであったが、剛直な鳥羽が、以来その芸者に異常なばかりに熱をあげて追いまわすようになった。――もともとこの男は、思いつめるとねちっこい性質ではあった。
 そのうち、菊千代から、彼女が昔京都で暗殺をやった志士の妹で、そのために暗殺された人間の子、太政官の小役人賀川彦麿に狙われ、はては誘拐されかかった話を聞いて、鳥羽ははた目にもわかるくらい心配するようになった。
 そして、七日ばかり前、彼女がまた姿を消し、こんどこそいよいよ誘拐がほんものであるらしいと知り、ついで彦麿の失踪、さらには自宅の前に女の足が置かれるという事件に至って、彼の逆上はついにその極に達した。
 彼は、賀川が何かの機会に、菊千代が執心している自分のことを知り、自分にあてつけてそんなことをしたと思ったのだ。
 で、鳥羽は賀川のゆくえを狂気のように捜索し、とうとう三日ほど前の夜、賀川を大川端で見つけ出し、問いつめ、争いとなり、賀川を川につき落したのである。そのとき賀川は、まともには歩けないほど泥酔していたから、溺死したのは当然のなりゆきといえる。
 賀川彦麿の死を聞いたとき、牧はそれが鳥羽の犯行であることを直感した。しかし、証拠がなかった。――果せるかな、
「けさ、鳥羽をここに呼んで、太政官少史の賀川なる者を殺したのは貴公だろう、と問うたところ、はじめ鳥羽は、顔色を変えながらも、そんなことは知らぬと白ばくれ申した」
 と、牧はいった。
 しかし、鳥羽は否定するだろう、と見て、彼はある用意をしていた。あらかじめ鳥羽と関係のある役人たちをその場に呼んでいたこともその一つである。
「知らぬといわれれば、いかにもその証拠はない。ただ、これからあるものを見せてやる。それでも貴公、知らぬ存ぜぬといい張るか。――おのおの方、よっく鳥羽の反応を見ていなされよ!」
 と、牧は叱咤した。
 そして、合図すると、奥の扉がひらいて、一人の人間が現われた。
「あっ」
 と、鳥羽はさけんだ。眼も口も、かっとむき出して、
「お、お前、生きておったのか!」
 と、いったきり、まるで彼のほうが死人と化したようにそこに硬直してしまった。そこに立っているのは、芸者の菊千代であった。
「生きておるどころか、足もある」
 と、牧はいい、
「菊千代、足を見せてやれ」
 と、命じた。
 衆人環視の中で、菊千代は顔あからめ、しかしそれは覚悟していたことと見えて、おずおずと裾をまくりあげた。人々は――鳥羽も、そこに真っ白な、生き生きとした女の左足を見た。
「そ、そんなはずはない。……そんなはずはない!」
 と、鳥羽はさけんだ。
「では、あの俥の中の足はなんだ?」
「それは……だれかほかの人間の足だろう」
 と牧はいった。――
 そして、いま牧盾記は弾正台大巡察にいう。
「しかし、実は私も驚いておったのです。鳥羽の家の前に置いてあった足の話は、すでに私も耳にしており、それはてっきり菊千代の足にちがいない、と私も思っていたからでござる。――その菊千代が、昨夜、ピンピンして二本の足で私のところへ現われたのを見たときの驚きはいかばかりか。訊くと、菊千代は、下総のほうの知り合いの家へ逃げていたと申すのでござる。それがなんと、この鳥羽周蔵がいやさに。――あの菊千代失踪当日、菊千代たちが呼ばれた客は鳥羽ではなかったが、その前の数日、鳥羽は用意した隠れ家に逃げろと強要し、菊千代は誘拐される以上にそのことに困っていたというのでござる。鳥羽は菊千代が誘拐されかかった一件で、心配で心配で、いても立ってもいられなくなった親切気からでござろうが、菊千代のほうは、自分をさらいかけた賀川という男よりしつこい鳥羽のほうがまだきらいであったというのじゃから、男と女の、合う、合わないというものは妙なものでござるな。あれを思い、これを考えているうち、菊千代はつい世の中がいやになって、ついふらふらとあの日、浅草寺から下総のほうへ逃げていった。そして、そのあとの騒ぎは全然知らず、昨日になってまたふらふらと、元朋輩で、いまは薬研堀の質屋の妾になっておる女を訪ね、そこでやっと、自分がいなくなったあとの大騒ぎ――あの賀川という男が水死体となって発見されたことを聞いた。そこでびっくりして、その女とともに、いったいどうしたらよかろうか、と、私のところへ相談に現われた次第じゃ。私は実に唖然とした」
 川路も唖然として、しばし口がきけなかった。経四郎が訊く。
「その質屋のお妾さんが、どうしてまたあなたのところへ」
「いや、ちょっとした知り合いで」
 と、牧はいったが、それでは説明が足りないと考えたらしく、
「なに、その女が以前芸者をやっていたころ、少しひいきにしてやったので」
 と、つけ加えた。その質屋から高利の金を借りていることには、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいた。
「これで鳥羽がかんちがいしたことがわかったが、かんちがいにせよ、それによって鳥羽が賀川を殺害したことにまちがいはない、という私の見込みは変らなかった。発覚すれば、大変なことでござる。民部省の役人として――上司として、とうてい知らぬ顔ですませられることではない。そこで私は、鳥羽に自白させるために、生きている菊千代を突然出現させ、それに対する鳥羽の反応をみなに見せる、という法をとることにした」
 さて、そのとき。――五体健全な菊千代の姿を見て、鳥羽周蔵はなお夢魔にうなされているような眼で、
「しかし……おれは、たしかにあの女が足を斬られる光景を見たのだ!」
 と、奇怪なことをさけび出した。
「なに? 馬鹿な! いつ?」
「おれの家の前に足が俥に乗せられていた前の日」
「どこでそんなものを見た?」
「築地ホテル館の塔の上から」
「ああ」
 と、牧は愕然とした表情になった。鳥羽はあえぎながらいった。
「牧さん、あんたが貸してくれた双眼鏡で見たのだ。あんた、あの日、築地ホテル館の上から東京を見てごらん、といって貸してくれたではないか。その双眼鏡で、おれはたしかに見たのだ!」

    六

 この話を聞く川路は、思わず息をのんでいた。
「そういえば、そんなことがあった。――先刻申した質屋の妾、お絹という女だが、それが私に、このあいだ面白い質入れの品があったから、といって、双眼鏡なる遠眼鏡を貸してくれたのでござる」
 と、牧はいった。
「ちょっと待った」
 経四郎が声をかけた。
「その双眼鏡、どのような人間が入質したか聞かれなんだか」
「左様でござる。いかに開化の世とはいえ、あまり珍しい品じゃから、いったいどんな人間が入質したのかと私もお絹に尋ねたところ、それは――」
 と、牧は視線を動かした。
「ある邏卒――そこにおる邏卒だそうで」
 猿木次郎正が経四郎を見て、それから川路を見て、眼を白黒させ、頭をかかえた。
 この邏卒は、同じ質屋通いの身として、牧とは知らぬ仲ではないらしい。いや、それだからこそ、牧の借金のことなど自分に知らせてくれたのだが――と、川路はあっけにとられ、かつ猿木をにらみつけた。しかし、こやつ、そんな話は頬かむりしておった!
 香月経四郎のところから双眼鏡を盗んだ泥棒は、なんと番人たる邏卒猿木次郎正だったのである。そういえば、こやつ、やりかねないやつだ。
「ま、いい」
 と、経四郎が促した。猿木の糺明はあとのことだ、と考えたらしい。
「それで?」
「それで、お絹に、築地ホテル館の塔からいちど東京を見てみろ、と勧《すす》められて、私はその双眼鏡を持ってホテル館にいった。そして非常に感心したから、お絹に返す前に、鳥羽にも同様に勧めて貸してやった。それが、なるほど、あの前日のことでござった」
 と、牧はいった。
「さて、それから鳥羽の申すには、その築地ホテル館の塔の上から見わたしているうちに、ある洋館の二階の窓を通して、そこで女が足を斬られる光景を見た。どうやら寝台のごときものの上に女が横たわり、その一本の足を、匕首《あいくち》で肉を斬り、鋸《のこぎり》で骨を切る、血みどろの怖ろしい光景を見た。――」
「どげな人間が?」
「それが、窓に垂幕《たれまく》が半分下がっておって、女の二本の足と、それを押えつけたり、持ちあげたりしている手、そして匕首を握っている手、鋸をわたす手などが見えたばかりで。――」
「では、一人の仕業《しわざ》じゃなかな」
「そういうことに相成るな」
「女の顔はたしかに菊千代じゃったというのでごわすか」
「それが、いま申した通り、見えたのは足のほうばかり、というのでござるが――」
「そいじゃ、女か男かもわからんではごわせんか」
「いや、それは女にまちがいはない、というより、鳥羽はそう信じて疑わないもののようでござった。おう、そうじゃ、そのとき塔の上に一人の十《とお》くらいの少年がおって、自分にも見せてくれと頼んだので、その子供にも見せてやったといっておった。いや、少年が先にその洋館の中の足斬りの光景を見つけ出したとかいった。――」
 川路は経四郎と顔見合わせた。
「さて、そのあと、少年を残して、鳥羽はホテル館を飛び出し、いま双眼鏡で見た洋館を探し出したが、そこはどの窓にも蜘蛛の巣の張ったような建物で、留守番らしい老人が一人いて、ここは無人じゃ、そんな馬鹿なことのあるはずがない、と、ケンもホロロに追い返されたそうで」
「………」
「鳥羽は狐につままれたような思いで、あるいは白昼夢にうなされたような思いで、そのまま茫然と帰った。というのも、そのときはまだ足を斬られたのが菊千代だとは頭に浮かばなかったからじゃという。ところが、翌朝、その足が自分の家の前に置いてあったのを見たとたん、眼からうろこが落ちたように、それが菊千代の足だと思いこんだ。……実はそれがまちがいじゃったのだが」
「………」
「自分のいうことがたわごとだと思うなら、その少年に訊いてくれ、ホテル館のほうで、それがどこのなんという子供か知っているだろう、と鳥羽は申したが」
「いや、わかっております」
 と、経四郎がいった。
 牧盾記は妙な顔をした。川路が訊く。
「で、鳥羽が腹を切ったのは?」
「たとえ、菊千代のことは何かのまちがいであったにせよ、鳥羽が賀川を殺した事実にまちがいはござらぬ。鳥羽は一応賀川の当日の行動を調べ、賀川がちゃんと役所などに出ておるので、いよいよこれは何やら賀川の奸策の上だと考え、黙って殺すよりほかはないと決心したと申す。そして、自分の賀川殺害も知らぬ存ぜぬで通すつもりであったらしいが、とにかく最初生きている菊千代を見たときの驚愕ぶりが、そんな決心を裏切った。自分を見ているみなのようすから、それを鳥羽は悟ったのでござろう。まだ質問中の私たちの前で、こやつはいきなり腹を切ってしまったのでござる」
 役人たちはうなずいた。
「しかし……殺人を犯した上は、しょせん罪はまぬがれぬ。この鳥羽は私と同郷、しかも村の名家の出《で》でござれば、縄目の恥を受けるよりは、せめてここで腹を切って死んだほうが、かえって本人のためではなかったかとも思います。許されるなら、何とぞ、出来るかぎり御内聞に……というのが、私たちのお願いでござるが。……」
「猿木」
 と、川路が呼んだ。
「その少年を呼んで来い。お前、知っとるはずじゃ」
「へ?」
 経四郎が声を重ねた。
「何でも小石川の――元高崎藩邸に住んでいるといった。たしか、名は内村鑑三。――俥でいって、俥で連れて来い!」
 双眼鏡の件についての糺明をひとまずまぬがれたので、猿木次郎正はむしろ喜色満面といった態で駈け出していった。
「あと、しばらく坐ってお待ち下さい」と、経四郎が一同にいった。そして自分だけはそこに突っ立って、黙りこんで思案にふけっているようであった。音に聞えた弾正台の大巡察が、そこに厳然と立っているので、役人たちは坐りもならず、流血の中の朋輩の屍骸に眼をそむけつつ、これも佇立《ちよりつ》している。
 猿木邏卒が少年を連れて駈け戻って来たのは、それから一時間ばかり後であった。
 経四郎たちを見て、少年は思い出したらしくにこっとしたが、その訊問に急にまじめな表情になって、
「見ました。女のひとが足をきられるのを、ぼく、ほんとうに見たのです!」
 と、断言した。十歳ながら、それは後年の剛直無比のクリスチャン内村鑑三の萌芽にまぎれもない顔であった。
「それにしても、おはん、どげんしてその日、またあのホテル館の塔の上にいたんじゃ?」
 と、川路は尋ねた。少年は答えた。
「あの日の朝、英語塾へゆく途中、女のひとが寄ってきて、きょう午後三時ごろ、築地ホテル館の塔の上にいってごらん、また双眼鏡で見せてもらえるから、と、いったんです。ぼく、あれからもういちど、ぜひ双眼鏡で見たいと思っていたから、塾をぬけて、すッ飛んでいったんです」
「女?……どげな女?」
「お高祖《こそ》頭巾をかぶっていたから、よくわかりません」
 二人はまた顔を見合わせた。
「バラバラの環《わ》が、鎖《くさり》になってつながったような気がしたが、まだうまくつながらんな」
 と、ややあって、経四郎がつぶやいた。
「そのお高祖頭巾の女とは何者か? |また《ヽヽ》双眼鏡で見せてもらえるから、といったところを見ると、その日ホテル館へゆく鳥羽のことはむろん、いつかの私たちのことも知っているわけだが、思い当る女がない。エスメラルダがそんなことをやるわけもなく、またエスメラルダならその碧い眼に、少年が気がつかないはずがない」
「それより、足を斬られた女――それがあったことは事実じゃ――その女は何者か?」
 と、川路はうめき、やがていった。
「あの洋館は、何とも面妖じゃ。こりゃ、是非改めて岸田吟香に訊かんけりゃならん。……あの男、そもそもがただものでないと、おいはにらんどるのじゃ!」
 ――二日後、川路が経四郎に報告した。
「いや、お話にならん。吟香はヘボン館におったがな。当人は、このごろ築地居留地の家などにいった事《こつ》はなかので、あそこがどうなっちょるか知らんちゅう。左様、九月十九日――鳥羽が、その洋館の窓の中で、女が足を斬られたのを見たっちゅう日じゃな。あの日、いや、十五日ごろから十日ばかりの間、ドクトル・ヘボンがリューマチっちゅう病気で――名医も病気持ちらしか――それが悪化して、その看病と、おしかける患者をことわるのとでヘトヘトになり、いまはドクトルが痛みをこらえて施療しちょるが、その間たまった患者でいよいよヘトヘトじゃ。よけいな問答はかんべんしてくれろ、といって、扉をピシャンとしめてしまった」
 川路は憮然としていった。
「あの男とは、相当に意気投合しておったつもりなんじゃが……どこの女の足が斬られたのか、そもそも一連の事件は何のために起ったのか、結局、わけがわからん!」

    七

 九月末日の夜であった。
 居留地に住む人々は、築地ホテル館の高い鐘塔の窓々が、くわっと赤く染まっているのをふり仰いでぎょっとなり、すぐに、火事ではないらしいと見きわめたが、それでも異様なうす気味悪さを禁じ得なかった。
 そこでは二つの篝火《かがりび》が燃えていたのである。むろん、火事にならないように気をつけてある。白木の台の上には、さまざまの古代祭具が陳列されている。
 そして、居ならぶ弾正台のお歴々、真鍋|父娘《おやこ》、香月、川路の大巡察、五人の邏卒――それから牧盾記をはじめとする民部省の役人十人ばかり、さらに質屋の妾お絹と芸者菊千代。この塔の上にはこれらすべてを収容するだけの広さがあった。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、
 トバシュウゾウノ、ミタマ、マイリタマエ。――」
 シャラン! という神楽鈴の音とともに、巫女《みこ》エスメラルダの声がながれはじめた。
 このぶきみな祭典が築地ホテル館でくりひろげられたのは、これが二度目である。――ただし、この前のは、この塔の下の大広間であった。
「イマ、マイル。……ワシハ、トバシュウゾウダ。トバシュウゾウノ、タマシイダ。……」
 菊千代が、かすかな、おしつぶされたような悲鳴をもらした。
「シノセカイニキテ、ワシハ、ハジメテ、セイノセカイガ、ミトオセル。……カガワヒコマロガ、キクチヨ、ヲ、コロシタノハ、ホントウダ、ト、ワシハ、オモッタ。ワシガ、ソウオモッタノハ、ムリモナイ。カガワハ、マエカラ、キクチヨニ、ウラミヲモチ、イチド、ユウカイ、シカケタウエニ、アト、キクチヨガ、ジッサイニ、ユクエフメイ、ニナリ、ソレカラ、アシキリノ、コウケイヲ、ミセラレ、ツイデ、ソノアシガ、ワシノ、イエノマエニ、トドケラレタカラダ。……」
 あけはなされた四方の大きな窓を通して見えるのは、無数の星のまたたく秋の夜の大空であったが、だれもそれに眼をやるものはない。ただここにいる者すべてが、異次元の空間に浮かんでいるような気がした。
「コレラノ、ジジツノナカニハ、ハジメカラ、ホントウノコト、モアリ、アトカラ、ツクラレタ、カラクリモ、アッタ。キクチヨガ、ユクエフメイニ、ナッタノハ、アルニンゲンニ、ススメラレテ、ワザト、ユクエフメイニ、ナッタノダ。ワシハ、ダマサレタ。オロカナワシハ、キクチヨニ、ソレホド、キラワレテイル、トハ、シラナカッタ。……」
 菊千代が、恐怖のあまり耳に両手をあてた。
「ヨウカンノ、アシキリハ……アノヒ、アソコデ、ドクトル・ヘボンガ、オヤマノ、サワムラタノスケノ、アシヲ、キッタ、コウケイダッタノダ。……」
 川路は鞭でなぐられたような顔をした。
「オヤマノ、タノスケハ、ダッソ、トイウ、アシノツマサキ、カラ、クサッテユク、ビョウキ、ヲ、ワズラッテイタ。ソレヲ、ナオスニハ、アシヲキル、ヨリ、ホカハナイ。ソノシュジュツガ、デキルノハ、イマノトコロ、ドクトル・ヘボン、シカナイ。ソコデ、タノスケハ、ヒイキノ、キシダギンコウヲ、トオシテ、シュジュツヲ、タノンダ」
 古代楽器の五人|囃子《ばやし》の音《ね》は、妖々とながれつづけている。
「ソノウエ、タノスケハ、コノコトガ、ヒョウバンニ、ナルノヲ、キライ、ユウメイナ、ヨコハマノ、ヘボンカン、デハ、ミセモノニナル、オソレガアルノデ、トウキョウノ、キョリュウチノ、キシダノ、ヨウカンデ、ヒミツノウチニ、シュジュツシテ、モラウコトヲ、タノンダ。ヘボンカン、イガイデハ、ビョウニンヲ、ミナイ、ヘボンガ、コノネガイダケハ、ショウチシタ。ビョウキハ、マダ、ソトニハ、アラワレナイガ、ヒザノアタリマデ、オヨンデイテ、ヒザノウエカラ、キラナケレバ、ナラナカッタ。ワシガ、ミセラレタノハ、デシ、ヲ、ツカッタ、ソノ、シュジュツノ、コウケイダッタノダ。……」
 ――作者曰く、当然のことだが、しかしその直前、田之助は姉につきそわれて、いちど横浜にいって、脱疽の進行状態の診察を受けたらしく、姉のおうたの、「……田之助こと、数日おそければ、命もむずかしく、膝の上より切るつもり、それも股《もも》のところを切らねば命むずかしく、と申され、あまりのことに呆れはて、私も実に気ぬけいたし……」云々、という手紙が残っている。
「キシダギンコウガ、アトデ、ダンジョウダイノ、ダイジュンサツニ、ソノコトヲ、イワナカッタノハ、ウツクシイ、ヤクシャノ、ミエニ、ドウジョウシテ、タノスケノ、ネガイヲ、キイテヤッタカラダ。……シカシ、ソレヲ、ミセラレタワシガ、ドウシテ、ソンナコトヲ、ソウゾウシヨウカ」
「………」
「ジツニ、ワシハ、タクミニ、ミセラレタノダ。アノトキ、ワシハ、ソノヨウカンノ、コウケイヲ、コドモニ、オシエラレテ、ミルコトニ、ナッタノダガ、コドモハ、イゼン、ソノヨウカンニ、キョウミヲ、モッタコトガ、アルカラ、マズ、ソコヲ、サガシタノダ」
「………」
「ソノコドモガ、イツカ、ミタ、タノスケタチノ、スガタハ、ヤガテ、シュジュツヲ、ウケル、バショノ、シタミ、デ、アッタ。ソノ、ソウガンキョウガ、アルニンゲンノ、テ、ニ、ハイッタトキ、サルキラソツハ、ソノソウガンキョウデ、マエニ、コドモニオシエラレテ、ソノヨウカンデ、タノスケタチヲ、ミタコトヲ、シャベッタ。ホントウノ、ハンニンハ、ソレヲ、リヨウシ、ソノコドモヲ、ツカッテ、ドウシテモ、ワシガ、ヨウカンヲ、ミルヨウニ、シムケタ。……」
 笛を口から離して、
「え? おれ、そんなことをしゃべったかな?」
 と、心もとなげにつぶやいたのは猿木次郎正であったが、川路と経四郎以外には、だれも聞いていた者はない。
「イヤイヤ、ソノコドモニ、ソノヒ、ホテルカンニ、マタ、ユクヨウニ、ソソノカシタ、オコソズキンノ、オンナハ、シチヤノ、メカケノ、オキヌダガ、オキヌモマタ、シンハンニンカラ、オドサレテ、ヒトヤク、カワサレタノダ。……」
 お絹は、ふるえながら、折れんばかりに首を垂れた。
「ソレカラ、イツカ、カガワガ、キクチヨヲ、サラッタトキ、サラウノハ、キョウダ、ト、イザカヤデ、ソソノカス、カミキレヲ、ミセタノモ、ソノ、シンハンニンダ。ワナハ、イゼンカラ、ネンイリニ、シカケラレテイタ……」
「………」
「ハンニンハ、シュジュツノトキ、ヨウカンノ、ベツノヘヤニ、カクレテイテ、スキヲミテ、キラレタアシヲ、ヌスミダシタ。……」
「………」
「コレホド、シカケラレテイタコトヲ、マッタクシラナイ、ワシガ、アノ、クルマノナカノ、カタアシヲ、キクチヨノ、モノダト、オモイコンダノハ、トウゼンダ。アノ、アシノ、アシクビカラ、サキガ、キッテアッタノハ、ダッソノ、ブブンヲ、カクスタメダ。ソノウエ、モトモト、オンナノ、アシノヨウニ、キレイナ、タノスケノ、アシノ、ケ、ハ、アトデ、カミソリデ、ソッテ、イヨイヨ、オンナノ、アシトシカ、ミエナイヨウニ、シテアッタ。……」
「………」
「ワシハ、スベテ、カガワノ、シワザダ、ト、オモイコミ、ギャクジョウシ、ツイニ、アイツヲコロシタ。オモイコンダラ、オモイツメル、ワシノ、セイシツヲ、リヨウシタ、ソレガ、シンハンニンノ、ネライ、ダッタノダ」
「………」
「アルイハ、ハンニンノ、ソンナ、タクラミモ、ハンニンカラスレバ、トウゼンダッタ、カモシレナイ。ワシハ、オナジムラカラ、デテ、ワシノイエノ、ホウガ、イエガラガ、タカイノニ、ワシヨリモ、シュッセ、シテイル、ソノニンゲンヲ、イツカ、ヒキズリオトシテ、ヤロウト、オモッテイタ。ソノ、キカイ、ガキタ。ソイツガ、シバイノ、オヤマニ、クルイ、コウリカシノ、シャッキンダラケニ、ナッテイルコトヲ、カギツケタノダ。ソノヒトツダケデモ、ヤクニントシテ、ケシカラヌノニ、フタツ、カサナッテ、ソノコトガ、オオヤケニナレバ、ブジニハ、スマナイ……ト、ワシガ、カンガエテ、イルコトヲ、ソイツハ、シッタ」
「………」
「ソレデ、ソイツハ、ワシヲ、ヒトゴロシニ、シタテ、シカモ、ムジツノ、ニンゲンヲ、コロシタ、ツミニ、オイコモウ、トシタ。カガワハ、ムジツダ。キクチヨガ、ユクエフメイニナッタ、ト、キイテ、アイツガ、ニゲタノハ、ダンジョウダイカラ、ウタガワレテイルトシッテ、モウタスカラヌ、ト、ヒトリガッテンシテ、ニゲダシタノダ」
 シャラン! と鈴が鳴った。
「ワシハ、マンマト、ハンニンノ、ネライニ、ノッタ。シカモ、ダンジョウダイガ、クワシク、ワシヲ、トリシラベルマエニ、ハラヲ、キラナケレバナラナイ、ノッピキナラヌ、フンイキニ、ワシハ、オトサレテ、シマッタノダ。……」
 金髪の巫女の声がひくくなった。ドーンと火焔太鼓が鳴った。
「ハンニンハ、イウマデモナク。……」
 声は、しみいるように消え、エスメラルダは首を垂れた。
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  おのれの首を抱く屍体


[#この行1字下げ] 今戸のさる寮の塀外に、たまたま邏卒《らそつ》張り込み中なるに、忽然として、糞汁にまみれ首を切断せられたる裸の大男の屍骸発見され、その意味も素性も不明にして、究明甚だ困難いたし候事件の顛末《てんまつ》、次の如くに御座候。
[#地付き]――「弾正台大巡察・川路利良報告書」より――

    一

 明治三年も暮れようとする十二月二十八日、小伝馬町の囚獄所で、謀叛人《むほんにん》雲井龍雄は処刑された。斬首したのは七代目山田浅右衛門の三男の五三郎|吉亮《よしふさ》で、まだ十七歳の若年であった。
「手前が十七歳の時です。明治三年|庚午歳《かのえうまどし》、師走の二十八日、江戸市中は節季で賃餅《ちんもち》が盛んに搗《つ》かれ、薬研堀《やげんぼり》の年の市というに、今日は米沢の藩士雲井龍雄を斬れというので、小伝馬町の囚獄に参りましたが、音に響いた浪士でありますし、斬り損《そこな》ったとあっては大変と、尋常の囚徒を斬るのとは覚悟も違ってました」
 と、のちに山田浅右衛門を襲名した五三郎は語る。彼はまだ江戸といっている。
「申すまでもありませんが、安井息軒の門下で、一夜に左氏伝を読了したという英雄、時利あらず囚われの身となって、その春に米沢に押送《おうそう》されまして、八月に江戸へ檻送されました。御取調《おとりしらべ》も厳重で、同志の面々を白状させようとしましたが、いくら拷問に逢っても屈伏しない。当時のことですから、芝居でやる様《よう》な残酷な目に逢わしたでしょうが、連判状は焼棄してあるから、一死国に殉ずるといって平気でした。雲井氏は至って小柄で、大胆などはどこに宿っているか分らぬ男でした。この人物が雲井龍雄といって天下に名を轟《とどろ》かせた人かと呆れた位でありましたが、今や刑場の露と消える刹那に、神色自若として控えていた有様《ありさま》は、今に敬服の外ありません」
 連判状は焼き捨てた、といっても、政府顛覆の陰謀の一味として検挙された者は五十九人に及ぶ。
 そしてこの日、龍雄だけでなく、主謀者としてほか十三人が斬《ざん》に処せられた。
 場所は牢屋敷内の例の斬罪場だ。香月経四郎《かづきけいしろう》と川路利良《かわじとしよし》もこの処刑に立ち合った。
 弾正台の目的は、役人の監察のほかに謀叛人の摘発ということもあるから、この雲井事件にも全然かかわりあいがなかったとはいえないが、両人とも捜査の主役という立場になかったから、これは近来珍しい大量処刑に、たまたま手のすいていた大巡察として検視を命じられたに過ぎない。
 ほんの先刻、「最後にあたって、自作の詩を吟じさせてもらいたい」と雲井が願い、川路の判断で許可されて、
「死して死を畏《おそ》れず
 生きて生を偸《ぬす》まず
 男児の大節
 光、日と争う。……
 渺然《びようぜん》たる一身
 万里の長城」
 という吟詠の声が朗々とひびきわたった斬罪場は、その声の主《ぬし》をはじめとする計十四人の屍骸が片づけられ、血は洗い流され、首斬り役山田五三郎その他役人たちが立ち去ったあと、いまはいっそう冥府然として、寒気と黄昏の中に凍りかかっている。
「きょうの首斬り役は馬鹿に若いではないか」
「ありゃ浅右衛門の三男じゃっちゅう。おやじの浅右衛門は吉田松陰や桜田門の水戸浪士などを斬った男じゃがもう年をとり、さきごろから長男の源蔵にあとをつがせたが、この長男が女好き、酒好きで、どうも頼りなか。むしろあの三男坊のほうがあの仕事が好きで、かつ腕も冴えちょるっちゅう評判じゃて」
「しかし、おしまいのほうでは、何人か斬り損じたぞ」
「そりゃ十四人も斬ってはの」
 居残っていた経四郎と川路は話した。
「器械にかければ、あんなしくじりはないのだが――」
 と、経四郎は刑場の隅の小屋に眼をやった。そこにギロチンは格納されているのである。
「弾正台の上《うえ》つ方《かた》で、志士は古式通りの斬罪と決められたんじゃからしかたなか」
「フランスじゃ、王様もギロチンにかかったんだが。……」
「職をけがした役人はあれにかけられるんじゃから、ま、それで満足せい」
 この問答でわかるように、経四郎がせっかく仕入れたギロチンは、これまで一般の犯罪者だけを処理している。
 例の横井|小楠《しようなん》を暗殺した六人の刺客のうち、事件後まもなく捕縛された津下四郎左衛門以下四人の志士たちは、弾正台の大忠連の横槍で処刑を延期されていたが、さすがにそれもいつまで通らなくなって、この十月に刑を執行されたのだが、それも斬首刑であった。
 で、いまいったようにギロチンが処理するのはただの極悪囚だが、例外として汚職役人はこれにかけられた。「――職をけがした役人の罪は、巷《ちまた》の極悪囚に匹敵する、となされるのが新政府の新政の御意義」と力説した香月経四郎の意見が弾正台に受けいれられたからであった。――で、すでにこの物語に登場した、罪を犯した役人、元役人たちは、すべてこのギロチンの鉄の斧《おの》の下で首となった。
「近いうちにまたお客を呼んでやるでな」
「山城屋か」
 二人は顔見合わせて、薄く笑った。
 そのとき、牢屋敷のほうで、ただならぬざわめきがあがった。
 二人がいそいで斬罪場から潜《くぐ》り戸を通って牢屋敷のほうへいって見ると、物書所《ものかきじよ》近くで、表門のほうからどやどやとやって来る一団の牢役人や邏卒たちに出逢った。一人とり囲まれて、うなだれているのはどうやら牢屋下男らしい。二十歳《はたち》過ぎの若い男だ。
「どげんしたか」
 と、訊《き》くと、牢役人の一人が、
「これをごらんなされ」
 と片手にぶら下げていたものを持ちあげて見せた。川路と経四郎は眼を見張った。
「そりゃ雲井の首ではないか!」
 まさしくそれは、ほんの先刻、身体から離れたばかりの雲井龍雄の生首であった。
「こやつが大きな風呂敷包みをかかえて門を出てゆく挙動を、門番が見とがめて、つかまえて調べると、これを持ち出そうとしておったのでござります」
「ほう? 何のために?」
「それをこれから糺明《きゆうめい》します」
 この不審な行動をした下男は、ただちに詮索所《せんさくじよ》に連行されて厳しい訊問を受けたのだが、はじめ蒼ざめ、ふるえながら、善吉と名乗って、この九月、牢屋下男として傭われたが、元の素性は御家人の倅で、雨宮善之助という男であることを白状した。その若者は、そういえば直参《じきさん》のはしくれらしい面だましいを次第に昂然と見せて来て、
「雲井先生ほどのお方を、処刑後、小塚原の野犬の餌《えさ》とすることさえたえられぬと思っておったのに、ましてや、聞けばこのあと、遺骸は大学東校とかに運ばれて、解剖《ふわけ》とやらに相なられる由、せめてその前にお首だけでも盗み出して、手厚く葬ってさしあげたいと念願してのことです」
 と、いった。
「ほう、雲井龍雄を解剖する――そんなことになっていたのかね」
 経四郎はいった。これは両人にとって初耳であった。
 しかし、それは事実であった。そのころ大学東校――のちの東大医学部――の教授方で、後年軍医総監となった石黒|忠悳《ただのり》は述べている。「大学東校では、医学の授業に使うため、刑死者の屍体の下附《かふ》を再三政府に申請していたところ、漸《ようや》くにして容《い》れられ、初めて交附されたのが雲井の屍体で、頭首のない胴体だけの屍体であったため、特によく記憶している」
 雲井龍雄も、明治はじめての解剖の検体第一号になろうとは、思いのほかであったろう。
 ただし、首はもともと梟首《きようしゆ》の手筈になっていた。だから、頭部も解剖用に供せられるとは雨宮某のかんちがいであったのだが、何にしても彼が、最初から雲井の遺体を盗み出すつもりで牢屋下男になってはいりこんだことは疑いをいれない。
 雨宮某がそれ以前から雲井龍雄の一味であったかどうかは改めて追及されることになったのは当然として、はからずも処刑後の遺体の処置のずさんさが、その場でも問題になった。
「責任者はだれじゃ」
 と、川路がいい、先に詮索所を出た。経四郎があとを追う。
 先刻の斬罪場の隅に、「湯灌場」と呼ばれ、屍体置場となっている小屋があった。首を斬られた屍骸はいっときここに置かれて、同日か、翌日のうちに、小塚原へ運ばれ、遺棄にちかい埋葬を受けることになっている。むろん、湯灌なんかしない。
「お前か。――」
 小屋にはいって、川路はそこに悄然と立っている邏卒一ノ畑曾八の姿を見た。
 それでなくてもふだんから哀れっぽい男が、いっそうべそをかいた顔をあげて、
「久しぶりに品数がふえまして、つい眼がゆきとどきませんで。……」
 と、いった。
 そんなことはいいわけにもならないが、川路も経四郎も、そこにずらっとならんだ十四個の棺桶を見て、ちょっと鼻白んだ。
 新しい棺桶ではない。古桶というより、もともと古板をよせ集めて作ったような桶で、無数のすきまから、粘っこく血がにじみ出して、それがもう変色している。それが、まさしく十四個。――陰惨なる壮観、と形容してもいい。まだ|ふた《ヽヽ》はどれもしてなかった。
「雲井さんの首は、さらし首にするってんで、別にとりのけてあったところ、つい。……」
 と、一ノ畑曾八がクドクド弁解するのをよそに、二人は黙って立っている。
 棺桶の中の屍骸は、いずれも首の切断面を見せて、手足をちぢめて押し込まれている。そして、自分の首は、自分の手で抱かされているのだ。――むろん、両人にとってはじめて見る景観ではない。しかし、何度見ても、あの凄惨な斬首の光景よりもさらにぶきみな、異次元の感をもよおさせずにはおかないのは、この徳川時代以来の、自分の首を自分で抱かされるという、超現実的な刑死者の姿態であった。

    二

 明治四年があけるとまもなく、また世を震駭《しんがい》させる事件が起った。一月九日の未明、参議広沢|真臣《さねおみ》が殺害されたのである。
 去年一月の横井小楠、九月の大村益次郎につぐ政府の大物の暗殺であった。しかも前の二つは京都であったが、これはお膝下の東京だ。刺客をとらえてもとらえても、処刑しても処刑しても、なお不穏な行動に出る者はあとをたたず、新政府は四年目を迎えてもまだ殺伐な世の中であった。
 当面の治安責任者たる弾正台はむろん聳動《しようどう》し、下手人の捜査に躍起となったことはいうまでもない。
 ――結論からいえば、この犯人はついにつかまらず、いまだに維新史の謎の一つとなっている。当夜、広沢は、麹町富士見町二丁目の自邸で、愛妾おかねと同衾《どうきん》して眠っているところを襲撃者に踏みこまれ、十五カ所に及ぶ乱刃の下に殺されたもので、妾の証言で、曲者は二人か三人だということだけはわかったのだが、この妾もまた右|横鬢《よこびん》を斬られてそのまま失神したので、犯人の人相風態はついに不明のままとなったのである。
 横井、大村と同じく反政府党の凶行か、それとも、広沢は木戸とならぶ長州の大立者であったが、そのため、このころようやく烈しさをましていた薩長などの権力争いのいけにえになったのか、あるいは長州閥の内部抗争によるものか、さらにはただの怨恨痴情によるものか。――それぞれの筋の容疑者はかたっぱしから捕えられたが、筋が多過ぎて、かえって的《まと》をしぼれなかったのだ。
 川路も経四郎も、むろん恐縮した顔をしていた。しかし実際はどこか冷淡であった。そして、そのことを、おたがいだけが知っていた。
 両人ともに、広沢がそのとき妾と同衾していたという事実に感心しなかったのである。その妾がまた、東京でも稀なほどの美女でありながら、頭に霞のかかったような女で、しかも男ならだれでも身をまかせるといっただらしのない女だということが取調べの結果判明したので、そんな女を妾にして鼻の下を長くして寝ていた政府大官の横死は、弾正台大巡察として相当に闘志を減殺させるものがあったからだ。
 ただ。――
「ひょっとすると、これは山城屋にからんでおるかも知れんぞ」
 と、経四郎がいった。
「いままでのところ、その線は出ちょらんが、いや大きにあり得る」
 と、川路もうなずいた。
 山城屋――それは二人が、去年の秋ごろからひそかに内偵している事件であった。
 横浜に十五軒の事務所、倉庫、従業員四百八十人という当時としては珍しい大商社を経営している山城屋和助という人物があった。陸軍|御用達《ごようたし》として、外国からの武器購入を一手に扱っていた。いま陸軍は長閥がその主流をしめつつあるが、山城屋がこの特権を得たのは、和助が元長州奇兵隊の一隊長までやった人間であったかららしい。
 その山城屋が、十五万ドルという巨額の生糸《きいと》相場を張って、大損をした――という事実をつかんだのは、去年の秋のことである。邏卒芋川平九郎が、岸田吟香から聞きこんだといって報告したのがはじまりであった。
 生糸相場が、去年の夏から起った普仏戦争のために大暴落したのだ。十五万ドル――それは山城屋にしても途方もない金額であった。
 その資金はどこから出て来たのか?
 内偵の結果、彼はそれを陸軍から得たらしい、と判明した。陸軍の軍需品購入のための現銀が年々低落するので、彼がその資金を運用して、損害をふせぐどころか、さらにふやしてやると持ちかけ、兵部省当局は彼の商才をあてにして、無担保で貸し出したらしいのである。
 和助はそれで生糸相場を張り、まんまとしくじってしまった。その金は十五万ドル、日本円にして八十万円、当時の国家予算の二パーセントにあたる。――現代の読者は、いまの国家予算の二パーセントを計算して見られるといい。
「ううむ。……」
 推定がそこまで進んだとき、さしもの川路も経四郎もうなった。
 しかし、まだ確実な証拠はつかんでいない。何しろ対象は陸軍である。手をつけるならまず山城屋のほうだろうが、これとていいかげんなことでは手をつけられない。あくまで、まだ推定の段階である。
 すると、暮に、兵部省の陸軍会計一等副監督湯浅|安足《やすたり》なるものが職を免ぜられた。
 彼は――彼もまた長州奇兵隊出身で、その当時の戦いで片腕となった男であった。
 しかし、片腕となっても会計事務などには甚だ有能で、兵部省の右の地位についていた。実はこの人物を、例の邏卒たちに尾行させて、彼が、山城屋の番頭有坂伊平なるものとしばしば料理屋などで会食している事実をつかんでいたので、さては、と色めきたって調べると、湯浅は、一家をあげて国元の長州へひきあげてしまったという。――
「気づかれたな」
 と、そのとき経四郎は舌打ちしたが、とにかくこれで探索は一つの壁にぶつかった。――残されたのは、やはり山城屋の壁の穴を見つけること一つ。
 ――そういう、弾正台からすれば未発の事件があったのだ。
 広沢参議の暗殺が、この兵部省内の長閥にからまるスキャンダルと、何か関係があるのではないか? と、川路と経四郎は顔見合わせたが、とにかくその下手人の目鼻がつかなければどうしようもない。
 そして、犯人はつかまらないままに一月下旬となった。
 その日、二人は偶然相ついで、驚くべき二つの報告を耳にした。
 まず、弾正台にいた二人のところへ、おずおずはいって来た猿木邏卒が、首をひねりながら、
「旦那。……小林金平が死んだそうですぜ」
 と、いったのだ。川路がさけんだ。
「なに? いつの事《こつ》か」
「ここのところ、いったことがないので知りませんでしたが、何でも七日とか。――」
「なんで死んだのじゃ?」
「一応、卒中ってえことになっていますがね。……」
 川路が黙りこむと、経四郎がけげんな顔で訊《き》いた。
「小林金平とは何者だ。……どこかで聞いたようなおぼえはあるが。……」
「それ、田之助の足切《あしきり》事件のとき、この猿木めがおはんの双眼鏡を質入れした高利貸の男。――」
「やあ、思い出した」
 経四郎は頭をかいた。
「そういえば、でっぷりしたあから顔の爺いだったが、あれが卒中、とは喃《のう》。……」
「それが、近所にもないしょでお葬《とむら》いをやったそうで……と、いうのが、どうやらあの爺い、お絹さんの腹の上で死んだとかいう風評で」
 ちょっと応答の言葉を失って、二人が鼻白んだ顔をしたとき、二つ目の報告が来た。それこそは、右の市井の一異変など、二人の頭からはね飛ばすほどの報告であった。
 息せき切って駈け込んで来た邏卒芋川平九郎が告げたのである。
「旦那!……山城屋が逃げましたぜ」
「なんじゃと? あの山城屋和助がか」
「どこへ?」
「フランスへ」
 二人はまさにのけぞり返った。
「そりゃまたどげんした事《こつ》か?」
 芋川平九郎は、横浜の山城屋に張り込ませていた。主人の和助その他の動静を見張り、時と次第でその外出を尾行するように命じてあった。
 で、芋川がいう。――けさ十時ごろ、和助と番頭の有坂伊平が店を出て、波止場のほうへ歩いていった。和助は洋服姿で、伊平は大きな鞄《かばん》を持っていたのを不審には思ったが、それでも彼らは海岸通りの外人の商館にでもゆくのだろうと考えて、そのあとをつけた。ところが山城屋和助は、そのまま艀《はしけ》の一つに乗り、沖合に浮かんでいる大きな蒸気船に消えてしまったのである。
 芋川は仰天して、波止場に居残って見送っている伊平をつかまえて訊いた。そして、山城屋和助が、兵部省のお申しつけで商用のためフランスへ渡航することになったこと、あの船はマルセーユ号というフランス船でもう出航すること、などを聞き出し、いよいよ狼狽し、とにかくとるものもとりあえず東京に駈け戻って来たというのであった。
「逃げたな」
 と、川路はうめいた。
「逃がされたのだ」
 と、経四郎はさけんだ。
 さきに兵部省の重要参考人と目される湯浅某の帰郷についで、こんどは当事者たる山城屋和助の洋行とは――事件関係者が、弾正台の手が動いているのをかぎつけて、すべてを闇中に消し去ろうとしていることは明らかだ。それにしてもフランスへ逃げるとは――二人は、まったく意表をつかれた。
「――よか!」
 川路利良は猛然と立ちあがった。
「おいの責任で、とにかくその山城屋の番頭をしょっぴいて、吐かしてやる。横浜にゆくぞ、芋川邏卒、来い!」
 そして、経四郎など放り出して駈け出した。
 しかるに――横浜の山城屋へ駈けつけた川路が知ったのは、けさ主人の洋行を見送ったばかりのその番頭有坂伊平がそのまま店に帰らない、という事実であった。彼もまた行方をくらましてしまったのである。

    三

 川路大巡察が、高利貸小林金平の元妾《もとめかけ》お絹を逮捕したのは、二月半ばのことであった。
 腹上死とか何とか猿木がいったが、それにしてもかなり手広く質屋と高利貸をやっていたのに、近所の者を呼ばないほど内々に、かつ早々に葬式をすませたというのがひっかかったのだ。
 実はこの前の足切事件で、その女は真犯人|牧盾記《まきたてき》に頼まれて、犯行の手伝いをやった。役人でもある牧におどされたからだろう、というのが香月経四郎の解釈で、かつその意見によって彼女は訓戒だけで一応罪にすることはしなかったのだが、もういちどそれを理由に別件逮捕し、薬研堀《やげんぼり》にちかい邏卒屯所にしょっぴいて取調べ、ついに金平の毒殺を白状させたのである。
 不審はいだいていたものの、その自白には川路も、あっと驚いた。
 お絹は石見《いわみ》銀山鼠取りを湯にとかし、風邪薬といつわって飲ませて金平を毒殺したのだが、川路が驚いたのはそのことではない。実は、お絹は他の男と密通していた。――金平はお絹を妾としたものの、ここ一年ばかり前から尽きるべきものが尽きて、ただグロテスクな愛撫を強《し》いるのみであった。そのお絹が、妊娠したのである。それはそのうち旦那にばれずにはいないだろう。で、このことでせっぱつまって殺意を起したということを知って驚いたのだ。
 さらに川路は、その姦通の相手が、なんとあの役者の嵐|璃鶴《りかく》で、牧盾記の依頼をお絹が聞かないわけにゆかなかったのは、その密通を田之助の筋から牧に知られていたからだ、ということを知って、いよいよ驚いた。
 ともあれ、これであの事件のつじつまはすべて合う、と川路は考えた。
 ――ここでこの女のそれ以後の運命を語っておけば、彼女はその秋、小伝馬町の牢内で女児を分娩《ぶんべん》し、なお百日の授乳期をながらえることを許されて、翌明治五年二月二十二日、山田浅右衛門に斬首された。そのとき、「夜嵐にさめてあとなし花の夢」と辞世の句を詠《よ》んだというのは、さらにのちの戯作者のフィクションだが、とにかくそれで「夜嵐お絹」という伝奇的な名を残した。
 この顛末を経四郎に伝えたとき、
「ははあ?」
 と、経四郎は、めんくらったような、とぼけたような顔をした。
「ただわからんのは、牧盾記がそげな事《こつ》を白状せなんだ事《こつ》じゃ。……もっとも、いまさらそげな事《こつ》をしゃべっても、きゃつの首の飛ぶ事《こつ》に変りはなかが」
「ひょっとすると、私がね、死刑には昔ながらの日本風の斬首と、新しい西洋風のギロチンと二つある。役人らしく潔《いさぎよ》くしたら、死に方に御慈悲があろう、といったので――あいつは、せめて古式通りの斬首を望んでそうしたのかも知れんよ」
 と、経四郎は笑った。
「飯もパンも身体の養いとなることは同じだが、日本人はどうしても飯を選ぶ。――私はむろん、汚職役人にはギロチンがふさわしいと考えてそういったのだが」
 彼も高利貸の妾の事件の真相には一応驚いたろうが、しかし彼は、そんな市井ありきたりの犯罪にはあまり興味がないようであった。――川路自身も、これはとんだ拾い物だ、と感じたに過ぎない。
 弾正台の真の獲物は役人の汚職であり、当面の目的は山城屋事件であった。
 煙霧に隠されるかに見えたその事件のとばりが、突然裂けて、一個の異様な屍体を吐き出したのは二月の末であった。
 その日の昼間、巡邏をおえた川路が弾正台に登庁してみると、香月経四郎から、きょうは囚獄所でギロチンを使用するのでそちらにいっているが、それとは別に大変な話があるから、すぐ囚獄所のほうへ来てくれ、という伝言があった。
 川路は小伝馬町に急いだ。絹糸のような雨のふる日であった。
 と、桜田門の方角からゆくと、囚獄所の裏手のほうからまわることになるが、ちょうどその裏門がギイとひらいたところであった。
 この裏門は、斬罪に処せられた屍体が、小塚原へ運ばれるときだけひらかれる。――
 もう処刑が終って、屍体で運び出されるのか、と思って、見ていると、中から馬が荷車を曳いて出て来た。笠をかぶり、蓑《みの》をつけた、むさくるしい髯もじゃの百姓風の男が手綱をとってトボトボと先に立ち、うしろの荷台には十ばかりの桶がのっている。むろん棺桶ではない。もっと小さな――肥桶《こえおけ》だ。
 川路は苦笑した。囚獄所内の排泄物の運搬だったのだ。
 表門にまわって、はいると、しかし処刑はもう終っていた。そして、自分を呼んだ経四郎は、そのあと邏卒鬼丸多聞太とともに、さっきどこかへ出かけたが、川路にしばらく待っていてくれ、ということであった。
 ――大変な事《こつ》があるっちゅうて、何の事《こつ》じゃ。
 川路はまた苦笑して、しかたなく牢屋敷内を徘徊《はいかい》して待った。
 むろん、例の屍体置場ものぞいた。
 うす汚ない棺桶が五つならび、隅の椅子に一ノ畑曾八がボンヤリ腰かけて、煙管《きせる》をくゆらせていたが、川路を見ると、驚いて立ちあがった。
「いやなに、お前に用はなか。香月に呼ばれて来たんじゃが、香月はどこへいったか知っちょるか」
「いえ、存じませんが、へえ、さっきまでここでギロチンを指図していなすったが、どこかへお出かけですと?」
 曾八は狐につままれたような顔をした。
「この処刑と何か関係のある事件が起ったのですかな」
「いや、それとは別の件じゃそうなが」
 川路は棺桶に眼をやった。棺桶にはみんなふたがしてあるが、血は例のごとくにじみ出して、吐気のするようななまぐさい匂いをはなっている。
「それは、どういう連中じゃ」
「何でも、強姦やら、人殺しやらの連中ばかりで――ごらんになりますか?」
「いや、よか」
 川路は首をふった。自分の首を抱く屍体――決して見て愉しい対象ではない。
「小塚原へはいつ運ぶんじゃ」
「夕方の予定でござりますが」
「こんどは首を盗まれんようにな」
「雲井さんならともかく、まさか、こんなやつらの首を欲しがるやつはありますまい。――いや、この前はとんだ失態をやらかしまして、あれから、小塚原へ運び出すまで、だれか必ず番をしております。門番もいよいよ厳重にして――」
 川路は笑って、そこを離れた。

