天声人语原文 2019年9月
2019年9月1日(日)付 タマムシ色の輝き
できれば使いたくない安易な表現ではあるものの、「玉虫色の決着」という言葉は使い勝手がよい。交渉や妥協の結果、見方によってどのようにもとれる内容で落着したことを指す▼この用例、調べてみると意外に新しい。たとえば広辞苑に載ったのは1983年のことだ。「昆虫タマムシの歴史は長い。政治などの場で否定的に使われるより前は、ずっと賛美される虫でした」。静岡県藤枝市に住む飼育家芦沢(あしざわ)七郎さん(86)は言う▼飼育歴は30年を超す。繁殖法は確立しておらず、自力で丹念に生態を調べた。幼虫は木の中で3年から5年も過ごし、成虫の時期は数十日と短い。夏の終わりには死んでしまうとわかった▼奮闘ぶりに触発され、地元有志が愛好会を結成する。工房「タマムシの里」で、羽の色彩を利用した指輪やブローチの製造を始めた。4年前からは子どもたちに親しんでもらう展示会を夏場に開催。海外からも見学者が訪れるようになった▼法隆寺の国宝「玉虫厨子(ずし)」の装飾で知られるように、古くから美術工芸品に用いられてきた。玉(宝石)のような美しさをたたえる言葉がそもそもの「玉虫色」である。「タマムシを鏡台に入れると恋がかなう」「タンスに入れれば衣類が増える」。言い伝えも多い▼芦沢さんの育てたタマムシを見せてもらった。虫に触れるのは久々だったが、全身から放つ緑や紫の金属的な光沢には目を見張るものがある。政治だの妥協だの不名誉な用例をまったく意に介さぬ風に見えた。
2019年9月2日(月)付 退屈しのぎのラグビー
ラグビーを日本に伝えた英国人の墓が、六甲山系に連なる再度山(ふたたびさん)の一角にあると聞いて訪ねた。居留した外国人らが眠る神戸市立の墓地に、その人、エドワード・クラークの墓はひっそりとたたずんでいた▼明治初期の1874年、横浜に生まれた。父が営むベーカリーが繁盛し、邸宅にはテニスコートもあった。英ケンブリッジ大に留学後、慶応大の英語講師として赴任。「時間と秋の素敵な天気をむだにしてのらくらしていた」学生たちを見かねて、放課後にラグビーを勧めたと後に語っている▼「ファインプレーよりフェアプレーを」と繰り返し説いた。日本ラグビー学会理事の高木応光(まさみつ)さん(73)は「熱血コーチではなく、知的でおとなしい性格だったようです」と話す▼没後85年、墓石に彫られた英字はかすむ。いまは訪れる親族もいない。ただその脇には、慶応OBが一昨年建立した石碑があり、「日本ラグビーフットボールの父」と刻まれている▼それにしても、なぜラグビー伝道者の名がかくも長く忘れられていたのか。慶応在任中、リウマチで右足を切断したのが大きかったようだ。歩くことができず、ラグビーから遠ざかる。本分である英文学に情熱を注いでいった。京都帝大などで教え、60歳で亡くなった▼いよいよワールドカップがこの20日に幕を開ける。世界レベルの熱戦が待ち遠しい。学生の退屈しのぎから始まった球技が120年をへてここまでたどり着くとは、クラーク先生も想像しなかったことだろう。
2019年9月3日(火)付 三国志の英雄はだれ
魏・蜀・呉の三カ国が覇権を争う壮大な「三国志」。あまたいる英雄のうちだれが好きかと問われれば、迷わず蜀の諸葛亮を挙げたい。志半ばで倒れた悲劇の軍師だ。だが熱心なファンの間では百人百様らしい▼「中国では曹操を推す人がとても多いですね」と話すのは、今夏、『三国志演義事典』を共著で刊行した仙石(せんごく)知子さん(48)。魏を率いた曹操はあくらつな計略家のイメージが強いが、中国では改革者として評価が高い。蜀の劉備は情に厚い指導者かと思いきや、あちらでは「大事な局面でメソメソ泣く敗者」と退ける声も珍しくないそうだ▼「決定的に違うのは、劉備を支えた武将の一人、関羽の存在感です」。日本でも高い人気を誇るが、中国では清代以降、国家の守護神としてあがめられてきた。関羽をまつる「関帝廟(びょう)」はいまも津々浦々にある▼仙石さんによれば、三国志の物語は、中国では文芸や京劇、映画を通じて老若男女に浸透している。日本でも、吉川英治の小説、横山光輝の漫画、NHK人形劇で知られる。両国で世代を超えて広く愛されてきた▼三国志から生まれ、両国で同じ意味をもつ故事成語も少なくない。「三顧の礼」「苦肉の策」「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」。挙げればきりがない▼折しも東京国立博物館で特別展「三国志」が開催中だ(16日まで)。曹操や劉備が戦火を交えた時代の弓矢や剣に見入る。中国からの客も多い。この歴史物語が1700年余の長きにわたり両国に下ろした根の深さを思う。
2019年9月4日(水)付 ローマ法王の遅刻