    四

 一時間たっても一時間半たっても、香月経四郎は帰って来なかった。そして、彼ではなく邏卒横枕平助が、「川路大巡察はおられますか!」と、さけんで、囚獄所に駈けこんで来たのは、なんと二時間近くたった――午後二時過ぎのことであった。
 一ノ畑曾八が、いっしょに川路を探して、横枕邏卒を連れて来た。
「なんじゃ、どげんしたか」
「あっ、川路大巡察。――すぐ来て下され、香月大巡察がお呼びです」
「どこで?」
「今戸でござります」
 今戸は浅草の北、隅田川に面した土地だ。
「そこに、あの陸軍会計の湯浅ってえ人がいたんで。――」
「なに? よか、走りながら話せ!」
 二人は囚獄所を駈け出した。
 その通り、走りながら、横枕平助は話した。
 ――おととい、鬼丸多聞太が浅草を巡邏中、ふと青木弥太郎の姿をみとめた、という。――青木弥太郎は、有名な悪党だ。元安旗本であったが、幕末の混乱期、無頼漢たちを集め、浪士の御用金と称して江戸のあちこちに強盗におしいり、ついに捕縛された。ところが、十数回におよぶ石抱きの拷問にも、ついに知らぬ存ぜぬで押し通し、そのうち瓦解となって、例の海舟の特赦で無事放免となった。が、それ以来も行状は変らない。ただその相手が、町の小さな商家などではなく、うしろぐらいところのある大官とか、政府にとりいっている御用商人などで、そのほうが効率がいいと承知しているからにちがいないが、これから大金をゆする。たいていは乾分《こぶん》をやっただけで目的を果すが、事と次第では本人が乗りこんで、「ええ、石鉄《いしがね》かかえた青木でごぜえやす。それを御承知で口をきいておくんなさい」と、やる。それだけのことに、人間ばなれのした物凄さがあって、だれでもふるえあがってしまう。むろん、それでもいうことを聞かなければ、あと火をつけられたり、どこの何者とも知れない人間の指などが投げこまれたり、何をされるかわからない――という評判のある凶暴な男であった。
 さて、この青木を尾行した鬼丸邏卒は、やがて彼が今戸のさる寮(別荘)へはいるのを見た。
 まだ吉原と浅草の間でさえ田圃《たんぼ》のひろがっているところで、このあたりも田圃や畑が多いが、あちこちにコンモリした林があり、隅田川に近くなるにつれて、風雅の趣きが濃くなり、森蔭に散在している寮が――それがこのあたりに建てられたゆえんを納得させるし、またそれ自身がいよいよ風雅の趣きを深めている。
 二十分くらいしたろうか、青木は出て来た。そして、繁みにしゃがんでいた鬼丸の前を、仏頂面《ぶつちようづら》で通り過ぎたが、五、六歩いって、
「おい、ダンブクロのポリス」
 と、いって、ひき返して来た。
 知っていたのだ。
 そして青木弥太郎は吐き出すように、
「ありゃな、お前《めえ》は知るめえが、横浜で有名な山城屋の寮さ。そこに、陸軍会計のえらいのが隠れてるんだ。どういう縁でそんなことになったんだか、弾正台でほじくって見たら面白かろうぜ。……ああ、いや、敵は相当な|たま《ヽヽ》だから、むやみにかかったって、ボロは出さねえ。当分、そこに張り込んでて、ここに来るやつらの顔ぶれをつかんだほうが利口だろう」
 と、いって、ふところ手のまま、ブラブラ吉原のほうへ去っていったという。
 鬼丸はそれを香月経四郎に報告した。
「陸軍会計の……湯浅安足か!」
 と、経四郎はさけび、
「青木が、そこにゆくやつを調べて見ろ、といったと?……ふうむ、きゃつ、ゆすりをはねつけられて、しっぺ返しする気になったな。なにしろ相手は陸軍だからな。しかし、その通りだ。しばらく張り込んで見ろ」
 と、いった。
 で、それから鬼丸と横枕が交替で、あるいはいっしょに張り込んでいた。――
 ――川路は、経四郎が、大変な話があるといったのは、そのことであったか、と知った。なるほどこれは驚倒すべき話だ。長州の国元に帰ったとばかり思っていた湯浅安足が、そんなところにひそんでいようとは。――
 駈けながら、横枕平助はつづける。
 ところが、きょう昼前、その寮を俥で訪れた者がある。幌をつけ前も幕を下ろした俥であったので、はいってゆくときはどんな人間が乗っているのかわからなかったが、とにかく兵隊が二人くっついていた。どうやら地位のある軍人らしい、と見て、両邏卒は鼻白んだが、そうと知ったら、いよいよその正体をつきとめる必要がある、と思った。
 しかし、その俥は寮にはいったかと思うと、すぐに出て来た。話をしたなら、玄関先での立ち話か。――いったい、わざわざこの雨の中を、今戸までやって来たわけは何か。
 たまりかねて鬼丸は、途中で俥の前に立ちふさがった。
「何だ」
 と、兵隊が眼をいからせた。鬼丸はいった。
「弾正台のものでござりますが、上司の命で、あの家に出入りする者の姓名をとり調べております。お名前をお聞かせ下さい」
 幌の中で、ふきげんな声があった。
「山県じゃ」
「は?」
「山県有朋じゃ」
 鬼丸は飛びあがらんばかりになった。兵部少輔である。
 が、彼は必死になっていった。
「はっ……失礼でござりまするが、お顔を拝見」
 しばらくの沈黙の後、幌をあけい、と命じる声がし、兵隊がそれをひらいた。中に、ふきげんの彫刻みたいな――鬼丸も、いつか、どこかで見たことのある、細長い山県閣下の顔が見えた。
「よいか、邏卒」
 直立不動の姿勢になって敬礼している鬼丸多聞太の前を俥は通り過ぎ、みるみる浅草のほうへ消えていった。
 ――鬼丸多聞太が囚獄所へ馳《は》せ戻って報告し、そして香月経四郎がいっしょに駈け出していったのはこのためであった。
 もっとも、山県閣下は立ち去ってしまったのだから、その点については、経四郎がいったところでどうしようもないわけだが、とにかく彼がいって見ずにはいられなかった心はわかる。――そして、経四郎は、はからずもそこで、さらに思いがけぬ大事件に遭遇することになったのだ。
 彼がその寮の近くの林の中で、改めて二人の邏卒の報告を聞いているときであった。
 寮の門から、十五、六の一人の少女が駈け出して来た。きのう一日の監視で、二人は、それが寮で使われている娘だということを知っていた。寮の隣りは畑だが、そこに百姓家が一軒あって、そこの娘らしい。それが、ただごとでない表情なので、経四郎たちは呼びとめた。
「人が死んでるんです」
 と、娘は上ずった声でさけんだ。
「旦那さまが、浅草の屯所にとどけろって。――」
「なに、人が死んでる。だれが?」
「知らない男のひとです。それが、首を斬りはなされて――」
「寮の中でか」
「いえ、寮の裏の――うちの畑に、裸で、肥《こえ》まみれになって」
 張り込みは内々のものときまっているが、もうそんなことはいっていられなかった。三人は少女に案内させ、現場に駈けつけた。
 そこに怖ろしい屍体があり、そばにたしかに湯浅安足が立っていた。そのわけを訊《き》いている途中で、香月経四郎が、突然思い出したように、囚獄所へいって川路大巡察を呼んで来るように命じた。そこで横枕平助が駈けつけたというわけなのであった。

    五

 門は簡素なものであるし、樹木に隠顕《いんけん》する黒板塀は、あちこち破れているのが見える。またその中の建物もあまり大きなものではないらしいが、それでも敷地は一千坪くらいはあるだろう。あとでわかったことだが、このあたりに散在する金持の寮にならって、山城屋もここを手にいれたものの、横浜での商売が多忙で、ほとんど使っていなかったという。
 隣りはまだ広い畑地で、そこの百姓の爺さん婆さんが、ふだんその寮を管理し、時に泊る者があれば、このごろは娘が食事を作ったり、走り使いしたりしていた。その兄は横浜の本店で使ってもらっているという縁もあった。
 寮の裏門――というより、横手の奥にある潜り戸だが、それをあけると右の畑地に出る。向うは満々たる隅田川で、さらに川向うは向島だ。
 川路大巡察が到着したとき、その潜り戸の外側の畑地に、まだ屍体をとりかこんで、経四郎たちが待っていた。
 経四郎と鬼丸邏卒、百姓爺いとその娘、そして、もう一人の男だ。――それは川路も以前の内偵期に、よそながら顔だけは知っている。年は四十前後だろう、当時はまだ珍しいザンギリ頭の、髯のそりあとも青い、いかにも謹直らしい容貌をしていた。元陸軍会計一等副監督湯浅安足、階級は少佐だ。
 彼と経四郎だけが、寮から持ち出したらしい傘をさしていた。もっとも湯浅には娘がさしかけている。――彼の右手は、ふところ手のままであった。湯浅の右腕が肘から先のないことは、これも川路は承知している。
 ――こやつ、こげなところにおったか!
 改めてその顔を注視するより、しかし川路は、足もとの惨状のほうに眼を奪われた。
 いや、実際に眼で見るより、ここに近づくにつれて、彼の鼻は、ひどい異臭に悩まされていた。――二月末とはいうものの、のちの暦では三月の末だ。場所が大川に近い畑と森だから、野はもう青いものにけぶっているような印象がある。冷たい細雨でさえ、たしかに春の香で大気を満たしていた。それなのに、この場所の匂いはどうだ。
 塀にもたれかかって、ふんどし一つの大男の屍体が坐らせられ、その膝の上に、正面をむいて、髯はないが、頭をザンバラ髪にした凶悪な首が抱かせられていたが、その全体が糞汁にまみれていた。すぐそばに十近い肥桶が散乱し、そこから異臭がまだ畑の土を這っていた。
「いや、この姿はね、首の人相をよく見るために鬼丸がこうしたのだ」
 一応の紹介ののち、まず経四郎がそう説明し、それからここに至る経過を述べはじめた。
 先刻。――湯浅安足は、邸内の池の鯉に餌をやるために、庭へ出た。池は潜り戸近い場所にあった。そこまでゆくと、塀の外からひどい悪臭がしたので、ふと潜り戸を押しひらいた。すると――外に積んであったいくつかの肥桶が、べつに戸がふれたわけでもなかったが、何かのはずみで崩れ落ちた。――その下に、裸の大男が死んでいるのを彼は発見した。
 ふたがとれて、肥《こえ》まみれになったその屍体は、首を切断されていた。
 それで、彼は、あわてて下女の小娘を呼び、屯所に走らせようとしたというのだ。
「ところで、この屍体だが」
 と、経四郎はいった。
「湯浅さんは、まったく見知らぬ男だといわれる」
「ほう」
 川路は改めて、屍体の顔を眺めた。
 ――最初、横枕邏卒から屍体の話を聞いた刹那、彼の頭にひらめいたのは、山城屋の番頭で先月から行方をくらましている有坂伊平のことであった。別に根拠はなく、ただそんな直感が走ったのだ。いや、それは、屍体のあった場所が山城屋の寮だと聞いたからにちがいない。
 しかし、有坂ではない。身体はどこか似ている。有坂も、もとは奇兵隊の一隊長山城屋和助――そのころは野村三千三とかいったそうだが――の配下で働いた男とかで、身体の大きな男であったが、屍体も大男だ。が、顔はまるでちがう。
 山城屋事件を内偵しはじめてから、山城屋のおもだった者はむろん、陸軍の関係者もそれとなく顔をおぼえたが、その中にこんな凶暴野卑な人相をしたやつは一人もない。少なくとも、彼らはどれも、もっと「知能犯」的容貌をした連中ばかりであった。
 屍体は新しい。場所は畑地だし、雨に打たれつづけて、血潮の量はさだかでないが、とにかく昨日ごろ以降に殺されたものにちがいない。
「この屍骸は、いつからここにあったもんか」
 と、川路は尋ねた。
「さ、それだ。そこの爺さんの話では、昨日そこに桶を運んで、きょう近くの野溜《のだめ》に移そうと思っていたところ、あいにくの雨でそのままにしてあったが、昨日こんなところにこんなものはなかったという」
 と、経四郎が答えた。百姓の爺さんは、いまにも尻餅をつきそうな蒼い顔をしていた。
「では、昨夜からきょうにかけての事《こつ》じゃ」
 と、川路は邏卒たちをふりむいた。
「ここで、こげな殺されかたをしたのが、見張りしちょるおはんらにわからんかったのか」
「はっ、それがまったく――」
 と、鬼丸邏卒が頭をかいた。
「門前の道とここと、少し距離がありますし、間に樹立ちもござりまして――」
「それにしても、何の声も物音も聞かなかったというのはおかしい」
 と、経四郎がいった。
「それで私は、どこかで殺してここに運んで来たものではあるまいか、と考えたのだが。――」
「足跡は?」
「何人かの足跡があるようでもあり、ただの土のくぼみのようでもあり、なにしろ畑の中だからかえってよくわからん」
「なんのために、屍体をここへ――今戸くんだりの畑の中に運んで来たんじゃ? ただの遺棄にしても、手がかかり過ぎる。これほどの大男を運ぶには、一人じゃ出来んわざじゃろ」
 と、川路はいった。
「おいには、どうもこの寮の住人へ、威嚇か仕返しか、とにかく何らかの目的のある行為と見えるが」
「それじゃ。わしには青木弥太郎のしわざと思える」
 と、湯浅安足がいい出した。
「実はおととい、青木が来た。貴公ら、弾正台の大巡察なら、あれの悪党ぶりは知っているだろう。あらぬいいがかりをつけて、わしをおどそうとするから、ぴしゃりとはねつけてやった。青木は怒って帰ったが、その仕返しではなかろうかと思う。あいつなら、乾分《こぶん》の手もかりられるし。――」
「しかし、仕返しにしても、あなたとは縁もゆかりもなか男を殺してここに放り出すっちゅうのは面妖じゃごわせんか」
「じゃから威嚇じゃ」
「威嚇にしても。――」
 ややあって、湯浅は何かを思い出す表情でいった。
「いや、わしもその点、面妖に思った。そうでないとすると――と、いろいろ考えたが、やっぱりかような男、どうもおぼえがない。ただ、わしも戊辰《ぼしん》前後にはこれで相当にあばれたし、特に幕府方で手ひどく抵抗してつかまえたやつを、処刑責任者として十何人か斬った。なに、わし自身が手を下したことは少なく、配下にやらせたことが多いのじゃが、とにかくそのおかげで、わしは……それ、この通り、右腕を失った。明治元年の秋、夜、市中通行中、闇討ちに逢ったのじゃ。おれを襲ったやつは数人で、いまだに何者かわからん始末だが、わしが生き残ったと知って、まだつけ狙っておるやつがないとはいえん。わしばかりでなく、当時の配下も……その配下の中に、この男がおったかも知れん」
「それが、御記憶にないのでごわすか」
「いや、あの当時は、敵も味方も混乱状態で、配下といっても臨時に薩摩兵や土佐兵が混入していたこともあったからな。……それも、そういうことがあった、と強《し》いて考えてのことだ。正直なところ、おぼえがない、というのがほんとうのところじゃ」
「ふんどし一つ、っちゅうのは、どげなわけでごわしょう?」
「証拠を消すためか。――」
「つまり、何者かわからんようにするためごわすか。それじゃ何のためかいよいよわからんじゃごわせんか」
「わしに訊いてもしようがない。わしにもわけのわからん屍骸なのだ。……貴公、わしを疑っておるのか?」
 湯浅はじろっと川路をにらみ、
「貴公、薩人じゃな。長州を色眼鏡で見るのか」
 と、あらわに敵愾《てきがい》の相を見せたが、すぐに苦笑して、
「何にしても、この通り右腕のないいまのわしに、そんな鮮やかな太刀さばきは出来ぬよ。死ぬ前のことはわからんが、見たところ、一癖も二癖もありげな男ではないか」
 と、いった。
 川路はしゃがみこんで、屍体の首を持ちあげて見た。まさに鮮やかな――ほぼ水平に、ぞっとするほどみごとな切口だ。ほかに傷はないようだ。はて、この男は、斬首同様にして斬られたものであろうか? と、川路は首をひねった。いよいよ奇怪な屍体ではある。
「疑われちょる、と思われもすなら、も一つ二つ、ついでにうかがいもすが、疑いをはらすために答えて下され」
 と、川路は首をもとに戻して立ちあがった。
「きょう、山県兵部少輔がおいでになったそうでごわすな。それが、おいでになってすぐその足でお帰りになったと聞きもしたが……いったい何のためにおいでになったのか、おさしつかえがなけりゃ、お聞かせ願いもす」
 いままで香月がどんな調べをしたか知らないが、彼は自分の耳で聞かなければならない、と思った。
 湯浅はちらっと少女のほうを見た。それから、腹立たしげにいった。
「そんなことは弾正台の知ったことではない」
「さしつかえがごわすか」
「さしつかえはない。山県閣下は、わしがここにおることを知られて、それをたしかめにおいでになったのじゃ。わしは国元に帰ったということになっておったのでな。それで、わしの顔を見て、達者で安心した。いや、用はそれだけじゃ、多忙なのですぐに帰ると申されて、そのままお帰りになったのじゃ」
 川路は首をかしげて湯浅を見つめていて、やがてまたいった。
「あなたは兵部省をやめられた。――何が原因でやめられたのか。そして御家族は国元の長州へお帰しになりながら、どげんしてあなただけ、この――山城屋の寮にひそんでおられたのか」
「弾正台、よく調べておるの」
 湯浅は苦笑した。
「わしが兵部省をやめたのは、維新後の激務にくたびれはてたからじゃよ。ただ……このごろ、妙な噂があり、それで弾正台の犬が嗅ぎまわっておることは知っとる。それで、わしがやめたことをいよいよ妙にかんぐられては、わしの名誉にもかかわり、軍の名誉にもかかわる。なりゆき次第では、わしが出て弁明せんけりゃならん時があるかも知れんと考えて、しばらくわしだけ、静養がてらに、同じ長州出の山城屋のこの寮を借りて、当分とどまることにしたのじゃ」
 彼はふいに烈しい声を出した。
「えい、わしの弁明とは、こんなことではない。わしはうぬらにこんな弁明をする必要はない」
 相手に対してのみならず、自分自身にも腹をたてたようだ。
「そもそも、そんなことがこの屍体と何の関係がある? 弾正台の犬、帰れ。これ以上わしに口をききたければ、この屍骸がわしに関係があることを証明してから改めて推参せい!」
 と、いって、彼は背を見せ、潜り戸をあけて、塀の中へはいっていった。
 やや強くなった雨の中に、川路らは黙然として立ちつくしている。屍体が抱いていた首が、どういうわけかふいに転がり落ちて、娘が怖ろしい悲鳴をあげた。

    六

 茫々とけぶる早春の雨の中を、経四郎と川路は、黙々と帰ってゆく。二人の邏卒は、屍体を屯所に運ばせるために、あとに残した。
 経四郎は傘をさしているが、川路はぬれるままだ。そのことも二人にはまったく意識の外にあるようであった。
 夕暮近い空の下に浅草寺の五重の塔の影が迫って来たとき、やっと川路が口を切った。
「香月、おはん、何かわかったか」
「わからん」
 経四郎は首をふった。
「いや、わかっていることもある。あの屍骸は、決して湯浅に無関係な人間ではあり得ないこと、山県さんが湯浅に関係のあること、などじゃ。が、あの屍骸や山県さんが、どういう具合に関係があるのか、全然わからん」
「おいには、それより、この事件の意味がわからん」
 川路はつぶやいた。
「あの屍骸の裸には意味があるのか。首を斬り離されちょった事《こつ》に意味があるのか。あの糞汁をひっかけられちょった事《こつ》に意味があるのか。首を抱かされちょった事《こつ》に意味があるのか。……」
「おいおい、川路さん、裸や首斬りの意味は私にもわからないが、糞汁だらけになったのは偶然の結果らしいし、首を抱いていたのは、鬼丸にやらせたことだぜ」
「うん、それはわかっちょるが、おいにはそれも意味のある事《こつ》に思えてならん。……しかも、そもそも、どげんしてあげな事件が起ったのか、その意味がわからん」
 川路は髭をひねりながら歩いていた。
「おいの頭にゃ、さっきからあるかたちをしたものが、モヤモヤと浮かんどる。それが煙のようにつかまえにくくて、イライラしとるんじゃ」
「わけのわからんことをいうね。いや、それもこれも、あの屍骸の素性が不明なことから発している。いっそ強引に、あの湯浅をしょっぴくか」
「いや、待て」
 いつぞや、自分の責任で山城屋の番頭をしょっぴくとまでいった川路だが、このときは首を横にふった。
「いまの段階ではそれは難しか。あの山県どんの出現を見てもわかるように、へたすれば陸軍を相手にまわす事《こつ》になる。もうちょっと待て」
 浅草の町にはいったとき、突然、川路が、あっと声をあげた。
「どうした?」
「煙をつかんだぞ!」
 川路はさけんだ。
「あの男は、囚獄所の死罪人じゃなかか!」
 鞭打たれたように、経四郎は立ちどまった。
「あの首を抱いた屍体、煙のかたちをしちょったものは、あの姿勢じゃ。おはんがけさギロチンで首を斬ったやつ、その一つがあの屍骸じゃなかか!」
「頭が変になったのじゃないか、川路さん」
 と、経四郎が低い声を出した。
「あの姿勢は、鬼丸のしたことだといったじゃないか。それに、あれがけさ囚獄所で処刑したやつだと? 貴公、けさ処刑したやつの首を見たのか」
「それは知らんが」
「では、なぜそんな突拍子《とつぴようし》もないことをいう。それに囚獄所では、暮の雲井龍雄の首事件以来、監視は極めてきびしくなっておる。どうして屍体を運び出すことが出来ると思う?」
「いや、運び出したのは、首だけじゃ」
「首だけ? 首だけでも――」
 と、いったが、経四郎の眼は驚きのために散大している。
「首だけでも、それをだれが運び出したのだ?」
「おそらく、あれじゃ」
「あれとは?」
「さっき、湯浅安足の顔を見た。いや、湯浅を見たのははじめてじゃなかが、肥桶《こえおけ》のそばに立っちょる湯浅を見ちょるうちに――いや、いまそれを思い出しちょるうちに――別の人間の顔が浮かんで来たのじゃ。もう一つの煙は、そいつの顔じゃった」
「だれだ、別の人間の顔とは?」
「おいは、きょう昼ごろ、いちど囚獄所にいったとき、裏門から出て来る肥車《こえぐるま》を見た。その馬を曳いておった蓑《みの》笠の百姓男が……その髯を剃ると……あの湯浅安足に似ておったように思う」
 経四郎はしばし絶句したのち、
「貴公、そんなものを見たのか。しかし、ば、馬鹿なことを――」
 と、あえいだ。
「陸軍会計の元高官が、牢屋の肥《こえ》汲み男に化けるなどとは――だいいち、あの男には、右腕がないぞ。左腕だけで肥が汲めるか。あれはなかなかの重労働だぞ」
「ろくに汲まんでもよか。汲んだふりをすればよか。あとの事《こつ》は知らず、当面緊急の目的は、首を盗む事《こつ》にあったのじゃからな。……むろん、肥汲み自体はほかの人間に頼んでもやれる事《こつ》じゃろ。たとえば、あの今戸の寮の隣りの百姓にでもな。しかし、これはいのちがけの離れわざじゃ。実際問題として、自分自身でやるほかはなかったろう。だいいち、いまいったように、髯のあるなしだけで、彼に似ておった。きゃつ、自分で肥の汲取人になったにちがいなか。……」
「………」
「荷車の上には肥桶が十ばかり積んであったが、その一つに、おそらく囚人の首が一つはいっておったのじゃ。……これなら、囚獄所の番人の眼の盲点となる」
「貴公。――」
 経四郎は、くいいるように川路の横顔を見た。
「私は少々あんたを見くびっていたようだ。いや、はじめから大した男だと承知しておったが、そんな頭のまわりかたをする人間とは思わなんだ」
「そりゃ、ほめたのか、けなしたのか」
「ほめておるのだ。しかし、まだ納得は出来んぞ。では、首だけ持っていって、胴体はどこから手にいれた?」
「あの屍骸の胴体は、おそらく有坂伊平じゃ。有坂は、あんな身体つきをしておった」
「なに?」
 経四郎は大声をあげ、十数秒また沈黙した。ややあって、しゃがれ声を出した。
「有坂の胴体に、囚人の首をくっつけたというのか!」
「そうじゃなかか、と、おいは思う」
「なんのために……湯浅が、なんのために、そんなことを。――」
「有坂殺害をごまかすために」
「有坂殺害――湯浅が、なぜ有坂を殺害したのだ?」
「それは、湯浅安足を調べて見ればわかる。……わからん事《こつ》は、おいにもまだたんとある。今戸におる湯浅がどげんしてきょうのギロチン処刑の事《こつ》を知っちょったのか。囚獄所の肥汲みをやるにも、まさか飛び込みで汲ましてもらえるわけはなかから、どげな手段でその事《こつ》が可能であったのか。本人もいっとったが、片腕だけで、どげんして有坂を殺し、首を斬ったのか。その有坂の首はどげんしたか。……」
「………」
「しかし、そう考えたほうが、腑に落ちる事《こつ》が、それにもましてたんとある。山県どんが寮からすぐにひき返したのは、湯浅が留守であったからじゃなかか? そのころ当人は、まだ肥車を馬に曳かせて、小伝馬町から今戸へ急ぎつつあったのじゃなかか? 屍骸が裸にしてあったのは、むろん有坂である証拠を消すためと思うが、それが頭から肥を浴びちょったのは、偶然じゃなか。あれは、自分の髯と同様、その髯は剃《そ》ってやったものの、何としても牢臭のとれぬ首と、きれいな胴体のくいちがいを消すための――洗えばどっちも同じ事《こつ》になるための処理じゃなかったか?」
 ともりはじめた浅草の灯が、飛ぶようにうしろへ流れ去る。
 それも眼にはいらないかのような顔で、経四郎が訊く。
「では、では――囚獄所の棺桶の首は一つないわけじゃな」
「おいの推測によれば、じゃ」
「しかし、斬首された屍骸は、小塚原に運ばれて、埋葬される。――そのときに、たちまち曝露されてしまうではないか」
「すべては、囚獄所の棺桶を見ればわかる。――」
 川路利良は吼《ほ》えるようにいった。
「お、そういえば、そろそろ小塚原へ運ぶ時刻じゃなかか。――急げ!」

    七

 二人は囚獄所に到着した。すぐに経四郎は、門番に、きょう人間の首大の荷を持って門を出た者はなかったか、と訊いた。門番は断乎《だんこ》として首を横にふった。
 それをあとに、川路は屍体置場に駈け込んだ。間に合った。死罪人のむくろは、小塚原へ運ばれる寸前で、一ノ畑曾八が、五つの棺桶にせっせと――三つ目の棺桶に、荒縄をかけているところであった。
「曾八!」
 と、川路はさけんだ。
「待て。……その縄を切れ」
「へ?」
 一ノ畑曾八は、めんくらった顔をした。
「うぬは、処刑の後、屍骸をここに収容してから、ずっとここにおったな」
「も、もちろんでごぜえます」
「一分間も離れた事《こつ》はなかったな」
「そ、そりゃ……小便だけは別として……」
「昼ごろまでの話じゃ」
 曾八は、あいまいな表情をした。首がなくなっているとすれば、昼間川路がここに来る直前のはずで、あのとき曾八は、棺桶の中を見るか、と川路にいったのだが。――
 川路はわめいた。
「その中の屍骸の首に疑惑があるんじゃ。ふたをとれ!」
 曾八はうろたえながら縄を切り、一つ目の棺桶のふたをひらいた。
 薄暗い光線の底に、髪がかぶさり、血がまだらにしみついた自分の首を、膝にかかえて囚人がうずくまっていた。
「よか」
 こんどは二つ目のふたをひらいた。それも首のない屍骸は、酸鼻な自分の首を抱いていた。
「よか!」
 三つ目をひらいた。同様であった。
 そのとき、部屋の外にあわただしい蛩音《あしおと》が近づき、経四郎の声が聞えた。
「川路さん、大変だ! これを見ろ」
 川路は部屋の入口にいった。
「何事《なにごつ》か」
「いま牢役人に見せられたんだが、あの広沢参議暗殺事件、まだ下手人がつかまらんので、天皇さまが御立腹になって、けさ犯人必獲の詔書が出たそうだ。これじゃ」
 経四郎は、その写しらしい一枚の紙片をつかんでいた。
「こんなことで詔書が出たのは、はじめてだろう。……弾正台としても容易ならんことだぞ」
 それはその通りだが――川路はすぐに、もとの棺桶に戻った。
 一ノ畑邏卒が、四つ目をひらいた。首を抱いていた。五つ目をひらいた。首はあった。どれもこれも、凶悪野卑な面貌の首が。――
 五つの棺桶には、みんな首を抱いた屍骸がはいっていた!
「おい、やはりなかったか」
 と、経四郎がはいって来て、ふたのひらいた棺桶群を見わたして、
「みんなあるじゃないか。あるはずだ。ここから首を盗み出すなど、そんな大それたことが出来るわけはない。あれはあんまり奇抜過ぎる。……」
 と、いった。それから一ノ畑邏卒をつかまえて、
「これ、いま聞くと、きょう囚獄所に来た肥《こえ》の汲取りと応接したのはお前だそうだな」
 と、尋ねた。
「へい、きょうばかりでなく、ここの肥の汲取りは私のかかりで……あれでも、少しは役得《ほまち》がありますんで。……」
 と、一ノ畑曾八は頭をかいた。礼として大根や菜ッ葉などもらえる、という意味だろう。
「それできょうの汲取人は、いつものやつか」
「いえ、ちがいました。いつもの汲取人が病気なんで代って来たといって、その口上にべつに不審なところもないので、そのまま汲ませてやりましたが、それがどうかしましたんで?」
 この問答を聞きながら、川路は茫然としてそこに立ちつくしている。さっき霊感のごとくひらめいた彼の推理は、すべて根本から崩壊した。
 牢屋下男が、二、三人、間のびした顔をのぞかせた。
「そろそろ小塚原へ参りますが」
 一ノ畑曾八がふりかえった。
「旦那、縛ってよろしいんで?」
 川路が阿呆のようにうなずくと、曾八は下男たちに手伝わせて、ふたたび五つの棺桶に荒縄をかけはじめた。

    八

 三月にはいったばかりの夜であったが、河面を吹く風はすでになま暖かい南風であった。
 隅田川の堤《つつみ》に、篝火《かがりび》が燃えていた。人々はその河を背に、みんな今戸の森や林のほうを向いている。
 そこに、時ならぬ古代楽器の音とともに、異様なアクセントの、美しい女の声がながれはじめた。
「アワリヤ、アソビハストモ、モーサヌ、アサクラニ、アリサカイヘイノ、ミタマ、マイリタマエ。――」
 椅子にならんでいるのは、例のごとく弾正台のお歴々、真鍋父娘《おやこ》、川路、香月の大巡察、そして五人の邏卒|囃子《ばやし》だ。
「イマ、マイル。……ワタシハ、アリサカイヘイダ。アリサカイヘイノ、タマシイダ。……シノセカイニキテ、ワタシハ、ハジメテ、セイノセカイガ、ミトオセル。……」
 堤の上に坐らせられているのは、湯浅安足、百姓の老人とその娘、それから青木弥太郎であった。その日の夕方、ふいに浅草でつかまって、無理にここに連行されて来たときも、「やいやい、おれをどうしようってんだ。昔は石鉄《いしがね》抱いた青木だが、御一新以来、お上《かみ》につかまるようなまねは何もしていねえぞ!」とわめきたてていた弥太郎も、いまは毒気をぬかれたように、地べたからこの光景を眺めている。
「ヤマシロヤノ、シュジンハ、フランスヘ、ニゲタ。ワタシハ、トリノコサレタ。シュジンヲ、ミオクッタ、ソノハトバデ、モウ、ダンジョウダイノ、ラソツガ、ワタシヲ、ジンモンシタ。コノママデハ、シュジンノ、テアシ、トナッテ、ハタライタ、ワタシガ、ツカマル。ツカマッテカラ、ヤマシロヤノ、ジケンニツイテ、アクマデ、シラヌ、ゾンゼヌ、デ、オシトオス、ジシンハ、ワタシニ、ナイ。ワタシハ、ニゲタ。……」
 金髪の巫女《みこ》は、うたうようにいう。
「ダンジョウダイニ、メヲ、ツケラレタウエハ、ワタシヲ、タスケテ、クレルモノハ、リクグンシカ、ナイ。シカシ、ソノリクグンハ、カイケイノ、セキニンシャ、ユアサヤスタリドノヲ、クビニシタ。……イヤ、ソノユアサドノハ、イマドノ、ヤマシロヤノ、リョウニ、センプク、シテイル。ワタシハ、ソコヲタズネタ。ワタシハ、イツモ、リョウノ、ウラモンカラ、ハイッタ」
 湯浅安足は、信じられないものを見るように、凝然として、エスメラルダの美しい、怖ろしい唇を見つめている。
「トコロガ、ユアサドノハ、イザトナッタラ、ジブント、オマエダケガ、スベテヲ、セオッテ、アノヨニユクノダ、ト、イッタ。……ワタシニハ、ソンナバカナコトハ、デキナイ。ワタシニハ、ハハモ、ツマモ、サンニンノコドモ、モイル。ワタシハ、ソンナメニ、アウタメニ、ヤマシロヤノ、バントウニ、ナッタノデハナイ。ワタシハ、アイガンシ、ユアサドノハ、ガンコニ、ハネツケタ。……」
「おれをおどしたのは、きさまのほうだ!」
 突然、われを忘れたように湯浅安足がさけび出した。
「シダイニ、ユアサドノハ、ワタシトイウ、キケンナ、ショウコニンヲ、マッサツ、スル、ケイカクヲ、カタメタ。……」
「き、奇怪な世迷いごとを」
 湯浅はうめいた。
「その化物を黙らせろ」
「弾正台が聞いておるのだ」
 と、香月経四郎が叱咤した。
「ソノウチ、アオキヤタロウガ、ユスリニキタ。ラソツガ、ハリコミヲ、ハジメタ。モウ、アンカント、シテイラレナイ。シカシ、ワタシ、アリサカイヘイヲ、コロシテ、アト、シタイヲ、ドウスルカ。イツマデモ、オルコトノ、デキナイ、リョウノニワニ、ウメルコトハ、ココロモトナイ。オオカワニ、ナガシテモ、ハッケンサレル、オソレガアル。……ソコデ、ユアサドノハ、ワタシヲコロシ、シカモ、ソノシタイガ、ナニモノカ、ワカラナイ、スクナクトモ、ジブントハ、ナンノカンケイモナイ、ニンゲン、デ、アルトスルコトニヨッテ、ゴウインニ、オシトオソウトシタ」
 奇妙|奇天烈《きてれつ》な魔界の音楽は鳴りつづけている。
「タマタマ、ユアサドノハ、チカクノ、ヒャクショウガ、コデンマチョウノ、シュウゴクショノ、コエノ、クミトリニン、デアルコトヲ、シリ、ソコカラ、ソノヒ、シュウゴクショデ、ザイニンノ、クビキリガ、アルコトヲ、シッタ。ソコデ、ユアサドノハ、ソノクミトリニンニ、バケテ、シュウゴクショニ、ハイリ、ソノクビヲヌスミ、ジブンノコロシタ、ワタシノ、ドウタイニ、ソノクビヲ、クッツケテ、ワザト、ラソツニ、ミセツケル、トイウ、イチカバチカノ、ホウホウヲ、トルコトニシタ」
 川路の眼は、かっとむき出されたままであった。彼の推測は的中していたのだ。
 しかし。――
「カクテ、ソノゼンヤ、イツモノヨウニ、ラソツニ、ミツカラヌヨウニ、ハタケヲ、トオッテ、ウラモンカラ、リョウニ、ハイッタ、ワタシヲ、ユアサドノハ、サケニ、イワミギンザンヲ、イレテ、コロシタ。ソシテ、クビヲ、セツダンシタ。ユアサドノハ、マグサキリニ、ワタシノクビヲ、ノセテ、カタテデ、キッタノダ。ソレカラ、シタイノ、ドウダケヲ、ウラモンノ、ソトニ、ハコビ、マグサキリハ、チカクノ、ノダメニ、ホウリコンダ。ヨルノシゴトデ、コオンナハ、ナニモシラナカッタ」
「有坂伊平の屍体を消す」のが目的なら――その首はどう始末したのだ? と、さけび出しかけて、川路は声をのんだ。降霊行為中、エスメラルダは、現実世界のものは受けつけない。
「アノヒ、ユアサドノハ、ミゴトニ、シュウゴクショカラ、クビヲ、ヒトツ、ヌスミダシタ。シュウゴクショデハ、セイモンノ、ミハリコソ、ゲンジュウダガ、シタイオキバノ、ソノヒノ、バンニンハ、ヨソニデカケテ、オシャベリシテイル、シマツダッタノダ」
 一ノ畑曾八は、哀れな顔で、夢中で横笛を吹きたてている。
「ソノルスニ、ヤマガタサマガキタ。ソノトキ、ユアサドノガ、ルスデアッタコトハ、コオンナモ、シッテイタガ、ユアサドノハ、メ、デ、アイズシテ、ダマラセタ。――アトハ、ミンナ、シッテイル、トオリダ。ユアサドノハ、リョウノソトデ、ハッケンサレタ、ソノシタイハ、イチオウ、アオキヤタロウノ、イヤガラセダロウトカ、ムカシノテキノ、シカエシダロウトカ、イイノガレヨウトシ、ソレガ、トオラナクナッテモ、ケッキョク、クソマミレノシタイハ、ナニモノカ、ワカラナイコトニナッタ。……」
 シャラン! と、神楽《かぐら》鈴が鳴った。
 元陸軍会計副監督、湯浅安足は全身硬直したままであった。
「ユアサドノハ、アリサカイヘイ、トトモニ、リクグンノ、ヒミツヲモ、ホウムリサッタ。……」
 声が低くなった。――エスメラルダが降霊の呪言の終る例の前兆だ。
「ま、待ってくれ」
 あわてて、川路が呼びかけた。
 繰返すが、彼の推測はまさに的中していた。しかし……しかし。……
「一つだけ答えてくれ。盗まれたはずの囚獄所の首はみなあったぞ。あれはどうしたのじゃ?」
「ソノクビハ。……」
 と、現実世界の声は受けつけないはずなのに、地にしみいるように異国の巫女はいい、しかし、それっきり沈黙して、金髪の頭を垂れた。
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  正義の政府はあり得るか


    一

 四月はじめの昼過ぎ、香月経四郎《かづきけいしろう》が、弾正台への出勤を遅らせて、佐賀屋敷の中の家の、白い障子に青葉の影のさす部屋で書きものをしていると、訪れて来た、二人の客があった。
 一人は、同僚の川路利良《かわじとしよし》だが、もう一人は黒い軍服をつけた軍人で、みごとな髯《ひげ》をはやし、見るからに精悍《せいかん》の気を放射している男であった。
「これは、同郷の陸軍少将、桐野利秋どんじゃ」
 と、川路が紹介した。
「例の山城屋事件についてじゃがの。おいの説明じゃ物足らんで、おはんの話を聞きたか、と申されるのでお連れして来た」
「いや、川路の話は、まるで雲をつかむようでな」
 と、桐野利秋はいった。
 陸軍|御用達《ごようたし》の山城屋和助が、陸軍から眼をむくほどの大金を借りたまま、和助は国外逃亡し、責任者の一人元陸軍会計一等副監督湯浅|安足《やすたり》が免職になり、さらに山城屋の番頭有坂伊平がその湯浅に殺害され、湯浅は弾正台に逮捕された。――この事実が伝えられるに及んで、陸軍内部では、当然のことながら、火のついたような騒ぎとなっていた。
 ただし、新聞らしい新聞もない当時、これは一般人には夢にも感じとれない雲中の雷電だ。しかも、むき出しの藩閥意識の壁が幾重にもたちふさがっていて、内部でも真相がよくわからないといった状態であった。
「おいは陸軍会計の帳簿を出させて調べたんじゃが、山城屋に一時金を預けたものの、和助が渡航する前に無事返納された旨、ちゃんと記入されて帳簿は合っちょる。それにしても腑《ふ》に落ちん事《こつ》があり過ぎるが、おはん、何かつきとめた事《こつ》があるか」
 と、桐野は眼をひからせていった。
「川路に訊《き》くと、この件についちゃおはんのほうが詳しかっちゅう事《こつ》じゃが」
「いや、そんなことはありません」
 経四郎は首をふった。
「とにかく、兵部省内部の隔壁は厚い。それは、つかまったあとのあの湯浅さんの態度を見てもわかりましょう」
 湯浅安足は、山城屋事件についての厳烈な追及に対して、ついに知らぬ存ぜぬで押し通し、十日ばかり前、ギロチンで処刑されたのであった。
「湯浅は死刑になったっちゅうな」
「は」
「真相も究明出来んうちに、なぜ処刑したんじゃ」
「あまり強情なので、海江田大忠が御立腹になり、早いうちに処刑してしまえ、と、おっしゃったので」
「俊斎《しゆんさい》どんか」
 海江田信義のことだ。同郷人として、その気性の烈しいことを知っている桐野は苦笑した。
「それじゃ、何の罪で死刑にしたんじゃ」
「山城屋の番頭を殺害した罪です」
「なんでその番頭を殺したっちゅう?」
「あらぬいいがかりをつけて自分を脅迫したからといい、そのいいがかりの件については、もういちどあの異人の巫女《みこ》に呼び出してもらって、有坂伊平から聞くがよかろう、おれの知ったことではない、といい張って、ふてくされ笑いしてギロチンに上りました。ま、罪人ながら、ある意味では一応の人物でござった」
「長州人はあれでしぶとかからの」
 桐野は舌打ちした。
「それじゃ、この件は、弾正台もあきらめたのか」
「いえ、追及するのは山城屋の線だ、と思っているのですが」
「しかし、大将の和助はフランスへ逃亡し、番頭は殺された。……」
「だから、近いうちに私がフランスへいって、和助をとっつかまえてやろうと考えているのですが」
「へえっ?」
 川路のほうが奇声を発した。彼はまじまじと経四郎を眺めた。
「香月、本気か」
「本気だ。弾正台のほうで許可があれば」
「そりゃよか! そりゃよか!」
 桐野利秋は手を打ち、はじめて髯面を笑いに変えた。
「おいも、その件についちゃ弾正台に談じてやろう。……とにかくこのままじゃ、すまされん。奸猾《かんかつ》な長閥にやりたか放題にやられておっちゃ、陸軍は滅ぼされてしまう」
 彼はふと、頭を左右にうごかし、声をひそめて、
「ところで、そのフランスの巫女《みこ》じゃがの」
 と、いった。
「おるのか?」
「おります」
「その、ひとつ、おいにも見せてくれんか。おいがきょうここへ来たのは、山城屋の件もさる事《こつ》ながら、おはんが飼っちょる……いや、いっしょに暮しちょる、その金髪の巫女とやらを、いっぺん見物したくて来たんじゃが」
「それが、いま仕事中でありましてね」
「仕事中。――」
 また川路が、けげんな声をさしはさんだ。
「またフランスの書物の翻訳だ」
 と、経四郎はいった。
「これがどうも急ぎの用でね。こんどは本人にも難しくて、仕事中に気を散らさせると怒るのだよ」
「そうか。それじゃ、その巫女どんに拝謁するのはまたにしよう。いや、おはんがフランスへいって山城屋をつかまえるっちゅうのはよか。是非頼む。おいも来た甲斐があった」
 気ぜわしく起ちあがる桐野を、経四郎と川路は佐賀屋敷の門まで送り、桐野だけ帰して、二人はまた戻って来た。この間、桐野と川路は同郷で、しかも川路が二つ三つ年上と見えるのに、桐野のほうが横柄《おうへい》で、川路のほうがつつましやかであった。身分がちがうからしかたがない。
 ――なんぞ知らん、六年後、一方は叛乱薩軍の将として、一方は警視庁抜刀隊の将として、西南の硝煙の中に相まみえ、勝敗ところを変えようとは。
「あれは困るな」
 と、経四郎がいった。
「あのひとの胸中には、ただ長州憎しの藩閥意識しかない。なるほど山城屋事件は長州人ばかりからんでいるが、私は長州打倒のためだけに探索しているわけではない」
「いや、すまん。しかし、あれはむかし人斬り半次郎といわれたほど猛烈な御仁でな。何をモタモタしちょるか、と、おいの尻をたたき、おいはたまりかねて、おはんのところへ持ち込んで来たんじゃ」
「川路さん、あんたはいいな」
「何が?」
「同じ薩摩人でありながら、薩だの長だのに恬淡《てんたん》としているじゃないか」
「そうでもなかが。……」
 川路は苦笑した。経四郎は、その肩を抱くようにしていった。
「とにかく、せめてわれわれ両人だけは、政府の不浄役人の掃滅、それだけの目的のために働こう」
 それから、ふと思い出したように経四郎はいった。
「それ、例の福沢さんな」
「福沢諭吉どんか」
「左様。あの先生、だいぶ前から三田の島原藩邸を払い下げてもらうように政府に働きかけておったが、とうとう目的を達して、この三月、塾を芝新銭座から三田に引っ越したそうだ。……しかも、一万四千余坪をたった五百何十円か、その金を強引に東京府庁に置いていったという」
「ほう」
「かんじんの島原藩のほうじゃ、頭越しに自分の屋敷が払い下げられて大立腹、青筋たてて、福沢にかけあったが、福沢はあごをなでて、自分は政府から払い下げてもらったのだから、文句は政府にいってくれ、と、はねつけたという。――福沢さんだが、少々タチがよくないようだな」
「島原藩は気の毒じゃの」
「どうやら近いうち藩そのものが無くなるようで、そこを福沢は見すかしたのだろう。……政府を手玉にとるだけでも、福沢も一種の特権者だ。私は、こういうことも黙って見すごすわけにはゆかんと思うがどうだ」
「同感じゃな」
 川路が経四郎とともにひき返したのは、経四郎がこれから身支度して弾正台へ出勤するというので、それと同行するためであった。
 ふと、
「ところで、エスメラルダどんが翻訳しちょるっちゅうのは、また真鍋どんの口ふさぎのためか」
 と、川路が訊いたのは、いつぞやの江藤新平から依頼されたフランスの法律書を手はじめに、以来、しばしば経四郎がどこからかフランスの本を持って来て、エスメラルダに翻訳させる。それが、彼女の帰国をすすめてやまない真鍋直次《なおつぐ》への口実であることを見ぬいての言葉であった。
「いや、それが真鍋の伯父上からの命令なのだ」
 と、経四郎は笑った。川路はけげんな顔をした。
「あの、真鍋どんが、フランスの本を? そりゃまたどげんしたわけじゃ」
「まったく奇妙な依頼で、私もめんくらった。十日ほど前になるかね、風呂敷につつんだ一冊の本を持って来て、大至急これを翻訳してくれという。しかし、自分が頼んだことは絶対秘密にしてくれという。……」
「ふうむ。……」
「真鍋の伯父自身がそんなものを必要とするわけはないから、一応出どころは江藤さんか大隈さんじゃないかと思うんだが、しかしことさら、ないしょにしてくれというわけがわからん。強《し》いて考えれば、ま、その本の中身に問題があるのじゃないか」
「どげな書物か」
「ル・キャピタルとかいう――エスメラルダにも難物らしくて、大汗かいてどうにか訳してくれるものを、私が何とか日本文らしいものに書き直しているのだが。……」

    二

 西暦一八七一年五月下旬――パリ・コンミュンは弾圧され、パリは燃えていた。前年の普仏戦争敗北の結果、蜂起したパリ市民による世界最初の労働者階級の革命政権は、その三月からの反動政府との戦闘に敗れ、いわゆる「血の一週間」を迎えて、殲滅《せんめつ》されつつあった。――それは、日本の明治四年四月十日前後にあたる。
 ヨーロッパから日本へ、片道で二カ月前後かかる当時、そんなニュースはまだ日本に伝えられない。また伝えられたとしても、この事態は、日本人にとって――四年前、日本人なりの「革命」をやったはずだが、それでも――異次元の遊星の物語としか判断出来なかったろう。
 川路利良が、西郷隆盛の屋敷に呼ばれたのは、その四月十日のことである。
「先生がちょっとおはんに頼みたか事《こつ》があるとお呼びごわす」
 と、側近の逸見《へんみ》十郎太が使者に来たとき、川路ほどの人間が胴ぶるいした。
 ――西郷先生が、自分をお呼びじゃと? 何の御用じゃろ?
 訊《き》いても、逸見は知らないといった。ただ、
「悪か用ではなかようでごわすぞ」
 と、微笑した。
 西郷から名ざしで呼ばれたなどはじめてのことだ。それどころか、川路一人、相対《あいたい》で西郷に逢ったということさえない。また、自分のほうからあえて近づこうとしたこともない。――川路には、まったく見当がつかなかった。
 逸見十郎太は馬で来たが、川路を乗せる馬も用意して来ていた。
 二人は、西郷がいる市ヶ谷の元尾張藩中屋敷へ同道した。ここのところ帰国していた西郷がまた上京して来たのは、この二月はじめのことで、彼はこの屋敷を自分のものとしたというより、一種の兵営として、その中に自分の居所を求めたといった状態であった。
 で、門内はいたるところ、兵隊が右往左往している。
 逸見は、その兵隊の一人に訊き、やがて案内したのは、その兵士たちのいない緑の影ふかい奥庭の中であった。
 そこに四阿《あずまや》があって、まんなかに、巨木を胴切りにして短い足をつけた卓|様《よう》のものがあり、軍服姿の二人の人間が坐っていた。一人は西郷だが、もう一人の顔を見て、心中川路は、これは、と眼をまるくしていた。兵部|少輔《しようゆう》山県有朋である。
 直立不動の姿勢で敬礼する川路に、
「おう、川路どん、久しぶりじゃな。まあ、そこに坐んなさい」
 と、西郷は笑顔で、卓の向い側の椅子をさし、
「逸見はもうよか、あっちへいっちょれ」
 と、追いはらった。
 卓の上には、何やら液体のはいった褐色の瓶が四、五本と、コップが三つ、それに大きな笊《ざる》にそらまめのゆでたものが、青あおと山盛りになっている。
「川路どん、きょう、ここへ来てもらったのはな」
 と、西郷はいい出した。
「おはん、例の山城屋の事件について調べちょるらしかが、その事《こつ》についてじゃ」
 川路は、はっとしていた。
「こげな話は、おいどん不得手じゃで、単刀直入にいうが――その調べをやめてくれんか」
「……は?」
「ありゃ、この山県どんの大しくじりじゃった。山城屋に陸軍の金を貸した張本人はこの山県どんじゃ。昔、奇兵隊の同僚じゃったっちゅう友情と、山城屋の商売上手っちゅう評判への信頼で、ふと魔がさしたんじゃな。しかし、山県どん自身は、むろん一銭も私しておられん、といわれる。おいは山県どんを信じる」
 山県有朋は、細長い顔をした石地蔵みたいに動かない。顔色までが石のようだ。
「山県どんは、何もかも握りつぶしてくれとは申されん、ただこの事《こつ》が公けになるのを、いましばらく待って欲しか、必ず近い将来、山城屋をフランスから呼び戻し、責任をもって処置するといわれる」
「お言葉ごわすが」
 と、川路はやっと口をきった。
「たとえ山県閣下御自身は御潔白としても――山城屋に陸軍の金を貸されただけでも重大な責任じゃと思いもすが」
「山県どんも、そう思われちょる。しかし、山県どんはいまの陸軍にとって、無くてはならんお人じゃ、おいはたった一人の陸軍大将じゃが、おはんも聞いとろうが、ただ昼寝ばかりしちょる大将でな。事実上、切ってまわされちょるのはこの山県どんじゃ。この人がなけりゃ、出来たばかりの国軍がつぶれる。いや、大苦労してせっかく作った新政府が、どうなるかわからんぞ。こりゃ一大事じゃて」
 西郷は、卓の上に両腕をついた。
「頼む頼む、川路どん、この西郷が頼む」
 そして、大きな頭を下げた。
 川路の身体にふるえが走った。
 かつて彼は、西郷を買う香月経四郎に対して、大久保のほうをあげた。しかしそれは政治の実務能力についてだ。そして、政治家は実務能力こそ第一、という考えはいまも変らないが、人物において第一等と西郷を見る眼は、そのころもいまも、これまた変らない。それどころか、西郷を別世界の巨人として神格化していることは、西郷のまわりに雲集している連中に決してひけはとらない、と自分でも感じている。
 その西郷に、両手をついてお辞儀されて、彼は脳髄までしびれる思いがした。
「あいや、先生。……川路は一介の弾正台の下役人に過ぎず。――」
 やっと彼はいった。
「その件についちゃ、陸軍の桐野どんなどが騒いでおられもすが」
「桐野はおいがおさえる」
 と、西郷はいった。――愛弟子の桐野利秋をおさえて、長州の山県有朋を助ける。西郷が藩閥意識を超越していることは明らかだ。
「心配なのは、弾正台のおはんじゃ、と、山県どんがいわれる。山県どんのほうも、よく調べられたらしか。それで、おはんを呼んだ。まげて、聞いてくれんか」
「川路は……承知しもした!」
 と、しぼり出すように川路はうめいた。
 これを承知しない薩摩人があろうか――というのは事実だが、それ以上に、川路にはこういう下地《したじ》があったのだ。政府というものは、しょせん正義の具現者ではあり得ない、という思想があったのだ。
「ただ、しかし」
 と、彼はいった。卒然として、政府は正義の具現者であるべきだ、と高唱する人間の顔が頭に浮かんで来たのである。
「弾正台にはもう一人、山城屋事件を追及しちょる男がありもすが、これがなかなか手強《てごわ》かやつで。……」
「それも山県どんから聞いた。佐賀の男じゃろ」
 と、西郷はうなずいた。
「その男にゃ、山県どんに何か策があるらしか。それについての相談は、あとで山県どんとやってくれ。……おいの役目は、ひとまず終る事《こつ》にする。……では、頼んだぞ」
 と、西郷は、コップの液体をぐっと飲みほし、
「ああこりゃ、異人からもらったビールっちゅう酒じゃ。麦から作ったものっちゅうが、なかなか美味《うま》か。飲みながら二人で話せ」
 と、いって、手ずから瓶のビールを別のコップについで、川路の前におしやり、起《た》ちあがった。
「おう、そうじゃ。いや、この話を先にして、おはんにつむじをまげられると困るでな、いまいうが、弾正台は近いうち廃止になるぞ」
「――えっ」
 川路は、眼をむいた。
「どうも弾正台は、頑固者ばかりそろえて、えらかものを作ったと、おえら方は後悔しちょるようじゃ。弾正台っちゅうと、役人どもはうなされたような気になって――実は、持て余したらしか」
 西郷は、からからと笑った。
「いや、それは冗談じゃが、弾正台と刑部《ぎようぶ》省の仕事がいりまじって、いろいろ不便な事《こつ》があるっちゅう。それで、その二つを一つにして、司法省っちゅうものを作るげな」
 川路は黙って西郷を見あげている。
 ――実は、当時の司法機関に、もう一つ刑部省というものがあったが、それによる混乱は川路もよく体験していた。簡単な例をあげると、民間人が役人にワイロをおくった場合、前者をつかまえるのが刑部省で、後者をつかまえるのが弾正台だ。しかし、実際上、こういう所管ちがいの不都合さはいうまでもない。
「その初代の司法卿は、江藤新平どんがなるっちゅう。何もかも薩長にとられちゃ困るっちゅう肥前の要求で、これは無理もなか」
「江藤どんが……そりゃ、しかし、弾正台より怖かお人ごわすぞ」
 と、川路はいった。
「うん、おいはゆくゆくおはんをその職につけたかが……いまのところは、まさか、一足飛びに、そげなわけにゃゆかん。そいでな、邏卒っちゅうものを六千人にふやしてな、その邏卒総長を川路利良にせえといっておいた。おはんをその役につけて、手綱をとらしておけば、まずまちがいなかろ」
 青葉の影の中に、川路は稲妻に照らされたような思いがした。
「こりゃ、いま突然思いついた事《こつ》じゃなか。おいが、だいぶ前から考えちょった事《こつ》じゃて……そのつもりで、しっかりやってくれ」
 ――いつであったか、江藤新平が、そんなことをいった。そうだ、もし将来、警察の組織を本式に整える日、その指揮者に薩摩人から人を出せというなら、まず川路だ、と西郷先生がいった、と江藤はいった。
 それを思い出したが、川路はしばし声もない。
「それじゃ、山県どん、あとはよろしく」
 と、西郷は歩き出しかけたが、ふと巨体をかがめて、足もとから一つの鞠《まり》を拾いあげた。
「こげなものが、この卓の下に隠れちょった。どうやら、昔、尾張藩の侍の子のものらしか。何やら名が刺繍してあるが、川路どん、読めるかな」
 と、つき出した。
 綿を心《しん》にして糸を巻いて作った鞠だが――卓の下に転がりこんで風雨をまぬがれていたとはいえ、あちこち糸がとけて、古風な上にいよいよ古ぼけたしろものだが、川路はやっと読んだ。
「はせがわ・たつのすけ、と読めもすが」
「ほう、こりゃ男の子のものか。尾張藩じゃ男の子でも鞠をついたのか」
 西郷は手鞠を受けとり、
「しかし、そげに風雅なお大名のお屋敷が、薩摩の芋どもが横行する兵舎となる。時世《ときよ》時節じゃな」
 と、笑って、その鞠をかるく空中に投げあげながら、のそのそと庭のかなたへ去っていった。
 深沈たる談合を持ちかけたあと、そんな稚気満々たる戯れを見せる――西郷ならではの神変の風姿といっていいかも知れない。
 ――はせがわ・たつのすけ、長谷川辰之助。のちの二葉亭四迷である。
 彼はいま一家とともに国元の名古屋に帰っているが、元来が江戸詰めの尾張藩士の息子で、この屋敷の長屋に生まれ、明治元年、五歳のときまでここに暮していた子供なのであった。
 むろん、川路の頭からは、そんな名はおろか、手鞠のことさえ消えている。
「川路大巡察」
 石地蔵が、はじめてものをいった。
「世話になる」
「は」
「陸軍の会計のほうは、いま一応空手形で埋めておいたが、長く持つ話ではない。その香月経四郎という男じゃがな、貴公と親友らしいが、貴公がいってもきかんか」
「親友ではありますが、おいにもよくわからんところのある、怖ろしかやつごわす。そりゃ、そげな事《こつ》頼んでもききますまい。政治家、軍人、官員の悪事を退治する事《こつ》を生甲斐としちょる男ごわすで」
 山県はにがい顔をした。
「ふしぎな能力を持つ異人の巫女《みこ》をあやつり、そのくせ当人は、弾正台のお歴々の前に出れば、好んで祝詞《のりと》のごとき言辞を弄し、そのため絶大なる信用を博しちょりもす。いやなに、弾正台の信用を買うために、その女を使い、そげな祝詞《のりと》をとなえておる……それもこれも、ただ汚職役人退治っちゅう大目的のためじゃとおいは見ちょりもす」
「………」
「左様、山城屋事件についても、香月はちかいうち、フランスまで山城屋を追っかけにゆくと申しちょりますぞ」
 山県はしゃがれ声を出した。
「弾正台が廃止になってもだめか」
「――おう、いま承れば、こんどの新しか司法の長官は江藤どんっちゅうじゃごわせんか。それなら同郷、やあ、香月の弟はたしか江藤どんの愛弟子、そりゃ、もっと危なか事《こつ》になりますぞ。そういえば香月経四郎、一見、そこらの下っ端《ぱ》役人をつかまえるのを仕事としちょるようで、実はそれをとっかかりに、もっと上のほうへ眼をつけておるような気がしもす。……」
「江藤の司法卿就任は、どうにもならなんだ。……」
 依然、細長い顔は能面のような無表情だが、苦悩の色は覆いがたい。――いや、のちの日清日露の両戦役、その他政治上、よきにつけあしきにつけ、何十回か苦悩のときを過したであろう山県有朋の長い人生の中でも、最も彼を懊悩《おうのう》させた、弁明の余地なき大難はこの事件であったといっていい。
「江藤が司法卿となる前に、その男何とかせねばならん。……そやつがフランスへゆく前に何とかせねばならん」
 うわごとのようにくりかえし、山県の顔に凶相が現われた。
「実は、川路君、君の話を聞く前に、香月のことは一応調べて、手が打ってある。少々強引なところがあって、有朋自身あまり感服せんのじゃが、君の話によって、やはりその手を進めるよりほかはないという結論に達した」
「手を。――」
「香月本人にしかけるのは逆襲をくらうおそれがあると見て、からめ手から、その異人の巫女《みこ》を――ありていにいえば、罠にかけることにしたのじゃ」
「とは?」
「禁断の書籍を所持翻訳したという罪でとらえる。それとひきかえに、香月を黙らせるのじゃ」
 川路は、あっといったきり、口もきけなくなった。
「では、あれが――あの真鍋どんが翻訳を頼んだっちゅう――」
「知っておるか。だれかほかにも知っとる者があるか」
「いや、たしかないしょの依頼と申しておったので、おそらくおい以外にゃ知りもすまいが」
「あの真鍋は同じ兵部省の少丞《しようじよう》。しかもあの老人が、その異国の巫女を是が非でも、いっときも早く香月から遠ざけたい、日本から消えてもらいたいと焦《じ》れておる、という話を聞いてな。……呼んで、談合したら、承知してくれた」
「あの老人が――」
「かりに、その本の出所が真鍋だということになっても、フランス女の罪は消えぬが、得べくんば、真鍋の線は出ぬように、その他いろいろ貴公の尽力を願いたい。いや、貴公の助力がなけりゃ、この計画はうまくゆかん」
「その本とは?」
「真鍋にゃフランス語の本を渡したが、原本はドイツ語のもので、一応訳させたものを読んで見た。実に怖ろしい書物で、その害悪たるや、キリシタン・バテレンの本どころではない。これからの日本にゃ、紙片の一行たりともいれてはならん本じゃ。翻訳した人間は充分極刑に値する」
 切支丹禁制の高札も、まだとり払われていない明治四年のことである。
 日がかげり、青葉の下の四阿《あずまや》に、二人の影がすうと黒くなった。
 遠くで、どっと笑う声がした。その中で、西郷の声がひときわ高かった。西郷隆盛は兵士たちと鞠《まり》投げでもしているのかも知れない。――山県と川路は、それっきりしばし黙りこんだ。
 ――さっき、六年後、川路は桐野利秋と戦塵の間に相まみえることになるといった。しかし、明治十年、川路の眼中には桐野輩などはなく、ただ大西郷あるのみであったろう。そして、城山総攻撃の官軍の指揮をとったのは山県有朋であった。
 おのれを一躍|抜擢《ばつてき》し、またその大難を救ってくれた西郷を、「国家のために」この両人は裏切るのである。見ようによっては、西郷みずからまいた種《たね》というべきか。
 ――そんな因果はともあれ、この山城屋事件についての西郷のフィクサーぶりは、いかなる西郷ファンも首をかしげざるを得ない、彼の美点、寛仁大度の度が過ぎた一例といえるだろう。

    三

「おい、フランスへゆけるぞ。渡航のお許しがあったぞ」
 五月のはじめ、帰って来てまずそう報告した経四郎に、エスメラルダが、
「ケイシロウ」
 と、変な表情でいった。
「アノ、ホン、ムッシュウ・カワジガ、モッテ、ユキマシタ」
「なんだって?」
 経四郎は狐につままれたような顔をした。
 例のル・キャピタルは、三日ほど前、やっと訳し終って、そのことを真鍋|直次《なおつぐ》に知らせたのだが、まだ取りに来ない。あれほど急いでやれといったくせに、と経四郎は拍子《ひようし》ぬけしたが、しかたがないからそのままにしていた。
 それを、同僚の川路が持ち去ったという。――彼は首をかしげたが、それ以上深くも考えなかった。エスメラルダが川路に渡したことをとがめる気にもならなかった。
 それから数日間、弾正台で川路に逢うことも出来なかった。川路が出勤して来ないのだ。それでも経四郎は、べつに疑うこともしなかった。役目の性質上、彼だって毎日登庁しているわけではない。ただ、いちど許可になった渡航が、その後、弾正台の上のほうから「しばらく待て」と、ストップがかかったことには不審をおぼえたが、それでもル・キャピタルと結びつけて考えることもしなかった。
 驚倒すべき災厄が降って来たのは、五月十日のことである。
 その日の夕方、一人残った経四郎が退庁しようとしていると、川路が部屋にはいって来た。ほとんど十日ぶりに逢ったのだが、経四郎はまず眼を見張った。
「どうしたのだ、川路さん。――」
 べつに顔色が悪いわけでもなく、憔悴《しようすい》しているわけでもないが、彼は川路の、そんな――沈痛といおうか、悽愴《せいそう》といおうか、そんな表情をはじめて見た。
「香月、大変なことになった」
 と、川路はいった。
「エスメラルダどんがつかまった」
「エスメラルダが?」
 経四郎は、あっけにとられた。
「あの女が、何をして?」
「例の本――ル・キャピタルっちゅう本の事《こつ》で」
 数十秒、経四郎は二の句もつげなかった。
「いつ?」
「一時間ほど前だ。逮捕にはおいも立ち合い、すでに小伝馬町の囚獄所に送った。――」
「それが、あの本を訳した罪でか?」
「すまん、香月、おいのしくじりじゃ」
 川路は頭を下げた。
「あの真鍋どんが、大急ぎでフランスの本を訳せと頼まれたっちゅうのが、何とも面妖での。それが訳し終ったっちゅうので、ふと借りて、眼を通して見る気になった。すると――よくわからぬが、何とも気になる内容じゃ。それで、迂闊にも、あれを海江田どんに見せた。その結果――それが大忠連に回読され、さらに、大久保、木戸、井上、伊藤どんらおえら方まで眼を通されるなりゆきになって、つまり大変な事《こつ》になったのじゃ」
「………」
「あのル・キャピタルっちゅう本、実に怖ろしか本で、あれが翻訳されて日本に拡まると、これからの日本が立ちゆかん――むろん、いまの政府も土崩瓦解するほどの書物じゃっちゅう」
 川路は大袈裟な形容を持ち出したが、実にそれは、カール・マルクスの「資本論」なのであった。マルクスがこの本を著わして刊行したのは、一八六七年、日本の慶応三年のことである。
 経四郎の顔からも、次第に血の気がひいていた。
 その書物について、川路のいうことを大袈裟とは思わない。彼も、真鍋直次が秘密にしてくれといったのは、その内容に問題があるのではないか、といったくらいだ。彼にも不可解な言葉は多いが、しかし漠然とそれが怖るべき本だとは感じていた。
 ただし、維新以来、洪水のようにはいって来る異国の本の一冊だ、と考えて、それを特別なものとも思わなかったが。――
 彼は、自分のフランスへの渡航が沙汰止みになった理由をやっと知った。弾正台は、その件で調査談合していたにちがいない。
「しかし」
 と、彼はいった。
「エスメラルダをつかまえて、牢にいれるとは――あれは真鍋の伯父から翻訳を依頼されたものに過ぎないではないか」
「それを、エスメラルダどんはいわん。逮捕のとき、おいが一応訊いたが、このごろフランスから送って来た本じゃというばかりじゃ」
「それを貴公が訊いた? 貴公は知っているではないか」
「香月、それをいっていいか。真鍋どんの名を出していいのか」
 経四郎は、はたと絶句した。
 真鍋直次は、伯父と呼んでいるが、ほんとうの伯父ではない。しかし亡父の親友で、ほんとうの伯父以上に、幼くして父を失った経四郎兄弟の面倒を見てくれた人であった。
「弾正台の……いや、長州のおえら方のけんまくでは、もし真鍋どんの名を出したら、真鍋どんはただではすみそうもなか。いや、佐賀のだれかが真鍋どんに頼んだっちゅうなら、それも容易ならん事《こつ》になるぞ」
「とにかく、小伝馬町にゆく。エスメラルダに逢う」
「待て」
 川路の制止をきかず、経四郎はつかつかと歩き出そうとした。あの本の依頼者はないしょにしてくれ、という約束を、彼女は可憐に守っているのだ。むろん、自分の指示を待っているにちがいない。
 入口のところまでいって、しかし経四郎ははたと立ちどまり、ふり返った。
「川路さん、なぜ私をつかまえぬ?」
 待て、と呼んだくせに、川路はしばらく答えなかった。口を切る言葉に苦しんでいるように見えた。
「エスメラルダを牢にいれたというのに、いっしょに翻訳した私をつかまえないのはおかしいじゃないか。それとも、貴公、私をつかまえに来たのか」
「おいは、相談に来たんじゃ」
 と、低い声で川路はいった。
「なんの相談」
「いまのル・キャピタルっちゅう本の事《こつ》に関し、一番強硬なのは山県兵部|少輔《しようゆう》じゃが。――」
 川路は咳ばらいした。
「どうじゃ、香月、山城屋事件から手をひかんか」
 経四郎はひき返して来て、川路の前に立った。そして、しげしげと、この親友にして「好敵手《リヴアル》」たる男を眺めた。
「川路さん、山県から頼まれたね」
 川路は天井を見ていた。
「貴公、二重底の男だと見ていたが……二重底の底はそんなものであったのか」
 川路は経四郎に眼を戻した。茫洋としていて、しかもふてぶてしい顔であった。
「おはんの正義は剣呑《けんのん》じゃ。おはんは、ただ木《こ》ッ端《ぱ》役人ばかりじゃなか。もっと上のほうを狙っちょるな。放っておけば――事と次第では、山県どんはおろか、井上、伊藤、木戸、大久保、岩倉の諸公、はては西郷先生さえ縛りかねん。……それじゃ、何のための弾正台か、弾正台は政府の一機関じゃなかか」
「弾正台は正義の庁であるべきだ」
 と、経四郎はいった。
「いや、政府そのものが、正義の政府であるべきだ。それに背叛する分子は、いかなる大官でも排除されるのが当然だ」
「それじゃ危険はおはんにはね返る。……香月、おいの忠告をきいてくれ」
「川路さん、とりひきはことわる」
「では、エスメラルダはどうなる?」
 経四郎はまた沈黙した。
 かっと川路をにらみつけたその両眼から、涙があふれ出した。
 この男が涙を流すなどいう現象をはじめて見る。ただし、川路は、経四郎の性格にこの一面のあることは充分承知していたが――さすがの彼も、これまたはじめて動揺して、うめいた。
「香月、まげて承知してくれんか」
「不承知だ」
 たたきつけるように経四郎はさけんだ。
 川路はうなだれ、顔をあげて、
「七日待つ」
 と、いって、部屋を出ていった。

    四

 経四郎は、小伝馬町の囚獄所へ走った。ところが、門番は経四郎の顔を見て、異人女はたしかに収監されているが、何びとも面会を禁じられております、と気の毒そうにいった。
 経四郎は、ついで真鍋直次のところへまわった。
 真鍋は佐賀屋敷に住まず、赤坂の葵《あおい》町に住んでいた。
 夜もふけ、雨がふっていたが、訪《おとな》うと、直次が玄関に現われた。うしろにお縫《ぬい》が、行燈《あんどん》をさげてついて出て来た。
「伯父上、早速ですが、例のル・キャピタルとか申す本の件につき」
 と、経四郎がいい出すと、
「な、何のことじゃ、それは?」
 と、直次はどもっていった。
「わしは知らんぞ」
 経四郎は黙りこみ、穴のあくほど直次の顔を見つめた。もともと、頑固だが、好人物の直次である。凝視されて、その顔が痙攣《けいれん》した。心が崩れかかるのを、必死にたえているのが見てとれた。
 ――実は直次としては、その本の翻訳の取次を依頼した人間の名はいえないが、とにかく佐賀藩の大物だ、その人に迷惑がかかっては困るから、どうかあの異人女の線でとめてくれ、と経四郎に、命令ないし哀願する策をとるつもりだったのである。
 それが、経四郎のただならぬ顔色を見ると同時に、予想していたことであるにもかかわらず、そんな策を弄する余裕を失ってしまったのだ。根が悪くない人物だけに、かえってミもフタもない、一見冷酷な反応となったのであった。
 お縫の笑顔が消え、けげんそうに二人を見て、
「どうなすったのでございます?」
 と、いった。お縫が何も知らないことはあきらかであった。
「経四郎さん、どうぞおあがりになって」
「ははあ」
 と、経四郎はいった。
「同じ穴のむじなですか。なるほど、そうあるべきです」
 真鍋直次はしゃがれた声でいった。
「経四郎、あの異人女はあきらめろ」
「わかりました。いや、御免」
 経四郎は、お縫に微笑をむけ、一礼して背を見せた。
「経四郎!」
 直次がさけんだが、ふり返りもせず、彼はスタスタと、雨ふりしきる闇の中へ消えていった。あとに、石のようにこわばった直次と、あっけにとられたお縫の顔が残った。
 驚くべきことは、その翌日からも経四郎が、いままで同様に弾正台に出て、目下かかわり合っている役人の汚職事件の取調べをしたり、報告書を書いたりして勤務をつづけたことだ。で、彼をめぐって、そんな事件が進行中であろうとは、同僚のほとんどが気がつかないほどであった。
 かえって、川路利良のほうが登庁して来なかった。
 この間、東京はただ梅雨の中にあった。
 川路が七日待つといってから七日目の五月十七日のことである。経四郎は、弾正台の大忠たちの前に呼び出された。そして、川路がそばに立っているのを見た。
「おん国体の基《もと》をゆるがす最も危険、最も有害の書を拡めんとした罪により、明日正午、エスメラルダ・サンソンを斬刑に処する」
 と、大忠海江田信義が厳然としていった。
「ただし、本来同罪たるべきお前は、特別のはからいをもって不問に付する」
 経四郎は黙って立っている。
 反応がないので、妙な顔をした少忠品川弥二郎が、おしかぶせるように、
「これは特に、大久保参議、木戸参議より許可を得た処刑である」
 と、つけ加えた。
 ――三年後の明治七年でさえ、すでに日本の法律に梟首《きようしゆ》はないはずなのに、あえて江藤新平を梟首にした大久保内務卿である。去年の暮に「新律綱領」は頒布《はんぷ》されたものの、あくまで綱領であって、なお裁判官――いや、裁判官ならぬ政府大官の恣意《しい》独断がまかり通っても、だれも怪しまないムチャクチャな時代であった。果して大久保利通が口をさしはさんだかどうかは知らず、経四郎が、全政府機関を敵としたことは明らかであった。
 これに異議をとなえる者のあるべくもない、と知りつつ、全然|畏《おそ》れいった顔をせず、さればとて抗弁もしない香月経四郎に、ふと少忠尾崎行正が、慰撫するかのような笑いを浮かべて、
「ただ、川路が同僚として、何か話があるそうじゃ」
 と、声を低めていった。
「お前も、いうことがあれば、川路にいえ」
「御断罪――了承しました。それ以上、何もいうことはありません」
 と、経四郎は静かに答えた。
 ここに至って、川路の表情にも愕然たるものが現われた。
「ただ、強《し》いてお願い出来ますならば。――」
 と、経四郎がいったのに、舌をもつれさせて、
「おお、経四郎、いえ」
 と、さけんだ。経四郎はいった。
「出来ますならば、その処刑は、被告人の家伝たるギロチンをもってし、かつ日本の断頭吏たる私、香月経四郎の手をもって行わせていただきたい。これがお願いでござります」
 川路はもとより、弾正台のお歴々も、背に水のながれる思いがした。

    五

 当時の五月十八日といえば、いまの暦で七月五日。
 梅雨はまだあがるとは見えないが、その日ばかりはひとまずやんで、ドンヨリした雲がひくく小伝馬町の囚獄所の甍《いらか》の上に垂れていた。
 いたるところ剥落し、ひびわれした練塀に囲まれた斬罪場に、四カ所|篝火《かがりび》が燃えしきっている。天気のいい日なら、真昼の篝火はおかしかろうが、銀鼠色にけぶった大気の中なので、夕闇に燃えているようにその火が赤く見える。
 そして、斬罪場のまんなかにひき出され、組立てられたギロチンの上部に、例の三角形の鉄斧が、もう血を吸ったように赤くかがやいていた。
 その下に、例のごとく大忠連少忠連がいながれ、五人の邏卒、真鍋|父娘《おやこ》が椅子に腰かけている。――
 いや、例のごとく、といっては正しくない。なぜなら、これは金髪の巫女《みこ》のお告げを聴く場ではなく、彼女を断頭する場であったからだ。ギロチンの処刑に、大忠連や真鍋父娘が立ち合ったことはない。
 そのエスメラルダは、まだ牢内にいる。ふだんの処刑のときに立ち合う囚獄所長の小原|重哉《しげや》もそこに来ていたが、牢の鍵はまだその腰にぶら下がっていた。牢の仕組みは瓦解前と同じであったが、ただ錠と鍵だけは西洋式のものになっていて、三種類ほどの鍵は、いつも所長の腰にあった。
 処刑は正午ということになっていた。川路の懐中時計はその十分前をさしていた。
「では、そろそろ。――」
 と、香月経四郎が口を切った。彼は、ギロチンの上に坐っていた。――みな、それぞれに、髪も逆立つ思いがした。
 経四郎が川路に、奇妙な申し入れをしたのはけさになってのことである。
 きょうかぎりエスメラルダはいなくなるわけだが、同時に、例の死霊を呼ぶ者が消滅するのは残念だ。ついては、さきごろから、自分がエスメラルダに倣《なら》って、ある程度その術が可能になった。それで彼女を処刑する前に、諸官の前でひとつ実験して見たい。呼ぶのは、かつてこのギロチンにかけた連中である。で、いつもの方々にお立ち合いいただくように、牢屋敷に召集してもらいたい。――
 川路は、経四郎の気が変になったのかと思った。
 ただ、エスメラルダをどうとかする前に、経四郎が何かいい出すはずだとは予想していた。彼は、こんどの「とりひき」がいかに強引なものであるか、よく承知している。こんなことで経四郎が、エスメラルダを死なせるわけがない。そのとりひきを拒否したのは、ただいっときの経四郎の意地に過ぎない、と考えていた。
 それが、七日たっても何もいわないから、経四郎の強情我慢に舌をまいていたのだ。
 で、けさ、経四郎がそんな申し込みをした。――そら来た、というには、あまりに奇怪な申し込みであったが、川路は承知した。そんなはずはない。経四郎は必ずあのとりひきに応ずる発言をするに相違ない。
 で、一同打ちそろって、ここに集まった。十二時が、刻々迫って来た。
「……ね、お父さま、どうしたのでございます」
 川路は、お縫が父の直次《なおつぐ》に、おびえたように尋ねているのを聞いた。
「わたし……何か怖ろしいことが起るような気がして……お父さま、何が起るのでございます?」
 あらゆる意味において、真鍋直次はこの質問に答えられなかったろう。お縫はまだ何も知らされていないらしい。それでもお縫がおびえるのも無理はない。直次は土気色の顔になって、石のようにじっと坐っているきりであった。
 これまた何も知らぬ小原重哉が、弾正台のお歴々に向ってお辞儀して、背を見せようとした。被処刑者を連行して来るためだ。十二時十分前であった。
 そのときに、経四郎が、「では、そろそろ。――」と口を切ったのである。同時に、例の邏卒の五人|囃子《ばやし》が、妖々たる古代楽器の音《ね》を奏しはじめた。
 シャラン!
 と、神楽《かぐら》鈴が鳴った。
 ギロチンの台上に坐った水干姿の香月経四郎の片手には、その鈴が握られている。
 はて? ほんとうにやるのか経四郎、彼自身、男|巫女《みこ》などいう変なものになって、ほんとうに死霊を呼ぶのか? と、川路は、眼を疑い、耳を疑った。
 経四郎の唇から、荘重な声がながれ出した。
「……黄泉国《よみのくに》に坐《ま》す黄泉神《よみのかみ》の大前に申さく、見はるかします黄泉国は、地の闇戸《くらど》の立つ極み、朱雲《あけぐも》のたなびく限り、黒雲の向伏《むかぶ》す限り。……」
 小首をかしげ、つぶやいた。
「ああ、いや、もう出てくれたか。ははあ……大巡察の平生の言葉でよいと? 私の立場で語ってよいと?」
 どうやら、死霊と話しているらしい。――経四郎はうなずいて、台の下の一同を見まわした。
「では、これより、死霊の言い分を、私の言葉で、かしこみかしこみ申す。――」

    六

「まず、おととしの秋の、築地ホテル館の胴斬り事件のことでござるがな。長坂九内が、杉鉄馬を殺害した事件。――以下は、このギロチンにかかった長坂の死霊の告白によるものでござる。
 あのとき長坂は、ホテル館の塔の上におり、螺旋《らせん》階段にはめた下駄に仕込んだ刀身を滑走させて、階段を上って来ようとする杉の胴体を切断し、一方、その現場に、剣鬼という噂の高い河上彦斎とその弟子下津牛之介をおびきよせ、罪をなすりつけようとした。――
 しかし、それは長坂がいかに奇抜な仕掛《しかけ》をして待っていたところで、その時刻、杉がホテル館に来てくれ、かつその直後、河上と下津が現場に現われてくれなければうまくゆかぬ殺人です。その保証がなければ実行に踏み切れぬ計画です。
 その杉をホテル館に誘いこんだのは、邏卒《らそつ》横枕平助でござった。また河上と下津を現場におびきよせたのは、邏卒猿木次郎正でござった。すなわち、この両邏卒の協力があって、はじめて成り立つ殺人です。
 長坂九内は、両人が、杉におどされている自分に同情して協力してくれたのかと思った。なんぞ知らん、その殺人手段そのものが、両人から吹きこまれたものであろうとは。
 あのとき川路大巡察も、両邏卒の行動に不審なもののあることを口にした。しかし、まさか、事件の指嗾《しそう》者そのものが両人であろうとは、看破する力がなかったようでありました」
「………」
「おい、芋川邏卒、そこの横枕と猿木を縛れ」
「………」
「次に、去年二月の、神田川の人力俥墜落事件でござるがな。赤松孫兵衛が、田鎖左玄を殺害した事件。――以下は、このギロチンにかかった赤松の死霊の告白によるものでござる。
 あの事件は、小笠原壱岐守どのをかくまっている赤松を、それをかぎつけた田鎖がゆすり、ために赤松が田鎖を泥酔させて、結び合わせた二台の俥の一台に乗せ、足跡のつかぬ四輪車と変えて坂を走らせ、水中に落したものですが、それを壱岐守どのの生霊《いきりよう》のしわざと見せかけようとした。
 それで、壱岐守どのの生霊がさも存在するかのごとく見せかけるために、張り込みの鬼丸邏卒、横枕邏卒などを買収して、谷中《やなか》の墓地にその生霊が現われたなど、あらぬうそ話を作りあげたいきさつは、あのとき曝露された通りですが、邏卒が協力したのはそればかりではない。
 実は、二台の俥を四輪車として、被害者を運搬するという智慧そのものが、当時赤松を張り込んでいた邏卒芋川平九郎が、買収されたと思わせて、赤松に近づいて、暗示して教えてやったものなのでござります。いや、その工夫があったればこそ、赤松は田鎖を殺害する行為に出たものでござります。
 おい、一ノ畑邏卒、そこの鬼丸、横枕、芋川を縛れ。や、横枕はもう縛られておるか。では、鬼丸と芋川を縛れ」
「………」
「次に、去年春の、永代橋の首吊り事件でござるがな。寺西仁十郎が、谺《こだま》国天どのを殺害した事件。――以下は、このギロチンにかかった寺西の死霊の告白によるものでござる。
 あれは、寺西が谺どのを蒸気船の甲板に立たせ、あらかじめ縄を吊るした橋の下をくぐるとき、その縄を谺どのの頸にひっかけて首吊人とし、自分はそのまま船で横浜に逃走した事件でしたが――川路君はお気づきにならなんだか? この首吊りがうまくゆくためには、必ず縄のある場所を通らなければならなかったことを。そして、そのためには、船長がそのように船をあやつらなければならなかったことを。
 しかし、あの銀公丸の船長に罪はない。むしろ同情に値する。一つには依頼者から強制されたためと、もう一つには、あの船長朝倉|尚親《なおちか》こそ、谺どのの美女集めに選ばれたために自殺した娘の父親であったからです。そして、容疑者の一人疋田義徹は、その娘の恋人であったのです。
 ついでに一言しておけば、谺どのを狙ったその疋田を、いちど私たちは追っかけて品川で見失ったことがある。あれは、疋田は、ちょうど品川の海岸にいた銀公丸に乗りこんだもので、つまりその日、横浜で川路君が、岸田吟香からあれはおれの蒸気船だと紹介されたとき、その船の中には疋田がひそんでいたということになります。
 ところで、その銀公丸の船主岸田吟香については、あとあとのため、いま一言しておかねばならんことがある。あの先生、実は谺どのを柳橋の料亭から浜町に碇泊している銀公丸に誘い出すということをやってくれました。あのとき谺どのが浜町にいったのは、その前に吟香から、阿片の件について相談したいなら、浜町河岸に浮かんでいる銀公丸の中で改めてしようとそそのかされたからでござる。
 吟香先生は、小笠原壱岐守事件のときも、さも壱岐守どのがアメリカから金を送って来たように見せかけたということもある。それから、次の足切り事件のときも、沢村田之助の手術の光景を、築地ホテル館の上から、ちらと見えるがごとく見えざるがごとく計《はか》らってくれたということもある。
 しかし、どうか吟香先生に手を出すことはやめていただきたい。それはむろん依頼者あっての行為ですが、本人自身の義侠心のなせるわざでもありました。それどころか、すべてドクトル・ヘボンの許可した行為で、吟香先生を縛るなら、ヘボン博士も縛らなければならんことになる。そうなってはアメリカ政府も黙ってはいないだろう、ということを、ここに念のため一言申し添えておきます。
 さて、それにしても寺西仁十郎が、こんな大がかりな遠距離殺人をやってのけたには、これまたその着想を吹きこんだやつがあった。それはあの当時、よく横浜に出かけて、寺西に近づいた邏卒芋川平九郎の入智慧であったのでござる。
 おい、一ノ畑曾八、芋川を縛れ。――いや、きゃつ、もう縛る必要はないか」
「………」
「次に、去年秋の、築地居留地の足切り事件でござるがな。牧盾記《まきたてき》が、鳥羽周蔵をあやつって罪なき賀川彦麿を殺害させ、それによって鳥羽を責めて自滅させた事件。――以下は、このギロチンにかかった牧の死霊の告白によるものでござる。
 ところでこの二重操作の犯罪は、ともかくも最初に鳥羽が、本気で賀川が芸者菊千代に危害を加えようとしていると思いこまなければ成立しません。そのためには、賀川が本気で菊千代を狙わなければならぬ。といって、ほんとうに殺してしまっては、これまた目的が達成出来ません。
 その苦肉の策が、本所の栄螺《さざえ》堂の事件でありました。菊千代が人力俥に乗ったところを賀川におどされて、栄螺堂につれてゆかれたところを、ちょうど私と仏師がそこにいたためにあやうく助かった事件。――実は、あの人力俥の俥夫は、そこの邏卒鬼丸が変装したものでござった。鬼丸は、その日、私が栄螺堂にゆくことを知っていた。だから賀川におどされていると見せかけて、そこへ俥を持ちこめば、菊千代に危害の及ぶことはない、と承知の上であったのでござる。しかし、この話を聞いて、果して鳥羽は逆上した。――
 これを見てもわかるように、牧盾記は鳥羽をあやつったが、その牧を、さらにまたあやつっていた者があったのです。それは、小林金平の質屋を介して知り合った邏卒猿木次郎正でござった。
 おい、一ノ畑、猿木を。――」
「………」
「ああ、いや、もう四人縛ってあるな。もうよかろう。あとで一応取調べるから、連れていって牢の中へぶちこんでおけ。小原囚獄所長、もう結構です。あの異人|巫女《みこ》をそろそろ連れて来て下さい。いえ、もう少ししゃべることがありますから、二十分ほどたってからお願いします」

    七

 それまで茫然として香月経四郎のおしゃべりを聞いてた囚獄所長小原重哉は、はじめてわれに返ったように――いや、なお何かに憑《つ》かれたように、フラフラと歩き出した。そのあとを、縛りあげた四人の邏卒の縄をとって、一ノ畑曾八も斬罪場を出てゆく。
 あと居残った人々は、それさえ視界にない風だ。いまの物語は、死霊の告白などでないことはあきらかであった。香月経四郎自身の物語であった。それゆえに、いっそう不可解な、驚倒すべき内容であった。
 経四郎は、同じ調子でつづける。――
「次に、あの五つの首の事件でござるがな。湯浅安足が、有坂伊平を殺害し、その首を他人の首ととりかえて、自分とは無関係な死人に見せかけようとした事件。――以下は――」
 と、いいかけて、彼ははじめてかすかに笑った。
「いや、この事件に関する限り、少々困りました。それまで巫女エスメラルダは、一応みなの衆に納得《なつとく》のゆくように死霊《しりよう》の告発を物語ったわけですが、この件だけはそうは参らなかった。
 川路さん、あんたは、とりかえられた首が、あの日この斬罪場で斬首された五人の囚人の首の一つだ、とまで見ぬかれたな。その通りでござる。いや、川路さんが、だんだん大巡察としての力を発揮されて来て、実は、有坂の死体に首を抱かせたりして、からかい気味もあった仕掛人のほうも、いささか狼狽した。
 あれはまさに仰せの通り、肥汲みに化けた湯浅が、囚人の首を一つ、肥桶にいれて持ち出したものです。――この思いつきは、山城屋の今戸寮に張り込んでいた鬼丸、横枕の両邏卒が湯浅に教えてやったものでしたが。――
 では、囚人の首が一つこちらに不足しているはずだ――と、あんたは推量されて調べられた。ところが、首は、五つ、ぜんぶそろっていたので、口アングリという態《てい》であった。五つあるはずです。湯浅ははじめから、有坂の首を肥桶にいれて持ち込んだのだから。
 しかし、首は五つ調べたはずだが、というかも知れない。いや、あんたの首実検には、一ノ畑曾八もびっくり仰天した。首を湯浅と交換したのは曾八ですからな。
 あれはね、川路さん、首実検が丹念じゃなかったのだ。その途中、そんなこともあるだろうと私が追っかけて、助け舟を出して、私が話しかけている間に、曾八め、四つ目の棺桶にはいっていた有坂の首と、二つ目の棺桶の首をとり変えたのです。二つ目の首はいちど見たはずだが、いずれ劣らぬ凶悪の面《つら》、しかもそれが、髪がかぶさり血まみれになっているので、あんたは気がつかなかったのだ。
 だから、あとで、盗まれたはずの首はみなあったぞ、あれはどうしたと訊かれても、エスメラルダは答えることが出来なかった。答えれば、一ノ畑曾八がつかまることになりますからな。――これで、おわかりか」
 川路利良は、棒のようにつっ立ったきりであった。
 五つの首がみなそろっていた謎は、あの邏卒の手品によるものであったのか。あの生気のない、青瓢箪《あおびようたん》みたいな男が――さりとは人を喰ったやつ。
 と、川路はいまさらこの件について驚愕はしない。さっきからの経四郎の解説に、青くなったり赤くなったりしていたのは、そこにいながれる大忠連と同様だが、川路の自失ぶりが最大のものであったことはいうまでもない。
「つまり、あのように手のこんだいくつかの殺人事件の背後には、容疑者を尾行し、張り込み、探索していた邏卒どもが、芝居の黒衣《くろご》のごとく動いていたというわけでござる。いや、あのめんめん、みんなあんなすッとぼけた面《つら》をしておって、あれでなかなか食えぬ連中でありましてね。それらの教唆《きようさ》を、教唆された者も気づかないほどうまく吹きこんだ」
 経四郎は、またニンマリとした。
「とはいえ、あの事件の数々、どれもはじめからきゃつらがたくらんだことではない。それぞれの発端は、関係者同士の間にいわく因縁があって発生したのですが、それを臨機応変に利用したつもりでも、やはり受動的な行為ですから、ところどころボロが出ることはまぬがれず、川路君からは何度か疑惑を向けられた。――しかし、いままで申したこと、すべてをいいつくしたわけではありませんが、改めて御点検になれば、まずそれでみな思い当られることがあるでしょう」
「………」
「それにしても、しかしこのギロチンに上った連中が、よくまあ邏卒どものことを口にしなかったもの――と首をひねられるかも知れぬ。それにはいま申したように、そそのかされても気づかなかった者、罪と罰の衝撃で邏卒のことなど頭からケシ飛んだ者、自分自身でやったと信じることに意味を認めた者などがあったせいです。また彼らの多くは、殺したい人間を殺したのだから、いまさら何を、という心境にあったことも事実でしょう。もっとも中には、むろんそのことを口にしたやつもあった。しかし、それは私に黙殺された。それでもなおしゃべりそうなやつには、黙っておればギロチンにはかけぬ、と私が口を封じた」
「香月」
 川路がはじめて声を出した。
「私、といったな」
「いった」
「黒衣《くろご》は邏卒どもだけではあるまい。その背後にまた黒衣がおった。邏卒どもを鵜匠のごとく使ったのはおはんじゃろ」
「そうだ」
 経四郎は恬然《てんぜん》と答えた。
「私が作りあげた犯罪だから、以上の解明はたしかなものだ」
「なんのためじゃ?」
「正義の政府を具現するためだ!」
 シャラン! と鈴が鳴った。
「殺した者殺された者は、いずれも役人か元役人で、そのために許せぬ不適格者ばかりであった。殺した弾正台|少疏《しようそ》長坂九内は、処刑人をまちがえるほどの無能者で、殺された少巡察杉鉄馬は、そこにつけこんで競争者を断罪し、上司たる長坂の娘を要求する人非人であった。――殺した大蔵省|史生《しじよう》赤松孫兵衛は、元主人に貢《みつ》ぐためとはいいながら、藩札処理をごまかし、殺された民部省少録田鎖左玄は、それをかぎつけてゆする強欲者であった。――殺した元生糸検査所所長寺西仁十郎は、出世のために恋人を捨てて平然たる無情漢で、殺された岩倉家執事谺国天は、国家のためと称して権家《けんか》のために女衒《ぜげん》行為をして恥じぬ不徳漢であった。――殺した民部省|権《ごんの》少丞牧盾記は、女形にいれあげ高利貸から金を借り、殺された太政官少史賀川彦麿は酒乱で、また民部省少録鳥羽周蔵は、上司の牧の弱味をたねにその地位をとって代ろうと狙っている奸物であった。――殺した元陸軍会計副監督湯浅安足は、莫大なる国費を一商人に貸した責任者で、殺された有坂伊平は、陸軍|御用達《ごようたし》の番頭であった」
「………」
「しかも、捨ておかば、みな、罰することが出来ぬか、逃《のが》れ切るであろうやつらばかりだ。よって共喰いさせることによって、私が罰した、すなわち一方に一方を殺させ、その殺人による罪で処刑した」
 正義の政府の具現者をもって任じていた弾正台のお歴々も、このとき戦慄を禁じ得なかった。
 川路利良も蒼白になっていた。彼はこの同僚のある種の狂熱は充分承知していたが、これほど徹底していたとは知らなかったのだ。――ふいに彼は、例の「とりひき」の可能性に根本から動揺をおぼえた。
 いま経四郎が指摘したように、川路はあの邏卒たちに不審をいだいたことがあった。しかし、それが彼の脳中で雲散してしまったのは、そのたびに経四郎がかばうか、そらすかしてしまったせいもあるが、それより邏卒たちを疑うには、彼らの目的がかいもく不明だからであった。
 いや、それ以前に――エスメラルダの死霊のお告げそのものに疑問を感じたことがある。しかも、それをいわせているのが経四郎だったとしても――そもそも経四郎の目的が想像を絶していたから、ただ不可解の雲につつまれてしまったのだ。
 あの五人のやくざ邏卒どもが、経四郎のそんな目的に共鳴したとは信じられぬ。――いや、そもそも経四郎にしても、なぜ、いま、そんなことを告白する気になったのだ? いままで知らなかったが、この男もあの邏卒たちも狂人ではないのか?
「香月、貴公……なんで、いま、そげな事《こつ》を?」
「それか。そのわけは三つある」
 そのとき、牢役人の一人が斬罪場に現われて、けげんな顔で見まわした。
「所長どのはおられませんか」
「なに?」
 と、川路がふりかえったとき、経四郎がいった。
「一つには――以上、考えてみれば、私の行為は、やはり弾正台大巡察として越権だ。越権も越権、独断による懲罰殺人だからね。ここらで自己評定して、みずからを裁かねばならん義務があると判断したからだ」
「所長がどげんしたと?」
 と、川路が牢役人に声を投げた。
「は、一ノ畑邏卒ほか四人の邏卒が、先刻、拘置中の異人巫女とともに本囚獄所を出てゆきましたが――もういちど弾正台のほうで再取調べの指示があったから連行すると申し、みなあまりに落着きはらっておるので通行を許しましたが、どうも気にかかるので、所長どのにおうかがいに参ったのであります」
「何じゃと? それはいつの事《こつ》か」
「は、十五分か二十分ほど前になります」
「二つ目の理由はね、川路君」
 と、経四郎がいった。
「それらの懲罰を、むろんあの木《こ》ッ端《ぱ》役人どもにとどめるつもりはない。私としては順次上に及ぼす予定で、だいぶ捜査資料も集まったが、この分でゆくと、大臣参議、みな懲罰しなければならん――それでは政府が解体消滅してしまうと気がついて、絶望心理におちいってしまったからだよ」
 二人目の役人がはいって来て、さけんだ。
「大変でござる! 所長が――あの異人巫女のはいっておった牢の中で、気絶しておられます!」
 川路は駈け出そうとした。その足を、経四郎の声が釘づけにした。
「三つ目には――だから、私はここでみずからを処刑する。そのための最後の告白というわけだ」
 シャラン! と、鈴が鳴った。これは、経四郎が断頭台の上から投げすてた神楽《かぐら》鈴の音であった。
 川路はふりむいて、経四郎が台上に横たわり、端の板の半月形の穴に頸部をあてて、首をつき出したのを見た。ふつうの処刑者はうつ伏せになるのだが、彼は仰向けになっていた。その右手には、綱が握られていた。
「お縫さん」
 その首をねじむけて、経四郎は笑っていた。
「私はあんたが好きだった。それでもお嫁に出来なかったのは、いつかはこういう日が来ると予想していたからだ!……お父上によい人をえらんでいただいて、どうぞ倖せな結婚をして下さい」
 綱がひかれ、三角の斧が滑り落ち、血しぶきが立った。お縫は失神して、倒れた。
 満身しびれ果てた人々は、籠の中にころがり落ちた首がさけぶのを、たしかに聞いた。
「弾正台万歳!」

    八

 なんたる奇怪な「戦車」だ。
 人力俥が二台、背中合わせに緊縛され、連結されていた。前の梶棒を握っているのは、芋川平九郎であった。その先に綱がのびて、それを曳いているのは猿木次郎正であった。前向きのその俥に乗っているのはエスメラルダであった。金髪の巫女姿である。後の梶棒を押しているのは、横枕平助であった。後向きのその俥に乗っているのは一ノ畑曾八であった。そして、俥のうしろに鬼丸多聞太が、太い棒をかかえて走っていた。
「そらよっ」
「あらよっ」
 先頭の猿木次郎正と、梶棒の芋川平九郎が、いまにもひっくり返りそうな姿勢で力走すれば、うしろの横枕平助が、
「こりゃさ!」
 と、つんのめらんばかりに押して駈ける。
 物凄い速力で、黙って走れば轢《ひ》き殺される者も出かねない。ただ、この肺臓も破れそうな声に、往来の人々はふり返り、あわてて避けるので、このけったいな俥は一路まっしぐらであった。すでに東京を離れて彼らは西へひた走る。
 邏卒たちは、囚獄所長小原重哉を悶絶させて鍵を奪った。そのうち縛られていたと見えた四人の縄はたちまち解けていたから、小原所長は悲鳴をあげるまもなかった。そして彼らは、代りにエスメラルダを救い出したのみか、一ノ畑曾八は、勝手知ったる囚獄所内の倉庫から、最近脱獄防止用に十数挺そなえられていたスナイドル銃を、三本ばかりひっかかえて出て来た。
 囚獄所を出てすぐに、彼らは通行中の二台の俥をつかまえて、かくのごとき「戦車」を作りあげて、エスメラルダを乗せ、駈け出したというわけだ。
 東京から四里――十六キロ、川崎あたりまで来たとき、薄墨色の雲がいよいよ暗くなって、雨がひたいを打ち出した。
 追跡隊の叫喚が背後に聞え出したのは、そのあたりからであった。
 川路利良が彼らの脱走を知らされたのは、推定二十分ばかり後になるが、いったい彼らがどの方向へ逃げたのか見当がつかず、ようやく東海道を西へ向ったと判明してからも、それが右に述べたような猛速力なので、そういうことになったのである。
 ――川路は、香月経四郎の長広舌が、彼のあげたどんな理由よりも、自分に注意を集中させてエスメラルダを脱走させ、しかもその逃走時間をかせぐためではなかったか、と気がついた。
「あれだ」
「どこへ逃げる」
「待てえ」
 口々にわめきながら追いすがろうとする囚獄所の役人、途中から加わった邏卒たちのうち、一人が――つづいて二人がもんどり打って転がった。そして、連続して、銃声が聞えて来た。
 こちら向きになっている俥の中から撃って来たのだ。
 追手は混乱し、しかし川路大巡察の叱咤に背を吹かれて、抜刀した数人が死物狂いで殺到していった。すると、俥のそばから一人の巨漢が猛然と迎え討って、これをことごとく殴り倒した。
「鬼丸邏卒!」
 と、川路は眼をむいた。
「気でも狂ったか、邏卒の身として脱獄の幇助《ほうじよ》をするとは。――」
「川路大巡察、恐れながらお手向いつかまつる!」
 髯の中から、鬼丸多聞太が吼《ほ》えた。
「小官ら、香月大巡察のおかげで、はじめて生まれ甲斐のある仕事を見つけたのでござる。いまぞ、優曇華《うどんげ》ならぬ男の花を散らすとき。――」
 また駈け寄った数人が、鬼丸の棒の一閃二閃するところ、泥の中に這いつくばった。
 雨がはげしくなった。また銃声があがり、二、三人倒された。川路は、俥の幌《ほろ》の中で、スナイドル銃を肩にあてている一ノ畑曾八の姿を見た。しかも彼は、数挺の鉄砲を持っているらしい。――人力俥がうしろ向きに走っているとは、こちらから見ると、何がどうなっているか、まことに奇怪千万だが、まさに一種の戦車にはちがいない。
 東京から横浜まで七里――約二十八キロあった。ちょうどマラソンの三分の二の行程だ。追うほうも追われるほうも、走るだけで半死半生になった。
 しかも怪戦車と追跡隊は、戦闘しつつ疾走した。
 横浜の手前で、雨中行進していた兵隊の一分隊に出合ったのが、川路を救った。あっけにとられている隊長に、川路は、先方を走ってゆくのが重大なる脱獄者一味であることを告げて応援を求めた。
 鬼丸多聞太と一ノ畑曾八が射殺されたのは横浜の入口である。六十五歳のおふくろと、九十歳の祖母《ばあ》さんを持つ鬼丸の死体は、いよいよ豪傑風に大の字にひっくり返り、青瓢箪のくせに、三本の銃の弾を撃ちつくした一ノ畑曾八は、俥から赤い瓢箪と化して転がり落ちた。
 それでも俥は、幽霊ぐるまのごとく駈けつづけ、川路たちが海岸通りに出たときは、三人の邏卒は金髪の巫女を、そこにあった短艇に乗せて、もう数十メートルも海の上へ逃れたあとであった。
 雨霧《あまぎり》にけぶる沖合に、異国の船の影が浮かんで、そこから霧笛の音が渡って来た。船は動きはじめている。――
「あれへやってはいかん!」
 川路は躍りあがった。
「撃て!」
 海岸にならんだ兵隊の銃は一斉射撃の火を吹き、短艇から一人の邏卒が海中へ落ちるのが見えた。川路は、それが、仲間にたかるのを趣味と生活にしていた芋川平九郎であることをからくも見とどけた。
 短艇は、雨と波のかなたに遠ざかってゆく。
 川路は真っ蒼になって佇立《ちよりつ》した。
 出航にかかっていたのは、オルレアン号というフランス船であった。この船に間に合わせるように、という指令をケイシロウから受けた、とエスメラルダは邏卒たちから聞いている。
 短艇に気がついて、オルレアン号から縄梯子《なわばしご》が下ろされたとき、緋の袴をはいた巫女姿のエスメラルダは、それに手をかけて、短艇の中を見下ろした。金の勘定をしていると恍惚状態になる猿木次郎正と、何もしないのが一番ラクだという信念を持つ横枕平助は、そこまで必死に漕いでいたのに、血まみれになって死んでいた。
「メルシイ、メ・シェール・ザジャン・ジャポネ(ありがとう、日本の親愛なるラソツ君たち)……」
 エスメラルダは涙を流しながらつぶやき、それから顔をあげて、
「サヨナラ、ケイシロウ!」
 と遠い日本の岸に向ってさけび、うす蒼い潮けぶりの底に漂う短艇から空へ、紅白の蝶《パピヨン》のように縄梯子を上っていった。