映画「ニューヨークの恋人」の主人公は、19世紀の発明家である公爵と、恋や仕事に疲れた広告会社の現代女性だ。二人は時空を超えて愛し合う。安全なエレベーターを考案中だった公爵が現代にタイムスリップすると、エレベーターが一斉に故障してしまう▼発明家のモデルはエリシャ・オーチスだ。落下防止装置を発明し、1854年、万博会場で自ら乗り込んだエレベーターの綱を切る。落下せずに停止させ、喝采を浴びた▼この映画を思い出したのは、フランシスコ法王(82)が停電でエレベーターに閉じ込められる騒ぎがあったからだ。25分後に救い出されたが、正午の祈りに遅刻し、聴衆にお詫(わ)びしたという。法王に動転した様子はなかったものの、周囲はさぞ気をもんだだろう▼閉じ込め事故といえば、昨年の大阪北部地震が記憶に新しい。近畿一円で救出を必要とした事故が339件も起きた。北海道の地震でも、高層マンションでエレベーターが使えず、人々は息を切らして階段を上った▼もしエレベーターが止まったら、法王のように冷静でいられる自信はまるでない。日本エレベーター協会(東京)に聞くと、まずは落ち着き、全階のボタンを押してみること。そしてインターホンで外部に連絡する。「中の酸素はなくなりません。無理に脱出せず待ちましょう」と担当者▼さて、法王は11月に初めて来日する予定だ。発明家の公爵が過去からタイムスリップしてくることはあるまいが、保守点検はどうか念入りに。
2019年9月5日(木)付 奇跡のむかわ竜
頭や背骨など黒光りする化石一つ一つの迫力に息をのむ。東京・上野の国立科学博物館で開催中の恐竜博で、展示の目玉である「むかわ竜」を見た。発掘された化石は体全体の8割を超す。国内で類のない全身の化石だ▼いまから16年前、北海道むかわ町の化石収集家・堀田良幸(ほりたよしゆき)さん(69)が近所の山中で尾の骨を見つけた。ワニかと思ったが、後に専門家の調査で恐竜と判明。町を挙げて発掘し、222個の化石を見つけた。「神様からの贈り物だと思いました」と堀田さんは話す▼郵便局に長く勤めた。採集を始めたのは30代半ば。採ったアンモナイトを客に贈ると喜ばれた。バンダナを頭に巻き、ピッケルを手に山野をめぐる。色や形を手がかりに石を探しては割る。「化石が私にシグナルを出してくれます」▼7200万年前の白亜紀、一帯は海だった。浜で群れをなして植物を食べていたのがむかわ竜だ。ときにはティラノサウルスのような肉食恐竜の餌食に。いま風に言えば、気の優しい「草食系」だったか▼全身の骨格は昨年9月4日、町の体育館で公開された。わずか2日後、町は地震に襲われる。1人が亡くなり、家がなぎ倒された。隣の厚真町では山が崩れ、多くの命が失われた。ただ化石は地元の博物館に保管されていて難を逃れた。発掘されたのが奇跡なら、地震に耐えたのも奇跡だろう▼明日で地震から1年。町は、恐竜化石を生かした街づくりを進めている。白亜紀の大地を闊歩(かっぽ)した竜が、復興の一助を担う。
2019年9月6日(金)付 風疹から赤ちゃんを守る
風疹の予防接種を受けるよう妊娠した妻に言われても、「忙しい」「面倒」と腰を上げない夫。人気漫画「コウノドリ」にそんな男性が登場する。先天的な障害のある10歳の少女と出会い、心を揺さぶられる▼「私はね、お母さんのおなかの中で風疹にかかっちゃって目も見えないし、胸も苦しい」――。妊娠初期の女性が感染し、赤ちゃんに障害が及ぶ「先天性風疹症候群」である。日本では昨夏に始まった風疹の流行がやまず、今年の患者数は早くも2千人を超えた。胎児への影響が心配される▼米国やカナダ政府は「妊婦に日本は著しく危険」と渡航を控えるよう警告している。患者の多い地域として東京、神奈川、大阪などが挙げられた▼もちろん国も手をこまぬいているわけではない。抗体を持たない層がいま40歳から57歳までの男性に多いことを重視。抗体検査やワクチン接種が無料でできるクーポン券をこの世代に発送している。恥ずかしながら、私自身もその一人だと知らずにいた▼妊娠中の女性たちにすれば、街なかですれ違う中年男性こそ脅威だろう。私も先日、内科で検査を受けた。「抗体の数値は十分でした。接種は必要ありません」と医師。ようやく胸が晴れた▼「抗体のない男性が風疹をうつした自覚のないまま、妊婦はだれにうつされたか覚えもないまま、赤ちゃんに障害が生じてしまう」。漫画の主人公である産科医鴻鳥(こうのとり)サクラが説く。予防接種よりほかに赤ちゃんを守るすべはないと改めて胸に刻む。
2019年9月7日(土)付 ごろ寝する月のウサギ
夜ごと月の輝きが増す季節である。月といえば「餅をつくウサギ」がすぐ浮かぶが、海外では「大きなカニ」「ほえるライオン」「本を読む老女」などになぞらえる。地域や民族によりまるで異なる絵柄を読み取ってきた▼同じウサギであっても緯度が変われば、見え方も変わる。南極へ2度観測に赴いた名古屋市科学館の小塩(おじお)哲朗学芸員(50)は言う。「南極から観察すると、月のウサギは仰向けに寝そべっていました。餅つき中には見えません」▼極地で撮った写真の中に、観測船「しらせ」から見た月を収めた1枚がある。真っ白な氷山の向こうに、赤茶けた色の月が浮かぶ。紫紺の空との対比が神秘的だ。蜃気楼(しんきろう)の現象で、形は横にひしゃげている。日本で見る月とはまるで違う▼遠く仰ぐばかりの存在だったが、近年、月は空前の探査ブームのさなかにある。6年前に月面探査を成し遂げた中国に続き、インドも、探査機をきょう月の南極に着陸させる予定だ。成功すれば、旧ソ連、米国と合わせて4カ国目の月面到達となる▼そのインドには「月のウサギ」の源流のような昔話がある。修行僧に捧げる食べ物がないことを悲しんだウサギが、燃えさかる火に飛び込み、わが身を捧げる。僧が実は神様で、ウサギの徳をたたえるため、月の表面にその全身像を刻んだ▼時代を超え、文化を超え、多彩な空想をかき立ててきた月の不思議な力を思う。資源はあるか、人が住めるのか。これからの探査でどんなことがわかるのだろう。