 明治四年七月、弾正台廃セラル。
 明治五年五月、川路利良、邏卒総長トナル。
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 <関連年表>


 年           出来事

文久二年(一八六二)   八月、生麦事件
元治元年(一八六四)   七月、佐久間象山暗殺事件
慶応三年(一八六七)   カール・マルクス『資本論』
明治元年(一八六八)   明治維新
             江戸町奉行所が市政裁判所に改まる
             二月、堺事件十月、五稜郭の戦い
明治二年(一八六九)   五月、弾正台の設置
明治三年(一八七〇)   十二月、雲井龍雄一味の処刑
明治四年(一八七一)   一月、広沢参議暗殺事件
明治七年(一八七四)   二月、江藤新平による佐賀の乱
明治九年(一八七六)   八月、高橋お伝事件
明治十八年(一八八五)  坪内逍遙『当世書生気質』
明治三十二年(一八九九) 福沢諭吉『福翁自伝』
大正四年(一九一四)   森鴎外『津下四郎左衛門』

    お奉行さまとその姫君

     一

 |甍《いらか》を吹く春風に花びらがまじっているから、まるで花見の仮装人物が浮かれこんできたようにもみえるが、それにしては場所がちとおかしい。
 表門の鉄金具もいかめしい|数《す》|寄《き》|屋《や》橋内の南町|奉行所《ぶぎょうしょ》である。
 そのなかを、文金高島田の武家娘と、|乞《こ》|食《じき》男があるいている。武家娘――とはいったが、その髪にきらきらひかる|蒔《まき》|絵《え》の|櫛《くし》、花かんざし、稲妻あられの|振《ふり》|袖《そで》に|金《きん》|襴《らん》の帯――まるで芝居に出てくるお姫さまのようだ。が、おかしいのは、その姿よりもその言葉で、
「|大《おお》|番《ばん》|屋《や》から、すぐ|小《こ》|伝《でん》|馬《ま》町へぶちこみゃいいのに、ああ、めんどくさい。これからお奉行さまのおしらべとなるのかい」
「うるさい。うぬごとき、お奉行さまのお手をわずらわすことがあろうか。これから|入《じゅ》|牢《ろう》証文をとって、望みどおり、すぐ小伝馬町へたたきこんでくれる」
 と、乞食は、|醤油《しょうゆ》いろの|頬《ほお》かぶりの中から|叱《しか》りつけた。
「これ、とっととあるけ」
「いたい、そう十手でこづかなくたっていいじゃあないか」
 と、つきとばされたように足をはやめる娘に、さっと|花《はな》|吹雪《ふぶき》が吹きつける。庭の桜の大樹は、いままっ盛りであった。――その木蔭から、そのとき宙へひとすじの|縄《なわ》が舞いあがったかと思うと、するするとのびてきて、生物のように巻きついたのは、娘ではない。――乞食の方である。
「やっ、だれだ?」
 乞食は|驚愕《きょうがく》して身をもがきながら、ふりむいてさけんだ。木の蔭から、だれか笑う声がした。泉のような、美しい、若々しい、ふくみ笑いである。
「やい、出て参れ、いたずらにもほどがある。出てこぬと、そのままにはすておかぬぞ」
「小伝馬町の牢にお入れかえ?」
 桜の下から出てきた人の姿をみて、乞食はまえよりいっそう|狼《ろう》|狽《ばい》した。
「あっ、これは――お嬢さま」
 あわてて頬かぶりをとろうとしたが、縄が手にからみついているので思うにまかせず、そのままの棒みたいな姿勢でおじぎをした。……五、六歩はなれたところにいた例のあやしいお姫さまも、眼をまるくして見つめたきりだ。
「なんて|恰《かっ》|好《こう》なの、|主《もん》|水《どの》|介《すけ》、その姿じゃあ、ちょっと|捕《とり》|縄《なわ》をなげたくなるわ」
 笑ったのは、やはり武家娘だが、いまの桜が精となってあらわれたかともみえる、まるで|曙《あけぼの》に|匂《にお》うような清らかさだ。
 乞食にまきついた縄をときながら、
「でも、たいへんねえ、せっかくいい男前がそんな恰好までして……同情するわ」
「お嬢さま、お奉行所へおいでなされましたは、何用でござります」
 乞食は、頬かぶりをとった。頬に泥だか|煤《すす》だかをぬっているが、なるほど顔だちりりしい若侍だ。眼がきびしくひかって、
「ここはあなたのおいであそばしてよいところではございませぬ」
「父上さまにお話があるの」
「お奉行さまに?――しかし――」
「父上さま、ここのところ、ずうっと、十日ちかくもおかえり下さらないんですもの」
「何か、いそぎのお話でござるか」
「いそぎもいそぎ、大いそぎ」
「それは一大事、――いったい、いかなる――?」
「主水介との祝言よ」
 主水介は、あっと口をあけたまま、二の句がつげられなくなってしまった。
 奉行秘蔵の同心、|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》とこの姫君は、いつのころからか、たがいに恋しあう仲となってはいたが、身分がちがい、彼はつらい心であきらめている。――ところが、このお姫さまの方は、いっこうにあきらめないのだ。お奉行さまが「じゃじゃ馬娘」と苦笑するその活溌な性質を発揮して、だだッ子のごとく父にねだってやまないのである。それどころか、御用繁多で父が帰宅しないと、じぶんから奉行所までおしかけてきたとみえる。――主水介は赤面した。
「おやめなされ、女だてらに!」
 思わずさけんだ。姫君はあどけない顔で、
「じゃあ、主水介、おまえが言ってくれる?」
「ぷっ、とんでもない!」
 主水介は、姫がまだお奉行さまに|逢《あ》ってはいないことを知って背に|安《あん》|堵《ど》の冷汗をながしながら、しかし真剣な、深刻な顔をしていった。
「いいかげんになさらぬか。お奉行さまは、ただいま容易ならぬ大事件に、日夜骨身をおけずりあそばしてござる。色恋どころの|沙《さ》|汰《た》ではありませぬぞ!」
 姫君は口を愛くるしくとがらせて、何かいおうとしたが、そのとき、
「まったくだ、みちゃあいられねえや」
 と、つぶやいた声にふりむいた。さっきの伝法な、へんな姫君が、にくにくしそうにこちらをにらんでいた。
「主水介。……容易ならぬ事件って、このひともそう?」
 主水介は吐き出すようにこたえた。
「いや、これはとるにも足らぬこそ|泥女《どろおんな》めにござります。わざわざ拙者の手にかけるほどの女ではありませぬが、|隠《おん》|密《みつ》|廻《まわ》りの拙者の|草《ぞう》|履《り》の緒にひょいとひっかかってきた次第にて――」
「やいやい、なにをいってやがる。泣く子もだまる八丁堀の鬼同心、巨摩主水介が逆にいままでなんどあたしのために地だんだふんで泣かされたか、勘定してやろうか」
 と、女は満面を|牡《ぼ》|丹《たん》のように染めていきりたった。
「そのとんまかげんがふしぎでならなかったが、いまやっとわかったよ。お奉行所で、こんなすッとんきょうな娘といちゃついていちゃあ、いかれてくるのァあたりまえだ」
「だまれ、この無礼者、お奉行さまの御息女に、な、な、なんたる――」
 巨摩主水介は|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して、
「うぬ、ゆけっ」
 と、十手で女の腰をうった。
「待って」
 と、ほんものの姫君の方が声をかけた。十手でうたれて、苦痛に顔をしかめつつ、なおまけぬ気をみせてひかる女の眼を、おそれげもなくじっと見入って、
「可哀そうに」
 と、姫君はつぶやいた。
「あたしと、みたところ年もちがわないのに――」
「おまえさん、お奉行さまのお嬢さまだって?」
 女賊は憎悪のために、しゃがれ声を出した。
「へん、しゃくにさわるほど|倖《しあわ》せそうな|面《つら》をしてるじゃないか。しかし、どっか、ぬけてるねえ。人間、あんまり倖せだと、妙に顔がぬけてくるものさ」
「こやつ、ぶッた|斬《ぎ》るぞ」
 主水介は発狂したような声をあげてとびかかろうとした。
「お待ち」
 と姫君はいった。
「このひとのいうことはほんとうよ。あたし、どっかまがぬけてるわ」
「何を仰せられる」
「だから、あたし、父上さまや主水介がふだん苦労してつきあってる利口なひとたちがどんなひとか、まえからいちど見たい、知りたいと思っていたのです。……あたし、ちょっとこのひとと、お話がしてみたいわ」
 姫は童女のように無邪気な好奇心にかがやく|瞳《ひとみ》をむけて、
「あなた、なんて名前?」
「姫君お|竜《りゅう》」
「そう。あたしは|霞《かすみ》。よろしく」

     二

「ね、あなたは、どんなわるいことをしたの? お話によっては父上さまにあやまってあげるから」
 こういわれて、姫君お竜はまじまじと霞の顔を見つめていたが、やがて肩をゆすって、
「おふざけでないよ、お嬢さん、子供のいたずらじゃああるまいし」
 と、舌うちをした。
「見そこなっちゃあいけない。これでも姫君お竜といえば、夜のお江戸でちったア人に知られた女だよ。あたしのやったこと、やってることをぜんぶお|白《しら》|州《す》で申しあげたら、お奉行さまの|胆《きも》ったまが二、三度宙がえりをして――」
 といいかけて、
「あわわ! いけない! うっかりうまくひッかかるところだった。さすがはお奉行さまのお嬢さまだ。甘ったるい声で、ひとにかまをかけるのは堂に入ってるじゃあないか」
 と、口をおさえて、毒づいた。主水介は|爛《らん》と眼をひからせて、
「うぬにかまをかけるほど、奉行所はひまではないわ。ふむ、きいた風なことをぬかしたな、よし、うぬこそ二、三度宙がえりさせて、泥を吐かしてやろう。……お嬢さま、おひきとり下されい。かような女、言葉をかわされては、お口のけがれとなりまする」
「そう、それじゃあ、父上さまのところへいって、あのお話をしてみるわ」
 主水介は顔色をあかくしたり、あおくしたりして、
「ま、待って下され、その儀ばかりは――」
 と、あわてふためいた。
「じゃあ、ここでこのひとと、もっとお話ししていいわね」
 主水介は絶句したままだ。霞はにこにこしてむきなおって、
「ね、あたしは奉行の娘ですけれど、奉行ではありません。娘です。そして、あなた、おなじような娘が、どうしてそんなわるいひとになるのかわからないのよ。へんだと思うわ」
「へんなのは、おまえさんのあたまだよ。そりゃあね、お武家も江戸の町奉行になるほどの御大家に生まれて、|乳《おん》|母《ば》|日《ひ》|傘《がさ》で育てられりゃあ、おまえさんのようなノンビリしたお嬢さまにもなるだろう。あたしみたいに、おぎゃあとこの世に出てくるまえに、おやじが|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》の|喧《けん》|嘩《か》で死んで、七つのときにおふくろが、家主に身をけがされて首をつって――」
「…………」
「育ててくれた|叔《お》|父《じ》が、あたしがまだ十五というのに|狒《ひ》|々《ひ》みたいな金持ちの|爺《じじ》いに|妾《めかけ》に売りとばして――」
「…………」
「その|倅《せがれ》がまたさかりのついた馬みたいな奴で、あたしにへんなまねをしやがるから、横ッ面をはりとばしてとび出したが、ゆくさきがないから、夜、雨のなかをほっつきあるいてたら、酔っぱらいの折助どもにつかまって念仏講をやられてよ。あとはもうめちゃくちゃさ」
「柳原の土手で|夜《よ》|鷹《たか》に立ってたのをひろってくれた親切な男に、生まれてはじめてあたしから|惚《ほ》れていたら、こいつが泥棒ときてやがる」
 いつのまにか、お竜の頬になみだがつたわっていたが、ふとじぶんをじっと見つめている霞のつぶらな眼に気がつくと、
「あ、むだなおしゃべりをしてしまったね! おまえさんの眼は、へんな眼だ。ふらっとひとに、何もかもおしゃべりさせちまうよ。でも、いっても、ほんとにみんなむださ。さあ、ひょうろく同心、棒みたいに立ってないで、さっさとどこへでもひっぱっておゆき」
「ちっともむだじゃあないわ」
 と、霞はひくい声でいった。顔にいたましげな感動が、いっぱいにあふれ出ていた。
「やっぱりあなたはわるくはないじゃあないの」
「…………」
「わるいのは、男ばかりじゃあないの」
 たまりかねて巨摩主水介が声をかけた。
「お嬢さま、|女狐《めぎつね》めの巧言にたぶらかされては笑いものでござりますぞ。ひかれ者の小唄に泣きごとがまじるのは、事珍らしゅうございませぬ。さ、参れっ」
「主水介、それでおまえは、なんの罪できょうこのひとをここへつれてきたの?」
「万引でござる。武家娘に化けて、日本橋の小間物屋で、|玳《たい》|瑁《まい》の|櫛《くし》を――」
「つかまったなら、とらなかったわけね」
「それで罪がきえるものではござらぬ。ましてや――先日も、おなじ姿でまんまと|珊《さん》|瑚《ご》|珠《じゅ》のかんざしを盗み去り、あとでさてはと気がついて、店の方で手ぐすねひいて待っていたところ、味をしめたこやつが、またぬけぬけとやってきて、ふたたび万引をしようとするところをおさえて、番屋につき出したものでございます」
「その珊瑚珠のかんざしはいくら?」
「二十五両という高価なものでござるとのこと」
「それはあたしが払ってあげるから。ゆるしておやり」
 主水介はあきれたように霞をみたが、すぐ憤然として、
「それは相成らぬ!」
「どうして?」
「どうして、と申して――ゆるすか、入牢いたさせるか、裁きをつけられるはお奉行さまでござる。ただいまお嬢さまも、わたしは奉行の娘であって奉行ではないと申されたではございませぬか」
「ああ、ほんとうに!」
 と、霞はびっくりしたように眼を大きくした。
 それで、やっとこの世間しらずのじゃじゃ馬娘をとりしずめたと思っていたら、
「それじゃ、これから父上さまにおねがいしてきてあげるから、心配しないでまっててね」
 と、お竜に笑顔でうなずいてみせたから、主水介はまた大狼狽した。ひとりでゆかれて、奉行にまたあの話をもち出されてはたまらない。
「あいや、お待ち下さい。拙者もお奉行さまに|御《ご》|下《げ》|知《ち》をねがうことがござれば、御一緒に参らせて下さりませぬか。ともかく、いま、しばらく御猶予を――」
「まあ、主水介といっしょ、それならいっそう勝手がいいわ」
 と、霞は眼をかがやかせる。主水介はゲンナリしながら、
「では、お嬢さま、ここにおいでなされませ。さきにゆかれてはなりませぬぞ」
 と、念をいれておいて、あらあらしく姫君お竜をひったてていった。
 春光のなかに無数の|蝶《ちょう》のようにちる花の下に、霞はじっとあとを見おくって立っている。
「可哀そうだわ。……ほんとに可哀そうだわ……」
 と、なんどもつぶやいた。

     三

 お奉行さまの|鬢《びん》には、そろそろ白いものがまじりかけていたが、顔はゆったりとふとって血色もよく、山積する書類を読み、書き入れ、割印を押してゆく手さばきには、機械のような正確さと、|絶《ぜつ》|倫《りん》の精力があった。――しかし、机上の書類とはべつに、よほど案ずることでもあるらしく、ときどき筆をやすめて、ものうい春の昼下りの庭になげる眼には、疲れでもなければ放心でもない、暗い、むずかしい思考の沈潜がみられた。
 ――無意識的にまた筆をとって、|反《ほ》|古《ご》のうらに、
「|山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》」
 と、かく。その名を三度かいたとき、
「お奉行さま」
 と、|襖《ふすま》の外で呼ぶ声がした。あわてていまかいた名を墨でぬりつぶしながら、
「だれじゃ」
「|巨《こ》|摩《ま》主水介でござります」
「入れ」
 とこたえたまま、ふりかえりもしなかったが、入ってきた人間が、うしろに坐って、妙なふくみ笑いをたてたので、はじめて首をまわして、眼を大きく見ひらいた。
「霞」
 両手をつかえたまま、娘がいたずらそうに笑っていた。その向うに、巨摩主水介がかしこまっている。泥や|煤《すす》をあらいおとし、|凜《りん》とした黒紋付の同心すがたにもどっているが、困惑しきった表情だ。
 お奉行さまはなおじぶんの眼をうたがうようにまじまじと娘の姿をみていたが、おどろきのあまり、かえってしずかな声で、
「霞、なんの用があって奉行所へ参ったか」
「おねがいがあるのです、父上さま」
「公用か」
「私用です」
「たわけっ」
 と、父は叱った。家では|曾《かつ》てみせたことのない|峻厳《しゅんげん》な声だ。さらに何かはげしい言葉を吐こうとして唇をふるわせたが、やがてまたおだやかな顔色にもどって、
「私用ならば、私宅できく。霞、かえれ。――主水介、おまえもいかがいたしたか、かようなものを案内して参るとは」
「いいえ、あたしが勝手におしかけてきたのよ、お父さま、主水介を叱らないで」
「霞、一刻も早う、ここを立ち去れ。ここは天下の公事をあつかうところ、去らねば法に照らして|仕《し》|置《おき》をいたすぞ」
「それじゃあ公用です」
「公用?――霞の公用?」
 父は、ちょっと笑いかけた。おさえようとしておさえきれぬこの|天《てん》|衣《い》|無《む》|縫《ほう》の娘への愛が、ちらと一瞬のぞいたが、すぐ仮面のような謹厳な表情にかえって、
「申してみい」
「きいて下さいますか」
 霞は生き生きと身をのり出して、
「いまね、そこで、この主水介がつかまえてきた泥棒の女のひとに|逢《あ》ったのです。話をきいてみたら、ほんとにきのどくなのよ。生まれといい、育ちといい、泥棒にでもならなけりゃ生きてゆけない事情だったらしいの。わるいのは、あのひとをそんな風にさせた男たちだと思うのよ。あたしね、女のひとで|牢《ろう》に入るようになるのは、よくよくのことだと思うわ。よく調べたら、罪をうける女たちは、ほんとうは同情された方がいいひとが大半じゃないかしら。お父さま、ね、よく調べてあげて、そう思ったら、かんにんしてやって下さらない?」
「霞」
 と、父はおさえた調子でいった。
「おまえの他愛なさ、|頑《がん》|是《ぜ》ないまでの無邪気さは、ひとは何とでも申せ、父は愛らしいと思う。尊くも思うことすらある。じゃが、それは家庭の中に|於《おい》ての話だ。ここでは、その無邪気さはとおらぬ。気まぐれの慈悲はとおらぬ。人の性は善であるか、悪であるか、それは見るひとの眼によってちがおうが、わしは、かなしいかな、性悪説にかたむく。人間には、たしかに悪人がおる。女にも悪人がおる。悪人ならば、女とて、かんにんはならぬ」
「それは、|或《ある》いは父上さまのおっしゃるとおりかもしれませぬ」
 と、霞はいって、ちょっと小首をかたむけた。
「でもね、それを裁くとき、公平だとお思いになっても、知らないで不公平になることがありはしないかしら――こんな世の中ですもの」
「こんな世の中、とはなんじゃ」
「男がつくった世の中です」
「な、なんと申す」
「天下のお仕置は、みんな、荒々しい、かた苦しい、もののあわれを知らぬ男たちがきめたことです。あたし、ずいぶん男の身勝手だと思うことがあるわ。それから、人の心をふみつけた、ばかばかしいきまり[#「きまり」に傍点]をつくったものだと思うこともありますわ。たとえば、男と女が、どんなにおたがいが好きになろうと――ちょっと家の身分がちがうと、縁組ができないなどと――」
 ちらっとうしろの巨摩主水介の方をながし眼でみたが、父は気がつかず、
「ばかめ、そういうきまりあってこそ、天下の|静《せい》|謐《ひつ》が保たれるのだ。じゃが、それがおまえの、女をゆるせというたわごと[#「たわごと」に傍点]のよりどころに相成るのか」
「そうです。いまの世の中では、女はいいこともできないかわり、わるいこともできません。女はじぶんからは、何もできないのです。――そんな女を裁くのにもし女が裁くなら、もっとちがったお裁きができるのじゃないかと思いますわ」
「女奉行か!」
 お奉行さまは笑おうとしたが、表情が凍りついていて、むしろ|憤《ふん》|怒《ぬ》の相に変った。主水介はじぶんのことのように恐れて、平伏したままおもてもあげられない。
「いわせておけば、何を申すやら――霞」
 と、さけんで、あらあらしく机の上の書類をかきまわしていたが、やがてその一部をぬき出して、霞のまえになげ出した。
「ものの例えとして見せる。霞、女のおまえがこれを裁いて、ゆるせるか」
 それは一連の調書であった。
「ここに罪を犯した六人の女がある。その|口《くち》|書《がき》じゃ」
 霞はとりあげて、ふしぎそうにそれをめくり出した。
 |昂《こう》|奮《ふん》のあまり、そんなことをしてからお奉行さまはちょっと後悔をおぼえ、といって、いまさらとりあげることもできず、いらいらと庭にしずこころなくちる花に眼をうつしたが、やがて辛抱しかねて視線をもどし、調書を熱心によんでいる娘のすがたに、ふだんの他愛ない娘ではない別人のようなへんな|靄《もや》がかかっているようなのに、ふっとその眼を大きく見ひらいたとき、
「この六人の女は?」
 と、霞が顔をあげた。
「ただいま、小伝馬町のおんな牢に入牢中じゃ」
 と、お奉行さまは厳然と、
「やがて、ことごとく打首にいたす。その裁きに、おまえは不服があるか?」
「もし、このお裁きがまちがっていたら?」
 という返事に、さすが温厚な父も――いや、一世の名奉行|大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》は、さっと顔いろをかえてにらみつけた。霞は、しかしいつも家庭で|花《はな》|生《いけ》でもひっくりかえして父ににらみつけられたときと同様に、あどけなく、にっこりして、
「父上さま、あたしの私用をきいて下さいますか? げんまん」


    新入り

     一

 小伝馬町の牢屋敷は、ぜんぶで二千六百十八坪あり、外廻りは土手と、忍びがえしをうちつけた二丈くらいの|総《そう》|練《ねり》|塀《べい》があって、その外側は掘割となっているという厳重なかまえだ。
 このなかに、お目見え以上の武士を収容する|揚座敷《あがりざしき》、お目見え以下の|揚屋《あがりや》、一般庶民を入れる|大《たい》|牢《ろう》、無宿者の二間牢、百姓牢、おんな牢――の六種の牢と、|拷問場《ごうもんじょう》、死刑場などはもとより、牢奉行|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》の居宅、同心詰所、そのほか役人たちの番所など附属の建物が、複雑な土塀によってくぎられ、はめこまれ、牢をめぐってあらゆるところに障壁が立ちふさがり、監視の眼がひかっている。
 牢屋敷の南側にズラリとならんだこれら、揚屋、大牢、二間牢にまじって、おんな牢があった。二間に三間というから、内部のひろさは十二畳くらいだろう。常時二十人前後の女囚があったという。――
 夜であった。もとより牢内に|灯《ほ》|影《かげ》はない。
 |闇《あん》|黒《こく》のなかで、あかん坊の泣き声がきこえた。乳のみ児をもった母親の場合、それをあずかってくれるものがなければ、いっしょに入牢させるのがならいなのだ。
「おお、よしよし、泣かないで、おねがいだから、坊や」
 と、母親がいっしんになだめあやすが、あかん坊はいっそう火のついたように泣く。乳が出ないのであろう。
「やかましいねえ、毎夜毎夜」
 老婆の声がした。
「どうせその子の星にゃケチがついてるよ。いまのうちくびり殺してやった方が、親の慈悲だよ。――」
 そのとき、だれかが「あ、見廻りだ。――」とつぶやいた。夜中二時間おきに牢屋同心が、|提灯《ちょうちん》持ちの張番と、拍子木をうつ雇いをつれて、夜廻りにあるく規則である。
 |牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外は、また格子になっていて、そのあいだのほそい通路を|外《そと》|鞘《ざや》というが、その外鞘をあるいてくる話し声がきこえたから、いま見廻りといったのだが、しかし拍子木の音はきこえなかった。
 格子の外に、提灯がとまった。
 ふつうなら、立ちどまっても、異常がなければすぐにゆきすぎてしまうところだが、それがいつまでもうごかないので、女囚たちはみんな格子に眼をやって、はっとした。まだ眠っているのを、手あらくゆりおこした女もある。
 三寸間隔にならぶ四寸角の牢格子のむこうに、灯におぼろおぼろと浮かんでいるのは、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかむった女の顔だった。いや、眼だけしかみえないが、大きな、まっくろな、よくひかる眼だ。
「主水介、あかん坊が泣いていますね」
「は」
 と、そばで、同心がうなずく。
「あかん坊まで、牢に入れるなんて、ざんこくね」
「身寄りのものがおらぬとみえます。……ときどき、こういう例はござる」
「可哀そうに、あたしがやしなってやろうかしら」
 これには、返事がなかった。女囚たちは、お高祖頭巾のあいだの好奇にかがやく|瞳《ひとみ》が、ふいにぼやっとうるんだかと思うと、キラキラとひかるものがあふれ出すのを見た。
「乳が足りないのだわ。張番とやら、重湯か何かつくってもってきておやり」
「罪人に、左様なことはかたく禁ぜられております」
「あかん坊は罪人ではありません」
 りんぜんとしていった。
「おとがめがあるなら、あたしが受けます。もってきておやり」
「はっ」
 そして、このふしぎな参観人は、しずかに去った。
 その|跫《あし》|音《おと》がきえると同時に、女たちのあいだに、波のような私語がわきあがったのはいうまでもない。だれだろう? いまの女性はいったいどういう身分のひとだろう?
 やがて、さっき命ぜられた張番が、|曲《まげ》|物《もの》に重湯を入れてもってきた。それをあかん坊にやるより、その母親は声をあげて泣きながら張番の手をつかんできいた。
「ね、いまの女の方はどなた?」
「あれは、お奉行さまのお嬢さまじゃ」
「えっ、大岡越前守さまの?」
 女たちのあいだにひろがった沈黙は、張番がいってしまってからもつづいたが、やがてまた老婆のむりにせせら笑うような陰気な声がながれた。
「ふん、いい御身分さね」
 牢|名《な》|主《ぬし》のお|紺《こん》である。胸に|天《かみ》|牛《きり》に似た赤い|痣《あざ》があるので、異名を|天《かみ》|牛《きり》という。――

     二

 一日おいて、このおんな牢に新入りがあった。
「南町奉行大岡越前守さまおかかりにて、武州無宿お|竜《りゅう》、十九歳」
 牢屋同心の声に、
「はい、おありがとう。――」
 と、天牛のお紺はこたえて、うしろをふりかえり、
「ほい、新入りだよ」
 と、声をかけると、ニヤリとして乞食の女房が立ちあがった。
 乞食の女房は、江戸市中の乞食の女房で、おんな牢|付《つき》|人《びと》といい、ふだんから予約してあって、一ト月交替で、女牢のなかに暮している。これが牢の外で、新入りの女囚をはだかにして、|法《はっ》|度《と》の品を身につけていないかどうかをしらべる。法度の品とは、|繻《しゅ》|子《す》、|縮《ちり》|緬《めん》、|羽《は》|二《ぶた》|重《え》、金銭、刃物などだが、これは一応の名目であって、黒繻子でも黒ぎぬといい、島縮緬でも島ぎぬといえば合格するし、刃物はともかく、金銀のたぐいは禁制品どころか、これを持ってこなければ牢内で半ごろしの目にあわされる。
 そうして乞食の女房の身体検査がおわると、新入りははだかのまま、着物に、帯、腰巻、草履などをくるんで「はいれ」という声で小さな戸前口を入ろうとするところを、うしろからドンと|蹴《け》とばされ、つんのめったあたまへ、牢内で待っていた女囚が、ぱっと獄衣をかぶせ、むき出しのお|尻《しり》をキメ板で、ピシャリピシャリとなぐりつける。――これがおんな牢新入生の受くべき|荘《そう》|厳《ごん》なる入学式だ。
 ところが、そのとき、声がかかった。
「あいや、乞食の女房、おまえの役はさしゆるす」
 ふしぎなことに、牢屋同心とならんでいるのは、|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》の八丁堀同心であった。それが、異様にふるえる声でいったのだ。
「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって、さきほど|牢《ろう》|庭《にわ》火ノ番所に於て、われらがじきじきあらためた。もはやからだを調べることは無用である。なお、ちかく、いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば、牢内にて私刑その他禁を犯して科人のからだに傷などつけては、きっと|成《せい》|敗《ばい》いたすぞ」
 すると、新入りの女が笑った。
「おや、ひょうろく同心、いやに気をつかうじゃないか。ふふん、三尺たけえ木の上でお|陀《だ》|仏《ぶつ》にするとき、きれいなからだの方が見世物になるかえ?」
 そして、相手が口をもがもがさせているあいだに、
「はい、ごめんよ」
 と、声をかけて、さっさと戸前口をくぐって、ひとりで牢の中へ入ってきた。
 あっと、女囚すべてが息をのんだのは、その新入りの女の姿を眼前にみたときだ。それはあまりにさわやかな新鮮な美しさからであった。おそらく火ノ番所で、からだをあらためられたといったが、そのとき着かえさせられたのだろうか、彼女は純白のきものをきていたが、それはとうてい入牢者とは思われず、祭りか何かの儀式にえらび出された|神《こう》|々《ごう》しい処女のようにみえた。
 それが、三歩あゆんで、ふりかえって、愛くるしいあごをしゃくっていったものだ。
「おい、同心、役目がすんだら、さっさとゆきなよ。さっき、あたしをはだかにして、よだれをたらしていやがったが、あんまりいつまでも|食《くい》|意《い》|地《じ》をはるんじゃないよ」
 同心たちは、つきとばされたようにあるき出した。……女囚たちは、声もない。新入りの、顔に似合わぬあまりな不敵さに、きもをつぶしたのだ。
 同心がいってしまうと、天牛のお紺は、やっと女たちの驚嘆のひとみに気がついた。牢名主だけあって、彼女がまずわれにかえった。
「おい、新入り、名はなんというえ?」
「お竜ってのさ、お婆さん」
「お婆さん? やい、お名主さんといえ。こいつ、牢内の御作法を知らねえな。おい、本役、シャベリをきかせてやれ」
 |下《しも》|座《ざ》にすわっていた中年の女が、突然きんきん声で「シャベリ」はじめた。
「やい、|娑《しゃ》|婆《ば》からきやがった|磔《はりつけ》め、そッ首をさげやがれ。御牢内のお|頭《かしら》は、お名主さま、お隅役さまだぞえ。うぬのような大まごつきは、夜盗もし得めえ、火もつけ得めえ、|割《かっ》|裂《さき》のたいまつもろくにゃふれめえ。|櫛《くし》や|笄《こうがい》のちょッくらもちをしやがったか、まだまだそんなことじゃあるめえ。または堂宮、|金《かな》|仏《ぶつ》、橋々のかなものでもおッぱずしやがって、通り|古《ふる》|鉄《がね》買いへ、小安くおッ払いやがって二|文《もん》四文の読みがるた[#「がるた」に傍点]か、さつまいものくいにげか、かげま[#「かげま」に傍点]のあげ逃げでもしやがって、両国橋をあっちへこっちへまごついて、|大《おお》|家《や》につき出されてうせやがったろう。すぐな杉の木まがった松の木、いやな風にもなびかんせと、お役所で申すとおり、ありていに申しあげろ」
 これが新入りに対する訓辞である。
 お竜という女は、口をぽかんとあけて、シャベる本役の顔をみていた。すこしはこれでヤキが入ったか、と思って、ジロリと上眼づかいに見やると、お竜はいきなりぷっとふき出した。
「おもしろいわねえ。もういちどしゃべってちょうだい」
「な、な、なにを?」
 お紺の顔色がさっと変って、|物《もの》|凄《すご》い悪相になった。歯がカタカタと鳴るが、とみには口もきけない。――が、息をこらして見まもっている女囚たちを見まわすと、ニヤリとして、
「このすッとんきょうなあま、なんにも知らねえの。お姫さまみてえな|面《つら》アしやがって、へんな奴が入ってきたもんだ」
「ふふ、あたし、姫君お竜ってんだよ」
「へえ、姫君、なあるほど!」
 と、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお|伝《でん》が思わずそういう嘆声をもらしたのは、よほど感にたえて胸におちたのだろう。お紺はにがりきった眼でお伝をにらみつけてから、
「お竜、いってえ何をしてここに入ってきやがった?」
「なあにたいしたことじゃない。|公《く》|方《ぼう》さまのお命を|狙《ねら》った一味でね」
 ケロリとしていったが、みんなあっと息をひいたまま、硬直してしまった。なるほどそれなら、本人が三尺たかい木の上で往生することを覚悟しているのも道理。――それにしても、まあこんな可愛らしい顔をした娘が? しかし、さっきたしか八丁堀の同心もふるえ声で、「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって」といったし、「お奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成る」ともいった。
「く、公方さまのお命を狙ったって? そ、それはまあどういう――」
 と、さすがのお紺の声もわなないた。お竜は平然と、
「ききたいかえ? きかせてやってもいいけれど、かかりあいになるよ」
「いや、ききたかあねえ、そんな話は」
 と、お紺はあわてて、
「それより、おめえ、それほどの大罪人なら、さだめしつる[#「つる」に傍点]もたんまりもって入ってきたろう。みせな」
「つる[#「つる」に傍点]」
「金づる、お|銭《あし》さ」
「そんなものが御牢内で、なんになるのさ」
 しかし、地獄の|沙《さ》|汰《た》も金次第、というのがまさにそのとおりで、外界と隔絶された地獄なればこそ、その外界の甘美な匂いをたぐりよせるには、金の魔力以外にはなかった。牢番に金をわたせば、その四分の三をはねた残りで、酒でも菓子でもはこびこんでくれるのである。その仲介者をうごかすのに、他のものはいっさい役にたたないという点で、金が万能ということは、ふつうの世間以上徹底しているが、その金のもとはといえば、新入りから入手するよりほかに方法はない。
 のちに――幕末、彰義隊の精神的な首領ともいうべき上野東叡山の学頭に、有名な|覚《かく》|王《おう》|院《いん》|義《ぎ》|観《かん》という傑僧がある。彰義隊がやぶれたのち捕われて、この小伝馬町の牢屋敷に入れられたが、西郷にも百万の官軍にも断じて屈せず堂々とじぶんの信念を吐いてしりぞかなかったこの豪僧が、牢に|金《つる》をもってゆかなかったばかりに、十日もたたないうちに悲鳴をあげ、あわてて牢番をとおして、外から|金《かね》を入れてもらって命びろいをしたという話がある。|以《もっ》て、牢内がいかに別世界であるか、また金の力がいかに強大であるかがしれよう。
「ふざけやがるな」
 と、お紺は恐ろしい声を出した。
「おい、お竜、金はもってないのかよ?」
「同心にからだをしらべられたあたしが、そんなものをもってると思って? 一文もないわ」
 すました顔である。お紺は、歯をかみ鳴らした。牢屋同心なら、新入りが金を身につけているのを大目にみてくれるどころか、まわりまわって結局じぶんのふところへも入ってくる金だから、暗にその必要性をほのめかすくらいだが、八丁堀ならどうかわからない。とくにこれほどの大罪人なら、いままでの新入りとはわけがちがうかもしれない。
 と、|納《なっ》|得《とく》することは、承知したことではなかった。納得できれば、いっそうどうにもならない怒りにからだがひきつけそうになった。
「お名主さん、そんなに貧乏ぶるいして、たたみからおちるわよ」
 と、お竜は笑ったが、ふとその眼がお紺のすわっている畳にとまり、またぐるりとまわりを見まわして、
「おや、へんだわねえ。ひとりでたたみをかかえこんで、ちゃっかりしてるわねえ」
 といった。

     三

 牢内にたたみは入れてあるが、その配給は公平ではなかった。
 牢には、男女をとわず|峻烈《しゅんれつ》な階級がある。名主を筆頭に、|曾《かつ》て入牢して名主をしたことがあるものを前官礼遇として隅の隠居、以下、詰の隠居、穴の隠居、一番役、二番役、三番役、四番役、五番役――と、このあたりまでを牢内役人といい、あとは|平《ひら》囚人だ。
 これらは食事だろうが、差入れだろうが、まず優先的にとりこんで、のこったおあまりを平囚人が分配する。のみならず、夜、昼、肩はたたかせる、足はもませる、それどころか、平囚人のなかに若くて美しい女があれば、露骨に、言語に絶する|淫《いん》|猥《わい》なサービスを強要する。これに不服をとなえ、反抗するものは、|凄《せい》|惨《さん》きわまる|私刑《リンチ》にかけられて、なぶり殺しにあうのがならいであった。
 いま、この牢内には二十二、三人の女囚がいるが、みたところたたみをしいているものは五、六人しかいない。しかも、牢名主のお紺は六、七畳つみあげたうえにすわっているのだ。あとの十六、七人は、あまった六|帖《じょう》くらいのひろさの板ノ間に、|雀《すずめ》おしにつめられているのだった。
「まあ、あかん坊をだいたひとまで板ノ間に坐らせて、夜もあかん坊を板ノ間にねかせるの?」
 と、お竜はきっとお紺をにらんだが、急にまたぷっとふき出した。
「お婆さん、おまえさんもそんなたかいところにとまってちゃあ、じぶんが苦しいだろう。ムリしないで、おりておいでよ。よく夜おちないで、腰の|蝶《ちょう》つがいをはずさなかったもんだ」
「く、くっ」
 と、お紺はうめいた。
「そのたたみを牢いッぱいひろげてさ、みんながそのうえに坐ってれば、おまえさんだってかえってらくじゃないか」
 そして、ひとりごとのようにつぶやいた。
「せっかくたたみを入れてやりながら、お――お奉行さまは、何をかんがえてるのかしら? 奉行所でもったいぶって、そッくりかえってばかりいてさ、いちどもこのなかをのぞいたことなどないんだろうねえ」
 天牛のお紺の|蒼《あお》|白《じろ》い顔は、ほとんど死灰のような色に変っていた。新入りが、こともあろうにお名主さまに文句をつける。ひともあろうにお奉行さまに不服をいう。なんたる|大《だい》それた奴だ!
「ううぬ。……」
 お紺は、非生物的なうなりをきしり出させた。絶対専制の君主が、革命の兵士に|刃《やいば》をつきつけられたような狂的な激怒に身をふるわせて、
「このあま[#「あま」に傍点]、さっきからだまってりゃあつけあがりやがって、と、と、途方もねえことをいい出しやがる。格子の外でなに様のお首を狙った奴かしらねえが、格子の内じゃそうはさせねえ。ここはお紺さまの御支配地だぞ。こんな乳ッくせえあまッ子にそこまでなめられちゃあ、おんな牢のしめし[#「しめし」に傍点]がつかねえ。やい、お|伝《でん》、お|熊《くま》、お|甲《こう》、お|勘《かん》、そいつをつかまえて、仕置をしろ!」
「合点だ! といいたいのはヤマヤマだが、お名主さん、さっき同心が――」
「ええ、さっき同心は、この女のからだに傷をつけるなといったろう。傷さえつけなきゃいいんだろ。なまじ傷などつけるより、もっとききめのある仕置があるんだ。おれのいいつけをきかねえか!」
 と、口から泡をふきながら、ガサガサとたたみのうえからはいおりてきた。
 牢内役人たるお伝、お熊、お甲、お勘の四人は、立ちあがって、|或《ある》いはしゃも[#「しゃも」に傍点]のごとく、或いは山猫のごとく、或いはかまきり[#「かまきり」に傍点]のごとく、ジリジリとつめ寄った。そのまんなかに立って、あきれたように口をあけているお竜の顔を恐怖の表情とみて、ほかの女囚たちは思わず眼をつむった。
 傷をつけない仕置――とお紺がいったが、みんなその例をみたことがあるのだ。いやじぶん自身に味わわされたこともあるのだ。四肢をおさえられたまま、へどをはくまでくすぐり責めをやられたり、口の中に汚物をつっこまれたり、さらにもっと悪どい、いやらしい拷問を、泣いてもわびてもきかばこそ、数刻にわたって執念ぶかくつづけられたり。――
 四人の女は、いっせいにとびかかった。
「あっ」と、さけんだのは天牛のお紺であった。
 姫君お竜のからだが沈んだかと思うと、白い手が旋風のようにまわった。同時に、四人の女は、|脾《ひ》|腹《ばら》をおさえて四方におよぎ、|悶《もん》|絶《ぜつ》していた。
「……なにしろ、将軍さまのお首を|狙《ねら》った女なんだからねえ」
 と、ケロリとした顔でお竜はつぶやいた。
 それから、女囚たちをふりむいて、
「さ、みんな立った立った、たたみを牢にしいて――」
 あやつり人形みたいに女たちがうごき出しても、お紺は恐怖の相をこわばらせたまま、うごかなかった。お竜はニコリと|笑《え》みかけた。
「お名主さん、その四人は気絶しているだけよ。たたみがしけたら、水でも顔にかけておやり」
 ――形勢はまったく逆転した。女囚たちは、実に恐ろしい新入りが入牢してきたことを認めたのである。
 しかし、これがそんなに恐ろしい女だろうか? 将軍の首をねらったと高言し、また四人の襲撃者をこともなげに悶絶させた手練をまざまざと見たにもかかわらず、お竜のあどけない顔をみると、それらは夢の中の出来事のようにしか思われないのだ。彼女はあかん坊をねかせるのに、やさしい声で子守唄をうたった。それはすべての女囚たちに、じぶんのための子守唄にきこえた。それから彼女はなお陰鬱にだまりこんですわっているお紺のそばへいって、他意のない笑顔で、
「お名主さん、肩をもんであげようか」
 と、いったものだ。そして、うしろへまわって、勝手にお紺の肩をもみながら、まるで祖母にたわむれる孫娘みたいな甘ったれた声で、
「あのね、あたし、ほんとをいうと、少うしお金をもってるの」
「…………」
「お金があると、牢の中でも買い物ができるの? おもしろいわね」
「…………」
「何を買おうかしら。お酒? お菓子?」
「…………」
「そうだ、花を買いましょう。ね、桜の小枝を――世の中は、いま桜の花のまっ盛りよ」


    玉乗りお玉

     一

 世間は花盛りだといわれても、信じられないくらい、牢の中はさむかった。
 おんな牢は牢屋敷の南側にあるが、それはつまり光の入る庭の方角は北側だということで、しかも二重格子にはさまれた|外《そと》|鞘《ざや》をへだてているために、光は冬のごとく|蒼《あお》く、乏しい。
「ううっ、さむいの――」
 と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺は歯をカチカチと鳴らした。新入りの女の入ってきたあくる日の朝のことである。
 牢の朝は、午前四時に明ける。五時に見廻りがまわってくるのを、みんな起きて待っているのだ。そして、五番役が、「|朝《あさ》|声《ごえ》」と称する独特の言葉で囚人たちを点検する。
「つめろつめろ|羽《は》|目《め》通り、つめろつめろ役人衆、詰の御番衆。つめろつめろ夜があける、お牢内の|法《はっ》|度《と》|書《がき》、ありありとみえてはならんぞや。つめろつめろ総役人衆、お戸前の|鍵《かぎ》も鞘戸の鍵も、ちんや、からりと鳴ってはならぬぞや。つめろつめろ羽目通り、つまりました、つまりました、つまりました、夜があけたあ」
 そして、牢役人どうしが朝のあいさつをかわす。
「これはおとなりの何番役さま、さてけさも結構なお天気につきまして、おらくに朝声はやばやと相かかりまして、よろこびお訴えとつかまつりまして、私の方、名主頭、お隠居、隅役隠居、わたし下役人つぶさに申しきかせました」
 言っている本人たちにも、完全には意味がわからないだろう。とにかく天正以来二百年になんなんとする江戸の牢獄史に、いつのころからか生じたきまりのせりふだ。文字にかけばのどかでユーモラスですらあるが、それがこの陰湿なおんな牢のなかで毎朝くりかえされるとき、ぞっとするような|呪《じゅ》|文《もん》めいた印象をあたえるのであった。
 食事は、朝の八時と午後四時の二回だけ、一日二合二勺のモッソウ飯と、|手《て》|桶《おけ》に入れてきた実のない|味《み》|噌《そ》|汁《しる》一|椀《わん》と、|糠《ぬか》|漬《づけ》の大根ときまっている。しかも、人数にあうだけの量は官給されても、張番があらかじめその三割のあたまをはね、のこりを名主以下の牢内役人たちが存分にくうから、あとの平囚人はまさに餓鬼道なのがふつうであった。
 さて――その朝の食事をとったあとで、お紺がやせ|脛《ずね》をかかえていうのである。
「さむい。……牢内、妙な景色になりゃがってよ、年寄りは凍え死んでしまいそうじゃわ」
 姫君お竜に、たたみを公平に分配されたことに、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な愚痴をこぼしているのだ。お紺は、まだお竜に心をゆるしてはいない。がお竜という女のえたいがしれないので、手が出せないのだ。いや、事実四人の牢内役人にとびかからせたのだが、あっというまに気絶させられたのだから、作戦をかえなくては、どうにもならない。しかし、きみがわるいのはお竜の「武術」より、入牢するなりじぶんたちから牢内役人の特権をはぎとってしまったその破天荒な革命ぶりだった。
 しかも、それが|凄《すご》|味《み》のある毒婦型の女ならまだ話のつけようもあるが、本人は公方さまの首をねらった女だと大それたことはいったが、顔をみると|鞠《まり》でもつきそうなほど愛くるしくて、こっちから話しかける気力もくじけるうえに、向うのいうことなすことが、こちらとぜんぜんケタがはずれている。……
 ともあれ、お紺はまだ屈服してはいなかった。きのう起ったことがまだ信じられないような気がするのだ。それに、こんなはたちにもならない小娘になめられてたまるかという牢名主の意地もあり、またこんな老婆で入牢するまでには、|錆《さ》びつくほどながい、そして光栄ある罪の暦ももっていた。
 昨夜、へいきでスヤスヤ寝息をたてていたお竜は、けさ例の朝声でたたき起されてから、キョトンとして坐っている。モッソウ飯には手をつけなかった。
(ふふん、娑婆からきたてにゃ|嗅《か》いだだけで胸がわるくなるだろうが、いまに餓鬼みたいになりゃがるにきまってら)
 と、お紺は心中にせせら笑った。そして、お竜の眼前で、ジワジワと牢の恐ろしさとお名主さまの権威を見せつけてやろうと思い立った。
「ええと、けさは、どいつだったっけ、おれをあっためてくれる奴は。たしか、お|玉《たま》と――」
 と、ジロリと凍りつくような眼で牢内を見まわすと、ひとりの女がビクンと立ちあがり、またひとりの女がふらふらとすすみ出た。
「…………?」
 お竜は眼をまるくした。
 よび出されたふたりの女は、どちらもまだ若く美しかったが、それがあおむけになって、ならんで横たわると、そのうえにお紺がねそべって、|頬《ほお》|杖《づえ》をついたのだ。世にもあたたかな|肉《にく》|蒲《ぶ》|団《とん》にはちがいないが、乳房の谷間に枯木みたいな|肘《ひじ》のくいこむ苦痛に、ふたりの唇があわれにゆがむ。……しかし、こういう奉仕を拒否した場合の、身の毛もよだつ私刑を思いしらされている女たちは、声もたてず、眼をとじたままだ。
 お竜が立ちあがろうとした。
 そのとき、外鞘で声がした。
「お玉、浅草山の宿町|蓑《みの》|屋《や》|長兵衛《ちょうべえ》より届け物があるぞ。受け取れ」
「おありがとうございます」
 と、お紺がこたえて、いままでのぶしょうな老婆とは別人みたいな|敏捷《びんしょう》さで、女のからだの上からすべりおりた。
 届け物とは、差入れのことだ。牢屋下男が戸前から入れてくれたのは重箱だったが、それより女囚たちは、牢番がもう一つ入れてくれたものに、はっと眼をうばわれてしまった。満開の桜のひと枝だ。
「きのうお竜がたのんだ買物じゃ。それ」
 姫君お竜がかけよって、うけとった。
 重箱の方は、お紺がとった。そして牢番がいってしまうと、お玉には一言のことわりもなく、なかのむすびや卵やきにむさぼりついた。お熊やお伝やお甲なども、えんりょなく手をさし出す。むすびも卵やきも、ことごとく十文字に割ってあるのは、なかに牢ぬけの兇器などが入っていないか、牢役人が一応検査をするからである。
「まあ!」
「花よ――坊や、花よ!」
 あかん坊を抱いた女をはじめ、女囚たちは夢中で花のまわりにあつまり、顔をよせた。
 ひと枝の花がこれほどすばらしい感動をあたえるとは、飢えた彼女たちにも思いがけぬことだったろう。女たちは|恍《こう》|惚《こつ》と眼をとじ、|溜《ため》|息《いき》をついた。すすり泣きをはじめた女さえあった。それは|闇《やみ》にひらいた灯の花であった。
 微笑してその光景をながめていた姫君お竜は、泣いているひとりの女をみて、ちょっとまばたきをした。さっきお紺の肉蒲団になっていた女のひとりだ。
 彼女はそっとそのそばへ寄って、ささやいた。
「あんた、お玉さん?」
「…………」
「軽業一座の」
「――どうして、あたしを?」
「いつか、両国でみたことがあるの。ほんとに可哀そうに、あんな目にあって」
 と、重箱にくらいついているお紺の方をちらとふりかえって、
「あれ、あんたへの御見舞でしょ? 蓑屋さんとかから――」
「蓑屋さんは、あたしの一座の|金《きん》|主《しゅ》だったひとなの。ほんとにひいきにして下すったばかりか、ここに入ってからも、まだあんなに親切にしてくれて……でも、あたしはもうだめ、そのうちお呼び出しになって、きっと|磔《はりつけ》か|斬《ざん》|罪《ざい》か……」
「そんなこと、まだわからないわ。お奉行さまのお取調べによっては――」
 お玉は|蒼《そう》|白《はく》な顔をあげて、くいいるようにお竜を見つめたが、すぐにひきつけたようにのどをそらしてうめいた。
「いいえ、どう調べたって、あたしがふたりの人間を殺したのにちがいないもの! しかもそのうちのひとりは、あたしの亭主なんだもの!」
 お竜はおののくお玉の肩を抱いて、ながいあいだ髪をなでてやっていたが、やがてやさしい声でつぶやいた。
「お玉さん、あたしにおまえさんのお話をきかせておくれでないか……」