2019年9月8日(日)付 カジノと依存症
横浜市の林文子市長が突然、カジノ誘致に名乗りを上げた。先週の市議会で質問攻めにあったのだが、その答弁がなかなか味わい深い。例えば「すべてのばくちが悪というのは違う」と話し、こう続けた▼「競馬をご覧になったらわかると思うが、ものすごい数の人が、馬に対する思いとか感謝を持っている」。ルーレットへの思いや感謝もあってしかるべき、ということだろうか▼ギャンブル依存症の人が増えるのでは、との質問も相次いだ。市長は、医学部のある横浜市立大学に「医療面を中心に大きな役割を果たしてもらう」と述べた。依存症になっても大学病院が治してくれますよ、ということだろうか▼誘致するのはカジノだけでなく、それを含んだ統合型リゾート(IR)である。市の資料にあるイメージ図には劇場や美術館、水族館まで並ぶ。だからIRイコールカジノではない、一流の娯楽施設ができるのだと市長は言う▼ならばカジノ抜きのリゾートをつくればいい。そんな質問も出たが、運営が成り立たないそうだ。カジノに依存したIR。そのIRにより、市は年間最大1200億円の増収効果を見込む。現在の市の税収の15%に相当する額だ。これでは横浜の財政が「カジノ依存症」になってしまう▼林市長は、子育てや医療など「安心安全な生活」を守るため決断したと言う。カジノあっての豊かな暮らし。あなたのまちがもしそうなったら、どうだろう。IR誘致には大阪、長崎、和歌山も手をあげている。
2019年9月9日(月)休刊
2019年9月10日(火)付 台風15号
きのうの朝、家を出ると、ぎんなんの匂いがした。まだそんな季節ではないのに。早朝まで続いた強い風で、たくさんの黄色い実が、青い葉とともに落ちてしまったようだ。引きちぎられた木々の枝も散らばっている▼大きな柳の木が根元から倒れているのも都心で目にした。「柳に風」とはいかぬ暴風だったか。倒れるはずのないものを倒し続けた台風15号である。ゴルフ練習場のネットが鉄柱もろとも倒壊し、家の屋根を突き破る写真に目を疑う▼「二百十日」は、嵐の起きやすい時期を指す古い言葉だ。立春から数えたその時分、すなわち9月初めに台風が来やすいと警戒したのだろう。夏目漱石の小説『二百十日』では、阿蘇山の火口をめざして登る二人連れが雨と風で散々な目に遭う▼今のような気象予報があれば、二人連れは山行を見合わせたに違いない。刻々と近づく台風に備え、JR東日本などは早々と運転の見合わせを決めた。ここ数年、定着してきた計画運休だ▼そこまでやっても、この混乱である。駅から道路まで続く長い行列ができた。動きの鈍い満員電車のなか、気分が悪くなる人が相次いだ。予報の精度が上がったいま、企業も「計画休業」や「計画半休」を考えてもいいかもしれない▼〈風がふいたら遅刻して/雨がふったらお休みで〉。なつかしい童謡を思い出した。南の島に住む、学校嫌いの子どもたちが歌に出てくる。天候の過酷さが増すばかりの現代の日本にも、それくらいの余裕があっていい。
2019年9月11日(水)付 立場とセリフ
おいおい、その立場に置かれて言うセリフと違うだろ。落差の大きさゆえに、いつ見ても笑えるのが吉本新喜劇の池乃めだかさんだ。けんかでボコボコに殴られた後、なぜか偉そうに言い放つ。「よっしゃ、今日はこれくらいにしといたるわ」▼周りが派手にずっこけるのが、お約束である。さてこちらの人も立場と発言の間に落差を感じてしまう。日産自動車の西川(さいかわ)広人社長である。会長だったゴーン被告が昨年逮捕された直後にこう言った。「1人に権限が集中しすぎた」「長年にわたる統治の負の側面と言わざるを得ない」▼おいおい、あなたはその会長に引き立てられ、社長をしていたんじゃないか。株主総会でも一部から退陣を求められたが「日産の将来に向けた責任を果たさないといけない」などと突っぱねた▼そんな西川氏に新たな問題が出現した。不当に上乗せされた報酬を受け取っていたことが判明したのだ。報酬は日産の株価に連動しており、基準となる日を1週間ずらすだけで4700万円が増額されたという▼まさにお手盛り? いや、ゴーン前会長はじめ9人の役員が同様のやり方で不正報酬を得ていたというから「グループ盛り」か。巨大な企業私物化があり、そのおこぼれがある▼結局辞任せざるをえなくなった西川氏は会見で述べた。「日産の負の部分をすべて取り除くことができずバトンタッチすることになり、大変申し訳ない」。自分も負の部分かも、とは考えもしないらしい。ずっこけたくなる。
2019年9月12日(木)付 天災と停電
大正期の関東大震災、さらには昭和初期の室戸台風。大災害の経験をふまえ、物理学者の寺田寅彦は多くの戒めを後の世に残した。ある文章に「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈(げきれつ)の度を増す」との訴えがある▼国中に電線やパイプ、交通網が張り巡らされたありさまは「高等動物の神経や血管と同様である」。その1カ所が故障すれば影響は全体に波及するのだと(『天災と国防』)。1934年に書かれたものだが、現代にも通じる。台風15号の傷痕を目にして思う▼暴風に見舞われてから3日目となる昨日も、千葉県の広い地域で電気が止まったままだった。あまたの送電線が倒木で切断され、復旧に手間取る。被害のひどい君津市の市役所では、大勢の人が携帯電話の充電をしに来ていた▼スマホを手にした30代の女性は「電池が切れると、情報が何も取れなくて」と話していた。家がオール電化になっているという60代の女性は、「何もできない。トイレの水すら、バケツを使わないと流せないんです」▼残暑というには暑すぎる日々に、クーラーや冷蔵庫なしの暮らしは、文字どおり命にかかわる。固定電話やコンロなど、電気なしでは使えなくなったものも増えている。もしものときの備えは、どこまでできるのだろう▼寺田の考え方だとして伝わる警句に、「天災は忘れたころにやってくる」がある。それにしても昨今の日本は、一つの災害を忘れる間もなく別の災害が起きるように思えてならない。
2019年9月13日(金)付 引き際と焦燥
おととい改造があった新内閣のうたい文句は「安定と挑戦」だそうだ。どっしり構えてことに挑む。何ごともそうありたいものだが、ニュースを追っていたら別の言葉が頭に浮かんできた。「引き際」と「焦燥」である▼安倍首相の自民党総裁としての任期は、残り2年。その「引き際」を意識するからこそ、側近議員たちを一気に入閣させたのだろう。退任が見えてきた社長が「尽くしてくれた君らを、みんな役員にしてやる」とでも言うかのように▼側近の一人で、加計学園の問題で名前の出た萩生田光一氏を、こともあろうに文部科学相にした。国会での集中砲火を危ぶむ声が党内にもあるというが、意に介さないのが我が首相である▼改造後の会見で首相は憲法改正を「必ずや成し遂げていく」と語った。心中を察するに「焦燥」が募っているのではないか。政権として成し遂げた大仕事のことをレガシー(遺産)というが、安倍政権の場合、いまだ見当たらないのだ▼拉致問題も北方領土問題も進展がない。このままでは、ただ長いだけの政権になってしまう。小泉進次郎氏の入閣も、その文脈で見るべきかもしれない。これで支持率が上がれば衆院を解散し、勝って改憲に勢いをつける……考えすぎだろうか▼首相の発言でもう一つ目立ったのは、社会保障のあり方を「大胆に構想する」というものだ。参院選で背を向けた年金問題などに、本腰を入れるのか。焦燥感を持って臨んでほしいのは憲法ではなく、こちらである。
2019年9月14日(土)付 「温室効果ガス」という言葉
地球温暖化、気候変動……。そんな言葉が新聞に載らない日はほとんどないだろう。先日、読者からお便りをいただいた。「温室効果ガス」という言葉に常々、疑問をお持ちだという。「効果」は良い結果の時に使うのではないかと▼なるほど、「悪影響」とは言うが「悪効果」は聞かない。もっと言えば温室も、ぽかぽかした感じで印象は悪くない。英語のグリーンハウス・ガスを訳した言葉のようだが、「気候変動元凶ガス」とでもした方がぴったりくるか▼何げなく使っているが、字面だけ見ると、ちょっと変。そんな言葉について翻訳家の岸本佐知子さんが書いていた。もしも意味を知らずに「赤ん坊」という言葉に出会ったら、何を想像するだろうとエッセー集『ねにもつタイプ』にある▼「よくわからないが、たぶん何らかの生き物なのだろう。全身が真っ赤でてらてらしている。入道のように毛のない頭から湯気を立てている……」。夜行性でシャーッと鳴く、小動物を生で食らう、などと岸本さんの空想はとめどない▼「刺身(さしみ)」は、全身をめった刺しにされて、血まみれの状態。「腕っ節」は、腕に木の節穴のようなものが次々にできる病気。一語一語に神経をとぎすます翻訳家ならではの考察なのだろう。それにしても笑える▼ビジネスなどで使われる「差別化」も最初はいやな感じがしたのに、いつのまにか慣れてしまった。習慣の魔力だろうか。文字の姿形をながめつつ、ときには立ち止まってみるのも悪くない。
2019年9月15日(日)付 小さい声で話すこと
私の祖父は明治の人だった。幼いころ言われた。「きみが本当に正しいと思うなら、叫ばなくていい。なるべく小さい声で話しなさい」。なぜか最近よく思い出す▼いまの世が威勢のいい、大きな声にあふれているからだろうか。攻撃的なつぶやき、罵(ののし)りあい、みなが言葉を強く発する時代。「小さい声」などだれも聞かない、ダメなものに思える。亡き祖父は何を考えていたのか▼東京大学教授の阿部公彦(まさひこ)さん(52)の著書を読んでいて、気になる文章をみつけた。「負けたり、弱かったり、だめだったりする。そんな言葉が社会の中でむしろ意味を持つこともある」とあった▼阿部さんを訪ね、祖父の言葉について聞いてみた。唐突な問いにもかかわらず、英文学者は教えてくれた。「英語では大事なことを言うときに、あえて強調ではなく、『perhaps(もしかすると)』と表現をぼかすことがある。小さい声もそうではないですか」▼大切なことは強い断定調では逆に伝わりにくくなる。愛をささやくとき、親しい人を失ったとき、簡単に言えない何かを伝えるとき、私たちはむしろ弱く、あいまいに言葉を使ってきた、と阿部さんは言うのだ▼「心の底に 強い圧力をかけて/蔵(しま)ってある言葉/声に出せば/文字に記せば/たちまちに色褪(あ)せるだろう」(茨木のり子「言いたくない言葉」)。やっと口にする、消え入りそうな声だからこそ、相手に届く何かがある。もしかすると、祖父はそう言いたかったのかもしれない。