     二

 お玉は玉乗り娘だった。
 彼女は親も生まれたところも知らない。きっと、西も東もわからないころに軽業に売られたのにちがいない。とにかく、ものごころついてから、ずっとおなじ一座にいた座元の親方はひどく残忍な男だったが、その恐ろしささえも知らないほど、お玉の運命はその一座の|鋳《い》|型《がた》にはめこまれていたし、彼女は従順で楽天的な性質だった。まる顔の、器量はよかったが、玉乗りの運動神経は天性あまりそなわってはいなかったとみえて、よく親方から|鞭《むち》でなぐられたが、あまりかなしいと思わないで、旅から旅へまわっていた。
 そのお玉の運命に第一の変化がきたのは、二年ほどまえ、名古屋の広小路神明で小屋がけをしていたときのことだ。一座の花形、|手《しゅ》|裏《り》|剣《けん》打ちの夫婦が、親方に|叛《はん》|旗《き》をひるがえしたのである。もっとも、それをそそのかしたのは、木戸番の|蓮《れん》|蔵《ぞう》という男だった。蓮蔵はそれより一年ばかりまえ、紀州でやとい入れた風来坊で、年もまだ二十二、三だったが、木戸番には|勿《もっ》|体《たい》ないくらい頭のよくきれる若者だった。もっとも軽業一座では、芸がなくては、いくら利口でも木戸番ぐらいしか使いみちがない――と思っていたら、案の定、この騒ぎの陰の張本人となった。
 手裏剣うちの|車佐助《くるまさすけ》と|小《こ》|金《きん》夫婦について出たのは三分の一ほどの芸人だったが、そのなかにお玉がいた。というのは、彼女はいつしか蓮蔵のものになっていたからだ。
 お玉は蓮蔵にむちゅうだった。利口なのにも感心していたが、片輪者めいた人間の多い一座で、これはまとも以上のきりっと苦味ばしった男まえだし、肌の白さなどどこでも吸いつきたいようで、その左腕に「蓮」と一字彫ってあるのを、もし本人の名と知らなかったら、かきむしってやりたいほどだった。
 さて、あたらしく一座をつくったにはつくったが、あとはひどい御難つづきだった。とにかく、芸人の三分の一はついて出たものの、車夫婦をのぞいては、あまりたっしゃな奴がなく、あっても|曲手鞠《きょくでまり》とか|竿《さお》のぼりとか猿まわしとか刀の刃わたりとか地味な芸が多くて、いかに才人蓮蔵があせっても、客がよべなかった。
「とにかく、江戸へゆこう。江戸なら、目明き千人、|盲《めくら》千人、なんとか食えらあ」
 と、蓮蔵がいい出して、江戸へきたのが一年前だ。
 江戸で、芝神明社内の境内とか、|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》境内とか、|葺屋町《ふきやちょう》|河《か》|岸《し》とか、深川八幡とか、あちこち小屋がけをしてまわったが、どこでもぱっとせず、食うや食わずのくらしが三月ほどつづいたが、去年の夏、お玉の運命に第二の変化がきた。
 意外な金主があらわれたのだ。浅草山の宿町の薬種問屋の蓑屋長兵衛という金持がパトロンになってくれたのである。
 このひとは、まえからちょいちょい中村座とか市村座とか森田座などの芝居興行の金主となるという道楽気があったが、芝居以外にも興行物は好きだとみえて、気まぐれに芝神明町にあわれな小屋をかけているお玉の一座を見に入ったという。そしてお玉を見た――
「あの玉乗りの女はおらんか。ちょっと|逢《あ》いたい」
 と、楽屋へかけこんできた声に、お玉がびっくりしてむかえると、その福々しい老人は、くいいるようにお玉の顔をみて、
「ううむ、似ておる、死んだわしの娘に――」
 と、うめいた。
 そういう思いがけない原因から、蓑屋長兵衛はお玉の一座の金主になってくれたばかりか、あっちこっちつて[#「つて」に傍点]をもとめては新しいたっしゃな軽業師をひきぬいてきてくれた。一座は息をふきかえした。しかし、その親切が、お玉にとって幸福をもたらすよりも、大きな不幸を呼んだのだ。
 長兵衛がつれてきた芸人のひとりに、|蝋《ろう》|燭《そく》|渡《わた》りの|美《み》|紀《き》|之《の》|介《すけ》という女がいた。十数本、蝋燭をつけたままの|大燭台《おおしょくだい》のうえを、矢大臣に|扮《ふん》した美紀之介が|右《め》|手《て》に弓、|左《ゆん》|手《で》に|傘《かさ》をもってわたってゆく芸はみごとなもので、しかも男装をしているくせにおそろしく肉感的な女だから、どっと人気がわいた。いままでの立役者手裏剣打ちの車佐助の影がうすくなるほどであったが、その|妖《よう》|艶《えん》さが、見物のみならず、いまは座元で左うちわの蓮蔵をもとらえてしまったらしい。
 西両国の広小路に進出して、木戸銭三十二|文《もん》に中銭二十四文という高価にもかかわらず、毎日朝はやくから見物人がおしよせるほどの人気を呼んでいるさなか――お玉はついに、亭主の蓮蔵と美紀之介の密通の現場をみる破目になった。
 実はその数日まえ、ときどきブラリと見物にやってくる長兵衛老人から、ふと、
「美紀之介を世話してやったのはいけなかったかな」
 と、つぶやかれ、お玉がキョトンとしていると、
「あれは生まれつきの男好きじゃ。おまえも亭主によく気をつけたがいいぞ」
 と笑われたので、さては、とこのごろの蓮蔵と美紀之介のあいだの妙な空気を思い出していたからだ。
 ほれぬいている亭主だったから、お玉はのぼせあがった。|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》のすえに、彼女は、「もうこんな一座、蓑屋さんの金主をことわってやるから」と口ばしった。すると美紀之介は、乳房をまるだしにした矢大臣というメチャメチャな、そのくせ|凄《すさ》まじいばかりなまめかしい姿のまま、つんとそらうそぶいて、
「へん、あたしひとりがいりゃあ、一座は大船にのったようなものさ」
 といったから、蓮蔵をのぞいて、みんないやな顔をした。|人《ひと》|気《け》もなかったはずの夕ぐれの楽屋だったが、この喧嘩さわぎに、どこからか芸人たちがあつまって、おもしろそうにのぞきこんでいたのである。
 お玉がその翌日、玉乗りの玉からころがりおちて見物人の大笑いを買ったのは、決して芸が未熟だったせいばかりではない。楽屋にかえると、美紀之介が矢大臣の扮装をつけながら、むこうむきのままで、
「どいつもこいつもぶざまな芸をみせて、どうやら美紀之介一座とした方が無難だねえ」
 といった。どうしたわけか、その日は、お玉のまえに車佐助もしくじって、戸板に|緋《ひ》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》ひとつで立つ女房の小金に、くびスレスレに手裏剣をうつべきところを、肩をかすって血をながさせた珍事もあったから、そうあざけったのだろう。

     三

 その夕方だ。お玉と小金は、つれだって小屋を出た。
 一帯のおででこ[#「おででこ」に傍点]芝居や講釈場やその他の見世物などはみなはねて、|西《すい》|瓜《か》売りや|鍋《なべ》|焼《や》きうどんの夜店がならんで出はじめているのも、夏から秋への移りかわりを思わせる。
 ふたりが出たのは、たまたまその日も小屋にきていた蓑屋が、|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》にいい外科があるから、お玉、小金をつれていってみてやるがいいと紹介状をくれたせいもあるが、|打《うち》|身《み》、切傷ばかりでなく、こころの同病相あわれむで、ふたりとも美紀之介への愚痴を大いにこぼしあいたいからだった。小金といえども、きょうこのごろの美紀之介の増上慢は決して愉快でなく、「うちのひともそうなんだよ。きょうしくじったのも、きのうからのあいつの高慢なせりふがふっとあたまをかすめたら、ついシャクにさわって手もとがくるったんだって」といったくらいだったからである。
 小金の|怪《け》|我《が》はかるく、お玉も異常はなく、医者から出て薬研堀に沿ってかえる途中だった。ピチャピチャと小暗く鳴る堀をうしろに妙なものを路傍で売っている男に逢った。
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
 |深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を伏せた浪人者なのである。疲れたように石に腰を下ろしている。
 蜘蛛を売る?――蜘蛛など買ってどうするのだ?
 きみわるそうに足早にゆきすぎかけたふたりの女は、しかし思わず立ちどまった。ちらとみた、浪人の足のあいだに置かれたふたつの|虫《むし》|籠《かご》――それは、見ていっそうきみわるいものであったが、ふたりの足を|釘《くぎ》づけにする力があった。
 もう|宵《よい》|闇《やみ》はおりているのに、水あかりか、それとも、あとで思えば、何かこの世のものならぬ|妖《よう》|異《い》なひかりがさしていたのか、ぼうっと浮きあがった地上に、その虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだ。
 深編笠は依然としてうつむいたまま、病んでいるようにかすかな|嗄《しゃが》れ声でいった。
「紅蜘蛛はいらぬかな。……」
 ふたりの女は、ぞっとしてあるき出した。
 十歩いって、お玉がいった。
「ね、見た? いまの真っ赤なもの――あれが蜘蛛?」
「あんな赤い蜘蛛って世の中にあるのかねえ。……何にするのかしら?」
「見てたのしむったって、松虫やこおろぎじゃあるまいし、蜘蛛なんか――」
 小金が立ちどまった。
「お玉さん、あいつ……蜘蛛がきらいだったわねえ。……」
 お玉も立ちどまった。それはほんとうだった。だれだって蜘蛛の好きな人間はあるまいが、だれにもまして、あのはなれ業をやってのけ、人を人くさいともおもわぬ美紀之介が、蜘蛛だけは病的にこわがるのである。いつか酔って横ずわりになったふくらはぎの下に、うっかり一匹の蜘蛛をしきつぶしたときなど、いっぺんに酒がさめてしまったのはむろんのこと、いくらあとで洗っても、まっ白なふくらはぎの皮膚に、蜘蛛のかたちをした|痣《あざ》が、三日間くらいとれないことさえあった。
 お玉の眼が、うす闇にひかった。
「小金さん、あれを買ってゆこうか」
「え、何にするのさ」
「美紀之介のちくしょうに、いっぺんきもをつぶさせてやるのさ」
 ふたりはもどっていった。紅蜘蛛を売る浪人はまだそこにいた。
「それ、一匹ちょうだいな」
 と、おそるおそる一方の虫籠を指さすと、浪人は深編笠を伏せたまま、しゃがれ声で、
「そなた、人を殺したいのか?」
 といった。お玉はぎょっとして、しばらく口もきけなかった。
「と、とんでもないよ。なぜそんなことをいうのさ?」
「それはな、そなたのさしたこちらの籠は、毒蜘蛛じゃ。一刺しで馬でも殺す。……そなた、人殺しがお望みなら売って進ぜるが、ちと高い。一匹十両」
「いらない、いらない、そんなおっかないもの――こ、こっちの籠は?」
「これは無毒じゃ。これでよろしいのか」
「いいよ、そ、その赤い蜘蛛で、ちょいとひとをびっくりさせてやるだけなんだから」
「これは安い。一匹十文じゃ。何匹所望」
「い、一匹でけっこうよ」
 ほんとうに、美紀之介をびっくりさせて、赤恥をかかせて腹いせをしてやろうというつもりだけだから、一匹でたくさんだった。
 浪人は|箸《はし》で紅蜘蛛をはさんで、紙につつんだ。
「だいじょうぶね? これは毒蜘蛛じゃないわね?」
「このとおりわしが紙につつんでも|仔《し》|細《さい》ない。心配なら、肌に|這《は》わせてみせようか」
「いえ、だいじょうぶなら、だいじょうぶ」
 お玉は妙なことをいって、紙づつみをたもとに入れると、にげるように立ち去った。小金は終始一言もいわなかった。角をまわるとき、ちらっともういちどふりかえると、蜘蛛売りの浪人は、うす|蒼《あお》い水あかりを背に、やっぱり深編笠を伏せたまま、石のように坐っていた。


    紅蜘蛛

     一

「さて東西、いよいよ御覧にいれまするは、|太夫《たゆう》じゃ、太夫じゃ、おまちかね、矢大臣美紀之介の|不知火《しらぬい》わたり、もえる大|蝋《ろう》|燭《そく》は十本と七本、この大蝋燭を、一本も折らず消さずに、ゆらりゆらりとふみわたる千番に一番のかねあい、古今のはなれわざ、東西っ――」
 |肩《かた》|衣《ぎぬ》だけをつけた座元兼口上言いの蓮蔵がそこまでいったばかりで、場内は、わあっというどよめきにつつまれた。両国広小路の軽業小屋である。
 舞台の|袖《そで》に、いま手裏剣うちをすませてひっこんだ、車佐助と小金が立っていたが、佐助はあきらかにおもしろくない顔をしていた。美紀之介がくるまでは、彼らだけにあんな|喝《かっ》|采《さい》がなげられたものだが、いまでは義理のまばらな拍手はまだいい方で、はやくひっこめという|弥《や》|次《じ》の方が多いこのごろだ。色がくろく、やせてからすみたいな顔をした浪人が、紅だすきをかけているのだが、人気がおちてみると、はなやかなたすきがいっそう本人の貧弱さをきわだたせる。
 しかし、小金は眼をひからせてふりかえり、そこに立っているお玉に、亭主にはきこえないようにささやいた。
「お玉さん、あれは?」
「絵日傘のなかに入れてやったわ」
 と、お玉は|生《なま》|唾《つば》をのみこんで、じっと舞台の方を見つめる。
 彼女は、きのう|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》で買ってきたあの赤い|蜘《く》|蛛《も》を、美紀之介の小道具の絵日傘に、さっき、そっと入れておいた。毒蜘蛛ではないときいていたからいいようなものの、それでもたたんだ細い傘のおくふかく、蜘蛛をつぶさないようにさしこんでおく仕事は、その蜘蛛のふとった感触、またそのぶきみな色彩と、それにちょいとした気のとがめから、あまりきもちのいいものではなかった。
 そのお玉の不愉快さを帳消しにするのは、ただ美紀之介のあの|驕慢《きょうまん》な顔つき、いいぐさだ。――舞台で、三味線、太鼓、鼓、チャルメラの音がたかまった。
 舞台には、人の背よりたかい|大燭台《おおしょくだい》に大蝋燭が、あかあかと灯をともしてならべられている。数はまさに十七本。
 考証的にはだいぶあやしいところもあるが、ともかく|闕《けっ》|腋《てき》の|袍《ほう》らしきものを着、|巻《けん》|纓《えい》の冠らしきものをつけ、右手に弓、左手に剣のかわりにたたんだ絵日傘をもって、矢大臣に扮した美紀之介は、客席にえんぜんたる|媚笑《びしょう》をなげた。男姿だけに、まっかな唇からもる白い歯のきらめきの|妖《あや》しさが観客を|魅《み》して、またどっと歓声がわく。――当時のものの本に「日々えいとうえいとうの大入りは、まったく美紀之介の美しきかんばせに、色気をふくみしゆえなり」とあるとおりだ。
 しかし、顔ばかりではなく、たしかに芸もみごとなもので、|囃《はや》しにあわせて一礼すると、美紀之介のからだが、ユラリと一本の燭台のうえに|飛翔《ひしょう》した。――とみるまに、ひらひらと舞いながら、蝋燭のうえをわたりはじめる。見物人をよろこばせたのは、そのたかい燭台、ほそい蝋燭が、ゆらめきつつも、一本もたおれず、一本も折れない妙技もさることながら、ふみわたる蝋燭の火が、いちど足の下できえて、矢大臣がとなりへうつると同時に、またぽうっと|不知火《しらぬい》のごとく白い炎をあげるふしぎさだ。これは|智《ち》|慧《え》の蓮蔵が考案したからくりである。
 蓮蔵のとくいげな「|御《ご》|褒《ほう》|美《び》にどっとほめたりほめたり!」という声もまたず、客席から|怒《ど》|濤《とう》のような感嘆のどよめきがあがった。
 九本目――ちょうどまんなかまできたときだ。
 矢大臣はぱっと絵日傘をひらいて、みえをきった。――と、その絵日傘から、つーっと銀いろの糸をひいておちてきたものがある。いや、その糸までハッキリみたものはほとんどなかったが、美紀之介の顔のまえに、ぶらんと真っ赤な点みたいなものがゆれたので、「おや?」とみな眼をまたたいたとき、美紀之介もふとそれを見たようだ。
「あっ、蜘蛛じゃ!」
 土間のかぶりつきから、だれかさけんだ。
 美紀之介の眼が、かっとむき出された。蜘蛛がゆれたはずみに、そのしろいひたいに、ぽつんととまった。同時に、三本ばかりの燭台が前後左右にみだれて彼女はどっと舞台にころがりおちた。
 お玉と小金は、ぎゅっと手と手をにぎりあわせた。あぶら汗とともに、ひきつった笑いをにじませたお玉の表情が、そのままうごかなくなった。
 期待していた客席の|哄笑《こうしょう》はわかない。いや、たおれたまま、美紀之介がうごかない。――とみえたのも一瞬、たちまち彼女のからだは、人々の|叫喚《きょうかん》のつむじにふきくるまれた。まっさきにはしりよったのは、座元の蓮蔵だ。つぎに舞台の袖にいた佐助がかけ出していった。それから、かぶりつきにいた客のひとりがとびあがった。
「美紀之介!」
 そうさけんだ声で、その客が、蓑屋長兵衛とわかった。金主の長兵衛は、客の評判をきくためもあろうが、ちょいちょい、こうして客席で一般にまじって見物している道楽があったのだ。
「あっ、いけない!」
 と、佐助がさけんで、とびついた。美紀之介の美しい顔が、みるみる|藍《あい》いろの死相に変じてくるのをみたからであった。それからの混乱は、いうまでもない。不知火わたりの曲芸の最高潮で、一座の花形美紀之介は、突如として怪死をとげてしまったのだ。
「こ、こりゃ、どうしたってんだ?」
 と、長兵衛がうめくと、蓮蔵も客のさわぎを制止するのもわすれて、
「お役人をよんでこい、だれか、お役人を――」
 とさけんだ。
 そのとき、異様な声で、車佐助がいった。
「妙なものがいたな、赤い虫――蜘蛛みたいなものが――」
 波うっていた人々が、急にしーんとうごかなくなった。みんな、さっき目撃したものを思い出して、名状しがたいぶきみさにおそわれたのである。
 蓮蔵のふるえる声がはしった。
「いまの蜘蛛はどこへいった?」
 人々は、また騒然とした。
 じぶんの|襟《えり》もとや袖口をみ、相手の背や肩をみ、また足もとを見まわした。しかし、あの赤い蜘蛛は、どこにもみえなかった。
 舞台の袖では、お玉と小金が、棒みたいに立ちすくんでいた。
 お玉が、色のない唇でささやいた。
「あの浪人は、あれは毒蜘蛛じゃないといったわね。……」
 すると、小金は、どきっとするようなことをいった。
「ああ……あの男、|籠《かご》をまちがえたのかしら?」

     二

 それは、恐ろしいことだった。――お玉は、ただ美紀之介をびっくりさせて、亭主をぬすまれた|腹《はら》|癒《い》せをしたかっただけなのだ。それなのに、美紀之介が死んでしまった!
 してみると、あれは毒蜘蛛だったのか?
 あの蜘蛛を売る浪人は、坐りこんだ足のあいだに、二つの虫籠をおいていた。一方は無毒、一方は馬でも殺すとかいう毒蜘蛛だといったくせに、じぶんでまちがえたのだろうか? そういえば、みたところ、どっちもおなじように真っ赤な蜘蛛だったけれど。――
 お玉は|狼《ろう》|狽《ばい》し、また逆上した。
 彼女は小屋のさわぎにまぎれて、広小路からぬけ出して、薬研堀にかけつけた。あの浪人はいなかった。
 彼女は待ちつづけた。どうしてもあの浪人にといたださなければならなかった。きのうとおなじような夕方がきて、薬研堀の水がくらくひかりはじめた。しかし浪人の姿はあらわれなかった。
「どうしたのかしら? まだはやいのかしら?」
 そういう焦燥が、やがて、
「ひょっとしたら、きのうだけ、ここで売っていたのでは?」
 といううたがいにかわり、さらに、めったに人通りもない寂しい路上をみているうちに、こんなところで物を売っていたのはへんだとはじめて気がついた。
 ――そなた、人を殺したいのか?
 という、|陰《いん》|々《いん》たるしゃがれ声が耳のおくできこえる。きのう彼の坐っていた石をみると、そこにボンヤリとあの深編笠を伏せた影がうかんで、ふっときえてしまった。まぼろしであったが、お玉は水をあびたような思いがした。あれはほんとだったか。あたしの悪い夢じゃなかったか。それともあれは、この世のものならぬ|妖《よう》|怪《かい》ではなかったか?
 お玉は、ころがるように広小路へにげかえった。恐怖のために、吐き気をかんじていた。
 小屋でのさわぎはまだつづいていた。
 客の大半は追い出されていたが、舞台にあかりをつけて、同心や目明しが|屍《し》|骸《がい》を検証し、関係者をとり調べているらしい。
 小金が何かしゃべったのではないかと、お玉が|蒼《あお》くなってさがしまわると、小金はむしろ張りの楽屋で、ひとり酒をのんでいた。
「小金さん」
 呼ばれて、あげた顔に、恐怖がはしった。しばらくお玉を見ていたが、またぐいと徳利をあおって、
「こわいから、のんでいるのだよ。お玉さん」
 と、いった。お玉はうなずいて、声をひそめて、
「小金さん、あの蜘蛛のこと、お役人にしゃべった?」
「いいや」
 と、くびをふって、
「おまえさん、どこへいってたの?」
「薬研堀に」
「えっ、では」
 お玉は、小金のひざに子供みたいにわっと泣き伏した。小金はお玉の肩をゆさぶって、ふるえ声で、
「それで、あ、あいつは?」
「いないんだよ。いたらとっちめてやろうと待ってたんだけど、いつまで待っても、こないんだよ……」
 小金はしばらくだまっていたが、やがてお玉の耳もとに口をよせて、
「お玉さん、あの浪人はいなかったことにしよう!」
 と、ささやいた。お玉は顔をあげて、
「だって、いたよ。きのうは――あたし、万一のことがあったら、あの浪人をつかまえてもらうより、たすかるみちはないのだよ――」
「いいや、たとえいたって、|逢《あ》わなかったことにしよう。あんなもの、買わなかったことにしよう。だまってるんだ、お玉さん、ね、へんなことをいい出したら、それこそただじゃすまないよ」
「小金さん、それじゃだまっていてくれる?」
「あたりまえだよ。口がさけたって――」
 お玉は唇をわななかせて、泣きじゃくりながら、
「かんがえてみりゃ、あの美紀之介だって可哀そうなことをしたわ、あたしがわるかったんだよ。ヤキモチをやいたのがいけなかったんだよ……」
「いけないことがあるもんか。あいつはあんな死にざまをするのが|恰《かっ》|好《こう》なみせしめさ」
「だから、あたしはつかまってお仕置をうけたってしかたがないと思うんだけど、ただ……あたし、ヤキモチをやいて美紀之介を殺したと、蓮蔵に思われるのがたまらないんだよ……」
 それは、ほんとうだった。このさわぎのそもそもの原因が、亭主の蓮蔵の浮気にあるのに、世の女房のつねとして、お玉はそう思いつめた。ヤキモチで亭主の色おんなを殺したと知られるときは、夫婦の縁にとどめをさされるときだ。彼女は、まだ蓮蔵に|惚《ほ》れきっていたのだ。
 さて、その蓮蔵だが――それ以来、彼はうさんくさそうに、一座の連中をにらみまわしはじめた。
 役人たちは、|蜘《く》|蛛《も》のことは一笑に付した。人を殺すような蜘蛛が世のなかにあるはずはない。もしあればものの本にもかいてあるだろうし、ほかに被害者も出るはずだというのである。それももっともだが、それでは美紀之介の死因はというと、彼らにもよくわからなかったらしい。思案のあげく、とにかくかれらに危ない軽業をさせるのがまちがいのもとだ、おちるはずみにきっと打ちどころでもわるかったのであろう、以後気をつけろと|叱《しか》りつけられたから、蓮蔵はふくれかえった。
 このころからちょっと後年になるが、明和年間に京都の手品師|生田中務《いくたなかつかさ》なるものが、あまりに幻妙な手品をつかったために、死刑になったことがある。
 そういう時代だから、蓮蔵も抗弁はできなかった。とにかく役人にとっては、人心をさわがすことが一番恐ろしかったのである。
 毒蜘蛛を黙殺したのも、そのせいかもしれないが、おかげで事件はウヤムヤになってしまった。――しかし、役人たちも、もし美紀之介の怪死をとげたときの様相を目撃していたら、とうていあの紅蜘蛛を笑いすてることはなかったであろう。
 蓮蔵はウヤムヤにはしなかった。もともと頭のよくまわる男でもあり、ものごとをウヤムヤにはできない粘ッこさをもった性分なのである。一座の立役者をうしなったという打撃からの怒りも当然だが、それ以上に、いちずな、血まよった|復讐《ふくしゅう》欲が感じられた。
 翌日はさすがに小屋は休んだが、その日いちにち、
「あの日傘はどこにあった?」
 と、きいてまわったり、
「楽屋に入ってきたよそものはねえか?」
 と、目明しそこのけに調べたりしていた。
 はじめ彼は、じぶんの一座の大当りに|嫉《しっ》|妬《と》したほかの興行師の犯行ではないかとうたがったらしいが、きのうべつにあやしい人間が楽屋に入ってきた形跡はないことをつきとめるにおよんで、しだいにただならぬ眼を周囲にむけ出した。
 お玉は胸をおしつぶされそうなおびえから、蓮蔵の異常な執念とも彼女にはみえる探索ぶりが、美紀之介へのみれんによるものであることを感じとると、「なにをのぼせてやがるんだ、ざまあみやがれ」という気になり、さらにいっそううちのめされて、ふぬけみたいになった。それから、蓮蔵にひどくわるいことをしたような弱気にとらえられた。
「お玉」
 ふいに楽屋にぶらりと入ってきた影をふりかえって、お玉はびくんとした。
「妙にかんがえこんでるじゃねえか」
 蓮蔵が、充血した眼をひからせて立っていた。
「おめえが、美紀之介にへんな細工をしたんじゃあねえかい」
 お玉は口がきけなかった。
 しかし蓮蔵はそうはいったものの、もっと、ほかに気がかりなことがあるらしく、いちどいまきた方をふりかえって、
「おい、ちょっときてみな」
「何さ」
「しいっ、声をたてるな」
 お玉は蓮蔵のようすに異様なものを感じて、不安な表情でついて出た。
 そして彼にいわれたとおり、むしろのすきまから、そっと裏をのぞいてみた。

     三

 裏の空地に秋の日が照っていた。やはりむこうの小屋のむしろ張りの背がみえ、なかから太鼓やチャルメラの音がわびしくながれてくる。
 うごいているものとては、遠く蒼い空にはためく|幟《のぼり》のほかは、日光のなかを舞っている四、五羽の秋の|蝶《ちょう》だけだった。
 ――と、思いがけないことが起った。その蝶のむれへ、キラ――とひとすじのひかりの矢がはしると、蝶の一羽がヒラヒラとおちてきたのである。ひかりの矢は、文字どおり糸をひいていた。
 地上にまずおちたのは、|紐《ひも》をつけた一本の|匕《あい》|首《くち》であった。
 そして、それよりおそくおちてきた蝶の羽根は、みごとにきりとばされていた。
 それまでみえなかったところから、ふいにひとつの影があるき出していった。その蝶をひろいあげた。車佐助だった。
 蓮蔵がささやいた。
「おれがみたのでも、これで三羽めだ」
 そして、佐助が、その羽根のない蝶を紙につつんで、たもとに入れるのをみるにおよんで、たまりかねたように蓮蔵はむしろをはねのけて、顔をつき出した。
「車さん、何をしていなさるんだ?」
 車佐助はぎょっとしてふりむいたが、苦笑して、
「小屋が休みじゃと、腕がにぶってな」
 といったが、蓮蔵が、ひものついた匕首をみているのに気がつくと、
「蝶をとるのに、わしにとっては網などふりまわすより、この方が手軽じゃて」
 と、つけ加えた。
「蝶を何にしなさるのですかい?」
「なに、お子供衆にやるのじゃよ」
「へえ、羽根のない蝶をねえ」
「と、思って実はいたずらをはじめたのじゃが、そのうち――美紀之介がああなってみると、わしがひとふんばりせねば、小屋のゆくすえはどうなるか。そう考えると、心中|暗《あん》|澹《たん》とせざるを得ん。いろいろ思案のすえ、こんどは飛蝶の手裏剣うちを芸に加えたい、こう思いついて、さっきからいろいろ工夫していたのじゃ。なに、この蝶もその羽根のきれぐあいをあとで調べるためじゃが、親方、どうじゃ、これア見世物にはなるまいか?」
「ならんこともねえでしょうが。……」
 車佐助はこそこそとどこかへきえてしまった。蓮蔵はひかる眼でそのあとを見おくって、
「おかしなまねをする先生だな」
「あれは、どういう――?」
「わからねえ」
 蓮蔵ははき出すようにくびをふったが、やがてうめいた。
「蝶と蜘蛛……何だかかかわりあいがありそうだとは思わねえか? そのうち、きっとおれがつきとめてやるぞ。……」
 お玉はどきりとした。蓮蔵はじぶんよりも佐助の方にうたがいをいだいているらしい。
 あの怪浪人の赤い蜘蛛と、いまの車佐助の羽根のない蝶、そのあいだにどんな関係があるのか、全然見当もつかないことは御同様だが、佐助に妙な追求がむけられると、結局蓮蔵の眼はじぶんにまわってくるにちがいない。
 佐助の女房の小金があの紅蜘蛛の秘密を知っているからだ。
 お玉は|苦《く》|悶《もん》した。発覚の恐怖ばかりではなく、良心のいたみにもたえかねた。
 そして彼女は、その日がくれてから、別の用件にかこつけて浅草山の宿町蓑屋長兵衛をたずねて、すべてを白状したのである。
 じぶんを実の娘みたいに可愛がってくれるこの老人しか相談するものはいなかった。
「なに、あの紅蜘蛛は、おまえがしかけたものじゃと?」
 老人はおどろいて、嘆息をついた。しかしやがてお玉をみた眼は、いつものように慈愛にみちた笑みをふくんでいた。
「ふんふん。薬研堀といえば、ここからもそう遠うはない。わしがそこの医者にゆかせたという負い目もある。うむ、わしが手をまわして、その蜘蛛を売る浪人をさがしてやろう。何分の知らせを使いでやるまで、軽はずみなまねはしないで待っておれよ」
 しかし、蓑屋から使いがきたのは、その翌日だった。
 あの浪人がみつかったのか!
 とお玉はわくわくしたが、ふしぎなことに、使いはただ蓮蔵だけに|逢《あ》って何やら話しこんで去ったのである。
 すぐに蓮蔵は、人々をよびあつめた。
 人々――といっても、お玉と車夫婦と、輪ぬけの|琴之丞《ことのじょう》、綱わたりの|駒《こま》|太夫《だゆう》、曲手鞠の|三《み》|輪《わ》|丸《まる》、猿まわしの|亀《かめ》|吉《きち》と三味線の|平《へい》|八《はち》、つまり一座の幹部ばかり八人だ。
「美紀之介が死んだあと、小屋を|繁昌《はんじょう》させてゆくについて、金主の蓑屋さまからとっくり談合したいことがあるってよ。すぐにうかがおうじゃあねえか」
 ということで、一同は出かけた。
 それが、おそらくそれだけの話ではあるまいということを、お玉は知っている。
 いったい蓑屋さまは、どうなさろうというおつもりだろう? トボトボとあるきながら、お玉は胸もふさがれるような思いがした。
 蓑屋は大きな薬種問屋だった。いわゆる河原|乞《こ》|食《じき》にひとしい身分だから、裏のくぐり戸から案内されたのだが、とおされたのは、庭に面したひろいきれいな座敷だった。蓑屋の老人はしばらくあらわれなかった。店の方からながれてくるのか、それとも庭のどこかに薬草などをしまってある蔵でもあるのか、かぐわしいような、|黴《かび》くさいような、異様な|匂《にお》いがこの座敷にもただよっている。
 腕をくんで坐っていた蓮蔵が、ふいにジロリと一同を見まわした。
「ちょっと、蓑屋さまがお出ましになるまえに、みなに話がある。――実は、あの美紀之介の|死《しに》|様《ざま》についてのことだ」
 みんないっせいに、蓮蔵をみた。蓮蔵は顔をひきつらせつつ、
「みな知ってるように、おれはいろいろと調べてみた。そして下手人は、いいにくいが、一座のなかにいるとしか思われなくなった」
「なんだって!」
 と、小金が金切声をあげるのを蓮蔵はおさえて、
「やましくない奴は、腹をたてちゃあいけねえ。それでな。おれはこれからおまえさんたちにききてえことがある。おれが呼ぶから、呼ばれた奴は、ひとりひとりあの離れにきてくれ」
 立ちあがろうとする|袖《そで》を、そばの車佐助がとらえた。
「親方、なぜここじゃあきけないのだ?」
「あそこでお茶をのんでもらう。そのお茶に……人間なんでも素直にしゃべる薬が入れてあるんだ。実は、こりァ蓑屋さまも御存じのことだ」
 というと、蓮蔵はニヤリとして立ちあがり、庭におりた。
 |茫《ぼう》|然《ぜん》として一同が見おくる蓮蔵のゆくてに、なるほど茶室らしい一つの|数《す》|寄《き》|屋《や》がみえた。


    女囚巷に出る

     一

 お玉は、全身、|麻《ま》|痺《ひ》したようになっていた。
 これはいったい、どうしたことだ?
 亭主の蓮蔵が、美紀之介殺しの下手人は一座の中にあるという。それをこれから、離れの茶室で調べるという。そこでのませるお茶に、人をベラベラしゃべらせる薬が入れてあるという。――ことごとく、思いのほかのことだが、なかんずく意外なのは、それがみんなこの家のあるじ蓑屋長兵衛承知のうえということだ。
 眼をあげて、小金の方をみた。小金は蒼い顔で、じっと宙をみていた。おびえのためか、そのひたいに細かいあぶら汗がにじんでいた。
 ふいにお玉はかっとした。そんな七面倒な、もったいぶった探索をこころみようとする蓮蔵にも腹がたったし、それとグルになった蓑屋にも腹がたったし、その蓑屋に甘えてすべてを白状したじぶんには、いちばん腹がたった。だいいち、下手人はじぶんだと長兵衛は知っているくせに、なぜこんな茶番をやるのだろう?
「ちょいとお待ち。おまえさん、そんな手間ひまをかけることはないよ! 下手人はあたしだよ!」
 あやうく、そうさけんでふらふらと立ちあがろうとしたのである。――そのとき、|唐《から》|紙《かみ》があいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。
 ふだん、血色のいい老人が、蒼ざめて、首をたれて、
「ゆるしてくれい、みなの衆」
 といって、|悄然《しょうぜん》と坐った。
 みんな、老人が承知のうえで、一同をこんな嫌疑の座へさそいこんだことをわびたのだととったが、なかでもお玉は、蓑屋が入ってきたときにちらとこちらを見た眼で、とくにじぶんにいったのだと感じた。
 こんな破目になって、いまさらあやまってもらったところでもう終りだ! とお玉は蓑屋をにらみつけたが、あきらかに老人は、困惑しきった表情であった。お玉はヤケになって、度胸をすえて、数寄屋の方をふりかえった。
 その茶室から、ただならぬさけびがながれてきたのはそのときである。
「だれを呼んだ?」
 猿まわしの亀吉がすッとんきょうな顔をあげたとき、もういちど「わあっ」という悲鳴があがって、
「|蜘《く》|蛛《も》だ。紅蜘蛛だっ」
 と、こんどははっきりとそうさけぶ声がきこえた。
 まっさきに縁側からとびおりたのは、車佐助であった。お玉は庭にころげおちて、そのまま土に|爪《つめ》をたてたが、だれかひき起してくれたものがあるので、ふりあおぐと蓑屋長兵衛だった。座敷で腰をぬかしたように坐ったままの小金をのぞいて、みんなはだしのまま、どっと殺到した。
 数寄屋の庭にむいた窓には|連《れん》|子《じ》がはまっていたので、いちどそこにとびついた佐助は、あわててにじり[#「にじり」に傍点]口にまわったが、ひとめのぞいて、
「あっ」とさけんでしりもちをついた。つづいて三、四人がそこから顔をつっこんで、「親方!」と絶叫した。
 炉のまえに、うつ伏せに蓮蔵がたおれている姿がみえたのだ。
 なにしろ、高さも幅も六十センチくらいのにじり[#「にじり」に傍点]口だから、なかなか入れない。まっさきに入りこんだのが輪ぬけの琴之丞だったとは、さすがである。
 しかし、このとき同時に勝手口の方から、蓑屋長兵衛がとびこんできた。
「どうしたのだ、蓮蔵!」
 と、長兵衛は、老人とは思えない力で蓮蔵を抱きあげ、ひざのうえにあおむけにした。蓮蔵のからだが、大きくはねあがった。
 長兵衛をのぞいて、みんなとびのいた。蓮蔵のかっとむき出した眼があまりにも|物《もの》|凄《すご》かったからである。うらめしげに、みんなをにらみつけるようなその眼が、急に白くなると同時に、顔いろが灰みたいに黒ずんだ。四肢をブルブルとふるわせると、そのまま彼はガックリとうごかなくなってしまった。|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介の断末魔とおなじ|死《しに》|様《ざま》である。
「蜘蛛だ。紅蜘蛛だ――とさけぶ声がきこえたな」
 と、長兵衛老人が、ふうっと糸にひかれるように立ちあがって、つぶやいた。その眼がぐるっと一同を見まわして、お玉の顔にとまったのはむりもない。彼女が、あの紅蜘蛛の話を蓑屋に白状したのは、きのうのことだからだ。
 恐ろしいものでもみるように、あわててお玉からそらした長兵衛の眼がふと天井にとまると、そのままうごかなくなった。
 その表情が、あまり異様なので、みんなその方を見あげた。「ひいっ」とお玉ののど[#「のど」に傍点]のおくから、名状しがたいさけびがもれた。そこをつーッとはしったのは、一匹の真っ赤な蜘蛛だったからだ。手をのばせばとどきそうなひくい天井だったのに、みんな金しばりになっていたのは、いうまでもなく、それが死の蜘蛛だと知っていたからで、そのまま蜘蛛は、どこかにふっときえてしまった。
 あの蜘蛛がいた! あの蜘蛛が、どこからかあらわれた!
 どこからあらわれたのか、それに考えをめぐらす余裕はお玉になかった。ただただ彼女は恐怖した。蜘蛛よりも、じぶんの罪に。
「おまえさん、ゆるしておくれ!」
 彼女はがばと蓮蔵の|屍《し》|骸《がい》にとりすがって、つッ伏した。
「あたしが、わるかった。あたしがヤキモチをやいたのがわるかったんだよ! あたしが美紀之介憎さに、変な浪人から蜘蛛を買ってきたのがまちがいのもとだったんだよ!」
「なに、蜘蛛を買ってきた?」
 と、車佐助は大声をあげて、
「お玉さん、そ、それはどういうわけだ?」
 お玉は泣きじゃくりながら、
「小金さんにきいてちょうだい。薬研堀でいっしょに変な浪人から買ってきたんです。毒蜘蛛じゃないといったから、おどすつもりで、美紀之介の絵日傘に入れたんだけど、それが毒蜘蛛だったらしいの。――」
「小金、そりゃほんとか!」
 と、佐助はふりむいた。にじり[#「にじり」に傍点]口に|真《ま》っ|蒼《さお》な小金の顔がのぞいた。
 ところが、小金の顔が、あわててはげしくふられたのである。
「知らない。あたし、知らない!」
「知らない? 小金ちゃん、だって、あたしといっしょに薬研堀の医者のところへいったかえり路――」
「あたし、知らないよ、そんなこと――お玉さん」
 お玉は、あっけにとられた。すぐに、あのあとで小金が、「あの浪人はいなかったことにしよう、逢わなかったことにしよう、あんなもの、買わなかったことにしよう」と、ふるえながらいったことを思い出した。小金はかかりあいになることをこわがっているのだ!
「何のことだ、わしにはわけがわからん」
 と、佐助がつぶやいて、もういちどお玉の方をふりむいたが、そのときその眼がぎょっと大きくひろがった。お玉はぽかんと口をあけたままだ。と――
「あぶない!」
 ふいに大声がして、いきなり蓑屋長兵衛がお玉の肩から何かをはらいおとして、たたみの上におちたものを、あわてて炉の火に|蹴《け》こんでしまったが、その一瞬、お玉はそれが一匹の紅蜘蛛であったことをみとめた。
 ほんのいましがた天井のどこかへきえたはずの紅蜘蛛が、あたしのからだにとりついていた! まるで買い主をしたうように。――
 そう知ったとたん、お玉は失神した。

     二

 ――女囚お玉の話は終った。
 これが、|嫉《しっ》|妬《と》のあまり、どこからか毒蜘蛛を手に入れてきて、夫を寝とった女軽業師を殺し、つぎにそれを感づいた夫を殺して、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
 うすぐらいおんな|牢《ろう》のなかに、くびもおれるほどうなだれたお玉のひざに、滴々と涙がおちている。
 みずからの罪をみとめ、悔い、死を覚悟したその哀れな女の姿を姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ。お玉さん」
「なにを?」
「ね、蓮蔵さんは、ほんとに美紀之介を殺したのがあなたと感づいていたのかしら?」
「あのひとは、美紀之介殺しの下手人はたしかに一座の中にいるといってたわ。でもね、お竜さん、ほんとのことをいうと、あのひとがあたくしを下手人だとかんがえていたとは、どうしても思えないの。もしそうだったら、あのひとならあたしをつかまえてなぐりつけても白状させると思うわ。あたしに白状させるために、蓑屋さんの茶室まで借りて、あんな手数をかけるとは思えないわ」
「それじゃあ、いったいだれをうたがっていたのかしら?」
「それはわからない。なにしろ何もしないうちに死んじゃったんだし、実際美紀之介を殺したのはあたしのほかにないんだもの――」
「蓮蔵さんは、蓑屋さんと相談のうえでそんなことをしたんだといったわね。のむと何もかも白状させるお茶を蓑屋さんからもらったとか――」
「それがね、うそなんですって」
「うそ?」
「そんなお茶や薬があるものか、と蓑屋さんは苦笑いをしていなすったわ。蓑屋さんが両国の小屋に使いをよこしたのはね、あの蜘蛛を売る浪人は探したけれど見つからないし、ともかくあたしの話をうちのひとにつたえて、いろいろ相談したり、うちのひとをなだめたりしようと思って呼びにきたんですって。ところが、うちのひとの方から、逆に下手人について思いあたりがあるから、ちょっと茶室を貸してくれという話で、蓑屋さんの方は、それでこれは妙なことをいい出したと思い、あたしのことをうちあけるのは一応ひっこめて、しばらく様子をみようと考えて、あのひとのいうとおりにさせておいたんですって。――」
「そう、じゃ、蓮蔵さんは、そんなたねもしかけもないお茶で、みんなをひッかけようとしたのね。なるほど手品や軽業をみせる一座の座元らしい|智《ち》|慧《え》だ」
「あたしなら、そのたねもしかけもないお茶で白状したかもしれないわ」
「とにかく蓮蔵さんは、だれかに白状させようと考えて、その茶室に入って紅蜘蛛に殺された。――お玉さんは、その紅蜘蛛はどこから出てきたと思うの?」
「わからない、それがあたしにはわからない!」
 お玉は髪の毛に手をつっこんで、もだえて、
「きっとね、あの美紀之介を殺した蜘蛛が、どこかにみえなくなったけれど、いつのまにかうちのひとのきもののどこかに入ってたにちがいないわ。ふしぎだけれど、そうかんがえるよりほかにかんがえようがないもの。――」
「蓮蔵さんのきものに?」
 お竜はぐっとお玉の顔を見つめていたが、
「それにしては、うまく蜘蛛がとき[#「とき」に傍点]を見はからったものだ」
 と、つぶやいた。
「お玉さん、蓮蔵さんが死ぬとき――そのまえ、茶室にあやしいものが出入りしたようなことはなかったかしら?」
「なかったわ。あとで調べたら、その茶室の南と東は壁になっていたし、あとの北と西だけに、窓や、あたしたちの入っていた小さな室や、蓑屋さんのとびこんだ出入り口があったけど、その二面は、庭ごしにこっちからまる見えだったもの」
「蜘蛛なら、入っていってもわからないでしょ?」
 と、いって、お竜は苦笑した。
「蜘蛛が蓮蔵さんのからだにとりついてたというのもおかしいけれど、はじめから蓑屋さんの茶室にそんな蜘蛛がいたなんてことはあり得ないし、といって、遠くから蜘蛛をあやつって、その茶室にしのびこませるなんて出来ッこないわね」
「でも、あの蜘蛛は、ほんとに|化《ばけ》|物《もの》だわ。たしかに天井へきえたはずなのに、いつのまにかあたしの肩にとまっていたもの。――あたし、たいへんなもの買っちゃったのだわ。……」
 お玉は身ぶるいして、またすすり泣きをはじめた。そのとき、お竜の眼が、ふいにキラリとひかった。
「お玉さん、蜘蛛は二匹いたんじゃないかしら?」
 お玉はキョトンとしてお竜をみていたが、急にはげしく首をふった。
「そうとしか思われないけれど……あたしの買ったのは、たしかにたった一匹よ!」
 お竜は、うなずいた。しかし、いまのじぶんの言葉の方にうなずいたような様子であった。それから、泣いているお玉の肩に手をかけて、やさしくいった。
「わかりました。お玉さん、あなたは蜘蛛を買ったかもしれないけれど、だれも殺す気はなかったのね。してみれば、わるいのはそんな毒蜘蛛を売りつけた浪人だわ。あなたがもしお仕置をうけるなら、そのまえにその浪人がつかまって、お仕置をうけなきゃてにをは[#「てにをは」に傍点]があわない。……」
「でも、そんな浪人がいたなんてことを、お役人はだれも信じてくれないんです。……」
「小金さんがあかしをたててくれなかったの?」
「小金さんは、かかりあいをこわがって、あくまで知らない、そんな浪人を見たことがないといい張るの。あたし、腹もたったけれど、しまいにはどうでもかってになれと思っちゃった。どっちにしたって、わるいのはあたし、あたしひとりが打首になりゃすむことなんだもの!」
 そしてお玉は肩をゆすってヒステリックに笑った。
「どう? あたしのわるい女だってことが、よくわかったでしょ?」
「わからない」
 と、お竜はくびをふった。
「あたしにはわからないことだらけだわ」
「あたしだってそうだけれど――」
 と、お玉はいいかけて、急にくいつくように、
「何がさ?」
「まず第一に、その蜘蛛を売る浪人の正体が――第二に、人を殺す蜘蛛そのものが――」
 何かいおうとするお玉をお竜は眼でおさえて、指おりかぞえ、
「第三に、車佐助という人が蝶をつかまえていたわけが――第四に、蓮蔵さんがだれをうたがっていたのかということが――第五に、一座のものをうたがって白状させようとするのに、なぜわざわざ蓑屋さんの茶室を借りたのかということが――第六に、その茶室でそんなにうまく蓮蔵さんが殺されたわけが――第七に、あなたが一匹買った蜘蛛が、そこに二匹いたらしいことが――第八に、小金さんがこれほどの騒動になっても、まだ浪人と逢ったことを知らぬ存ぜぬでとおそうとしたことが――」
 それから、彼女はうすら笑いをうかべて、
「第九に――これほどわからないことだらけなのに、簡単にあなたをつかまえて、こんな牢に入れたお|奉行《ぶぎょう》さまのおつむ[#「おつむ」に傍点]のかげんが――」
 いままで、きくともなくお玉の告白をきいていた他の女囚たちがはっとしたとき、お竜はさらに彼女らを|唖《あ》|然《ぜん》とさせるようなことをした。折りまげていって、最後に一本のこった指を口に入れたお竜が、ヒューッと口笛を鳴らしたのである。
 すると――絶対にそんなことのあろうはずはないのだが――まるで、その口笛に呼ばれたもののように、|格《こう》|子《し》の外に一つの人影が立ったのである。
「武州無宿お竜、出ませい!」
 と、その影は|峻烈《しゅんれつ》な声でさけんだ。みると、きのうお竜をひったててきたあの八丁堀の若い同心だ。
「奉行さま、じきじきに当牢屋敷に御出座あそばし、御吟味に相成る。早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」