2019年9月16日(月)付 マラソン選手の靴
来年の五輪マラソン代表を決めるレースを沿道で見た。秋晴れの東京都心を風のように駆け抜ける姿に手に汗握る。舞台が同じゆえ、世代によっては1964年東京五輪のレースを思い出した方もおられたのではないか▼苦しげに走る円谷幸吉と、余裕の表情のアベベが対照的だった。アベベは一つ前のローマ五輪を裸足で制している。まったくの無名で、各国の記者が「どこの選手」「本名は」と慌てたという▼なぜ裸足だったのか。一説には、試走した靴が合わず水ぶくれができた。ふだん通りの素足にしたが、「母国エチオピアが貧しい国と笑われる」と心配し、走る直前までテントに身を隠した。逸話が多々残る▼その走りを見たアシックス創業者の鬼塚喜八郎氏は翌61年、レースのため来日したアベベを訪ね、足を採寸。アベベは急ごしらえの靴で優勝した。だが3年後の東京五輪ではプーマ社製を選び、鬼塚氏を落胆させる。有名選手が使うことで宣伝効果を競う時代が到来していた▼いま日本の選手たちはどんな靴を好むのか。きのう沿道から目を凝らした。驚くべきことに男子の足はほぼピンク一色。ナイキ社製が続いた。国際陸上競技連盟の規定を見てみると、「競技者は裸足でも、また片足あるいは両足に靴を履いて競技してもよい」。望めばいまでも裸足で走れるとは知らなかった▼来夏のマラソン本戦の見どころがまた一つ増えた。メダルの行方とは別に、世界の精鋭たちの足もとを見比べるのもまた興味深い。
2019年9月17日(火)付 月とレタス
無機的な研究室の栽培庫内ですくすくと育つレタスたち。ドアには照明をあてた時刻と照明を落とした時刻が細かく記されている。潮の満ち引きのリズムで野菜を育てる実験を見に、愛知県刈谷市のトヨタ紡織を訪ねた▼「太陽のリズムではなく、月の動きに合わせて照明をあてる方が成長が進むのではないか」。そんな仮説を立てて山本優子さん(38)ら研究班が育てたのはカブ、ナズナ、チンゲンサイなど。レタスでは収穫量が2割も増えたという▼成長を促す要因として山本さんが注目したのは、潮の満ち引きを起こす「起潮力」である。月の引力や地球の遠心力などが作用する力のことだ。実験を通じて、起潮力が動植物の育ちに与える影響の大きさに気づいた。スッポンやネズミには、エサを与える周期を変え、効果を調べている▼言われてみれば、古くから農事では月の満ち欠けや潮の満ち引きにちなんだ教えが多い。「種まきは満月のころに」「収穫は新月の時期に」。染織の世界でも、「藍の仕込みは新月に」といった経験則があると聞く▼トヨタ紡織の研究をめぐっては「すぐに何か商品が開発できるのか」といった冷ややかな声もないわけではない。目先の利益に直結した研究かと問われれば、残念ながら答えは「ノー」だろう▼それでも食料生産の分野でこの研究が秘める将来性は計り知れない。葉をぐんぐん伸ばしたレタスが、とかく太陽の側に偏りがちな我が思考を、少し月の側へ軌道修正してくれた気がした。
2019年9月18日(水)付 そろばん留学1期生
南太平洋の島国トンガにツポウ4世という親日家の国王がいた。そろばん教育を自国に広めたいと1980年代から留学生を日本へ送り出す。1期生ノフォムリ・タウモエフォラウさん(63)を、いまの勤務先の埼玉工業大学に訪ねた▼「最初の2年は懸命に習いました。小学生に交じってパチパチやって4級に合格。でもその後は時間がなくて……」。ラグビーの練習が忙しくなったためだ。留学した大東文化大で、トンガ代表の実績をもつ彼がチームの要となった▼言葉や食事には慣れても、大学スポーツ界にはびこっていた過度の上下関係にはなじめない。学年が上というだけでむやみにいばり、下というだけで奴隷のようにこき使われる。見かねて「後輩をかばってこそ先輩だろう」と声を荒らげた日もある▼就職した三洋電機でもチームを牽引(けんいん)。87年の第1回W杯では日本代表に選ばれた。「トンガ人の僕が日本を代表する責任は本当に重かったですね」。初戦で2本のトライを決めている▼在日39年、よどみない日本語で「そろばん教師として帰国することを国王は期待していたはず。それでも日本に残ったことに満足しています」。仕事のかたわら、母国からやって来る後輩たちの面倒を見てきた。あさって開幕するW杯ではトンガ出身の5人が日本代表に入っている▼もしもツポウ4世が珠算好きでなければ、この秋、私たちが見ているラグビー熱はなかったかもしれない。そろばん留学生たちの奮闘に改めて感謝したい。
2019年9月19日(木)付 伊勢湾台風、子どもの記憶
「その日は、秋晴れのよい天気でした。ゆっくり流れて行く白い雲に、別れ別れに、なってしまった母や父や妹のことを、たずねてみました。雲は、だまっていました」。伊勢湾台風で家族を失った小学5年生久野みき子さんの作文である▼60年前の9月26日、東海地方を直撃した台風は、5千人を超す死者・行方不明者を出す。港に近い名古屋市立白水(はくすい)小学校では142人もの児童が犠牲になった。生き延びた子どもたちによる作文集が、21日から名古屋市博物館で公開される▼「暗いどろ海の中を、早い流れにのって、流されました」と書くのは6年生相根美弥子(あいねみやこ)さん。「お母さんが、『お父ちゃん!みやこ!幸男!』と言ったかと思うと、私のかたにかかっていた、手がはずれてしまいました」▼土曜日だった。夜、川の堤防が決壊し、貯木場から材木が街へ流れ込む。「たたみがぶくっとういた。もう足首まで水があった」と5年生水野洋子さんはつづる。水位が上がり、逃げ出すいとまもない。「天井に手がとどくようになったその時は、むねがしめつけられるおもいだ。お父さんは(天井板を)げんこつで『ガンガン』とたたく」▼市博物館の瀬川貴文学芸課長(42)は直筆の作文を整理しながら、多くの書き手と会ってきた。「当時を語り、涙を流す方もいました」▼屋根の上で何日も暮らしたこと、亡くなった級友の家を訪ねたこと――。原稿用紙は変色し、誤字や脱字もある。小学生がつむいだ言葉の壮絶さに打たれた。
2019年9月20日(金)付 忘れられた戦場
南洋の島々で敗退を重ねた日本軍は1944年、戦略の拠点ペリリュー島で米軍の総攻撃を浴びる。守備隊1万人は軍中央の命令で何百もの洞窟を掘り、徹底抗戦を始めた。9月半ば、ちょうどいまごろの話である▼戦史研究家の平塚柾緒(まさお)さん(82)によれば、米軍は日本兵が隠れる洞窟に油を流し込んで火を放ち、入り口をふさいで生き埋めにした。日本軍は10週間も耐えるが、ほぼ全滅。34人が降伏しないまま、島に取り残された▼「彼らには戦況が全くわからない。原爆投下も玉音放送も知りませんでした」。34人は米軍の倉庫から盗んだ食料で命をつなぐ。英字誌を拾うと、マッカーサー元帥が東京にいるではないか。だれもが「神州不滅(しんしゅうふめつ)」を信じるふりをしながら、疑いを深めた▼米軍は説得にかかる。日本の海軍少将を島に呼び寄せ、拡声機で「戦争はもう終わった」。さらに出身地のわかった兵士の家族らに手紙を書かせ、島へ空輸した。半信半疑のまま全員が投降。敗戦翌々年の春、故国の土を踏んだ▼平塚さんは、残存兵のひとりが母のいとこという縁で、慰霊や遺骨収集のため島を8度も訪れた。「洞窟は蒸し暑く10分といられない。島で死んだ1万人は理不尽な時間稼ぎのための捨て駒。残された34人も哀れでなりません」▼きらめく陽光、穏やかな波、林立するホテル――。ペリリューはいま観光ブームに沸く。だがあちこちで日本軍の戦車や砲弾を浴びた建物が見つかるという。いつか訪ねてみたい戦跡である。
2019年9月21日(土)付 認知症の母のまなざし
长崎市在住の诗人藤川幸之助さん(57)に「母の眼差(まなざ)し」という作品がある。「母が昔のままそのままの 认知症もどこにもない颜で 私を产み育てた母そのものの眼差しで じっと私を见つめるときがある」。言叶でなく目で母と対话する▼母キヨ子さんは60歳でアルツハイマー型の认知症と诊断された。歩くこと、话すこと、食べることが徐々にできなくなる。小学校の教谕だった藤川さんは、认知症の进む母と末期がんだった妻を支えるため、教坛を去る。妻をみとった后、介护のかたわら、思いを诗につづるようになった▼「二时间もかかる母の食事に 苛立(いらだ)つ私を*目に 母は静かに宙を见つめ ゆっくりと食事をする」。イライラや怒りも藤川さんは隠さない。「あなたは笑っていた 本当は泣きたかったのに 初めて纸おむつをはめた日」▼介护の日々はいつ终わるとも知れない。「(母は)息ができなくなって咳(せ)き込んだ 背中をたたきながら 私はこのまま母が死んでくれれば 母も私も楽になれるとふと思ってしまった」。胸にきざした暗い感情もうたう▼7年前の秋、キヨ子さんは84歳で旅立った。「介护を通じ、逃げずに考え抜く习惯が身についた。生とは何か、死とは何なのか。母が最期まで私を育ててくれました」と话す▼诗集を読みつつ、自分が同じ立场に置かれたとき、はたしてやり通せるのかと心配になる。同时に、介护には多くの「気づき」もあると学んだ。きょうは世界アルツハイマーデーである。
2019年9月22日(日)付 東電旧経営陣に無罪
周囲に振り回されず前向きに行動できる「鈍感力」は、単なる鈍感とは違う。ベストセラー『鈍感力』の文庫版で、作家の渡辺淳一が書いている。例えば問題を起こしても平然としている政治家。「いうまでもなく、こうした無神経で鈍感な男は、単なる鈍感でしかない」▼その定義によれば、彼らも単なる鈍感の部類か。東京電力の旧経営陣の3人である。原発事故をめぐって強制起訴された裁判で、安全に対する鈍さが目についた▼国の地震予測をもとにした15メートル以上の津波予測が、2008年の時点で東電内にはあった。防潮堤工事も提案されたが、すぐ手を打とうとはしなかった。あくまで仮定にもとづく試算だったからという▼ことが起きていない以上、すべては仮定のはずだが3人の認識は違うらしい。あるいは会社の利益を損なわないよう鈍感のふりをしたか。そんな無策ぶりが裁かれる判決が出るかと思いきや……全然違った▼3人が無罪になった理由は「事故前の法規制は、絶対的安全の確保を前提としてはいなかった」というものだ。当局も専門家も電力会社も、原子力業界全体が安全に鈍感だったので3人だけを責められない。そんな理屈で責任者を消してしまう手際は手品のようだ▼もっとも業界には敏感な人もいた。国の地震予測を考慮に入れ、津波対策をした電力事業者もあったと裁判で証言された。3人の責任を問う根拠になりそうなのに判決では極めて軽く扱われている。裁判官に「敏感力」が欲しい。
2019年9月23日(月)付 ケストナーの寓話