     三

 姫君お竜が呼び出されたあと、女囚たちは顔を見あわせた。
 しばらく、声もなかったが、やがて、
「いわねえことじゃあねえ」
 と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺が、ふうっと溜息をついた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]がお奉行さまの御吟味にケチをつけやがるどころか、おつむ[#「おつむ」に傍点]まで何とやら、|大《だい》それたことをほざくからよ。――」
 しかし、まさかいまのお竜のせりふがきかれたのではなかろうと思う。とにかくあの女は、公方さまのお命をねらった大陰謀に加わっている人間だ。きのう、あの同心が「いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば」といった、そのときがきたのにちがいない。
 牢屋敷のほぼ中央に、穿鑿所がある。|笞《むち》打ち、石抱きなどはここで行う。そばに拷問蔵もあり、|海《え》|老《び》責め|釣《つり》責めなどの道具がそなえてあった。しかし、ふだんこれを執行するものは吟味方の|与《よ》|力《りき》であって、町奉行じきじきに出座することはめったにない。もって、いかにお竜が重罪の追求をうけているかが、思いやられるというものだ。――
「石を抱かされるなあ」
「あのあま[#「あま」に傍点]、何枚で|音《ね》をあげやがるか」
「二枚――三枚か」
 お紺と、お甲やお伝、牢内役人たる老婆たちが、陰気な声でボソボソと話しあっている。――
 石は、長さ一メートル、幅三十センチ、厚さ十センチ、一つで五十キロある。三枚で百五十キロ――それを|膝《ひざ》のうえにのせられるばかりではない。|尻《しり》をまくられて、むき出しになったその膝の下には、そろばん板という三角形の木をうちつけた板があるのだ。お紺も三枚で白状をした思い出がある。お甲やお伝は二枚で音をあげた。
 やがて、あのひとをくったすッ|頓狂《とんきょう》なあま[#「あま」に傍点]も、血泡をふいてもどってくるだろう。きのうは、妙なわざ[#「わざ」に傍点]を知ってやがって、ひどい目にあわされたが、足腰たたなくなってかえってきたら、どうしてやるか?
 病んだ女囚などをおさえつけて、その顔にピッタリ|濡《ぬれ》|雑《ぞう》|巾《きん》をかぶせ、その上に大きなお尻をのせ、またべつの囚人が胸や腹をドスンドスンと踏みつけてあの世へやってしまうのは、牢内でそれほど珍らしい行事でもない。そこまでしなくとも、うごけなくなった女なら、それをまないた[#「まないた」に傍点]にのせて、ありとあらゆる|辱《はずか》しめをあたえるのに、この老婆たちには智慧も根気も毒念も不足していなかった。――
 からだも心もこわばって、まだお竜に釈然たるところがないばかりか、陰火のごとき|復讐《ふくしゅう》心にもえた老婆たちが舌なめずりして待ちかまえている一方で、なぜか罪を告白しただけでお竜が好きで好きでたまらなくなったお玉は、牢の隅で、そっと|両掌《りょうて》をくみあわせていた。
 しかし、思いはそれぞれ、待っている女囚たちのまえに、どうしたのかお竜は、その夜も、そのあくる日も、そのあくる夜も、かえってはこなかった。――
 お紺が、妙な顔をして、ひとりごとをいった。
「あのあま[#「あま」に傍点]、くたばりゃがったのかな」

 ふしぎなことがある。
 お奉行さまに吟味によび出されたはずの姫君お竜が、よび出された日、うららかな春日をあびて、江戸の町をぶらぶらとあるいていた。しかも、可愛らしい町娘の姿である。
 彼女は、両国広小路の、美しく、汚ならしく、|妖《あや》しく、あさましく、すてきに面白い見世物町を、あっちに立ちどまり、こっちにひッかかって、春の太陽は永遠におちないかのごとく、のんきそうに見てあるいていたが、やがて一つの小屋のまえに立って、そこの|幟《のぼり》を見あげていた。
 幟には、「手裏剣車佐助一座」とあった。


    自身番異変

     一

 “幕揚げていまが太夫とちっと見せ”

 “木戸番は愛想づかしの幕をさげ”

 という古川柳がある。むかしから、見世物風景はおなじらしい。
 木戸番のうしろのうす汚ない幕がスルスルとあがると、舞台で二本竹の軽業をやっているのがみえた。|袴《はかま》をつけた男が肩に中の字に組みあわせた青竹を立て、その青竹の上で扇を足にはさんだ娘が逆立ちをしている。――と、みえた一瞬、幕はバサリとおちた。
「おじさん」
 と、お竜は木戸番を呼んだ。
「小金さんって、いる?」
 木戸番の老人は、なれなれしく座元の女房をそう呼んだ娘を見下ろして、ふっと眼を大きく見ひらいた。|埃《ほこり》、|蓆《むしろ》、よごれきった幕――という見世物町の中に、ぱっと輝くような娘の美しさに、びっくりしたのだ。
「おまえさま。……」と、思わずさま[#「さま」に傍点]扱いにして、
「小金太夫を知っていなさるのか」
「知らないよ」
「へ、じゃあ、なんの用?」
「小金さんの弟子になりたいの」
 木戸番はまじまじとお竜を見つめていたが、あわてて番台からとびおりた。軽業の自発的志願者は珍らしい。まして、こんな美しい娘が一座に入ってくるとは――これは充分、小金に報告するねうちがあるとにらんだのだ。
 楽屋で、|衣裳《いしょう》をつけていた小金は、木戸番の知らせをきいて|眉《まゆ》をひそめたが、すぐうしろにつづいて入ってきた娘をみて、これまた眼をまるくした。
「なんだって? あたしの弟子になりたいって」
 大声でさけんだ。――お玉の話で想像していたより美しく|溌《はつ》|剌《らつ》とした女だ、とお竜は思った。
 たしかに小金は張りきっていた。美紀之介と蓮蔵が死に、お玉がつかまって半年――いまや彼女の夫車佐助が座元になり、一座の花形になったのだから、毎日が|生《いき》|甲《が》|斐《い》がある。
「軽業をやりたいといったって、何か芸を知ってるのかい? これからはじめようってつもりなら、おまえさんの年じゃあちっとむりだよ。もっとも、その器量なら、色っぽい踊りかなんかでもお客は呼べるだろうが」
「あの、あなたのように、手裏剣の的になるだけではいけないでしょうか」
「ばかにおしでない。これでもただ棒みたいに立ってるわけじゃないよ。手裏剣をうつ方とうまく息が合わなきゃ、とんだことになるんだよ。ほんとに紙一重のきわどい芸当なんだから――それで見世物になるというものさ」
 そして、ふときいた。
「おまえさん、なんて名だえ?」
「お竜ってんです」
「どこの生まれだえ?」
「小伝馬町」
 小金は、へんな顔をしてお竜を見た。小伝馬町は|牢《ろう》屋敷のある町だ。
「身寄りは?」
「姉がひとりいます。でも、もうすぐ死にそうですから、あたし、ひとりぼッちになっちまうんです。……」
「姉さん、病気なのかい?」
「いえ、打首になるんです。御亭主を|毒《どく》|蜘《ぐ》|蛛《も》をつかって殺したという罪で――」
 小金の顔色が変った。ふるえ声で、
「名は?」
「お玉」
 小金は息をひいて、眼前の娘をにらみすえた。しかし娘はおそれ気もなく、じっと小金を見かえして、
「小金さん、だから、あたしを助けて下さいな。……」
「おまえ、牢からきたね」
 恐怖の表情から、からくも小金は立ちなおった。
「お玉から何かきいてきて、あたしをゆすろうっていうつもりかい?」
「ゆする? あなたを? なぜ?」
 ふしんげに小首をかたむけられて、小金は|狼《ろう》|狽《ばい》した。唇がわなないて、必死のさけびがほとばしり出た。
「そ、そうなんだ。あたしはおまえなんかにゆすられるおぼえはちっともない。あたしは何もしやしない」
「あたしもそう思うわ。でも、あなたは何かを知ってはいらっしゃる」
 お竜は小金の手をつかんだ。
「ね、おねがいです。あなたの知っていることを教えてくれたら、お玉さんは助かるかもしれないんです。姉といったのはうそでした。でも、人ひとり、無実の罪で死ぬのを見殺しにはできないんです」
「あたしが、何を知ってるってのさ?」
「お玉さんにあの紅蜘蛛を売った浪人がだれか、あなた、知りませんか?」
「知らないよ! そんなひと、知らないよ!」
「それじゃあききます。美紀之介さんが殺されたあとで、あなたの御亭主佐助さんが|蝶《ちょう》をつかまえていたとききましたけれど、あの蝶は」
 小金はお竜の手をふりはなそうとしたが、|繊《ほそ》い柔かい手なのに、|膠《にかわ》みたいにはなれなかった。
「蜘蛛を飼うための|餌《えさ》だったのではありませんか?」
 小金はうっとうめいた。全身から力がぬけた。ガックリとうなずこうとして、小金はふと、そのとき楽屋に入ってきた影をみると、きちがいのようにさけんだ。
「おまえさん、こいつをたたき出しておくれ!」
 入ってきたのは、|羊《よう》|羹《かん》色の黒紋付に紅だすきをかけた、からすみたいに色の黒い、眼のするどい浪人者だ。鉢巻に四、五本の手裏剣をさしている。
「この娘が、あたしたちをゆすりにきたんだよ!」
「なんじゃ、うぬは!」
 浪人はかみつくようにわめいた。小金はお竜の手をもぎはらって、その足もとにまろびより、
「あんな可愛らしい顔をして、お玉と小伝馬町で|相《あい》|牢《ろう》だった奴らしいんだよ。お玉から何をきいたか、あたしたちが美紀之介と蓮蔵を殺したっていいがかりをつけるんだよ!」
「そ、それで、おまえは――」
 と、|物《もの》|凄《すご》い顔になる浪人に、
「車佐助さんですね?」
 と、お竜は笑顔で、
「いまね、小金さんから、蜘蛛を飼うためにあなたが蝶をつかまえていたというお話をきいたばかりなんです」
「野郎!」
 と、歯をむき出すと、車佐助の手が鉢巻にはしった。|間《かん》|髪《はつ》をいれず、一本の手裏剣が流星のような尾をひいて、お竜にとんでいった。
 お竜の手があがると、その手裏剣はみごとにはねとばされて、そばの蓆につき刺さった。
 お竜の笑顔はきえてはいなかった。
「こんな芸当じゃあ、お弟子になれないかしら? 小金さん」

     二

 |茫《ぼう》|然《ぜん》とそれをみていた車夫婦のうち、佐助の肩が大きくあえぎ出した。かっとむき出された眼には、まるで魔物でもみるような恐怖のひかりが浮かんできたのも当然だ。
 お竜はあどけない笑顔のままで、
「蝶の意味はわかったけれど、まだわからないことがいっぱいあるの」
 といった。佐助はじりじりとさがりながら、
「お、おれが人殺しというのか?」
「いまの手際じゃ、やりかねないわねえ。……ほ、ほ、ほ」
「なんのために、おれが美紀之介や蓮蔵を――」
「美紀之介には人気をうばわれ、ばかにされ、もと木戸番の風来坊にはいつのまにやら一座を乗っとられ――とくに蓮蔵には、美紀之介殺しの下手人はだれかということをつきとめられかけ、せッぱつまって――という見方もあるわねえ」
「ばかな! おれがやるなら、あんな手数はかけぬ!」
「あんな手数とは?」
 佐助はくしゃくしゃと顔をゆがめて、泣き出しそうな表情になった。小金はがばとくずおれた。
「そりゃあね、あなたは手裏剣の名人だから、人殺しも簡単でしょうよ。けど、下手人がわからないようにするには、人間いろいろと工夫もし、手数もかけます」
 そのとき、楽屋の外で、「太夫、出番――」という呼び声がきこえなかったら、ふたりは何をさけび出すかわからないような顔色になっていた。
「小金、出番だ」
 猛然として車佐助は立ちあがり、小金の手をひったてた。
「えたいの知れぬ女の|世《よ》|迷《ま》い|言《ごと》をきいているひまはない。ゆこう」
 もつれるようにして楽屋から出てゆくふたりを、お竜は見おくったが、べつに追おうとするでもなく、ひとりごとをつぶやいた。
「佐助はたしかに何かをやった。……小金はそのことを知っている。……だけど、あの男は、案外|智《ち》|慧《え》なしのかんしゃくもちらしいわ。……だから、美紀之介や蓮蔵にヤキモチをやいたこともうなずけるけれど、その智慧なしのかんしゃくもちが、あんな手数をかけて人を殺すかしら?」
 舞台の方でチャルメラの音とともに何やら口上の声がながれると、|凄《すさ》まじい佐助のかけ声と、板に手裏剣のつき刺さる音がきこえはじめた。なお、|襟《えり》に手をさしいれてかんがえこんでいたお竜は、突然、はっと顔をふりあげて、
「あっ、あの気合は――いけない!」
 と、さけんで、舞台の方へかけ出した。
 そのとき、急に小屋の中の騒音がぴたっととまった。彼女は、じぶんの心臓もとまったかのような思いがした。次の瞬間、ふたたびわーっという|海嘯《つなみ》のようなどよめきがわきあがった。名状しがたい恐怖の叫喚だった。
 お竜は、舞台の袖に立ちすくんだ。
 反対側に、たたみ一畳大の厚板を背に、小金が大の字に立っている。その両腕は|虚《こ》|空《くう》をつかみ、顔はのけぞっている。全身蛇のようにくねり、のたうつなかに、中心の一点のみうごかなかった。のどぶえにつき立てられた手裏剣の一点だけが。――
 舞台のまんなかにフラリと立っていた車佐助が、
「しまった」
 と、うめくと、泳ぐように小金のところへまろんでいった。
「小金! ゆるせ、手もとが狂ったのだ!」
 のどの手裏剣をひきぬくと、血の噴水が佐助の顔に散って、小金はどうと崩折れた。
 |屍《し》|体《たい》となった女房を抱きしめ、血まみれになって佐助は身をもみながら、絶叫とも号泣ともわからない声をもらした。その|物《もの》|凄《すご》さに見物人たちはさわぐばかりで近よるものもなかったが、ひとりしずかに佐助の肩をつかんだ者がある。
「むざんなことをしたねえ、おまえさん」
 顔をあげて、
「うぬか!」
 と、佐助はさけんだ。
「うぬがつまらねえことをぬかすから、こんなことになったのだ。おれの女房を殺したのはうぬだぞ、さあいっしょに自身番にきやがれ」
 お竜は|蒼《そう》|白《はく》な顔色になっていたが、淡く笑った。
「おまえさん、おかみさんの口がふさがれたら急に気がつよくなったね」
「なんだと?」
「いまにも白状しそうなおかみさんの口をふさぐために、こんなむごいまねをしたか。さっききいたおまえの矢声は、あれはたしかに殺気の声だった!」
 |蒼《あお》|白《じろ》かった|頬《ほお》が紅潮し、たたきつけるように、
「ひきょう者!」
「なにっ、このあま!」
 もうまったくのぼせあがって、手にしていた血まみれの手裏剣をさっとふりあげたとき――その手を背後からグイととらえられた。
 ふりむいて、佐助の腕が急に|萎《な》えた。着流しに|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》、|博《はか》|多《た》の帯に|雪《せっ》|駄《た》ばきという|颯《さっ》|爽《そう》たる姿は、いうまでもなく八丁堀の同心だ。騒ぎをきいて入ってきたのか、それとも偶然見物席にいたのか――これは、佐助はむろん知らないが、南町奉行大岡越前守秘蔵の同心|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》であった。
「これ、神妙にいたせ」
「へい!」
 と、佐助は手裏剣をとりおとし、顔をひきゆがめて、
「大変なことをいたしましたが、これアまったくこの女めの言葉がもとで、不覚にも心中|動《どう》|顛《てん》し、思わず手もとが狂ったのでござります!」
「この女が? 何を申したか」
「|旦《だん》|那《な》は、去年の秋、この一座で|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介と座元の蓮蔵が不慮の死をとげた一件を御存じでござりましょう」
「――存じておる」
「あの下手人はすでに|御《お》|縄《なわ》を|頂戴《ちょうだい》し、ただいま入牢中でござりますのに、その下手人と相牢だったらしいこの女めが、牢内で下手人から何をききましたやら、牢から出てきて拙者に妙ないいがかりをつけてゆすろうといたし、ために拙者、怒りのため平静を失い、思わずかかるまちがいをいたしました」
「きさまにいいがかりとは?」
「美紀之介と蓮蔵を殺したのは、事もあろうに拙者だと申す。……他にすでに下手人をとらえたお|上《かみ》の御明察をないがしろにいたす不敵な女、何とぞお調べ下さりませ!」
 主水介はちらっとお竜をみた。姫君お竜――主水介は彼女を知っているはずだ。しかし、奇妙なことに、彼は何もいわなかった。ただ、背後に、ようやく騒然とあつまってくる小屋者や見物人をふりかえって、
「ともかく、両人、自身番に参れ」

     三

 自身番とは、いまの交番で、武家町では|辻《つじ》|番《ばん》という。町に犯罪が起ると、ひとまずここでとり調べて一応の調書をつくり、送るときまれば仮監のある大番屋というところへやり、ここではじめて入牢証文を作製して小伝馬町へおくる。
 巨摩主水介は、まずいまの騒動について車佐助をとり調べた。事件は|明瞭《めいりょう》簡単だ。ただ佐助は手もとが狂ってのまちがいだというのだが、問題は彼の手もとを狂わせた原因であった。
 そこで、当然、あの紅蜘蛛の事件が呼び起された。
「あれのお裁きに何の疑心があるのか」
 ときく主水介は、むしろ|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうだった。佐助はお竜にむかって、
「おれが毒蜘蛛をつかったというのか!」
 と、かみつくようにわめいた。
「おれがあのへんな紅蜘蛛をつかって美紀之介を殺したと、お玉がいったのか?」
「いいえ、お玉さんは、紅蜘蛛を美紀之介の|絵《え》|日《ひ》|傘《がさ》に入れたのはじぶんだといってたわ。ただ……」
 と、お竜はくびをかしげて、
「その毒蜘蛛をお玉さんに売りつけた浪人が|誰《だれ》かということになると――」
「そんな浪人は、おれの知ったことか!」
「あたしはね、お玉さんといっしょにその浪人に|逢《あ》ったはずの小金さんが、あとで知らぬ存ぜぬで通そうとしたのが、かえっておかしいと思うわ」
「小金は、ほんとに知らなんだのだろう。それがなぜおかしいか。きさま、お玉のいうことは信じて、小金のいうことは信じないのか」
「だから、あらためて小金さんにきこうと思ってやってきたのに、小金さんは殺されてしまった!」
「きさまが、そんないいがかりをつけるからだ」
「いいがかり? だって、小金さんは、美紀之介殺しのあとでおまえさんが蝶をとるのに汗をながしてたのは、蜘蛛を飼う|餌《えさ》にするためじゃなかったかとあたしがきいたら、顔色がかわってうっとつまったよ」
「それがいいがかりと申すのだ。小金が顔色をかえたというなら、その証人を呼んでみせろ」
 お竜はじっと佐助をにらんで、ためいきをついた。
「どこまで、|卑怯《ひきょう》な男なんだろう。女房を殺してまで、じぶんの罪をのがれたいのか」
 主水介が声をかけた。
「よし、両人、そういい争っても、いつまでたってもきりがない。お竜とやら」
 なぜか、伏眼になって、
「それでは、佐助が蓮蔵を殺したという疑いについて申してみろ」
 そのとき、自身番のなかへ、ころがるように入ってきた老人をみて、
「あっ、|蓑《みの》|屋《や》どの!」
 と、佐助がさけんだ。
「おう、いまそこの往来を通りかかってきくと、おまえの小屋で大変なことが起ったそうで、おまえは自身番にひかれていったというから、びっくりしてわけをききに来た」
「それもそうだが、蓑屋どの、わしは去年の美紀之介蓮蔵殺しにまであらぬ疑いをうけております。おまえさまのうちで起ったことじゃ。わしが蓮蔵を殺せるわけがないことを、おまえさま、証人になって申しあげて下され!」
「なに、蓮蔵殺し?」
 はじめて老人は、そこに腰かけている同心に眼をやって、土間に膝をつき、
「おう、これは八丁堀の旦那さま。……わたくしは浅草山の宿町で薬問屋をやっておりまする蓑屋長兵衛と申すものでござります。いちじは、この車の小屋の金主をやっておりましたもので――」
「そのことは存じておる」
 と、主水介はうなずいた。
「そ、それで蓮蔵殺しとは?――あれは、もう下手人が御縄を頂戴して――」
「それが、紅蜘蛛をつかったのはわしじゃとこの娘が申すのだ。だが、蓑屋どのはよく御存じであろう、蓑屋どのの茶室で蓮蔵の悲鳴があがり、わしたちがかけつけていったとき、すでに蓮蔵がたおれていたのを――」
「それでも、おまえさんが細工をしようとすればできたはずだわ」
 と、お竜がいった。
「細工? どんな細工を?」
「お玉さんの話のなかに、蓮蔵さんが茶室へゆくまえに、おまえさんが蓮蔵さんの|袖《そで》をつかんで何かいったということがあったわ。あのとき、おまえさんが紅蜘蛛を蓮蔵さんのたもとに投げこんだとしたら?」
「なにっ」
 だれより、|愕《がく》|然《ぜん》としたのは巨摩主水介だ。かるく、石を水になげるようにそういったお竜は、車佐助の表情にあがったしぶきにかえってはっとした。が、すぐに佐助に余裕をあたえず切りこんだ。
「そしておまえは、その罪をお玉さんになすりつけた!」
 蓑屋長兵衛の顔色も変っていた。はげしく佐助の袖をつかんで、
「お、おまえ、あのとき、そんなまねをしたのか!」
 車佐助は返事をしなかった。何かいおうと口をパクパクさせるのだが、言葉にならないのだ。
「蓑屋さんですか」
 と、お竜はあいさつした。蓑屋はわれにかえり、けげんな顔でお竜をみて、
「おまえさんは?」
「お玉さんと相牢だった女泥棒でござんす」
「…………」
「牢のお玉さんにいろいろ親切にして下すってありがとう。お玉さん、蓑屋さんを仏さまのようにおがんでいましたよ。あたしね、お玉さんから話をきいて、どうもあのひと、だれかにうまく|罠《わな》におとされたような気がしてならなかったものだから、こうして女だてらにおせッかいにのり出してきたんです」
「あ、あれは元気でおりますかな。あの女はな、わしの死んだ娘によう似ておるものじゃから、金主にまでなってやったが、あんな大それたことをして、見そこなったと思い、またふびんにも思うておったが、しかし、なんじゃと? この佐助が下手人じゃと?」
「まだそれはわかりませんわ」
 と、お竜はいった。長兵衛はあっけにとられたように口をあけた。
「だって、いま、おまえさんは!」
「まだわからないことがたくさんあるのです。あたし、蓑屋さんにおききしたいことがあるのよ」
「なにを?」
「蓮蔵さんが殺されたとき、あの茶室に紅蜘蛛は二匹いたことを御存じない?」
「な、なんじゃと?」
 と、長兵衛は宙をみて、凝然と思い出そうとする表情になった。
 やがて、
「そんなことはなかろう」
「いいえ、天井をはしってにげた紅蜘蛛と、お玉さんの肩にとまっていた紅蜘蛛と――」
「あっ、そういえば!」
 と、突如大声を発したのは車佐助だ。狂的な眼色になって、ひしと蓑屋にしがみつき、
「蓑屋どの、思い出して下され、そうだ、たしかに蜘蛛は二匹いた。蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではない――」
 と、いいかけて、急に絶句した。思わずしらず白状したのに、はっとしたのだ。
 猛然と立ちあがった巨摩主水介は、しかし次の瞬間、つぶやくようなお竜の言葉にまた|釘《くぎ》づけになった。
「けれど、わたしは、人を殺すような蜘蛛がこの世にあろうとは思われない。蓑屋さん、どう思います――?」
 そのとき、蓑屋が、突然、土間の一点をさして、
「あっ、そこに赤い蜘蛛が!」
 と、絶叫した。
 お竜と主水介がさすがに、愕然として身をのり出して、佐助の坐っている方から、うすぐらい土間の隅へさーっとはしっていった赤い虫にぎょっと息をひいたとき、佐助が急に両腕をついた。
 その異様な気配に、三人はっとしてふりむいた。
 車佐助の顔色は紫いろになり、その全体がひきつれるようにうごめいた。とみるまに、たったいまわめきちらしていた佐助は、ものもいわずにガックリとつっ伏してしまった。


    蜘蛛を売る浪人

     一

「|化《ばけ》|物《もの》蜘蛛め!」
 泳ぐように蓑屋長兵衛が立って、自身番の隅へかくれようとした蜘蛛にとびかかってつかんだが、すぐに「あっ」とさけんで手をふった。
「どうした?」
 巨摩主水介がさけんだ。
 長兵衛は恐怖の表情で、じぶんの掌をにらみつけたままだ。その掌は真っ赤だった。
 すぐにそれは、彼がたたきつぶした蜘蛛だとわかった。しかし、恐ろしいのは、それをつぶした掌を染めているものだ。血としか思われないが、血の赤い蜘蛛が、この世にいるものだろうか。
 いうまでもなく、車佐助の血であろう。佐助の血を吸った蜘蛛にちがいない。たったいま、「人を殺すような蜘蛛がいようとは思われない」とお竜がいったその口の下から、この怪奇な吸血蜘蛛はまた人をひとり殺したのだ!
「…………」
 さすがの巨摩主水介も、佐助を抱き起そうとさしのべていた手をひっこめた。まだこの死人に毒蜘蛛が吸いついていないとは、保証できなかったからだ。死人――見ただけで、車佐助は完全に死人の顔色であった。
「紅蜘蛛――それじゃあ、蜘蛛の赤かったのは、人の血を吸ってそれが透いてみえたのかしら? それとももともと赤い蜘蛛だったのかしら?」
 と、お竜がつぶやいたが、だれもこたえない。長兵衛の掌の蜘蛛はもはや原形もとどめていなかったし、彼は大いそぎで紙でぬぐいすててしまった。
 そして、長兵衛はひざをついた。
「旦那さま。……恐れ入ってござりまするが、お玉めに再度の御吟味をおねがい申しあげまする」
「…………」
「やはり下手人はこやつでござりましたな。……この死様は、御糾明につまって観念したものとみえますが、自ら毒蜘蛛に刺されて死んだは、白状したも同然でござります」
 主水介は苦々しげにうなずいたが、お竜はけろりと長兵衛に顔をむけて、
「蓑屋さん、さっきあなたにきいたことなんだけど――」
「なにか?」
 と、蓑屋はふしんな|面《おも》|持《もち》だ。きかれることより、お玉と相牢だったというこの娘に、どう応対していいかわからないといった表情である。
「あなたのおうちの茶室に紅蜘蛛が二匹いたのではないかということ」
「そんなことはない」
 と、長兵衛はきっぱりといった。
「でも、このひとは、いま死ぬまえに、蜘蛛はたしかに二匹いた、蓮蔵を殺した蜘蛛は、わしの飼っていた蜘蛛ではないと――」
「ばかな! あれは苦しまぎれの世迷い言じゃ。左様なことをいってにげようとしたが、とうてい逃げられぬと知ってこの自害ではないか。――またかりに茶室に蜘蛛が二匹いたところで、それがなんじゃ、こいつめが蜘蛛を売っていたとあれば――」
「じゃあ、あの蜘蛛を売っていた浪人は、やっぱりこの車?」
「そうでしょう。お玉のいっていたことを、わしは実は半信半疑できいておったが、いまになってみれば、蓮蔵はハッキリ打ちあけなんだが、どうやらこの佐助をいちばん疑っていたようなふしもある。わしのところの茶室でどうしようというつもりだったのかよくわからぬが、もし女房のお玉をあやしいと思っているのなら、そんな手間ひまかけることはない。相手が手ごわい佐助なればこそ、人を白状させる茶をのませるとか何とか、一工夫も二工夫もめぐらそうとしたのに相違ない」
「してみると――佐助は、一座の人気者美紀之介にヤキモチをやいてこれを殺そうと思い、蜘蛛売りの浪人に化けて毒蜘蛛をお玉さんに売り、首尾よくお玉さんに美紀之介を殺させたが、蓮蔵の探索がはじまったので、危険を感じて蓮蔵も殺し、その罪をお玉さんにぬりつけたのね。そして、わたしがしらべにやってくると、そのことを白状しそうな小金さんを殺したが、とうとうにげきれないで自害しちまったというのね?」
「そうかんがえるよりほかはあるまい」
「でもね。……もし佐助がはじめから毒蜘蛛をもっているなら、なぜそんなめんどうなことをしたのかしら? その蜘蛛でそっと美紀之介を殺したらいいでしょうに」
「いや、美紀之介が突然怪死をとげたら、お上のお取調べによっては、じぶんも疑いをうけるひとりになるからの。そんな面倒をさけるためには、別にお玉というちゃんとした下手人をつくっておいた方がよい――こう考えたのではないかな」
 といって、長兵衛は急にむっとしたように、
「いやいや、こいつめの心などわしは知らぬわい。なんじゃ、こいつがあやしいと目をつけたのはお前さまではないか」
「あっ、そうだった!」
 と、お竜はあたまに手をやった。それがあんまり愛くるしい身ぶりだったので、主水介はむろん、蓑屋長兵衛も失笑した。
 が、すぐにまた車佐助の|屍《し》|骸《がい》に恐ろしげに眼をやると、
「それでは、わたくしはこのままひきとらせていただきまするが」
 と、主水介に腰をかがめて、
「お玉のことはどうぞどうぞ御慈悲をおねがい申しあげまする。やれ、うれしや、あれが下手人でなかったとは、やはりわしの眼は狂ってはおらなんだ!」
 と、眼をしばたたきながら、自身番を出ていった。
 主水介はちらっとお竜をみた。お竜は何やら思案にくれている。主水介は何か言おうとして、うつむいて、ひとりごとをいった。
「ああ、これはこまったことになった。お玉が下手人でないとすると……御公儀の御威光にかかわるが」
 奉行秘蔵の鬼同心も、なぜかひどく精彩がない。
「しかも、まことの下手人を眼の前で死なせたとは!」
「|木《こ》ッ|葉《ぱ》役人のクヨクヨしそうなことだ」
 と、お竜がつぶやいた。
 主水介はきっとして顔をあげた。お竜はくびをふって、
「けれど、まだこの死人がほんとの下手人かどうかわからない。……」
「えっ?」
「佐助は、小金の口をふさぐために小金を殺した。しかし、佐助も口をふさがれるために殺されたのでは?」
「なにっ」
「と、佐助の|死《しに》|様《ざま》がへんだから、あたしはそう考え出したわ。……それにしても、あの毒蜘蛛をよく恐ろしげもなく蓑屋がつかんだもの――」
 そのとき、自身番にひとりの小僧がかけこんできた。
「あの……うちの旦那さまがここにいませんか。蜘蛛をとってきましたが」
 と、息せききっていう手に、小さな紙包みをもっている。
「蜘蛛? 蓑屋は今しがたここを出ていったが、なんじゃ、きさま」
 と、主水介はとびあがった。小僧は思いがけぬ同心の姿に顔色をかえて、
「あ! て、手前は蓑屋の小僧でござります。さっき旦那さまと、このちかくを通りかかって、知り合いの軽業小屋の女太夫が殺されたことをきき、旦那さまといっしょに小屋にかけつけましたが……」
「蜘蛛をとってきたとはなんだ!」
「旦那さまが手前に、どこからか一刻も早く蜘蛛を一匹つかまえてきてくれと申されましたので一生懸命さがしまわって、小屋の隅からやっと一匹つかまえてきたら、旦那さまはもうここの自身番においでになったということで――」
「その蜘蛛をおみせ」
 と、お竜がいって、紙包みをひったくった。のぞきこんで、
「紅蜘蛛じゃない。ふつうの蜘蛛だわねえ。おまえ、蓑屋さんが、この蜘蛛をどうするつもりかきいたかえ?」
 小僧はただならぬ相手の様子にだんだんあとずさりしながら、くびを横にふった。
「いいえ」
 お竜はにっと笑った。
「あわてたものだから、どうやらとんだところで|尻《し》っ|尾《ぽ》を出したようだ。――けれど、まだわからない、ふつうの蜘蛛でどうして人を殺せたか。それから、このたくさんの人殺しのめあては何かしら?」
 彼女はまた考えこんで、それから|突拍子《とっぴょうし》もないことをふときいた。
「小僧さん。おまえ、蓑屋さんのなくなったというお嬢さん知ってるかい?」
「知ってます。……」
「どんなひとだった?」
「そりアきれいなお方で、色が白くって、面長で、ナヨナヨとして――」
 小僧の美人形容は単純をきわめたが、お竜の眼はひかった。彼女は急に彼女らしくない厳粛な眼で小僧を見つめていった。
「わかった。おまえ、この蜘蛛を自身番にもってきたと、御主人にいっちゃあいけないよ。そうでないと、おまえの命はない。……」

     二

 浅草山の宿町。――
 この町は、いまは花川戸にふくまれているが、春の太陽がおちて、|藍《あい》|色《いろ》に染まってきたその大川端をもどってきた一|挺《ちょう》の|駕《か》|籠《ご》が、薬種問屋蓑屋の裏口から入ろうとして、ふととまった。
 乗っていた人が、駕籠の垂れのすきまから、じっと何かを見ているようだ。駕籠かきもその方を見た。
 暮れてきた川を背に、路傍に|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の浪人がひとり坐っていた。
 もし小伝馬町のおんな牢にいるお玉がそれをひとめ見たら、全身水をあびたような思いがしたに相違ない。浪人の足のあいだに、ふたつの|虫《むし》|籠《かご》がおいてあるのだ。しかもその虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだった。
 まわりには、だれもいない。が、遠くから見ている駕籠に気がついたのか、浪人が深編笠を伏せたまま、
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
 とつぶやいた陰気な声が、かすかにながれてきた。
 駕籠はうごき出して、蓑屋の中に入っていった。
 それからしばらくたって、蓑屋から出てきたひとりの手代風の男が、その蜘蛛を売る浪人のそばへよって何かささやいていたが、すぐに彼をつれて蓑屋の裏口から入った。あとは、とっぷり暮れた夜ばかりである。――
 いや、その|闇《やみ》のなかに、もうひとつの影が|湧《わ》き出した。着流しに宗十郎|頭《ず》|巾《きん》をかぶったその影は、しばらく蓑屋の塀を見あげていたが、その上からのびた一本の枝をみると、ぱっと一条の|縄《なわ》がとんでそれにまきつき、彼はそれをつたって塀にのぼった。この行動以上にあやしいことは、星明りに立ったその男が口にくわえているのは、たしかに朱房の十手だったことだ。
 蜘蛛を売る浪人が案内されたのは、例の庭の隅の茶室であった。
 ふしぎなことに、そこに通されても、彼は深編笠を伏せたままだった。手代が去っても、彼はまえにふたつの虫籠を置いて、厳然と坐っている。
 勝手口の戸が音もなくひらいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。暗い眼でじっとその怪浪人をみていたが、やがて、しゃがれた声でいった。
「その紅蜘蛛を買いたい」
「何匹所望」
 と、浪人はこたえた。その声をきいて、長兵衛の眼がかっとむき出された。ふるえ声で、
「虫籠ともに――百両でどうじゃ」
「…………」
「二百両」
「…………」
「三百両」
「何になさる?」
 と、浪人はしずかにきいた。長兵衛はだまっている。深編笠の中で、ひくいふくみ笑いがきこえた。
「これは、ふつうの蜘蛛を、ただ朱にひたしただけのものでござるぞ」
「なに!」
「おどろくことはなかろう。おぬしが薬研堀で売った蜘蛛もそうだったではないか」
「わしが蜘蛛を売った? ばかな! あれは車佐助じゃ」
「車佐助は、小金から紅蜘蛛の話をきいて、美紀之介が殺されたさわぎのさい、あの紅蜘蛛をひろっただけじゃ。なんたるたわけか、その紅蜘蛛を毒蜘蛛と思い、下手人をお玉と思いこんだばっかりに、あいつの心に魔がさした。佐助はもと木戸番の蓮蔵に、いつのまにやら一座の頭株をとられたことを面白くなく思っておったにちがいないが、紅蜘蛛さえひろわなんだら、蓮蔵を殺しはせなんだであろう。たとえ蓮蔵を殺しても罪はお玉にぬりつけることができるとかんがえたればこそ、この茶屋へくる蓮蔵のたもとに紅蜘蛛をなげこんだのじゃ。あまつさえ、それをつきとめられかけると、あわてて女房の小金さえも殺してしまった。あきれかえった|卑怯《ひきょう》者じゃが、またあわれむべき愚か者でもある。紅蜘蛛は毒でもなんでもないのに――紅蜘蛛は、人の眼をくらますための|虚《きょ》の影であったのに――」
「あれは、毒蜘蛛じゃ! その毒蜘蛛をつかってお玉は美紀之介を殺し、佐助は蓮蔵を殺し、そして佐助は自害したのじゃ!」
「まだ左様なことを申しておる。その毒蜘蛛を、自身番で、ようおぬし、素手でつかんだな」
「あれは、夢中、とっさに――」
「はははは、あの蜘蛛は、軽業小屋からひろってきたものであろう。そして、ふところでみずからの胸を傷つけて血を出し、その血を蜘蛛にぬりつけたもの、その細工をした手をごまかすために、とっさに蜘蛛をたたきつぶした血とみせた!」
 蓑屋長兵衛は、|物《もの》|凄《すご》い顔色になっていた。うめくがごとく、
「それでは、車佐助はなぜ死んだ?」
「それはおぬしにききたいこと」
「わしがどうして、車佐助を――」
「佐助が蜘蛛を売っていた浪人ではないということがばれそうなためだ。それから蓮蔵がこの茶室で殺されたとき、佐助のつかった紅蜘蛛のほかにもう一匹おぬしの放した紅蜘蛛がいたことがばれそうなためだ。――おぬしは佐助がつかまったことをきかなければよかったのだ。なまじ、きいたばかりに、何となく不安になり、様子を見に自身番にきたくなり、万一の用心に蜘蛛をつかまえてきて佐助の口をふさごうとしたことが、かえって疑惑をまねくいとぐち[#「いとぐち」に傍点]となった! そういえば、佐助の死んだときも、美紀之介の死んだときも、蓮蔵の死んだときも、蓑屋長兵衛がそばにいたではないか――と」
「…………」
「要らざることであった。車佐助とおぬしとは、あくまで無縁のままですませばよかったものを――美紀之介殺し、蓮蔵殺しがあまりにうまくいったので、ひょいとまたおなじ手をつかいたくなったのが、破滅のもとであったのじゃ」
「…………」
「蜘蛛で人を殺せるなら、必ずしもおぬしがそばにいる必要はない。おぬし、彼らをどうして殺した?」
「教えてやろう」
 蓑屋長兵衛は大きくうなずいた。これがあの|好《こう》|々《こう》|爺《や》かと眼をうたがうような陰惨な悪相に変っている。
「よく、そこまで見ぬいた。まったく車佐助だけは、要らぬ飛び入りじゃった。――わしがきゃつらをどうして殺したか、教えてやるが、わしが仮面をとる以上、おまえもその笠をぬいだがよかろう」
 浪人ははじめて深編笠をぬいだ。男ではない、髪こそあだっぽい|櫛《くし》|巻《まき》にしているが、珠のように愛くるしい女の顔があらわれた。
「ふむ、やはり自身番にいた女じゃな、名はなんという」
「姫君お竜」

     三

「姫君お竜?――稼業はなんだ」
「女泥棒さ」
「女泥棒が、なぜこんな大それた探索にのり出した? ゆすりか、おどしか。金が欲しいなら言ってみるがいい」
「金? ほほほほ、欲しいけれど、そうはゆかないわねえ。|相《あい》|牢《ろう》だったお玉さんの命助けたさに乗り出した仕事なんだからね。ほんとの下手人、つまりおまえさんを御奉行所へつき出さなきゃ、お玉さんは助からない」
 お竜は、伝法ながら、女言葉にもどって笑った。長兵衛の顔色はいちど暗灰色に沈んだが、すぐにぶきみな笑顔になった。
「そうか。何にしても女だてらに|胆《きも》のふとい奴だ。しかし、おれを下手人と知ってこの家に入ってきた以上、ぶじで出られようとは思ってはいまいな」
「そうともかぎらないよ、あたしはこうみえて――」
 と、お竜は笑いながら、笠をすてて腰の大刀の|柄《つか》に手をかけた。
「うごくな!」
 と、長兵衛はさけんで手をふりあげた。
 こぶしにキラッとひかったものがある。針だ。ふといたたみ針だ。
「おい、ただの針だと思うなよ。ここは薬問屋じゃ。皮膚をかすめただけで馬一頭死ぬ毒がぬってあるのだ。おい、刀から手をはなせ」
 と、一歩寄って、お竜のすてた笠を足でうしろへはねのけた。
 飛びさがろうとして、お竜の背が壁にぶつかった。そこはせまい四畳半の茶室であった。たとえ刀をぬいたとしても、かえって邪魔になったであろう。なおわるいことに、うしろの出口は、かがまなければ出られないにじり[#「にじり」に傍点]口一つであった。さすがのお竜の頬から血の気がひいた。
 もえるような眼でにらんで、
「その針で、美紀之介を刺したのか」
「その通りだ。あいつは蜘蛛にびっくりして|蝋《ろう》|燭《そく》からおちて気絶しただけだ。あれの蜘蛛をこわがることは普通ではなかったからの。わしが刺したのはそのあとだ」
「その針で、蓮蔵を刺したのか」
「その通りだ。蓮蔵に、人を白状させるお茶があるといわせたのはこのわしじゃ。この茶室で、蜘蛛だ、紅蜘蛛だとわめかせて、死んだフリをさせたのもこのわしじゃ。死んだ芝居をして、入ってきた一座の連中がどういううごきに出るか、それで美紀之介殺しの下手人がわかるとふきこんでやったのだ。蓮蔵の小利口さが、まんまとそれにひッかかった。死んだ|真《ま》|似《ね》をしてひっくりかえっていたところを、わしがとどめを刺してやったのよ。蜘蛛の|呪《のろ》いとみせかけて、わしが一匹はなしたあとに、もう一匹の紅蜘蛛があらわれてあわてたが、佐助めが蓮蔵のたもとに入れた奴が|這《は》い出したものとは知らなんだ」
「なぜ、美紀之介を殺したの?」
 老人はぞっとするような笑いをうかべて、お竜を見つめた。黒紋付に大小をさした娘の姿は、なんとも名状しがたい奇怪な美しさだ。
「わしは、女好きでの」
「美紀之介にはずいぶん入れあげたが、あれはわしを裏切りおった」
「うそ」
「なに?」
「美紀之介を知るまえから、おまえは蓮蔵一座にちかづいていた。お玉さんがじぶんの娘に似ているなんて大うそをついて。――おまえの娘は面長の病身な美人だったが、お玉さんはまる顔のピチピチした女じゃないか。いくら芝居の金主をするのが道楽だって、軽業の金主までするのはおかしいと思ったが、そんなうそまでついて一座とつながりをつけたのは、何か目算あってのことだね」
「…………」
「美紀之介が原因で蓮蔵を殺したのじゃあなく、おそらく蓮蔵を殺すことがはじめからの目的だろう。美紀之介を殺したのは、その毒針のききめをたしかめたかったこと、それに、蓮蔵を殺した下手人がお玉だと、世間はもとよりお玉さん自身に思わせる下ごしらえだったろう」
「…………」
「きのうおまえが自身番で、人間ひとり変死をとげたら、まわりのものがみな疑われるから、それをのがれるためには、だれかひとり下手人をつくっておいた方がいいといったのは、思わず語るにおちたものさ。可哀そうにお玉さんは、じぶんが悪魔の|罠《わな》のいけにえにたてられたのも知らないで、おまえを一生の恩人だと思いこんでありがた涙にくれてるよ。罪もない女を死罪の|獄《ひとや》に追いこんでおいて、そしらぬ顔で届け物など送るところは、極悪人でなければできない仕業さね」
「お竜……おまえは、わしがこわくはないのか」
「こわいよ。こわいから、しゃべってるんだ。……ところで、江戸でも知られた薬問屋のおまえが、どこの馬の骨ともしれぬ軽業小屋の座元の若僧を、そんな手数をかけてまで殺したがったわけはなんだろう。さあ、そこがわからない」
「お竜、もう|骨《こつ》|箱《ばこ》を鳴らすな」
「これには、きっと、深い|仔《し》|細《さい》があるね? それを知りたいわ」
「それをおまえは知ることは出来ん。……この世ではな」
 老人はまた一歩寄った。
 片手でお竜の肩をつかみ、片手に恐るべき針をふりあげた。
「お竜、死ね」
 ふりおろそうとしたその手くびに、その|刹《せつ》|那《な》、背後からとんできた一すじの|捕《とり》|縄《なわ》が、くるくるっとまきついた。
 いつのまにか、勝手口にすっくと、宗十郎頭巾の男が立っていた。捕縄をつかんでいるのは、八丁堀の名同心、巨摩主水介であった。
 お竜が、がっくり肩をおとしてつぶやいた。
「どうやら、女ひとり命を救ったようだ。……あたしじゃないよ。おんな牢のお玉さんだよ!」


    色指南奉公

     一

 ひとりの女囚に腰をもませていた隅の隠居のお|熊《くま》が、何に腹をたてたのか、急にその女囚をはりとばした。
「こいつ! なめやがったな!」
 若い女囚は、|頬《ほお》をおさえて、ふるえながら、
「とんでもない、わたしが、何を……」
「いいや、なめやがった。さっきから、おれの|仙《せん》|気《き》筋ばかりつねりゃがって……てめえ、侍の女房だったから、|柔《やわら》を知ってるにちげえねえ。それで、そしらぬ顔をして、おれに日ごろの仕返しをたくらんでやがるんだ」
「まあ、思いがけないことを――あっ、御隠居さま、どうぞおゆるしを……」
 お熊はがばとはね起きた。とても仙気持ちにはみえない勢いだ。恐怖に唇をわななかせている女を見おろし、
「もうかんべんならねえ。みせしめにすこし仕置をしてやる。やい、おめえたち、こいつをつかまえて、手足をおさえてろ」
 と、隅っこの女囚たちにかみつくようにいった。女囚たちは息をのんだが、言い出したらあとにひく|婆《ばば》あではない。もういちどどなりつけられて、六、七人の女がおずおずと、その女をおさえつけた。
 女は抵抗もしなかった。つめたい床に大の字に釘づけになって、ただ胸の|隆起《りゅうき》を大きくあえがせ、涙をこめかみにながしている。
「それ、いいというまで、くすぐってやれ!」
 お熊の命令に、女たちはうごめき出した。おさえつけた女囚のあごの下、わきの下、わきばら、へそ、足のうらなど、死物狂いにくすぐり出したのだ。
「ううっ」
 と、この奇妙な拷問に、女はうめきはじめた。歯をくいしばっても、叫び声が出る。うごくまいと思っても腕をもがき、胴がくねり、二本の足がたかくはねあがろうとする。
「イッヒー、イッヒー、イッヒーッ」
 もはや、獣の声であった。眼をつりあげ、犬のように舌をはき、まっしろな乳房も腹部もまる出しにして七転八倒する女を、お熊はむろん、牢名主のお紺も、お甲、お伝たち牢中役人の老婆たちは、|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》をむき出して笑いながら見ていた。
 この女囚は、もと|御《ご》|家《け》|人《にん》の女房だったという。お|目《め》|見《みえ》以下の貧乏侍で、ここに入牢するまえ離縁になったということだが、それでももとは武家の|御《ご》|新《しん》|造《ぞ》さまにちがいないのである。色のぬけるほど白い、きよらかで気品のある女だった。――そこが、この世のどん底を虫みたいに這いまわって老いてきたこの婆さんたちの|嗜虐心《しぎゃくしん》をそそるらしいのだ。いまお熊がなんとかいったが、むろんそれは強引な言いがかりだ。この拷問は、とりすました武家の女房一般に対する兇悪な|復讐《ふくしゅう》欲の発現にすぎない。
「これこれ、何をいたしておる」
 |牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外で、声がかかった。お紺は平然として、
「牢法にそむきましたから、仕置をしております」
 とこたえて、ふりむいた。
 こう答えると、いかに牢内で無惨な私刑が行われていても、いつも牢屋同心は知らぬ顔をしているのがならいだ。
 しかし、ふりかえったお紺は、ふいに眼を大きくむき出して、
「あ、お竜!」
 とさけんだ。みんな、はっとして牢の外を見た。
 |白《しら》|鷺《さぎ》のようなお竜の|白衣《びゃくえ》がみえた。そばに、お竜を呼び出した例の八丁堀の同心が、にがい顔で立って、のぞきこんでいる。
 女囚たちは、お竜を見あげ、見おろした。幽霊かと思ったのだ。彼女がお奉行さまじきじきのお取調べに呼び出されてから、三夜を経た。おそらく|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》で拷問をうけていたにちがいないのだが、それっきりかえってこないところをみると、きっと責め殺されたにちがいないと、みんなで話していたのである。
 それが、生きている。拷問場からかえってくる囚人は、たいてい血まみれになって、半死半生のからだを|釣《つり》|台《だい》にのせられてくるのだが、彼女は両足でちゃんと立っている。
 お竜はしずかに戸前口をくぐって、牢の中に入ってきた。
「お竜さん……」
 お玉が金切声をあげてしがみつき、ゲクゲク泣き出した。
「お玉さん。……」
 肩を抱いて、お竜は奇妙ないたずらっぽい笑顔で、お玉の顔をのぞきこんだ。お玉は気づかず、
「あんた、死んじまったのかと思っていたよ! よく、よく生きていておくれだったねえ!」
「あたしが、死ぬ? どうして?」
「だって、お奉行さまの痛め吟味で――」
「何をいってるのさ、そんなに簡単に殺されてたまるもんか。お奉行さまは、とにかく名奉行といわれてる大岡さまじゃないか」
 と、お竜はいったが、|狐《きつね》につままれているような周囲を見まわして、
「それにあたしを殺しちまったら、将軍さまを|狙《ねら》った一味の残党があとつかまらなくなるからねえ。そりゃあ御丁寧なお調べで、またあしたお呼び出しがあるわ。このぶんじゃあ、あたし、まだだいぶ生きていられそうよ」
 と、笑った。それから、床のうえに顔を伏せているさっきの御家人の女房を見おろして、
「それより、あのひとにいま何をしていたの?」
「牢法にしたがって、仕置をしていたのよ」
 と、お熊はそっぽをむいていった。
「どうせちかいうちに|磔《はりつけ》か獄門になる女さ。ここで責め殺される方が当人の望みかもしれないよ」
「磔か、獄門? なぜ?」
「御家人の御新造のくせに、|中間《ちゅうげん》と乳くりあってよ、|旦《だん》|那《な》にばれそうになったら、その中間をばらしちまったというたいへんな女さ」
「では、これが、あのお|路《みち》さん?」
 名をよばれて、お路はふしぎそうに顔をあげた。お竜はちょっと|狼《ろう》|狽《ばい》して、お熊の方へむきなおって、
「ねえ、御隠居さん、あたしみたいな大罪人を、お奉行さまでさえなかなかお仕置になさらないのに、勝手に牢内でなかまをひどい目にあわせると、それこそいつかきっとお仕置をうけるよ」
「何をいやがる。牢法による仕置は、牢屋敷のならいだ」
「いいえ、天のお仕置が。――みんな可哀そうな女同士とは思わないかえ」
 お熊は、つかみかかるような手つきをしたが、お竜にこっぴどくやっつけられたのはほんのこのあいだのことだから、歯をかみ鳴らしてうめいた。
「きいたふうのことをぬかしゃがる。……いまにみていやがれ。お奉行さまの御吟味から、いつも満足なからだでもどってこれるとはかぎらねえぞ。……」
 ――ところが、そういった当人が、その夜のたうちまわりはじめたのだ。持病の|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》を起したのである。まさに天の仕置というべきだが、みんなおどろかなかった。いままで何度もあったことだからだ。
「あいたたたたた」
 お熊は、牢中をころがりまわった。
「おれ、死ぬよう、いたい、いたいっ」
 はじめ気のない看病をしていたお紺が、ついに|癇癪《かんしゃく》をおこしてののしった。
「やかましいね。この婆あ、寝られやしないじゃないか。おまえも月の輪のお熊といわれた女じゃないか。くたばるなら、みっともない|音《ね》をあげないでくたばりな」
「どうしてお医者を呼ばないの?」
 と、お竜の声がきこえた。彼女はそれまで、お路という女囚と、しめやかに何やら話していたのである。
 |天《かみ》|牛《きり》のお紺は笑った。
「ここは牢だよ。――」
 それが、どういう意味か、すぐにわかった。そのとき、お熊の騒々しいうめき声をききつけて何事かと思ったのであろう、|提灯《ちょうちん》をかかげて牢番人が|外《そと》|鞘《ざや》にきたが、ちょっとのぞきこんで、舌打ちをしてすぐに去ろうとしたのである。
 牢内で、病人、しかも重患が出ると、|溜《ため》という|病檻《びょうかん》に移す。江戸には溜が二か所あった。一つは浅草千束にあり、他の一つは品川にあって、それぞれ|非人頭車善七《ひにんがしらくるまぜんしち》、|松《まつ》|右衛《え》|門《もん》があずかっている。しかし、そこで死ななければまたこの牢内へもどすのだが、その手数がわずらわしいので、牢役人たちは知らない顔をしていることが多かった。ここで死ねば、|屍《し》|骸《がい》は家族へもわたさず、アンカにのせて千住に犬猫のごとく捨てにゆくだけだから簡単なものだ。
「お待ち」
 呼ばれて、牢番は立ちどまった。お竜はきっとしてさけんだ。
「お医者を呼んどいで。そうするのが、おまえさんのお役目だろ? お医者を呼ばないと、明日にでもお奉行さまのお調べがあるときいいつけてやるから」
 まもなく牢付の医者がきた。お熊のうなり声はやんだ。
 お熊が手をあわせておがんだ|闇《やみ》のむこうで、お竜の事もなげな声がきこえた。
「それで、お路さん。あなたは――」
「わたしは……」
 闇の中にも、御家人の妻が、恥ずかしさに息もつまらせている様子がわかった。お竜はやさしく、
「それから、どうして?」