ケストナーの絵本『どうぶつ会議』に出てくるゾウやキリンたちは、可愛くも毅然(きぜん)としている。国際会議を重ねても平和を実現できない人間たちに対抗して、世界中から集まってくる。このままでは人間の子どもたちが戦争に巻き込まれ、あわれだからと▼「平和のために国境をなくせ」と各国政府に要求するが聞き入れられず、ついに非常手段に出る。世界の子どもたちをすべて連れ去り、ほら穴などに隠してしまうのだ。一種の人質である▼冷戦初期に書かれた寓話(ぐうわ)だが、現代であれば動物たちは、戦争と並んで気候変動を語ったかもしれない。子どもの未来を奪うものに他ならないと。いま寓話ではなく現実に若い世代が動き出している。地球温暖化の対策を急げと、政府に求める行動である▼スウェーデンの高校生グレタ・トゥンベリさんが1人で座り込みをしたのが最初の一歩だった。共感が広がり「未来のための金曜日」として学校ボイコットが世界で起きた。先週金曜は、国連気候行動サミットを前に各地で一斉デモもあった▼グレタさんの発言はときに、すべての大人に向けられる。「大人たちには、私たちが日々恐れていることを感じてほしい。そして行動してほしいのです」▼人間の無責任さを示す言葉に「我が亡き後に洪水よ来たれ」がある。年が長じるほど、問題が複雑になるほど、そんな発想が忍び込む危険がある。あなたはできることをさぼっていないか。「金曜日」の若者たちから問われている気がする。
2019年9月24日(火)付 中国のSF
2019年9月25日(水)付 遅れる彼岸花
彼岸花ほど、各地でさまざまな呼び名がある花も珍しい。すっとした立ち姿、鮮やかな赤い色が、土地により人により、多様な連想を呼び起こしたのだろう。キツネノタイマツの名は、松明(たいまつ)のように周りを明るくする感じが伝わってくる▼オイランバナは、その艶(あで)やかさゆえに名付けられたか。妖艶(ようえん)というより妖気だと思うなら、ユウレイバナと呼びたくなるのも分からないでもない。手元の資料によると、地方ごとの名前は数百とも千に及ぶともいわれている▼そう言えばあの姿、今年はまだ目にしていないなあと、思った方もいるのではないか。気象庁が観測している全国18カ所のうち、14カ所で平年よりも開花が遅れているという。彼岸花が、お彼岸に間に合わないところも出てくるか▼ひどい残暑が、花や生き物たちのスケジュールを狂わせているのかもしれない。同じく気象庁の観測では、赤トンボが現れるのも平年より遅れ気味だという。関東の紅葉がずれ込みそうだという民間の予想も出ている▼きのうの都心でも、上着を身につけている人は少なく、Tシャツ姿も目立っていた。暦のうえでは夏から秋へと交代する時期が「白露」で、今年は9月8日だった。現実との距離は広がるばかりである。いっそ日本の9月は夏、としたほうがいいような気すらしてくる▼それでも日が暮れるのだけは、確実に早くなっている。晩秋の季語である「夜寒(よさむ)」を感じるのはまだ先であろう。長い夜をどう楽しむか、思いを巡らせたい。
2019年9月26日(木)付 豚コレラとイノシシ
「動物裁判」という奇妙な慣習が、中世の欧州にあった。人を殺傷した動物を裁判にかけ、死刑などに処する。人間の法制度を他の生き物にあてはめようとする当時の社会観は、興味深いものがある。そんな裁判に多く連れて来られたのがブタたちだった▼家畜ではあるが、性質はまだイノシシに近かったようだ。獰猛(どうもう)で牙もあり、子どもが攻撃されて命を落とす例が後を絶たなかった(池上俊一著『動物裁判』)。人間は長い時間をかけて飼いならし、今のようなブタにしてきた▼ブタとイノシシは、見た目よりずっと近い存在である。そう実感させられたのが、豚コレラの拡大だった。感染した野生のイノシシが動き回り養豚場にウイルスを運んでいたとみられる。防護柵で囲おうとするが追いつかない▼それでも農林水産省がブタにワクチンを接種するのを渋ってきたのは、国際ルールにより輸出制限をかけられるのを恐れたからだ。感染が東海から関東に及んだことで、そうも言っていられなくなり、接種を認めると発表した▼国がとりまとめ役とはいえ、対策の主役はあくまで都道府県である。ある県はワクチンに熱心で、隣県はそうでもない、などと足並みに乱れが出なければいいが。「猪突(ちょとつ)猛進」の動物たちには、県境など関係ないのだ▼中国では別種の豚コレラが猛威をふるい、豚肉が高騰しているという。とんかつやショウガ焼きを口にできることのありがたさを改めて思う。感染が一日も早く食い止められんことを。
2019年9月27日(金)付 ウィンウィン
英語で「私は二つの帽子をかぶっている」といえば、二つの役割を担っているという意味になる。米国で帽子は、自分がどういう人間かを示す小道具でもある。映画監督マイケル・ムーア氏の野球帽からは労働者階級の心意気が伝わる▼カウボーイハットは牛を育てる人の誇りであろう。そんな帽子の男たちが、日米貿易協定をめぐる首脳会談の場に招かれていた。「日本の人々にとって今日はすばらしい日だ。もっと米国の牛肉を買うことができるのだから」▼協定によれば牛肉にかかる38%の関税が段階的に9%まで下がる。トランプ大統領が「米国の農家や牧場にとって大きな勝利だ」と喜ぶのは分かる。しかし安倍首相が「両国にとってウィンウィン」と言ったのは釈然としない▼日本から輸出する乗用車の関税の撤廃は継続協議にとどまった。もしも自動車エンジニアたちが招かれても、こう言うしかないだろう。「米国の人々が日本の車をもっと安く買える。そんなすばらしい日がいつ来るのか、本当に分からない」▼車の話が煮詰まらないのに、なぜこんなに慌てて合意したのか。米中貿易摩擦で割を食っている農家の人気を取りたい、という米側の意向だと報じられる。大統領の選挙運動の手伝いを日本が担わされているとしか思えない▼車の関税撤廃どころか、追加関税をかけるぞと米側から脅されながらの交渉だった。「大喜びする」ことを英語で「帽子を空に投げる」という。トランプ氏はそんな気持ちだろうか。