     二

 飯田町に住む五十石の御家人|祖《そ》|父《ふ》|江《え》|主《しゅ》|膳《ぜん》は、妙な|中間《ちゅうげん》をひろってきた。
 最初見たときから、ノッペリしたその顔と、からみつくような眼つきに、妻のお路は本能的に不安な予感をおぼえたが、|或《あ》る日、|十《と》|平《へい》|次《じ》というその中間の背なかに「色指南」という|刺《いれ》|青《ずみ》があるのを発見して、夫にいった。
「旦那さま、あの十平次と申す中間は、よほどお気に入りでございましょうか」
「なぜ?」
「なんだか、わたし、恐ろしい。……」
 主膳は、じっとお路の顔を見つめて、|蒼《あお》|白《じろ》く笑った。
「ばかな、たかが渡り中間ではないか。それに、あれはいろいろなおもしろい穴を知っておる」
「穴?」
「ばくち場じゃ」
「まあ!」
 主膳は、そんなところから十平次をつれてきたらしかった。
「それに、給金もろくにやれぬ安御家人のうちに、そう居ついてくれる中間のおらぬことはおまえも知っているではないか。十平次がきてくれる気になったのも、主従ばくちでウマがあえばこそじゃ。はははは」
 |大《たい》|身《しん》の旗本などでは、十何人もの若党や中間をつかっているが、五十石の御家人では、せいぜい一人の中間しかやとえない。しかし、ふだんの庭の掃除、畑仕事、使いなどはむろん、これでも|直《じき》|参《さん》である以上、事あるときはどうしても供の一人くらいはいなければ|恰《かっ》|好《こう》のつかぬことがあるし、第一、客がきたとき玄関の取次をするものが女ではいけないという習いなのである。|知行《ちぎょう》取りの屋敷ならその知行所の百姓などにきてもらうのだが、|蔵《くら》|米《まい》取りの祖父江家では、口入屋から渡り奉公の中間をやとい入れるよりほかはなかった。
 しかし何しろ貧乏で、年三両の給金でさえはらいかねるので、いままで何人もの中間ににげ出されて困っていたのである。
「それは存じておりますけれど……背に、何やら妙な刺青などをして……」
「あはははは、あれは、色指南――色ごと指南という意味だろう。人をくった奴じゃ。おまえも、少し指南をうけるがいい」
「何を仰せられます」
「怒ったか。ふふん、いや心配するな。あんなことを自慢たらしく彫る奴だけあって、いい色おんながおる。ときどきばくち場で|逢《あ》ったが、あいつにはもったいないくらい、ふるいつきたいほどの女だ。まず、おまえの百倍は色ッぽいな」
 あごをなでながら、ぬけぬけとそんなことをいう夫を、お路はかなしそうに見つめた。こんなはずではなかった。こんな人ではなかった。三年まえ、ここに縁づいてきたころは、もっと立派な夫だった。腕もたち、頭もよく、|覇《は》|気《き》もあった男だったのだ。それがこの半歳ばかりまえから、急速にこんなになってしまった。酒びたりになり、|喧《けん》|嘩《か》をし、他家の中間部屋に出入りしてばくち[#「ばくち」に傍点]に日をくらし。――
 それを、お路はとめることができなかった。みまわすと、夫の同輩は、まえからみんなそうなのだ。五十石、御家人、さびれきった飯田町の御家人町――未来|永《えい》|劫《ごう》その境涯から|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》ぬけ出すことのできないこの世のしくみであった。腕がたち、頭がよく、覇気があればあるほど焦燥し、絶望し、自暴自棄になる。……
 夫に笑いとばされて、お路はそれ以上押して何もいえなかったが、案の定、それから屋敷に、眼をつぶりたいほどふしだらな空気が吹きこみはじめた。
 十平次が、れいの色おんなを中間部屋にひき入れて、へいきで|痴《ち》|話《わ》|狂《ぐる》いを見せはじめたのだ。主膳にきくと彼女は「死顔の|蝋《ろう》|兵《べ》|衛《え》」というきみわるい名の人形師の娘だということであったが、どうして十平次とそんな仲になったのか、おそらくばくち[#「ばくち」に傍点]場にいっしょにあらわれるというくらいだから、もともとあばずれなのだろうが、まがりなりにも侍の家に入りこんで、あられもない声をあげられるので、お路は耳を覆いたいようだった。
 主膳に告げるのもはばかられるほど恥ずかしかったが、門のすぐそばにある中間部屋では、近所のきこえもあるので、お路は或る日主膳にそのことを訴えた。
「きいたか、お路」
 と、主膳は怒りもしないで、ニタニタ笑った。
「しかし、わしがあちこち他家の中間部屋の|賭《と》|場《ば》に出あるくのじゃから、あまり大きなことは申せぬな。――それより、あれほど大っぴらな声を出して、|羨《うらや》ましいとは思わなんだか」
 トロンとした眼でお路の顔をみていたが、急に抱きよせてその口を吸おうとした。
「これ、たっぷり|唾《つば》のたまるように、ぐっと舌を出しての……」
「何をなされます」
 お路は思わず夫の顔をつきのけて、とびのいた。|驚愕《きょうがく》にあえぎながら、はりさけるような眼で夫を見た。夫が十平次みたいな|下《げ》|郎《ろう》に変ったのではないかという恐怖と、それからひどく申しわけのないことをしたのではないかというおびえの色が、その眼にあった。
 しかし、夫は蒼白い崩れた笑顔で追って、
「何をすると申して、おまえ、わしの女房ではないか。さ、こぬか」
「だって……」
 ずるずると、またひき寄せられ、夫のひざに抱きあげられた。主膳はお路の耳たぶを口でくすぐりながら、
「侍の夫婦じゃとて、遠慮することはないわ。わしに十平次をあまり羨ましがらせてくれるな。それ、わしがここへ手をかけると、腰がかるくあがるだろう。うむ、ふとったようでも、かるいからだじゃ。……」
「あれ、わるい冗談を……それでは、どうも……」
 夫の腕のなかで、お路は息をはずませ胴をくねらせながら、眼まいするような|昂《こう》|奮《ふん》と、なぜかひどくじぶんが堕落したような吐き気を感じた。それにしても、夫は、いつ、だれから、こんなしぐさをおぼえたのだろう?

     三

 何か、屋敷全体が甘美な|魔《ま》|窟《くつ》になったような数日がすぎた。
 そして、突然、お路はとりのこされた。主膳が急に彼女によそよそしくなったのである。お路はキョトンとした。からだはまだ熱をもっているようなのに、内部がからっぽになったような気がした。
 夫はいったいどうしたというのだ?
 その理由をお路が知ったのはそれからまもなくであった。
 その夕方、主膳は外出して、留守だった。どうしても十平次にたのまなくてはならない使いの用があって、お路は門のすぐ内側にある中間部屋へいった。するとなかで、なまめかしい女のあえぎ声がきこえたのである。
「ね、こうやって、背なかからしっくりと抱いておくれ。男はまた気が変っていいそうだけれど、女はどうも勝手がちがってじれったいわ。手のおきどころがないのにこまらあね。おまえさまのおかみさまは、よくあんなに鼻息もせずおとなしくだんまりでおいでなさる。ほほほ、いつか、そっちへいって、庭できいていたんだよ。まっぴるまから、雨戸をたててさ、にくらしい」
 お路は、ぎょっとして立ちすくんだ。声はまさにあの十平次の情婦お|紋《もん》だが、おまえさまのおかみさまとは?
「わたしは言いたいことを言ってさわぐほどさわがないと、どうも身にならないようだ。よう、舌のありったけ口へ入れてよ……ああ! さげすむならお|蔑《さげす》み、あたし、もうせつなくって、せつなくって! え、あいつがくるって、イヤイヤ、もうだれがきたって、雷さまがおちてもはなさないから、覚悟して!」
 そして、連続的な|濡《ぬれ》|紙《がみ》をたたくような音がした。
 お路の眼前に、障子のはまった格子の窓があった。そこに小さな破れがある。しかし彼女はそこに眼をあてることはできなかった。武家の妻としてのたしなみのせいばかりではない。――見なくてもそのうす汚れた障子に、あのムチムチした白い肌と、厚ぼったく濡れた|真《しん》|紅《く》の唇をもつお紋の|淫《みだ》らな肢態をアリアリとえがくことができた。が、お路の両足を|釘《くぎ》づけにしたのは、それより実に恐ろしいことであった。
 相手はだれだ?
 男の声はきこえない。しかし、妻としての本能が。――
 彼女の足が、立っていられないほどガクガクとふるえ出した。そんなことがあってよかろうか。あのひとは|外《そと》|出《で》からまだかえらないはずだ。……肩で息をつき、眼がくらんで、彼女はよろよろとたおれかかった。
 そのとき障子の向うでは、ながく尾をひく女のさけび声がきこえた。
 お路は耳を覆うと、よろめきながらにげ出した。一|刹《せつ》|那《な》、方角の感覚すら失って、思わず玄関を横に、空地の林のなかへかけこんだのである。
 安御家人でも屋敷は三百坪ほどあったが、むろん正確には林というほどのものでもない。五、六本ヒョロヒョロと雑木林が生えているだけだが、ふとその中に立っている人影をみて、彼女は棒立ちになり、眼をかっと見ひらいた。
 地にはもう|闇《やみ》が沈んでいた。が――|梢《こずえ》にかかる淡い夕月に、妙な光沢をおびた顔でこちらをじっと見つめているのは、なんと夫の主膳ではなかったか!
「旦那さま!」
 お路はとびついていって、その胸に顔をうずめた。
「わたしは……わたしは……」
 いま、途方もない考えちがいをしていたという訴えは声にならなかった。歓喜の激情が全身をおののかせ、背にまわされた夫の指の感触が火のように彼女の官能を|灼《や》いた。
「うれしい! 旦那さま!」
 泣きじゃくるような声をあげながら、このつつましい妻は、めずらしくじぶんの方からまるいあごをあげて、唇を夫の口へよせていったのである。
 その瞬間――彼女のからだを、|戦《せん》|慄《りつ》の冷たい|串《くし》がつらぬいた。夫の顔が死人のようなかたい冷たい光沢にひかって、ピクともうごかないのを見たのである。――が、その笑った眼にはおぼえがあった。
「おまえは!」
 絶叫して、とびさがろうとした。が、彼女の背にくいこんだ指は、彼女のからだを|籐《とう》のようにたわませただけで、解けようともしなかった。


    江戸の袈裟御前

     一

「十平次!」
 お路はさけんで、身をもみねじった。死物狂いにもがいて、相手をつきのけ、二、三歩にげたが、すぐにまたうしろから|羽《は》がいじめになった。
「わかりやしたかえ? 御新造さま」
 やはり、|中間《ちゅうげん》の十平次の声であった。しかし、その手は無遠慮にお路の乳房のまろみをさぐっていた。
「何をするのじゃ、放しゃ、十平次!」
 顔をねじむけて、彼女はまたぞっとした。
 まちがいなく、ノッペリした十平次の顔である。しかし、ほんのいま、夫主膳の顔に見えたのはどうしたことだ? |面《めん》? 異様な光沢があったが、あんな、夫そっくりの――|眉《まゆ》、|小《こ》|皺《じわ》、皮膚のいろまでまざまざと似た面があり得るだろうか。
「へへへへ、あっしがもちかけたわけじゃあない。御新造さまの方から、いきなり抱きついてこられたのではござりませんか」
「おまえ……その身なりはなんじゃ」
 やっとお路はそのことにも気がついた。十平次はいつもの紺の|半《はっ》|被《ぴ》に|柿《かき》|色《いろ》の三尺、|尻《しり》をはしょって、からっ|脛《ずね》に|草《ぞう》|履《り》をはいた中間姿ではなく、夫とおなじような――いやたしかに見覚えのある夫の黒紋付を|着《き》|流《なが》しに着ているではないか。錯覚したのは、たしかにそのせいもあったのだ。
「おまえ、そのような姿をして、あたしをだまそうとしたな」
「この姿? へへへ、これァきょう旦那さまから拝領したものなんで……ちょいとここでこれを着てオツな気分になってたところに、御新造さまが、うれしい、旦那さま! としがみついておいでになったじゃあゲエせんか。これァいよいよオツリキでゲスね」
「いやらしい、放さぬか、十平次、旦那さまに申しあげるぞえ!」
「御新造さま、あっしが、この御紋服を|頂戴《ちょうだい》したわけを御存じでごぜえますかえ?」
「…………」
「いま、中間部屋をのぞきなすったろう。お紋といい目をみていなさるのは旦那さまでゲシて――」
「もう御承知のことと思いやすが、お紋ってのアあっしの色おんななんです。てめえの色おんなを献上して、この|羊《よう》|羹《かん》|色《いろ》の御紋服を拝領するなんざ、十平次も見かけによらねえ忠義者でげしょう」
 あえぐお路の顔すれすれに顔をよせて、十平次は笑ったが、お路は相手の顔さえ|靄《もや》の中みたいにぼやけて、脳貧血を起したようになっていた。
「忠義ついでに、御新造さまにも忠義をつくさせていただきてえもので――御新造さま、あっしといちど色をして御覧なせえまし。失礼だが、へへっ、旦那さまとはでえぶちがう――とァ、お紋のせりふで、たとえば、さあ」
 というと、十平次はいきなりお路の小さな口を吸った。ふしぎなことに、お路はじっとしていた。いや、その実、衝撃のために半失神状態に陥っていたのだ。歯のあいだから、男の舌がおしこまれてきた。無意識のうちに、お路のからだをとろけるような感覚がつらぬいた。が、つづいて十平次の手が、一方でお路をあおむけにたおしかかり、一方で|両肢《りょうあし》のあいだをさぐりかけたとたん――彼女は、はっとわれにかえった。
「あっ」
 と、お路はさけんだが、はやくも十平次はそのうえにのしかかっていた。
「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
 夕月ほのぐらい草の上に、|髷《まげ》のくずれたお路の髪が、からすへびのようにのたくった。ふいごのような男のあつい息から顔をそむけたお路の前に、髪からおちた|銀簪《ぎんかんざし》がキラリとひかってみえた。
 夢中だった。彼女はそれをつかむと、いきなり男の顔をめがけてつきあげた。
「うわっ」
 十平次は、のけぞって、はねあがった。とびのいて、顔を覆った|両掌《りょうて》のあいだから、月光に墨汁みたいなものがあふれおちた。
「や、やりゃがったな、やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ、それを、てめえ……」
 うめきながら、ふたたびとびかかろうとする十平次の片眼からながれる血潮の|物《もの》|凄《すご》さをみると、お路は、恐怖のために夢中ではね起きて、にげ出した。
 二、三度、立木にぶつかり、およぐようににげてゆくお路は、髪はみだれ、一方の肩はむき出しになり、まるで犯されたあとのようなむざんな姿であった。
 玄関から座敷にかけこむと、彼女は|箪《たん》|笥《す》から懐剣をとり出した。追ってきたらただ一刺しと身がまえたのである。「――旦那さま!」その声が出かかったのは、そのあとだった。すぐにその主膳は、中間部屋でお紋といっしょだということに気がついた。いや、そのことがあたまにいっぱいだから、じぶんはここににげこんできたのだ。いったい、どうしてこんなことになったのか?
 |跫《あし》|音《おと》はきこえなかった。夜の屋敷は、しーんとしていた。お路は世界じゅうに、じぶんひとりになったような気がした。そのとたん、すーっと全身から糸がひきぬかれたような感じがして、彼女はがっくりとまえにつっ伏してしまった。気力がつきはて、失神したのである。

     二

 お路は、悪夢のつむじ風に吹きまわされていた。
 のしかかってくる十平次のノッペリとした顔だ。ふいごみたいな息づかいだ。それから、男と女のあえぎ声だ。「ああ! さげすむなら、お蔑み、あたし、もうせつなくって、せつなくって!」その声がいやらしい男の声に変る。「さわがねえでおくんなせえまし、それ、これが十平次の色指南。……」
 お路は、無意識に舌をうごかせた。じぶんの口の中におしこまれてきた十平次の舌のぬるりとした感じがよみがえったのである。恐ろしいのは、それより、そのとき彼女のからだをはしった吐き気のするような|恍《こう》|惚《こつ》感だった。わたしはそんなに淫らな女だったのか、わたしは十平次に犯されたもおなじことではないか。彼女は夢の中でさけんだ。「おゆるし下さいまし、旦那さま。……」
 十平次の幻影が、ふいに夫主膳の顔に変った。ああ、あのとき、一瞬ではあったが、暗い月のひかりに、十平次が夫の顔にみえたのはどういうわけだったろう? そして、十平次はたしかにいった。
「やい、旦那もみんな承知のうえのことだぞ。……」
 夫の顔が、また十平次に変った。十平次がじぶんを抱き、夫がお紋を抱いて、もだえている。黒いつむじ風のなかに、四人の男と女が、白いはだか姿でからみあって、グルグルとまわっている。お紋を抱いているのは、十平次か、夫か。わたしを抱いているのは、夫か、十平次か。……
「助けて下さい、助けて下さいまし――」
 旦那さま、という声は口の中できえたのに、お路は名を呼びかけられた。
「お路、お路」
 彼女は眼をひらいた。そして|行《あん》|灯《どん》のそばに、腕をくんで気づかわしそうにのぞきこんでいる人の姿を見出した。それが夫の顔だったのに、彼女は恐怖の眼を見ひらいたまま、しばらく声も出なかった。
「どうしたのじゃ? いったい――」
 お路は、じぶんが夜具の中にねかされているのに気がついた。
「どうした?――わたしは、どうしたのでございましょう?」
「それはこちらでききたいことじゃ。わしがかえってみると、そなたがここにたおれておる。びっくりして、寝かせてやったが、心配なので、ここにこうして坐っていたのだ」
 お路は、はじめてじぶんがあの着のみ着のままの姿であることと、夜具の外に懐剣がおちていることに気づいた。しかし、ぎょっとしたのは、何よりもいまの夫の言葉だった。
「かえってきた? 旦那さま、いつ――」
「さあ、もう夜半近かったであろうか。|藤《ふじ》|井《い》どののところで|馳《ち》|走《そう》になっての、ほろ酔いきげんでかえってみると、この始末じゃ。お路、病気か、それとも何か変ったことでも起ったのか、中間部屋に十平次もおらぬが――」
 お路はがばと起きなおった。みだれた姿もわすれて、
「旦那さま! 旦那さまは、ほんとに藤井さまのところへゆかれて、夜中にかえっておいでなされたのでございますか?」
「何をいっておる。そう申して家を出たではないか。うそだと思うなら、藤井どのにきいてみろ」
「けれど、けれど、夕方、旦那さまは中間部屋で――」
「わしが中間部屋で?」
「あのお紋という女と――」
「お紋と、わしが何をしていたというのか」
 お路は、絶句した。主膳の眼がひかってきた。
「お路、そなたは何やら、ききずてならぬことを申す。わしが中間部屋でお紋といっしょに寝ていたとでもいうのか。そなたはそれを見たと申すのか!」
「いいえ、それは見ませぬが……」
 お路は、急速に動揺してきた。じぶんは見なかった。しかし、何となくあれは夫だという感じがした。それから十平次も、「いま中間部屋で、お紋といい目をみていなさるのは旦那さまで――」といった。が、いまにして思えば、お紋のあの言葉づかいはどうしたものだろう? いかに安御家人でも、侍に町人の娘がおまえ呼ばわりするものだろうか? そういえば、あの十平次のいったことなど、とうていあてになるものではない。――けれど、それではあのとき、中間部屋にいた男はだれだろう?
「これ」
 恐怖の眼を宙にすえているお路の肩を主膳はつかんだ。
「そなたは気でもどうかしたのではないか。何があったのじゃ、申せ!」
 その顔は、この日ごろのどこか|無《ぶ》|頼《らい》の|匂《にお》いをおびた夫の顔ではなかった。ずっとまえの、まじめで真剣な夫の――厳然たる眼が、ひたとじぶんを見すえていた。ああ、あたしはやっぱり途方もない考えちがいをしていた! そう思うと、うれしさとくやしさが、全身をつきあげてきた。
「旦那さまがわるいのでございます!」
 一声そうさけんで、彼女は夫のひざに身をなげかけた。童女のような|嗚《お》|咽《えつ》に背を波うたせながら、
「旦那さまが、あの十平次などをつれておいでになったり、紋服をおやりになったりなさったので、こんなまちがいが起ったのでございます!」
「紋服? あれはばくち[#「ばくち」に傍点]のかた[#「かた」に傍点]じゃ。しかし――まちがいとは?」
 お路はぐいとひきあげられた。
「まちがいとは何じゃ。お路、そなたは十平次とどんなまちがいを起したというのじゃ?」
 はじめて、お路は|愕《がく》|然《ぜん》とした。じぶんはもとより、夫もまた潔白であったという感動のために、当然受けなければならないそんな疑惑が念頭をはなれていたのである。しかし、貞節で、|或《あ》る意味では、|稚《おさな》い武家の妻としては、それは当然な心理であった。
 主膳は、|凄《すさ》まじい眼で妻をにらみすえた。
「そうか、そうであったか。……そなたがここにたおれていたのを、はじめ医者を呼ぼうか呼ぶまいかと迷って、ついにやめたのは、実はそのことを案じていたればこそだ。……ううむ、|彼奴《きゃつ》、侍の女房を――」
「あなた、ちがいます!」
 お路は悲鳴のような声でさけんだ。
「わたしは潔白でございます。十平次めは、あたしをとらえて理不尽なふるまいに及ぼうといたしました。けれど、わたしは身をまもりぬいたのでございます。それだけは信じて下さいまし!」
「その姿でか?」
 主膳は口をゆがめて、血ばしった眼でお路のからだを見まわした。お路の一方の乳房はまる出しであった。
「彼奴、どこへ|逐《ちく》|電《てん》いたそうと、きっと見つけ出して、ぶッた|斬《ぎ》ってくれる!」
「斬って下さいませ! あの男を――けれど、|成《せい》|敗《ばい》あそばすまえに、あの男にきいて下さりませ! わたしの身の上に何のこともなかったことを――」
 お路は、夫にしがみついて絶叫した。主膳はうめくように、
「十平次めは、にげた。そなた、何として身の|証《あか》しをたてる?」
「身の証し――ああ! それがたてられるなら、どんなことなりと――」
 身もだえしながら、ふいにお路は、十平次に口を吸われたことを思い出した。悪寒が背すじを|這《は》った。思わず口ばしった。
「にくい、あんなことをして、にくいあいつ!」
 この場合、そのさけびが、夫にどんな反響を起すかを、彼女は悟ることができなかった。ふいに、けがらわしいものをふりはらうように、夜具のうえにつきたおされたのである。
 主膳は立ちあがって、妻の姿を見おろした。お路は、じぶんの胸も足もあらわになっていることを知っていたが、|哀《かな》しみと苦悩のために、ただあえぐばかりで、身づくろいする気力もなかった。
 ふいに主膳の眼に、どんよりとした雲がかかった。片頬がピクピクとひきつり、唇がゆるんで、みるみるあの自堕落な、虚無的な顔に変ってきたのである。
「ふう――身の証しをたてられるなら、どんなことをしてもよいと申したな」
 と、つぶやくと、お路のそばにかがみこんだ。
「これ、お路、あいつに口を吸われたであろう、この口を――」
 といって、美しいお路の口の中へ指をつっこんだ。
「ふむ、この舌をしゃぶられたであろうがな」
 お路は、ただ涙をながしているだけだった。主膳は依然としてどんよりと濁った眼でそれを見たが、
「そして、乳房もいじられたなあ。きゃつのことじゃ、そのくらいのことはしたであろうのう」
 と、乳房をもみねじった。お路は悲鳴をくいしばって、ほそい胴をくねらせた。
「彼奴は、どんな手つきで腹をなでた? 教えてくれい、お路、十平次めから受けた色指南を教えてくれい。……」
 妻のからだをもてあそび、いじくりまわしつつ、主膳は恍惚たる声だ。いつしか彼は夜具の上に坐ったまま、お路を抱きしめて、いつかのようにその口を吸っていた。
 くやしい! 疑いもはらさないでこんなことを! というせつない絶叫が、しだいにお路の心の底で鈍磨してゆく。青い眉をしかめ、白い指を夫の背にくいこませ、彼女はくやしさと愛欲のいりまじったすすり泣きをあげた。
 夫婦とはいえ、ふたりがこれほど狂熱的な|愛《あい》|撫《ぶ》をかわしたことはなかったろう。異常な設定と異常な心理からもえあがった情欲が、ふたりを獣のような|昂《こう》|奮《ふん》の|坩堝《るつぼ》に|熔《と》かしたのだ。|仄《ほの》かな行灯のひかりをあびて、ほとんど全裸にちかいお路は、白い蛇のようにのたうちまわった。じぶんの声が、中間部屋できいたお紋そっくりのあの恥ずかしい声であることを知りながら、お路はそれを天からふってくる音楽のようにきいた。
 ほんとうにつつましやかなこの武家の妻を、こう変えたのは夫の力だけであったか。そうではなかった。結局あの十平次のせいだ。すくなくとも、あの事件のせいだったといえる。泥のようにつかれはて、しびれた官能の底で、お路は「十平次の色指南……」とつぶやいた。唇は笑い、彼女は|嵐《あらし》のすぎ去ったあとのようなけだるい幸福感に|睡《ねむ》った。
 しかし、嵐は去りはしなかった。
 それから、どれほどの時刻がたったであろうか。唇をまたやさしく吸われて、彼女はまどろみの中でかすかに舌さきをうごかせてそれにこたえたが、急にふっと眼をあけた。舌が異様に冷たいものにふれたような感じがしたからだ。
 彼女はひしと夫にしがみついていた。ねむりにおちいったときのそのままの姿態であった。が、それは夫ではなかった!
 十平次だ。十平次が|枕《まくら》をならべて、じっと眼を――傷つけられたはずの眼には一点の血のあともなく、冷たく笑うように眼を細めた顔を彼女にむけていた。

     三

 世の中でいちばん恐ろしい怪談は、お化けに|逢《あ》って狂気のごとくにげ出した人が、だれかに逢ってそのお化けの話をしたら、相手が「それはこんな顔をしていたか」といって顔をつるりとなでると、それがさっきのお化けだったという怪談だそうだが、そのときお路の受けた恐怖と衝撃は、まさにその怪談以上だったといってよい。
 何をさけんだのかわからない。裸体のまま、彼女は夜具の外へとび出した。
 十平次はけろりとした無表情のままそれを見つめて、なお大胆に寝たままであったが、お路がたたみの上の懐剣をつかむのをみると、さすがに|狼《ろう》|狽《ばい》して立ちあがり、背をみせた。
 ふすまを|蹴《け》たおして次の座敷ににげこむのを、夢中で追う。|闇《あん》|黒《こく》のなかで凄まじい|跫《あし》|音《おと》がもつれあったあと、雨戸にぶつかる音をきくやいなや、彼女はなかば狂ったようなからだをたたきつけた。懐剣がねもとまでつきとおった|手《て》|応《ごた》えと同時に、雨戸と、十平次と、お路は三重にかさなって、庭にころがりおちた。
 そのまま、お路の気が遠くなってしまったのもむりはないが、しかし、こんどはその時間はみじかかった。全裸の肌をなでる夜気の冷たさに、彼女は意識をとりもどしたのである。
 十平次は、身を横にねじったまま、死んでいた。夫とおなじように、これまた裸だが、まちがいなく十平次のノッペリした顔が、|苦《く》|悶《もん》に眼と歯をむき出して、月光にさらされていた。
 お路は裸身の冷えるにまかせて、それこそ氷の彫像みたいにそこに坐ったままであった。意識をとりもどしたといっても、なお理性の|麻《ま》|痺《ひ》がとけなかったのを、だれがむりだと思おう。彼女は気がちがう一歩手前だといってよかった。
 血まみれの懐剣が、彼女と十平次の|屍《し》|体《たい》のあいだに|凄《せい》|惨《さん》なひかりをはねている。――そのむかし、京の|袈《け》|裟《さ》|御《ご》|前《ぜん》はおのれに邪恋をしかけた男に、じぶんを夫と錯覚させて殺害されたが、この貞節な江戸の袈裟は、おのれに邪恋をしかけた男を夫と錯覚して、身を汚されたあげく殺害してしまったのである。
 何かが狂っている。――何が? それは彼女自身であるというよりほかに解釈のしようがない。
 なぜ十平次を夫と錯覚したのか。あの秘戯に狂った人間が十平次だったとは信じられない! 信じられないが、もしあれがほんとうの夫であったなら、それがいつのまに十平次に変っていたのか。そして、見よ、十平次の片眼からは――きのうじぶんが|簪《かんざし》でつき刺した傷からは、凄まじい血しおがながれおちて、黒々とこびりついているではないか。――
 お路は、いまは恐怖すらもおぼえなかった。昨夜のことも、きのうのことも、いやいや、ずっとまえ十平次が中間としてこの屋敷にあらわれたことすらも、すべてこの世に存在しない恐ろしい夢だったような気がした。そして、眼前に横たわっている一個の|屍《し》|骸《がい》さえも。
「おうい、十平次、十平次はおらぬか。――」
 遠くからの呼び声に、彼女はわずかにあたまをあげた。
「御主人さまの御帰館だぞ。女房どの、お路」
 主膳だ。酔っぱらった夫の声であった。|跫《あし》|音《おと》が、|蹌《そう》|踉《ろう》と門からこちらに入ってくる。
 お路はもはやおどろきもしなかった。そんな強烈な機能はもう彼女の心から失われていた。彼女は黒髪をみだした全裸のまま、全裸の男の屍骸のそばに、ボンヤリとうずくまりつづけていた。

 ――女囚お路の話は終った。
 これが、夫の不在中、|女蕩《おんなたら》しの折助の誘惑にまけて密通し、夫の帰宅にあわてて|姦《かん》|夫《ぷ》を殺してしまったという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される御家人の妻の物語であった。
 もう夜明けにちかい。やがてまた例の「朝声」がかかることだろう。微光のさしてきたおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお路のひざに、滴々と涙がおちている。
 みずからの罪をみとめ、死を覚悟したその哀れな女の姿を、姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ、お路さん」
「なにを?」
「それじゃああなたは、二度旦那さまと思ったひとが、実は|中間《ちゅうげん》だったという変な目にあったわけね?」
「はい、わたしはどうしてそんなことになったのかわからないのです。……」
「そして、一度めに中間の眼を簪で刺したのに、二度めに見た中間の眼はぶじだった。……」
「でも、三度めに見た死顔は、やっぱり眼から血をながしていたのです。わたしの眼がどうにかなっていたのです。いいえ、あたまも……」
「それで、旦那さまはやはり何も御存じないの?」
「はい。……もし人殺しなどしなければ、何とか内輪で事をおさめてつかわしたものを、と泣いてくやんでくれました。去り状をいただいたのも、わたしから申し出たことです」
「そのお紋という女のひとは?」
「どうなったのか、存じません」
「お紋さんのお父さん、何ていったっけ? 何だか変な名だったわね?」
「死顔の蝋兵衛。……」
 お竜はまただまって考えこんでいる風だった。――朝がきて、例の餓鬼地獄のようなモッソウ飯のうばい合いのさわぎにも入らず、ひとり羽目板にもたれて坐りつづけていたが、やがて、指を口にいれて、ヒューッとひくく口笛を鳴らしたのである。
 すると――格子の外に、あの八丁堀の同心の影が立った。
「武州無宿お竜、早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」


    死顔の蝋兵衛

     一

「あの、人形師の蝋兵衛さんのお宅はこちらでしょうか」
 上野の寛永寺にちかい御切手町の、とある長屋の一軒を、こういってたずねてきたひとりの町娘がある。
 そこにたどりつくまえに、ちかくの家で彼女は三度ばかり、その蝋兵衛の住居や人柄についてきいてきた。
 最初にきいた大工は、その長屋の場所をおしえたのち、
「へえ、死顔の蝋兵衛さんのところへゆく? おまえさんみたいな若い娘があの仕事場に入ると、眼をまわすぜ。そりゃあ、うすッきみのわるい人形がならんでるから」
 と、くびをすくめていった。
 次にきいた|桶《おけ》|屋《や》は、あたまをかしげて、
「爺さん、いるかな? もともと恐ろしい飲んだくれだが、娘がお旗本のお|妾《めかけ》か何かになって、その方から銭が入るとみえて、去年の秋ごろからもうしらふ[#「しらふ」に傍点]でいるのを見たことがねえぜ。人形が註文なら、よしたがいい。だいいち、今は作ってはいねえようだ」
 と、吐き出すようにいった。
 三番めにきいた|煎《せん》|餠《べい》|屋《や》のおかみさんは、
「さあ、爺さんはいるかいないか。そうそう、さっき娘のお紋ちゃんがジャラジャラした身なりで|駕《か》|籠《ご》からそこで下りたから、ひさしぶりにかえってきたのだろう。用があるなら、その娘さんに逢ってみな」
 と、七輪を|団扇《うちわ》であおぐ背を見せたままいった。
 そして、その女は、蝋兵衛の家のまえに立ったのである。「人形師の蝋兵衛さんのお宅はここか」ときかれて、奥からくびを出したのは、当人ではなくて二十四、五の女だった。まるで|掃《はき》|溜《だめ》におりた|孔雀《くじゃく》みたいに|濃《のう》|艶《えん》な女だが、どこか|頽《たい》|廃《はい》の色がある。
「何か用?」
「あの、人形を作っていただきたいのです」
「おあいにくさま、いまは仕事はよしているのさ」
 客を客とも思わない、けんもほろろの応対だったが、その註文にきた町娘のあまりの美しさに、ふいと好奇心をうごかしたのだろう。
「人形って、どんな人形?」
「あたしの人形なんです」
「え?」
「あたしそッくりに似た人形。蝋兵衛さんはその名人だときいてきたんですけど」
「そんなものを作って、何にするのさ」
「あたしね、ちかいうちにお嫁にゆくんです。それをかなしがって、死にそうなひとがひとりいるものだから、代りにあたしそっくりの人形をかたみ[#「かたみ」に傍点]に残していってあげようと思って――」
 蝋兵衛の娘がニヤリとしたとき、奥で舌のもつれた老人の声がきこえた。
「お紋、酒はどうした。もうないぞ」
 徳利をふってわめいている気配だ。
「あいよ、いますぐ――お父っさん、客がきてるんだよ」
「客? 仕事はしねえぞ、追っぱらえ」
「わかってるよ、ね、おまえさん、おききのとおりだ。お奉行さまの御註文ならともかく、もう人形は作らないってのが、お父っさんの口ぐせなの。わるいけど、あきらめてかえっておくれ」
「お奉行さまの御註文ならともかく?――なぜお奉行さまなら?」
「なに、この冬酔っぱらって|鑿《のみ》で人をひとり片輪にして町奉行所のお|白《しら》|州《す》にひっぱり出されたとき、大岡さまが大目に見て下すったからさ。だからそんなことをいうんだけれど、まさかお奉行さまが人形を註文なさるわけもないから、つまりもう仕事はしないってことさね」
「そう。……わかりました。残念だけれど、それじゃあかえります」
 と、娘はがっかりした様子でかえっていった。
 その翌日である。この長屋に驚天動地の|椿《ちん》|事《じ》が|出来《しゅったい》した。
 路地の外に豪華な|鋲打黒漆《びょううちくろうるし》の駕籠がとまったのである。それに|紺《こん》|看《かん》|板《ばん》|梵《ぼん》|天《てん》|帯《おび》の|中間《ちゅうげん》が三、四人ついているばかりか、黒い紋付の|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》に、刀とならべて朱房の十手をさした八丁堀の同心が従って、小|銀《いち》|杏《よう》にゆったあたまをさげると、乗物の中から、ひとりの姫君があらわれた。
 あっとばかり眼をむいて、猫まで長屋の中へにげこんだ路地のあいだを、その姫君は、同心をさきに、中間をしたがえて、しずしずと奥へあゆんでいく。
 そして、秀麗な同心は、人形師蝋兵衛の|陋《ろう》|屋《おく》の戸をたたいた。
「たのむ」
 出てきたお紋は、はっと顔色をかえて、両手をつくのも忘れ、ワナワナとふるえ出した。
「いや、恐れるでない。われらが参ったのは、蝋兵衛に人形を作ってくれるよう、依頼に参ったのだ」
 腰がぬけたようにお紋がひざをついたとき、奥で呼ぶ声がした。
「お紋、客か、どんな客でも追っぱらえ」
「お父っさんは、あの始末で――」
 と、おろおろとお紋がわびにかかるのを、
「御依頼に相成るのは、大岡越前守さま御息女|霞《かすみ》さまであらせられる。そのため、姫君おんみずから、当家へおはこび遊ばしたから左様心得ろ」
「なにっ、大岡越前守さま?」
 すッとんきょうな声とともに、奥からひとりの老人がかけ出してきて、そこにベタリと腰をついてしまった。もう髪はまっしろで、かまきりみたいに|痩《や》せた老人だ。
 同心のうしろから、しずかに姫君がすすみ出た。
「越前守娘、霞です」
 お紋の表情といったらなかった。偽眼のように眼をひらき、口をあけて姫君の顔を見たっきり、卒倒せんばかりの様子だ。
 霞はすました顔で、
「両人、左様に恐れ入っては、かえって痛み入る。霞はただの客としてきたのです」
 といって、愛くるしく笑った。蝋兵衛は肩で息をしながら、
「して、御用の趣きは?」
「わたしそッくりの人形を作ってもらいたいのです。蝋兵衛はその名人ときいて参ったのじゃ」
「姫さまそッくりの人形?」
「されば、わたしは近いうち縁づかねばならぬ。それゆえ、かたみにわたしそッくりの人形を父上さまにさしあげてゆきたいのです」
 蝋兵衛は、顔をあげて、じっと姫君を見つめた。しぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくに、徐々に青い|燐《りん》のようなひかりがともってきた。
「あい、ようがす!」
 と、彼は大きくうなずいた。
「あなたさまの人形――たとえ大岡さまの姫さまでなくったって、あなたさまなら作って進ぜます。いや、作らせて下さりませ! おお、ひさしぶりに、これほど美しい娘御をみて、どうやら仕事をしたいという心が、むらむらとわいてきた!」
 そして、お紋をふりかえった。
「やい、お紋、酒を片づけろ、そして、汚ねえが、姫さまを仕事場にお通ししろ。お顔の型をとらなきゃならねえ!」
 その声には、いままでの酔ったしどろなもつれはあとかたもないばかりか、生き生きとした壮者のひびきすらあった。

     二

 中間たちを外に待たせ、姫君は同心をつれて、人形師蝋兵衛の仕事場に入った。
 仕事場――といっても、二部屋しかない家の六畳を板敷にして、本人が汚ないといったとおり、破れたあぶら障子からこぼれる西日に、浮かびあがった|床《ゆか》は、|惨《さん》|澹《たん》たるものであった。
 かたくなった粘土のかたまり、何やらの形が半分ばかり出来た木彫、絵具皿、筆、|鑿《のみ》、小刀、|砥《と》|石《いし》、紙きれ、布のきれはしから髪の毛までちらばって、それにいたるところ|蝋《ろう》|涙《るい》がおち、ながいあいだ仕事を休んでいた証拠はいかにも歴然として、おそろしい|埃《ほこり》がたまっている。
 しかし、姫君と同心は、壁ぎわをみて息をのんだ。そこに等身大の人形が三つ四つならんでいた。町娘と坊主と老人だが、その皮膚の色、|皺《しわ》から|眉《まゆ》|毛《げ》まで、もしそれが埃をかぶっていなかったら、まったく生きている人間としか思えなかった。人形ばかりではない、壁に七つばかりの|面《めん》がかかっていた。その面もまたまるで人間の顔をはぎとってきたようにみえる。しかし、そのなかに一つ、お紋の顔があったが、そのお紋がそこに|茫《ぼう》|然《ぜん》と立っているのをみればわかるように、みんな細工物なのである。
 それは、かえって生きている人間よりも恐ろしい|観《み》|物《もの》であった。いや、おそらくもっとぶきみな|死《し》|人《びと》は数々見てきたであろう同心が、さすがに顔色を|蒼《あお》くしたくらいだから、死人よりも気味がわるかったといえる。
「おう、神わざじゃ。……」
 と、霞は口の中で、恐怖と感嘆の声をもらした。
「蝋兵衛工夫の蝋細工でござります。……」
 と、老人は誇りにみちた表情で、うす笑いをうかべた。
 蝋細工――現代でも、医科大学や博物館や飾窓の標本や模型で、それがあまりにも真に迫っているためにわれわれをはっとさせるあの蝋細工の、蝋兵衛は江戸のかくれたる創始者であり、研究者であり、達人だったのである。元来彼の本名は|呂《ろ》|兵《べ》|衛《え》というのだが、しばしば死人のデスマスクをとったので、人々はいつしか死顔の蝋兵衛と呼んだ。もっとも彼は、現代の蝋細工で使う|石《せっ》|膏《こう》のかわりに寒天を使用して型をとった。しかし、大量生産は出来ないかわり、それははるかに精妙な作品を生んだ。
 顔の型をとられたあと、霞はもういちど壁ぎわの人形を見つめていった。
「蝋兵衛、そなたはそれほどの腕をもちながら、なぜ仕事をしないの?」
 蝋兵衛は、じろりとうしろのお紋を見てこたえた。
「左様でござります。蝋面を悪用する奴がござりまして」
「なに、蝋面の悪用? どんな?」
 この姫君のあどけない魅力は、ふっと人の口を素直にとく魔力のようなものをもっている。うっかりこたえて、老人ははっとしたらしい。
「いや、ここまでくるには、いろいろと……それに、ごらんのように年もとりましてな、だんだんと|根《こん》がなくなってきたせいもござります」
「そう。でも、もったいないわね」
 と、姫君はあっさりといった。
「毎日、使いのものをよこして、仕事の様子を見にこさせるから」といって、姫君の一行が立ち去ったのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》のころだった。
 家のまえの地べたにひざをついて見送った蝋兵衛|父《おや》|娘《こ》のうち、お紋の顔色は鉛のように変っていたが、路地の外の乗物があがって、消えると、フラフラと立ちあがった。
 じっと立ってかんがえていたが、老人が家の中へ入ったとき、やっと、
「はてな」
 と、つぶやいた。
「あれは、どうみても、きのうの町娘。……でも、お奉行さまのお姫さまがあんな身なりをしてやってくるわけもなし、といって、まさかいまのがお姫さまのにせものであるはずがない。それに、いくら|大《だい》それた人間でも、八丁堀の同心まで化けさせるなんて……」
 そして、|裾《すそ》をからげて、足早やに往来へかけ出した。
 お奉行さまの姫君をのせた乗物をかこむ一団は、しばらく山下の方へすすんだ。下谷広小路の方へ出るのかと思っていると、途中でふいに左に折れて、細い路地に入った。そして、|幡《ばん》|随《ずい》|院《いん》だの広徳寺だのいうお寺がたくさんならんでいる寂しい土塀のあいだにとまった。
「…………?」
 塀のかげにかくれて、お紋はじっとこれを見ていた。何のこともない。駕籠はすぐにあがって、もとのように同心や中間にかこまれて、向うへきえていった。しかし、そのあとに、|忽《こつ》|然《ぜん》と|宵《よい》|闇《やみ》からわき出したように立っている影がある。
 影はしとしととこちらにあるいてきた。お紋はにげようとしたが、あまりの奇怪さに足がすくんで、うごけなかった。それに数歩の位置まで近づいたとき、相手が女だとわかったので、にげるのをやめた。もともとお紋は、娘のころから父親泣かせの不良少女だったのである。
 |黄《たそ》|昏《がれ》のひかりに、土塀の角ではたと顔をあわせ、
「あっ、おまえは!」
 と、お紋はさけび声をたてた。
 相手は二、三歩身をひいて、お紋をみたが、あまりびっくりした様子もなく、にっこりして、
「まあ、蝋兵衛さんとこの……」
 と、いって、おじぎをした。
「きのうはどうも」
 しゃあしゃあとした顔だ。みればみるほどいまのお姫さまとおなじ顔だが、しかし全然別人のようにも思われる。あたまは文金高島田から|櫛《くし》|巻《ま》きになり、きものも町娘風に変っている。だいいち、おなじ人間で、こんなにケロリとしていられるものではない。――とお紋はひどい混迷をおぼえながら、おし殺したような声で、
「おまえさん、いまここを町奉行の娘の駕籠がいったのを見たろう?」
「へ? あれが町奉行の駕籠?」
「町奉行の娘の駕籠だよ!」
「なんだかしらないが、駕籠がきたので、あたし土塀の根ッこにかがんでかくれてたんですよ。へえ、あれがそうですか」
 お紋は、穴のあくほど娘の顔をにらんで、
「かくれた? なぜさ?」
 娘はからだをくねらせて、
「実はあたし、小伝馬町の|牢《ろう》から出てきたばかりなので、まだ風の音にもおっかなびっくりっていう始末なの」
「なんだって、小伝馬町の牢から?」
 お紋はかんだかい声をはりあげた。事はいよいよ意表に出る。
「それじゃあ、きのううちへきて、お嫁にゆくから身代りの人形をつくってくれといったのは、ありゃあうそだね?」
「あっ、ばれちゃった! すみません、実はそうなんです」
「じゃあ、なんのためだい?」
「ひともうけの口なんですよ」
「うちのお父っさんの人形が、どうして?」
「蝋兵衛さんのことを、|相《あい》|牢《ろう》だった女のひとからきいたの。蝋兵衛さんに、人間そっくりの蝋面か蝋人形をつくってもらってね、飯田町の祖父江主膳という|御《ご》|家《け》|人《にん》のところにもっていって、この人形に色指南をしてやって下さいとたのんだら、向うじゃあきっとその人形の代金の倍はよこすからって――」
「相牢だった女――」
「あのひと、たしか、お路といったわ。……」
 夕闇のためよく見えなかったが、お紋の顔色こそ見ものであった。
 しかも、この恐ろしいことをさも面白そうにしゃべる女の、なんと底ぬけに愛くるしいことだろう。こいつは、どこまで知っていて、わたしにむかってこんなことをしゃべるのか。わたしという女が、祖父江の|妾《めかけ》であることを知らないのか?
「でも、蝋兵衛さんのおことわりをくっちゃって、がッかりしたわ。ね、あなた、蝋兵衛さんのおうちの方でしょ。もういちどおねがいしてみて下さらない?」
 お紋は歯のカチカチと鳴るのを必死でおさえようとしたので、妙にひらべッたい声を出した。
「おまえさん、なんという名前なの?」
「おはずかしいけれど、姫君お竜っていいますのさ」
「姫君お竜――」
 お紋のあたまを、すうっとまたさっきの町奉行の姫君の姿がかすめた。なんだかよくわからないが、全身が冷たくなる感じである。
「女泥棒ですよ」
 お竜はにっとして、
「と、ここまで打ちあけた上は、ね、あたしのおねがいをきいて下さるの、下さらないの。それがだめなら、いそいでほかにかせぎの口をみつけなくちゃあ、今夜のおまんまにもさしつかえる境涯でござんすからね、見込みのない仕事に、いつまでもみれんたらしくかじりつかないのがあたしの気性で、それじゃあ、ここでおさらばと――」
「待って」
 と、お紋はあわてて、お竜の|袖《そで》をひきとめた。
「あたし、その祖父江って御家人を知っている。蝋人形など、うちのお父っさんにたのんだら、いつのことだかわかりゃしない。それより、手ぶらでいいから、あたしといっしょに飯田町へいって、いまの話をすりゃあ、それだけできっとあいつ金をよこすよ」
 こういうせりふが、一種の白状になっていることをお紋は感づかない。いや知っていても、焦燥のためによくかんがえてはいられない。この女をにがしてはたいへんだ、首に|縄《なわ》をつけてもひっぱってゆかなければならないという意識のために、お紋は必死だった。
「おまえさん、すぐにこれから飯田町へゆかないか?」
 女風来坊は、あやしむそぶりもみせず、にこにこしていった。
「へ、あなたもいっしょにいってくれるんですか? そしてすぐお|銭《あし》になるの? ありがたいわねえ」

     三

 まだ春というのに、祖父江の屋敷は夏のように|蓬《ほう》|々《ほう》たる草につつまれて、どこかで|梟《ふくろう》が鳴いていた。
 お紋は、お竜を一室にとおすと、主膳のいる座敷にかけつけた。お紋が案内もこわずに家にあがりこんでいったのをどうかんがえたか、お竜はのんきな顔で待っている。(こいつ、すこし脳のよわい女だな)と、お紋は、彼女をまんまとつれこんだ|安《あん》|堵《ど》|感《かん》から、そう思った。それにしても一大事である。
「おまえさん、たいへんだよ」
「お紋、かえってきたか」
 主膳はひとり手酌で酒をのんでいた。|月《さか》|代《やき》はのび、|無精髯《ぶしょうひげ》ははえ、みるからに陰惨な、まるで蛇寺庵の|伊《い》|右衛《え》|門《もん》みたいな姿である。
「おまえさん、へんな女をひとりつれてきた」
「へんな女?」
「おまえさんのおかみさんと小伝馬町で相牢だった奴を」
「な、なんだと?」
 主膳は、|盃《さかずき》をとりおとし、がばと|片《かた》|膝《ひざ》をたてた。
 お紋は声をひそませて、きのうその女が実家の蝋兵衛をたずねてきたこと、きょう大岡越前守の娘がきて、おなじような依頼をしたこと、それを追っていったら、幡随院裏でまたその女が|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれたこと、そしておんな牢でお路から異様なそそのかしをうけてきたというのを、とりあえずだましてここにつれてきたことを物語った。
「お路が左様なことを知っているはずはない!……しかし、あいつまだ打首にもならんで、牢に生きておったのか!」
 と、主膳はうめいた。のびた月代も逆立たんばかりの|形相《ぎょうそう》だ。
「それじゃあ、お竜という女は、なぜそんなことをいい出したのかしら?」
「さてそれは……ううむ、あやしい女じゃな。そいつは、みんな知っておるぞ。おまえが、おれの妾だということも知ってのことにちげえねえ」
「やっぱり、そうか。けれど、いったい何者かしら?」
「おそらく、町奉行の娘と名乗ってきた奴と同一人じゃ。駕籠のなかで髪をとき、櫛巻きにし、きものをかえて幡随院裏でおりたのだ」
「では、やっぱり越前守の娘なの?」
「うむ、大岡に年ごろの娘がひとりいるということはどこかできいたことがあるが……まさか?」
「すると、にせもの?」
「わからぬ。大岡ほどの人物が、まさか娘をつかって妙な探索にかかろうとは思われねえが、しかしにせものとすれば、町奉行の娘をかたるほどの奴、同心もにせものとすれば仲間もあるはず、容易ならんしたたかものだ。よし、すぐに|逢《あ》ってみよう」
「それがどうみても、それほどしたたかな女にはみえない――どこか、ぼうっとした娘にみえるんだけど、そこがくわせもののところなのかしら? おまえさん、しッかりして、一杯くわされないようにおし」
「|面《つら》にだまされるおれか! よしやそいつが大岡の娘であろうがあるまいが、ここに|胆《きも》ふとくのりこんできやがったのが運のつきじゃ。何をたくらんでおろうと、ぶじにはかえさねえ。お紋、庭に穴をひとつ掘っておけ。……どうせちけえうち、大名屋敷にひっ越す身だ。|仔《し》|細《さい》はねえ」
 祖父江主膳はふしぎな――しかし恐ろしい言葉を歯のあいだから吐いて、はげちょろけの大刀をひッつかんで、ぬっと立ちあがった。庭に穴を掘っておけとは、もとより人間の屍骸を一つうずめる用意をしておけということだ。


    生ける埋葬

     一

 荒れはてた座敷に、お竜はひとりひっそりと待っていた。
 そばに、破れた|行《あん》|灯《どん》が、はだかのあぶら火を、めらめらとゆらめかしている。
 祖父江主膳が入ってきた。大刀を片手に、|凄《すさ》まじい眼色だったのが、坐っている娘の顔をみて、思わず二、三度まばたきをした。
 お紋からきいてはいたが、あんまり相手があどけない顔をした娘なので、拍子ぬけを禁じ得なかったのだ。
「お竜とはおまえか」
 と、主膳は呼んで、坐った。
「当家のあるじ、祖父江主膳じゃ」
「ああ、お路さんの|旦《だん》|那《な》さま。……」
 主膳はけむったそうな表情をしたが、
「お紋からきいたが、小伝馬町のお路が、そなたにいろいろと世話になったそうじゃな」
「べつに、それほど世話はしないけど――」
「ああいや、いまおまえは、わしをお路の旦那と呼んだようだが、あいつは入牢前、当家よりひまをつかわしたとは申せ、もとはわしの女房じゃ。礼をいう」
 |陰《いん》にこもり、もってまわった礼のいいかたに、
「じゃあ、いまの御新造さまは、お紋さん?」
 と、お竜はケロリといった。主膳はへどもどして上眼づかいに見やったが、この相手が、どういうつもりで言ったのか、見当もつかない。そうだ、いったいこの女は、何をお路からきいてきたのか。何を、どこまで知っているのか?
「たわけ、あれは妾じゃ」
 うっかり、言った。
 言って、はっとしたが、お竜は意外とした様子もなく、のみこみ顔にうなずいて、
「道理で、ここへへいきで上りこんだわけだ」
「お紋のことはよい。ところでおまえ、お路から妙な伝言をきいて参ったそうじゃな」
「ああ、死顔の蝋兵衛さんという人形師から、あたしに似せた人形をつくってもらってここへもってきたら、きっとお金はくれるからって……でも、あっさり断わられちゃったよ。娘のお紋さんに、門前ばらいさ。そしたらお紋さんがね、そんなものをつくらなくたって、そう旦那に話しさえすればお金はまちがいなくくれるっていったけど、ほんとうかしら?」
 周囲を見まわして、
「そんなお金があるかしら? 御家人は貧乏だってきいてたけど、なるほど相当なもんだわねえ」
 主膳は苦笑した。じぶんでお紋をたしなめたくせに、だんだんこの娘に対する警戒心をといてきていた。これが大岡越前の娘かもしれないなどいうばかげた疑いは、まったく脳中からぬぐい去られている。
「無礼なことを申すな。こうみえて、金はあるぞ。話によっては、やらんでもないが」
「あら、そう、話によってはね」
「おまえ、お路はいかなる罪人か知っておるのか」
「なんだっけ、間男を殺しちまったんだって……旦那もボンヤリしてたもんねえ、そういえば、女房に間男されるような顔だよ」
 主膳はまた苦笑した。はじめて逢った娘なのに、腹のたたないのがふしぎである。
「ああ、そうだった! その間男は|中間《ちゅうげん》で、たいした色指南の達人だったってねえ。……」
「中間も中間じゃが、お路も武家の女房にあるまじきたわけものじゃ。祖父江の家名に末代までの恥辱をあたえおった!」
 お竜はぷっと吹き出した。
「旦那もずいぶんコケンをおとしたわけねえ」
「されば、この|面《つら》に終世ぬぐうべからざる泥をぬられたも同然じゃ」
「泥――|蝋《ろう》じゃない?」
 主膳は、ふっとお竜の顔をみた。
「なに、何と申した?」
「そうじゃない? 泥をぬられて、おきのどくさま。けれど、ぬけぬけと色指南などと|刺《いれ》|青《ずみ》した男には、とてもかないっこないわね、まして女の方は――お武家の御新造さまだもの、あたしみたいなあばずれとちがって、赤ん坊の手をねじるようなものだったにちがいないわ。かんべんしてあげておくんなさいよ。ねえ、旦那、……」
 いまのはききちがいかと、主膳はほっとして、
「お竜、おまえは、そんなことをお路の口からきいてきたのか」
「え、ちょっとだけどね、でも、お路さん、その中間のことを話すとき、ウットリした眼つきだったよ。……」
「ぷっ、左様にたわけた女じゃ。何を申そうと、とりあげるに足らぬ女であることは、それでわかる。……お竜、かえれ、といいたいところじゃが、せっかくお紋がつれてきたのじゃ。今夜はここにとめてやる。そこでじゃ……」
 主膳の声は、猫なで声だ。お竜の声もふくみ笑いをまじえた甘美な声だし、夜ふけのしじまを縫うささやきは、まるで|喋々喃々《ちょうちょうなんなん》たる恋の語らいともきこえる。――そうなのだ。|灯《ほ》かげにおぼろに浮かぶ娘の顔がこの世のものならぬほど美しいことを発見したとたん、主膳の心に妙な雲がむらむらとかかってきた。相手がふうてん[#「ふうてん」に傍点]だ、なんとなく、そんな気がしてきたせいもある。――
「先刻から、おまえ、わしをしきりに気の毒がっておるが、そうばかにしたものでもないぞ。ふむ、十平次の色指南か。十平次めがお路にどのようなことをしたか、それもお路はしゃべったのか。……」
 ひざをすすめ、お竜の手をとらんばかりに、
「蝋兵衛の人形などどうでもよいわ。わしはほんもののおまえの方がずんと気に入ったぞ。……」
 そのとき、|襖《ふすま》の外で、ちえっと舌うちの声がきこえて、だれか立ち去った気配がしたが、主膳は気がついたのか、意にも介しないのか、
「これ、娘、わしの指南が十平次より下手か上手か、見せてやろう……」
「旦那、蝋面をつけなきゃ、きぶんが出ないよ。……」
「なに、蝋面?」
「そらっとぼけちゃいやだよ、主膳さん。お路さんが、蝋兵衛さんの細工物をここへもってゆけといった意味がわかったよ。あの蝋兵衛の仕事場を見りゃ、だれだっておッたまげらあ。見ない人間にゃ思いもよらない、あたしだってまさかと思ってたが、あの蝋兵衛の蝋面は、生きている人間そっくり。……」
「わしが、蝋面をどうしたというのか?」
「はじめに十平次におまえさんの顔の蝋面をつけさせて、お路さんと密通させようとし、それにしくじったら、こんどはおまえさんが十平次の顔の蝋面をつけて、お路さんをびっくりさせたろう。十平次はお路さんが殺すまえに、おまえさんが殺してたのさ。そして|闇《やみ》の中のドタバタで、おまえさんは十平次の屍骸をお路さんに刺させて、じぶんは逃げてしまったのだろう」
 主膳は白くつりあがった眼で、お竜をにらんでいた。ふうてん[#「ふうてん」に傍点]どころではない、ということがやっと思い知らされたのだ。
 が、片頬をゆがめて、彼はニヤリとした。
「おい、それだけ知っていて、うぬァどうしてここへ入ってきたのだ。そんなせりふでゆすりをやって、恐れ入るおれと思ったか」
「おまえさんがどんな人間か、今夜逢うまで知るはずがないじゃあないか。もっとわからないことがたんとあったのさ」
「な、なんだ」
「どうしてそれほどまでにして、じぶんの女房を罪人にしたかったのか。――」
 そのとき、襖の外で声がした。
「おまえさん、何やらずいぶん話がはずんでるようだが、穴はゆっくりでいいのかい?」
 |嫉《しっ》|妬《と》にジリジリしているお紋の声だ。主膳ははっとして、
「穴か。――いそぐぞ!」
 片膝たてると、|鞘《さや》|鳴《な》り|一《いっ》|閃《せん》、びゅーっと横なぐりに光流がはしった。手応えはない。お竜の姿はさっとうしろへ飛んで、すっくと立っている。
「へただなあ! これじゃあほんとに出世の見込みはない」
「くそっ」
 主膳は逆上した。おどりかかる|剣《けん》|尖《せん》から、|飛《ひ》|燕《えん》のように身をひるがえすお竜の手に、きらっと|匕《あい》|首《くち》がひかるのをみると、祖父江主膳の眼はくらんで、
「この野郎!」
 侍らしくもない叫びとともに、かっと|斬《き》りこんだ――のは、行灯。
 しかし、そのため座敷は闇と化して縁先の月光がぱっと浮かびあがった。逃げるつもりか、それともはじめて入った屋敷で闇は勝手がわるいと考えたのか、お竜はつつと月明りのなかへ泳ぎ出る。――とたん、
「あっ」
 彼女のからだが崩折れて、どうと庭へころげおちた。あばら家の縁の板が腐っていたのを踏み破ったのだ!
「ざまをみろ!」
 のしかかって斬りおろす大刀の下で、青い火花がちる。受けは受けたが、匕首がとんだ。つづく第二撃の|刃《やいば》の下で、お竜の声がつっぱしった。
「主水介、来るんじゃないよ。――」

     二

 祖父江主膳は刃をとめた。凶刃を宙にとらえる力が、いまのお竜の奇怪な叫びにあったのだ。
「何と申した?」
「何としよう、斬るんじゃないよ――といったのさ」
 お竜ははね起きたが、わるびれずあぐらをかいて大地に坐る。笑っている。主膳はぐるっと周囲を見まわしたが、月明のなかにうごくものの気配もない。それにもかかわらず、主膳はこの娘の不敵さに、きみがわるくなった。
 刀身をお竜の胸に擬したまま、何を思ったか、
「お紋、帯かしごきでこいつを縛れ」
「お|陀《だ》|仏《ぶつ》にして、穴にほうりこむのじゃないのか」
 と、縁側まではしり出て、立ちすくんでいたお紋が、ふるえながら、むごいことを言う。
「うむ、そのまえに、ちょいとこいつを調べてえことがある。お紋、穴は掘ったのか」
「掘りかけたが、よしたよ。いやだよ、このひとは――ほんもののおまえの方がずんと気にいったゾとか何とか、手なんかにぎってさ――気にさわるったらありゃしない」
「あはははは、きいておったか。怒るな怒るな、あれもこいつの素性をたしかめる手だ」
「へん、どうだか、――ほら、そんな眼をしてさ、助平!」
 あぐらをくんだお竜の白いはぎに眼を吸いつかせていた主膳は、あわてて、
「ばかめ、はやく縛らねえか」
 縛って、座敷にひきずりあげて、柱にくくりつけてから、
「おまえさん、何をしらべるのさ。弓の折れでももってこようか」
「待て。――これお竜、こいつがこんなことをいっている。いたい目にあいたくなかったら、素直にこたえろ」
「何を?」
「てめえ、ほんとに牢から出てきたのか」
「そうよ、それでなくって、どうしてお路さんから話がきけるものか」
「ふむ、そりゃそうだ。いってえ、おれをさぐって、どうしようってんだ。お路が、おれのところへ蝋兵衛の細工物をもってゆけば金になるというはずはねえ。お路は蝋兵衛のことァ知らねえはずだし、おれに金のねえことも知ってるはずだ。何をたくらんでやがるんだ?」
「そういわれるとね、主膳さん、金がめあてじゃないよ。実はお路さんの無実の|証《あかし》をたてるためさ。相牢だった女のよしみだよ――」
「くそくらえ、そんな酔狂な奴がこの世にいるものか。おい、神妙にぬかせ、これァおめえひとりの|智《ち》|慧《え》じゃあねえな。仲間がいるな。――」
 そこまでいって、主膳はふっと、この女が奉行の姫君として蝋兵衛の家へのりこんでいったとき、その駕籠の前後をまもっていたという同心、若党たちのことを思い出して、ぞうっとした。まさか、まさか、まさか――この大あぐらをかいた女が、謹厳を|以《もっ》て鳴る大岡越前守の娘とは、想像も絶しているが、しかし、それならあの同心たちは何者だ?
「やい、てめえ、大岡越前の娘に化けたそうだな」
「大岡越前の娘? へ、あたしが?」
「しらばっくれるな、さっきてめえは、あの蝋兵衛の仕事場を見るまではまさかと思っていたが蝋面を見ておッたまげたといったろう。てめえはお紋に門前払いをくったはずだ。仕事場に入ったのは、越前の娘。――」
「あ!」
 お竜は、やられた、といった顔で口をあけた。
「ふてえあま[#「あま」に傍点]だぞ、うぬは――恐れながらと訴えて来たら、どっちが大罪かわからねえ」
「主膳さん」
 と、お竜はニンマリとして、
「あたしが、ほんとに越前の娘だったらどうするの?」
「な、なんだと?」
 祖父江主膳はどきんとした風で、じっとお竜をにらみつけた。笑おうとしたが、頬が硬直して笑えない。大岡越前守が恐るべき人物であることは、安御家人の彼も|噂《うわさ》にきいているからだ。お紋の顔色も変っている。ふるえる腕で主膳にしがみついて、
「お、おまえさん。……」
「うそだ、そんなことは!」
「も、もし、ほんとだったら?」
 主膳はうめいた。
「それなら、いっそう生かしてはかえせねえ」
 しかし彼は、急に深刻な表情になってかんがえこんだ。そこに坐りこんで、腕をくみ、ときどきお竜を不安そうな上眼づかいににらみ、ときどき「うぬ」とうなり、はてはお紋が何を話しかけても返事もしないほど|懊《おう》|悩《のう》のていである。
 月がかたむいて、柱にくくりつけられたお竜を照らし出した。彼女はスヤスヤとねむっていた!
「お紋、てめえ、こいつを見張ってろ。おれはちょっと出てくる」
 と、主膳が立ちあがったのは、あくる朝のことであった。
「どこへ?」
「こいつが町奉行の娘かどうか、さぐってくる。何にしても、こいつの仲間がほかにいることァまちげえねえのだ。そいつらの正体をあきらかにしねえうちは、|枕《まくら》をたかくしてねられねえ。それまでの、|大《でえ》|事《じ》な人質よ。事としでえによっては、むこうからさわぎ出すまで飼っておかなきゃならねえかもしれねえ。……どっちにしても、どうせ生かしてはおけねえあま[#「あま」に傍点]だ。おれの留守中妙な奴が入ってきたら、かまわねえから刺し殺せ」
「そ、それは承知したが、お、おまえさん……へんな奴がきたら、こいつを殺して、あ、あと、あたしはどうなるんだよ?」
「なあに、おめえなんかどうなったって……ええい、そうやっておどしてやるのさ、そのうちおれがかえってきて始末をつけらあ」

     三

 朝早く出かけた祖父江主膳がかえってきたのは、もう|黄《たそ》|昏《がれ》の時刻であった。腕ぐみをしたまま入ってきたが、おぼえのある柱のそばに、お竜もお紋も姿がないことに気がついて|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「お紋! お紋!」
 かんだかく呼びたてると、ふいに縁先で笑い声がした。ひくいが、どこか狂ったような声だ。が、お紋の声にまちがいはない。
「旦那、おかえんなさい」
「どうした、お紋。――」
 お紋は、縁側にうずくまって、庭の方をみていた。庭のまんなかあたりに、|桶《おけ》が一つ伏せてある。お竜の姿はどこにも見えない。
「これ、お竜はどうしたのだ?」
 お紋は立ちあがって、|下《げ》|駄《た》をつっかけて、その桶のところへあるいていって、桶をとりあげた。そこに、女の首がひとつあった。
「やつ?」
 お竜の首だ。さるぐつわをはめられている。
「だれかくると、こわいからさ」
 といいながら、お紋はそのさるぐつわをとった。すぐに首は生きていることがわかった。お竜は大地に全身をうずめられて、首だけ地上に|曝《さら》されているのだ。
「どうせ墓穴にほうりこむんだろう? ねえ、旦那。……」
 いかに留守をまもる恐怖のあまりとはいえ、惨酷なことをやるものだ、とさすがの祖父江主膳もお紋のしごとに|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。しかし、これなら、どんな捜索者が|闖入《ちんにゅう》してきて家さがししても、お竜の姿は発見できまい。
「なるほど、かんがえたものじゃな。……」
 ――すると、あきれたことに、美しい首も、片眼をつむって、ニッと笑ったものである。
「主膳さん、首だけで|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》、ごめんなさい」
「むう。……てめえ、この屋敷へ入ってきたのが身の因果だと思え」
「それで、あたしは大岡越前の娘なの? 探索の結果はどうでござんした?」
 主膳は、下唇をつき出した。
「てめえ、にせものだ!」
「へへえ、やっぱり、ね?」
「しらべてみたが、南町奉行所も赤坂にある大岡の上屋敷も、静かなること林のごとし――奉行の娘が行方不明というのに、あんなにしずまりかえってるはずはねえ」
「ちくしょう」
 と、にくにくしげにつぶやいたのはお紋だ。そういわれればそうにちがいないが、きのう御切手町の家でこの娘をお奉行さまの姫君としてむかえたときのじぶんの|恐懼《きょうく》ぶりを思い出すと、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふまずにはいられない。
「よくもひとを――旦那。そのままスッパリやりなよ」
「まあ待て」
 と、主膳はお竜を見つめたままいった。どこか顔に迷いの影がある。
 いま言ったことはほんとうだ。しかし、だからといって、これが絶対に奉行の娘ではないと断定できないのだ。音にきく越前守が覚悟をきめて娘をつかったとしたら?――そう主膳には疑心暗鬼をいだく理由があった。それはお路の事件だけではない。もっと巨大な或る犯罪の影[#「もっと巨大な或る犯罪の影」に傍点]を彼が背に負っているからであった。それに、たとえこの娘が女賊であるにまちがいはないとしても、仲間がいることは依然として否定できないのだ。
 主膳の顔を、怒りと恐怖と、それから血の匂いのする陰惨な波がゆらめきわたった。
「おまえさん、何をかんがえてるのさ?」
「お紋」
 ふいに彼は、お紋の肩に手をまわして、その口を吸った。
「あれ」
 と、お紋は主膳のだしぬけの行動にめんくらって、身をくねらせて、
「急に何さ。あいつが見てるじゃあないか」
「お紋、ここへ夜具をもってこい。……あいつに色指南をしてやろう」
「なんだって?」
「あいつは、おれがなぜあんな苦労をしてお路をおんな牢に追っぱらったかがわからねえといいやがった。みんなおめえのためだということを見せてやろうよ。この世の見納めに、男と女の極楽図をみせて、そのあげくにぶった斬ってやれば|成仏《じょうぶつ》うたがいなしじゃ。……あんなきれいな面をしゃがってよ、いまにその眼がうつつになり、口からよだれをたらして見とれるにちげえねえぜ、なあ、お紋。――」
 祖父江主膳は、実に妙な趣向をかんがえ出した。急に酔ったように舌ももつれ、お紋の両肩に手をかけて、その顔に顔をすりつけるようにして言うその眼には、狂的な、凶暴な肉欲がもえている。
「ああ、おまえさん。……」
 お紋も、ふいに奇怪な欲情にとらえられた。もともとふつうの女ではないところに、主膳の眼の|妖《あや》しい炎は、この官能のかたまりみたいな女を、完全に異常な愛欲の心理につつみこんでしまった。
「おい、お竜……そこは地獄だが、ここは極楽、いいかえ? この世の見納めに、とっくり見物しなよ。……」

 日はまたくれて、|甍《いらか》に春のおぼろ月がかかった。
 屋根のうえの暗い半面に声があった。
「旦那……|巨《こ》|摩《ま》の旦那。……」
「しっ、ここだ、銀次、あれは出来ておったか」
「出来てはおりやしたが、蝋兵衛は殺されやした。……」
「なにっ、な、何者に?」
「わかりません。あっしがいったら、蝋兵衛は仕事場で|袈《け》|裟《さ》がけに――もっとも、あっしの戸をたたく物音に、下手人はあわててにげていったらしく、とどめを刺すひまがなかったとみえて、蝋兵衛の息はございましたが……」
「ううむ、で、下手人の名は何といった?」
「それが申しませぬ、ただ、仕事場の隅に出来ている蝋面を指さしただけで、こときれました。……」
 しばらく沈黙があって、やがて|憮《ぶ》|然《ぜん》たる|呟《つぶや》きがきこえた。
「きゃつ、とうとうあたまに来たな。いや、その殺し[#「殺し」に傍点]のことじゃあねえ、殺し[#「殺し」に傍点]をやってかえってきたその足で、死人の娘とトチ狂うなんざ、どうみたって正気の人間じゃあねえ。あまつさえ、それを見せつけようとする奴も奴なら。……」
 吐き出すように、
「首だけになって、見るつもりになった、ひ、ひ、姫君――お竜もお竜だ。あれァいってえ、どういう気かな?」


    生首変化

     一

 月は、縁側ちかく|蒼《あお》|白《じろ》い炎のようなひかりをなげている。
 そこにわざわざ運んできた|閨《ねや》の|枕《ちん》|頭《とう》に酒をおいて、かわるがわるのみながら、祖父江主膳と妾のお紋は、見物つきの秘戯図をくりひろげた。
「旦那……あとで、あいつを斬るんだろうね、きっと、斬るんだろうね。……」
「斬る。斬る。……きっと、斬る。……」
 うわごとのようにくりかえしながら、ふたりは戯れつづける。何とも恐るべき伴奏だ。
 露出欲というのは、人間だれにもある異常心理だが、その見せる相手が美しい女で、しかもそのあとで殺してしまうとなると、むしろ|嗜虐《しぎゃく》の快感に|煽《あお》られ、こうまで恥しらずになれるものか。酒ばかりではなく、ふたりはすでに血の匂いに酔っぱらっているようだ。
「お竜、見ろ、これ、眼をあけて見ろ。……」
 主膳は、地上に首だけ出して、眼をとじているお竜を見て、狂的に笑った。
 そもそも、こういうことを思いついただけで、彼のあたまは狂っていたといってよい。昨夜ほとんど眠られず、きょう一日、外をかけずりまわり、あまつさえ……蝋面の秘密を封じるために、実はこのお紋の父親、蝋兵衛を手にかけてきた。その恐怖と疲労に、ともすればガックリゆきそうな頭に、一本冷たい|錐《きり》のように刺さっているのが、このお竜という女だ。
 斬る。斬らねばならぬ!
 それはわかっているが、彼女がいったい何者か、なんのためにこの屋敷に入って探索しようとしたのか、背後に何者がいるのか、それをつきとめるまでは、殺すに殺せない人質なのだ。
 もはや|髷《まげ》もくずして、まるはだか同然の姿でのけぞりかえって身もだえているお紋に馬乗りになったまま、
「お竜、うぬの素性さえうちあければ、その地獄から掘り起こしてやる。言え!」
 と、うめいたが、その実彼こそ焦熱地獄にさいなまれる亡者であった。これは破滅を意識した狂乱のあがきだ。
「どうだ、お紋のこの姿は――お竜、おれが女房をこの浮世から消したわけがわかったろう」
「わからない」
 と、お竜は眼をつむったままいった。
「それほどおまえがお紋さんに|惚《ほ》れているなら、お紋さんをそんな目にあわせはしない。……」
「な、なに?」
「それに、そんな恥しらずの男なら、お路さんがきらいになったら、あんな手数をかけずにたたき出すだろう。なんのために、お路さんを人殺しの罪人にまでおとしたのか――」
「…………」
 主膳は酒をあおって、のどを鳴らした。
「首だけになって、風に吹かれて考えてたせいか、だんだんわかってきたよ」
「何がだ?」
「おまえさん、はじめからそのつもりで、色指南の十平次を屋敷につれこんだね」
「なんのつもりだ?」
「おそらく、御新造さまを十平次の|牙《きば》にかけさせて、ふたりを重ねておいて四つにしようという――が、さすがの十平次も二の足をふんだ。そこでおまえの方からお紋さんに手を出して、十平次にも手の出し易いようにしてやった。――」
「たわけ」
「たわけはそっちだよ。ところが、御新造さまが、おちない。そうもあろうかと見越していたおまえは、お紋さんの父親が蝋面作りの名人であることを知って、まえからじぶんの蝋面や十平次の蝋面をつくらせていた。そして、十平次を殺し、じぶんが十平次に化けて、あとは御存じのとおりのはこびさ」
 主膳の手から|盃《さかずき》がおちた。
「なぜ、そうまでしてお路さんを罪人にしたがるのかとそればかり考えていたからわからなかったのさ。おまえの望みは、十平次を殺すことだったんだ。けれど、いくら|中間《ちゅうげん》でも、人を殺してはじぶんが罪人になる。お路さんは、可哀そうなその身代りだね」
「うぬ」
 主膳は、はねおきて、よろめいた。お竜は眼をあけていた。
「あたったらしい。けれど、こんどは、どうしておまえさんが十平次を殺したがったのかわからない。――」
 主膳は大刀をつかんだが、ガクリと伏した。脳貧血を起したのだ。
「わたしが殺す」
 そうさけぶお紋の声を遠くききつつ、彼は気を失った。
 お紋はとび起きた。彼女はいまのお竜の声をきいていた。彼女は惑乱した。主膳がそういうつもりでじぶんを手なずけたものとは知らなかった。彼女は牛を馬にのりかえたつもりだったのだ。中間よりはまだ御家人の方がいい。まして主膳は、ちかいうち、ひどく出世するようなことをいう。――ふたりがいっしょになるために、お路と十平次をこの世から追いはらおう、そういう主膳のそそのかしに乗ったのだ。とはいえ、お紋はお竜のおしゃべりを信じたわけではなかった。いずれにせよ彼女はひどくしゃく[#「しゃく」に傍点]にさわった。
「こいつ――首だけになってるくせに、よくまあ勝手なことをしゃべりゃがる。旦那より、もうあたしがかんべんしない」
 お紋は、わずかに|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》が肌にまといついたような姿で、主膳のつかんでいた大刀から、スラリと抜身だけぬきとって、縁側から地上におりた。青い月光に、刀身と眼を|燐《りん》のようにひからせて、大地にうずめられたお竜のそばにあゆみ寄る。

 祖父江主膳は、うっすらとわれにかえった。
 疲労と酒と|苦《く》|悶《もん》に、脳が|糊《のり》みたいになっていたところへ、お竜から|鉄《てっ》|槌《つい》のような推理の一撃をうけて、思わず喪神したのだが、かすかに意識をとりもどすや否や、ぶるっと大きく身ぶるいして、「不覚!」とうめくと、そばの大刀を手さぐりにつかんだ。
「おまえさん」
 耳もとでささやく女の声がした。
「おお、お紋か」
「御切手町のお父っさんを殺したんだってねえ」
「なに、ど、どうして、それを――」
「ひどいことをしゃがる。もとの|間《ま》|夫《ぷ》を殺され、お父っさんを殺され、あたしをどうするつもりだえ?」
「お紋、ゆるせ、い、いまにおまえを大名の御前さまにしてやるから――」
 突然、お紋がふき出した。その笑い声にはっとして主膳がふりかえり、おぼろに浮かぶお紋の異様な無表情をみると、判断を絶した顔つきになった。
 が、そのとたん、お紋がつつとうしろにさがり、|袖《そで》を口にあてて、
「おまえさん、殿さまになるのかえ? そのわけは、南町奉行所のお|白《しら》|州《す》できこう。どうやら手がまわったようだ」
「なんだと?」
 |愕《がく》|然《ぜん》として立ちすくむ主膳の眼前に、お紋と入れかわって、宗十郎頭巾の影があらわれた。その手にかがやく十手を見るや否や、
「お紋、裏切ったなっ」
 思わず、そう叫んだ。いまお紋の声と表情に抱いた疑惑も、この大破局に忘れはてて、
「ううむ、木ッ葉役人がきたところをみると、さてはお竜とは、やっぱり大岡の――」
 といいかけて、いきなり縁側から横ッとびに大地へとんだ。月光に、依然首だけのお竜は眼をとじている。
「こうなったら、やぶれかぶれだ。見やがれ!」
 ――あっ、待って! と座敷で女の声が追いすがったが、ときすでにおそし、兇刃|一《いっ》|閃《せん》して地上からどぼっと|烏《い》|賊《か》の墨みたいな黒い霧が立つと、お竜の首は横にころがった。
「あはははは、あはははははは!」
 祖父江主膳の狂笑がふとやんだ。
 ころがったお竜の首から蝋面がおちて、お紋の顔があらわれた。お竜の蝋面――それは、死顔の蝋兵衛最後の傑作であった。
 主膳はのけぞった。驚愕のせいばかりでなく、うしろからおどってきた|捕《とり》|縄《なわ》のためだ。
 縄をつかんだ八丁堀の同心巨摩主水介のうしろから、お紋が出てきて、蝋面をとると、お竜のかなしげな顔があらわれた。
「いきなり斬るとは思わなかった。……」
 お竜は、もうひとつ蝋面をつけているのではないかと思われるような顔色でつぶやいたが、やがて主水介に視線をうつして、
「でも、これで小伝馬町の方は、ふたりめの女の命を、どうやら救えたようだわね。……」
 巨摩主水介は、にがい顔をしている。

     二

 小伝馬町の牢屋敷では、冬の四か月は毎月三度、そのほかの月は毎月四度囚人に入浴させるというのが規定だが、実際は二十日に一度がいいところであったらしい。
 当時二十人前後のおんな牢はともかく、男の方は、大牢、無宿牢、百姓牢、|揚屋《あがりや》、揚座敷も、総人数三百人から四百人くらいもいるのだからたいへんだ。むろん|風《ふ》|呂《ろ》場らしい風呂場が設けてあるわけではない。東西に二か所、|外《そと》|鞘《ざや》の外に|湯《ゆ》|遣《やり》|場《ば》というものがあり、そこに五人から十人くらい、いちどに入れる|大《おお》|樽《だる》が置いてある。内庭にあつめられた囚人たちは、裸のまま、監視つきで順を待ち、からすの行水みたいにからだをぬらしてゆくにすぎない。それでもともかく|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の中から外へ出たという|昂《こう》|奮《ふん》から、いちど裸の大群が暴動を起しかけたことがあって、それ以来、番がくるまで囚人たちは、湯水の運搬係のほかは、ことごとく縄手錠をはめられることになった。
 それでも一種の戦争状態を呈するが、これが女囚となると、たとえ二十人内外としても、やはり別種の壮観であった。
 老婆、年増、娘、やせたのや、こんなところにいてもムッチリふとったの、白い肌、浅ぐろい肌、それが中庭に群れて、さすがにその姿は男牢の方からみえないはずなのだが、|甘《あま》|臭《ぐさ》い体臭が花粉のように空中に|瀰《び》|漫《まん》して、野獣みたいに鋭敏になっている男囚たちの|嗅覚《きゅうかく》を刺激するらしく、ならんだ牢の格子のあいだから、名状しがたいうなり声がもれる。むろん、あちこちから野卑な奇声がとび、それにまけずに女囚たちが|淫《みだ》らなからかいの叫びをなげかえす。それを|叱《しか》りつけながら、ニヤニヤして見物している牢屋同心や張番たち。――
 とはいえ、若い新入りの女囚などは、むろん|湯《ゆ》|浴《あ》みのよろこびなど味わえる余裕はない。大樽に入っている湯は、遠い|賄所《まかないじょ》から|天《てん》|秤《びん》棒でになってくるのだが、熱いといっては水をはこび、冷たいといっては湯をはこばせられる。本来下男の役なのだが、いつのまにか囚人のつとめとなって、これは女の身で、しかも栄養の足りないからだには、なかなか重労働だ。はだかになれば、いかに牢獄の太陽とはいえ、ひかりは肌にいたく、樽に入れば入ったで、名主以下隠居たちの背から足まで流させられる。
「やいっ、お|関《せき》、これアなんだ」
 |嬌声《きょうせい》のなかだから、湯遣場からはなれたところではきこえなかったが、ひくい声でそうさけんだのは、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお伝だった。手に一本のかんざしをにぎっている。
「あっ、それは!」
 はだかになって、おずおず樽に入りかけていたまだ十七、八の若い娘がふりむいて、あわててお伝の手にすがりついた。
「てめえ、まえから何かかくしてやがるとにらんでいたんだ。こんなものを、お名主さまにないしょでもっていやがって、ふてえあま[#「あま」に傍点]だ」
 と、にくにくしげに笑った。そのとおり、この若い女囚のふだんのものごしから、たしかにそうにらんでいたので、きょうの風呂を機会にやっとそれを見つけ出したのである。金銀はもとより、化粧道具などは、表面上|法《はっ》|度《と》の品であった。
「かんにんして……それは、あたしの大事な品なんです」
「大事な品なら、なぜお名主さまにとどけねえ。ふん、なまいきに、これア銀だね。これで|酒《たんぽ》がいくら買えるか。――」
 牢名主たちにとどければ、そういうことにつかわれるのはわかっているから、いままでかくしていたのだから、
「おねがいです。どうぞかえして――」
「かえさねえ。それどころか、牢法にそむいた奴、きっとあとで|折《せっ》|檻《かん》してやるぜ」
 争うはずみに、お伝のふところから、もうひとつ、ころころとおちて日にひかったものがある。
 それがあまり異様なものだったので、遠くでみていた牢屋同心の眼をひいた。かけつけてくるその姿をみて、お伝があわててそれをひろったが、おそかった。
「なんじゃ、それは?」
「旦那。……」
 お伝は、お伝らしくもなく顔をあかぐろくして、せいいっぱいの笑いをつくった。
「どうぞ、お目こぼしを……」
「これ、いまのものを出せ」
 にらみすえられて、しぶしぶとふところからとり出したものをみて、牢屋同心が眼をまるくした。それは「|京形《きょうがた》」だったからである。京形とは、京で作られる|張《はり》|形《がた》の一種だ。つまり、べっこう製の男根模型で、表面はきわめてうすく、波形のひだが彫ってあって、内部は|空《くう》|洞《どう》になっている。これは湯を入れると、その触温は全然本物とおなじになるといわれ、そのためにお伝がここへ持ってきていたにちがいないが、|藪《やぶ》をつついて蛇を出す、お関という女囚がないしょで持っていたかんざしをとりあげようとしたばかりに、じぶんの方がとんでもないものを見つけ出されてしまった。
「旦那には用のねえもので……二つは要らねえでしょう、ね、旦那、この銀かんざしで、どうぞ御内聞に……」
 ひどい奴もあるもので、ひとからふんだくった品を交換におしつけるのを受けとって、牢屋同心がわざとそっぽをむいたのは、いままでなんどもこういう経験があるからだろう。
 わるいことに、そっぽをむいた反対の側から、声がかかった。
「おや、何をしているの?」
 ふりかえって、牢屋同心もお伝もびっくり仰天した。いつのまにか、そこに姫君お竜と八丁堀の若い同心が立っていた。
 三日ばかり|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ呼び出されていたお竜だが、相かわらず|責《せめ》|苦《く》のあともみえない、けろりとしたきれいな顔だ。しかしその胸には南町奉行所専用の紺染めの縄がかけられ、その縄じりを八丁堀同心が厳然とにぎっている。
「あっ、巨摩どのか」
 と、その巨摩主水介の眼がじぶんの手の銀かんざしにそそがれているのをみると、牢屋同心は大|狼《ろう》|狽《ばい》のていで、
「けしからぬ女どもでござる。かようなものを内密に牢内にもちこんでおったのを、拙者ただいま発見して、きびしく糾明しておるところです」
「へへえ、なんだかその銀かんざしをもらったように見えたけど――」
 と、お竜がいって、お伝の手にぶらさげられている異形の物に眼をやった。
「それ、いったいなあに? 旦那、それはもらわないの?」
「ぷっ、あいや、そのものは拙者、生来すでに所持しておる」
 と、牢屋同心はへどもどして、
「実にふとどきな女どもで、いずこより、いかにしてかような|大《だい》それたものを牢内にもちこんだか、断然、つきとめねば相成らぬ。さっ、穿鑿所に参れっ」
 お竜はにこにこ笑った。
「それを、断然、つきとめたら、そっちがこまりゃしませんかえ?」
「なんと?」
「|金《つる》さえあれば、牢内でどんな買物でもできるってことは、旦那、知らないといったら、かえって牢屋同心の恥ですよ。おそろしく高くつくのが難儀だけれど、それで牢内、いのちがあるっていってもいいんです。まあさ、ここはほこりをたてないで、眼をつぶった方が、おたがいのためでござんしょうよ」
 牢屋同心は顔をまっかにしたが、巨摩主水介の森厳な表情をみると、こんどは|蒼《あお》くなった。
「あっちへゆかれい」
 と、主水介は犬でも追いはらうようにあごをふっていった。あわてて立ち去ろうとする同心に、お竜が声をかけた。
「ちょいと、その銀かんざしをもとの持主にかえしてゆかなくちゃだめですよ」
 ――入浴がすんで、おんな牢にかえってきた女囚たちのうち、お竜にすがりついたのは、お玉お路のふたりだった。そのむこうにひれ伏しているお伝をみて、お竜は笑った。
「お竜さん、おかげでたすかったよ。……でも、おまえさん、たいした度胸だねえ」
 お竜はこたえず、首をよこにふったが、お伝のそばで泣いて銀かんざしを抱いているお関をみると、声をかけた。
「あなた、お関さん?」
「ええ、お竜さん、ありがとう」
「いらっしゃい。そしてあたしとお話ししましょう。まあ、あなたみたいに可愛らしい町の娘さんが、どうしてこんなところに入ってきたの?」

     三

 ――月のない夜空を、ほととぎすがぶきみな声で鳴いて飛んだ。
 そのあと、真っ暗な風が、森をごうと鳴らすばかりの|白《はく》|山《さん》|権《ごん》|現《げん》の深夜だ。いわゆる|丑《うし》|三《みつ》|時《どき》の、|魑《ち》|魅《み》すらねむる境内に、ふと|妖《あや》しい火がうごいた。それさえ恐ろしいのに、もしだれかあってその正体を見とどけたら、いよいよぞうっと全身に水をあびたような思いがしたに相違ない。
 女なのである。それがあたまに三本のもえる|蝋《ろう》|燭《そく》をはちまきでゆわえつけ、口に銀かんざしをくわえ、腰に白い布をまいてあるいている。両手には五寸|釘《くぎ》と|金《かな》|槌《づち》をにぎりしめていた。
 ピタ、ピタ、ピタ……土をふむはだしの音、腰にまいた布は地面すれすれにひるがえりつつ、彼女は神社をめぐる林の中へ入ってゆく。その奥に一本の|大樟《おおくすのき》があった。その幹に一つの|菅《すげ》でつくった人形が打ちつけてあった。
 彼女はそのまえに立つと、口の中でぶつぶつと何やら|呪《じゅ》|文《もん》をとなえた。そして、その人形に釘を打ちこみはじめた。
 いわゆる「|丑《うし》の時参り」だ。この人形に年齢と氏名をかき、恨みをこめて神社の木に釘づけにすれば、満願七日めに、|呪《のろ》いをかけた本人が死ぬと信じられた呪法である。――
 愚かにも恐ろしい迷信であるが、この当時として、これは決して珍らしい例ではない。ただ、そのほとんどすべては|嫉《しっ》|妬《と》に狂った中年女だ。しかしこれは、蝋燭の火でみれば、恋さえ知っているかどうか疑わしいほどの、あどけない十六、七の小娘だった。それゆえに、そのひたむきな顔は、いっそう恐ろしかった。
 実は、これで六日めなのだ。いよいよ明日は、満願の夜だ。ただ、このあいだ、この姿をほかのだれかに見られると、「丑の時参り」の呪いは破れる。――
 娘は人形に釘をうちおわると、林から出てきた。あたりをじいっと見まわして、「うれしい、だれも見てはいなかったわ。――」と、つぶやく。
 それから、あたまの蝋燭をぬいて火をけし、はちまきも腰の白布もとりのぞいて、それらに蝋燭や金槌をくるんで、ふつうの町娘の身なりにもどると、ぬいでならべてあった下駄をはいて、石段を下りていった。
 白山権現の下は、人家の密集した門前町であったが、さすがにこの時刻である。往来に人影もなかった。
 娘はからころと下駄を鳴らして、白山前の|辻《つじ》までやってきた。
 そこに一つ|提灯《ちょうちん》がともっていた。提灯には「心易占、|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》」という字がかかれていた。
 そのむこうに居眠りでもしているような人影がみえたが、娘はちらっとそれを見ただけで、通りすぎようとした。そのとき。――
「あ、もし――」
 と、ふいに声をかけられた。いつのまにか、易者が眼をあけて、こちらをみている。
「ちょっとお待ちなさい、娘御。――」
「あの、あたし、いいんです」
「いや、よろしくはない。少々わたしの心眼をかすめた不吉な影がある。だまって見すごしにはできん」
 娘はおびえたように立ちすくんだが、もういちど、
「|占《うらな》って進ぜる。銭はいらない」
 と、しゃがれた声でいわれて、糸にでもひかれたようにちかづいた。
 提灯のひかりでみると、細長い、ねむそうな顔をした占い師である。商標みたいにどじょうひげをたらしている。
「これは奇怪じゃな、そなたのように罪のない娘御に、あんな呪いの雲がかかっておるとは」
 と、彼はいぶかしそうに彼女の顔を見あげ、見おろし、それから、サラサラと|筮《ぜい》|竹《ちく》をおしもんでいたが、ふいにいった。
「そなた、とある|女性《にょしょう》に呪いをかけてこられたな。白山権現の方から、この深夜ひとり歩いてきたところをみると、丑の時参り――」
「あっ」
「ううむ、これは容易ならぬ。そなたが呪い殺そうと望む女性は、そなたの母御。――」


    怪異山伏寺

     一

「おっかさんじゃあないわ」
 と、娘はさけんだ。
「あの女だわ!」
 しかし、恐怖と狼狽にみちたその表情から、乾坤堂は眼をはなさなかった。
「それでは、そなたが権現さまに丑の時参りをしてきたというのはほんとうか」
 娘は、片手の白いつつみに視線をおとした。
「ふむ、そのつつみの中には、呪いの釘や蝋燭が入っているのじゃろう?――ははあ、あたッたな。娘御、いったい、だれを呪おうとなさった。あの女とは?」
「――おっかさんのあとから、うちにきたひとなの」
「おっかさんのあとから? 後妻か。それではやっぱりわしのいったとおり、おっかさんではないか」
 と、乾坤堂はニヤリとした。娘は袖を眼にあて、むせびあげはじめた。
「娘御、それは世間にもよくあることじゃが、しかし当人にとってはよくよくのこと、継母じゃとて、みれば十六、七のうら若い娘が、丑の時参りをしてまでうらめしいと思うには、さぞいろいろと|辛《つら》いこと、かなしいことがあったことじゃろう。きかせておくれ。わしは人の身の上を占うて見料を|頂戴《ちょうだい》する大道易者じゃが、年だけはそなたよりだいぶ上じゃ。すこしはいい|智《ち》|慧《え》をかしてあげられるかもしれんぞ」
 肩に手をかけられて、娘はいっそうはげしく泣き出した。やさしくいわれたせいばかりではない。いまのみごとに的中した占いに、彼女はすっかり屈服している。
 娘は話し出した。――
 彼女はお関といって、駒込片町の|塗《ぬ》|師《し》|屋《や》の娘であった。塗師屋というのは、|駕《か》|籠《ご》のぬりかえである。ふつうの辻駕籠ではない。大名のお駕籠を専門にぬる商売だ。
 |漆《うるし》をぬるのも三度塗、四度塗、|丹《たん》|精《せい》も技術も容易なものではないが、ものがものだけに、職人のうちでもちょっとした格式がある。
 お関は幸福に育ったが、去年の秋、母親が死んでから、つらい日を送るようになった。父がまったく働かなくなってしまったからだ。毎日、朝から酒ばかりのんでのらくらしている。店の評判はわるくなり、注文もへってきた。――しかしお関がいやだったのは、父の怠惰より、いっしょに酒をのんでふざけている二度めの母だった。もとは|玄《くろ》|人《うと》で、しかもあんまり素性のよくない水から出てきた女で、どうやら死んだおっかさんが病気をしているころから、父と関係があったらしい。いや、おっかさんが病気になったのも、あの女のせいかもしれない、とお関は思う。
 とにかく、家じゅうが、途方もなく自堕落になってしまったのだ。何よりお関が、吐き気のするようなきもちになったのは、父とその女とが、人目もかまわず抱きあったり、口を吸ったり、ときにはそれよりもっとあさましい姿をみせて、へいきだったことだ。お関ははじめてそれをみたとき、あたまがクラクラとし、父親を殺してやりたいような激情に襲われた。
 それまでお関は、継母を「おっかさん」と呼ぼうとつとめていたのだが、それ以来、一切その言葉を口にしなくなった。「あの女」と呼び、せいぜい「あのひと」と呼ぶ。当然、その女とお関の仲はみるみるわるくなり、このごろでは、|折《せっ》|檻《かん》をうけることもめずらしくない。世間によくある――とくにこの時代では――家庭悲劇だ。
「ふうむ」
 と、乾坤堂はあごひげをしごいて、溜息をついた。
「それでこの丑の時参りか」
 暗然と、お関をみつめたが、
「そなた、こんなことを|誰《だれ》にきいたのかい。丑の時参りをすれば、呪った女が死ぬなどと――」
「お|杉《すぎ》婆やから。お杉は、死んだおっかさんの里からついてきた婆やなの」
「なるほど」
「でも、やりかたはきいてきたけれど、婆やはあたしがそれをやってることは知らないわ。あたし毎晩、だれにも気づかれないように、そっと忍び出してくるんですもの」
「お関さん、おまえさんはそうやって、ほんとにききめがあると思うかね」
「はじめはそれほどにも思いませんでした。ただ、あの女がにくらしくって、にくらしくってたまらないからで――けれど、きょうで六日、毎晩やってるうちに、ほんとに――いいえ、きっとききめがあるような気がしてきたわ」
 娘のおさない顔はピクピクとわななき、涙のかわいた眼はうすきみわるくひかっていた。
「いよいよ、あしたが満願の夜なの」
「じゃがな、お関さん、きのどくといってよいかどうかわからんが、おっかさんは――いや、あの女は、あしたの晩は死ぬまいよ」
「えっ」
 お関は息をのんで、
「なぜ?」
「易者のわしがいうのは妙じゃが、丑の時参りなどというのは迷信じゃからの」
 お関はキョトンとして、提灯のかげの天神ひげをみていたが、急にきれぎれにさけび出した。
「何をいうの? まあ、ひとを呼びとめて、何をいうのかと思ったら……いい智慧をかしてやるなんていってさ……あのひとは、きっと死ぬわよ!」
 |闇《やみ》の中にざわめく森、ぶきみな鳥の羽ばたき、頭にさした蝋燭の火に、ゆらゆらとゆらめく奇怪なものの影、ピタピタと鳴るじぶんの|跫《あし》|音《おと》、釘をうつひびき、婆やから教えてもらった呪文の言葉。――お関はまざまざとそれを思い出し、また恐怖の|酩《めい》|酊《てい》ともいうべき|恍《こう》|惚《こつ