2019年9月28日(土)付 検閲と自己検閲
戦前から戦中にかけて、新聞や雑誌はときに検閲で発禁処分となり、損失に苦しんだ。印刷を終えたのに販売できなくなるからだ。それゆえ問題になりそうなところを先回りして、伏せ字や削除をする例が多かった▼作家の石川達三が日中戦争に従軍して書いた小説『生きている兵隊』は雑誌の初出では例えばこんな感じだった。「兵士たちは自分等が×××××××××はなった」。伏せ字は「宿営した民家に火を」である▼日本軍をめぐる赤裸々な表現が当局ににらまれるとの懸念からだ。そんな自己検閲が、実際の検閲に輪をかけて表現の世界を息苦しくした。似たようなことにならなければいいが。そう思うのは、愛知県で開催中の芸術祭に国が補助金を交付しないと発表したからだ▼展示の一つ「表現の不自由展・その後」に脅迫の電話があり、中止になった。警備が必要になりそうなことを事前に国に報告しなかったというのが不交付の理由という。後出しじゃんけんのような変な話だ▼求められるのは脅迫や妨害に立ち向かうことなのに、これでは後押ししているように見える。議論を呼びそうな展示は避けようと自治体が自己検閲を強めないか。まさかそれが国の狙いだとは思いたくないが▼石川の作品が載った雑誌は結局発禁処分になり、作家も起訴された。戦場の現実に迫る文学の力は、少々の伏せ字では覆い切れなかった。芸術には訴える力があり、それを抑えつけたい人がいる。いつの時代も同じかもしれない。
2019年9月29日(日)付 土曜日の大金星
戯曲の名作『ゴドーを待ちながら』で知られるノーベル賞作家ベケットは高校時代、ラグビー部の主将だった。故国アイルランドの有力紙によれば、眼鏡なしでは目がよく見えなかったものの「ライオンのように勇猛果敢」な攻めを見せたという▼長く暮らしたパリでも、ことラグビーとなるとアイルランドを熱心に応援。英紙ガーディアンを読むと、ラグビーの試合の放送がある土曜日は、面会の約束を入れないことで知られたそうだ▼開催中のラグビーW杯で、優勝候補と目されるアイルランドが番狂わせを喫した。金星を挙げたのはわが日本である。声援の後押しがあったとはいえ、いったい何人の評論家がこの結果を予想し得ただろう▼日本が逆転した後は当方も、いつアイルランドが本気を出すか、いつ日本が力でねじふせられるのか手に汗握った。試合終了の笛が鳴ると、土曜夕刻の本紙編集部にも驚きの声がこだました▼17対145――。日本ラグビーW杯史に残る最多失点である。1995年の第3回大会でニュージーランドに矢のようなトライを浴びた。「記録的惨敗」「次に生かせ、この屈辱」。試合の結果を報じた本紙は、いま読み返すのもつらい。あのころが日本ラグビーの真冬ならば、いまはさしずめ春の初めか、あるいはもう夏の入り口か▼難解な不条理劇で知られたベケットの、今年は没後30年の節目である。ご存命なら、きのうの土曜日、静岡県からの中継を見て、地団太踏んで悔しがったはずである。
2019年9月30日(月)付 イクラの秋
先日、出張先の札幌市で地元のスーパーに立ち寄った。「新物」「入荷」の貼り紙に誘われて魚介売り場をのぞくと、地元産の「生筋子(すじこ)」が並んでいた。袋状のサケの卵巣がドサリと置かれ、買い物客が目を皿のようにして選んでいた▼本場・北海道ではイクラ作りの季節を迎えた。家々で、筋子の袋から取り出してバラバラにほぐし、塩やしょうゆで漬けこむ。北海道の食文化に詳しい北翔大学の小田嶋政子名誉教授(70)によると、この時期のサケは秋を実感させる食材として「秋味」と呼ばれる▼横浜市に住む村田窈子(ようこ)さん(73)は北海道の出身。「夫の転勤で首都圏に住んで36年ほどになりますが、この季節には欠かさずイクラを作ってきました」。この秋も2度、近所のスーパーで筋子を見つけ、漬けたと話す▼作り方や味付けは家庭ごとに異なる。村田さんは子どものころ姉から作り方を教わった。大切なのは、熱めのお湯に筋子をつけ、粒を一つずつはがしていく地道な作業。「市販品と違い、手作りのイクラは口に入れたとたん、やわらかい皮がプチッとはじけます」▼アイヌの言葉でサケは「カムイチェプ」。神の魚を意味する。秋の訪れを告げる味であり、厳しい冬に備える保存食の素材でもある。身や筋子だけでなく、頭、はらわた、白子、ヒレまで食べ尽くすのがアイヌの伝統という▼新鮮な筋子は、陽光のような色に輝き、見るからに食欲をそそる。北の大地に息づくサケ文化は家庭の味としていまも健在である。
天声人语原文:
18年12月、19年1月、19年2月、19年3月、19年4月、19年5月、19年6月、19年7月、19年8月、19年10月